2015年01月27日

理想美術館 3  藤原信実作 【三十六歌仙絵巻】断簡 斎宮女御



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    藤原信実作 【三十六歌仙絵巻】断簡、斎宮女御




藤原信実(のぶざね)は垂涎の師表的存在。
私にとって終ることのない師匠であります。
勿論現世では故今野忠一画伯こそ私の師匠でありましたが、
時空を超えた、師中の師は、この御方。


三十六歌仙には、五人の女性がおられまして、
小野小町、小大君、伊勢、中務、そして唯一の内親王殿下がコチラの斎宮女御さま。


小野小町は絶世の美女とされていますし、他の面々も勿論いずれ劣らぬ菖蒲か杜若・・・立てば芍薬座ればボタン、歩く姿は百合の花・・・とか・・・

唯一の皇族として殊に際立つ斎宮女御さまは、いったいどんな御方??

御存じない向きにまたまたうんちくを・・・どうぞ。

ウィキより

徽子女王(きし(よしこ)じょおう、延長7年(929年) - 寛和元年(985年))は平安時代中期の皇族、歌人。二品式部卿宮重明親王の第1王女(醍醐天皇の皇孫)。母は藤原忠平(貞信公)の次女寛子。朱雀天皇朝の伊勢斎宮、八歳にして三品、のち村上天皇女御となる(23歳)。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御と称され、また承香殿女御、式部卿の女御とも称された。三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人。



ホントに美しい絵です。

斎宮女御さまご自身が美しい御方であった故でありましょうが・・・・
モデルの美しさをこの作品に昇華した信実様のお手柄!!
しかも信実が生きた時代は平安末期から鎌倉初期・・・二百年以上も前の美人内親王様がこの斎宮女御でありました。・・・実は、逢ったことも見たこともない・・・・お相手。

この創意の素晴らしさに比べればモンナリーサも馬鹿らしいくらい霞む・・・段違い平行棒!!!


私の理想美術館にはなくてはならないのがこの佐竹本三十六歌仙絵巻全図であります。
全図と言いましたが、百歩譲って、女性三十六歌仙全図でも宜しい!!


佐竹本というのは佐竹藩が長年所有していたから付いた呼び名・・・で、佐竹藩というのは秋田県南部、由利あたりの大名で、かの本田正純の晩年を預かった事で知られています。
佐竹家は時代を紡いだ側、影の実力者でありました。
この絵巻を所有していたことだけでも、裏の立役者であることは明白!

・・・事実上の権力中枢。


時代は下って・・・大正の御代、
物質文明の寵児と目される財閥台頭時代・・・
この絵巻は財閥の頭目同志によって切断され・・・奪い合いに・・・

男モノの歌仙図で一億円!
女モノなら二億円!!!!

〆て四十億円!!!!

斎宮女御は、別格!四億!!!!!・・・とも言われ、くじ引きの結果・・・
益田鈍翁の手に!!
言いだしっぺの頭目の手に最高級品が入るのは・・・
ホント?八百長??


どっちでも宜しい!
それほどまでに騒がれた美術品は、日本の歴史にそうはありません。

騒がしい娑婆とはまるで無関係にこの絵巻断簡は存在し続け、
今日も尚、全く同じ光を発し続けているのです。

どうです!この美しさ、この品位!

品という言語はこの作品の為にある!
正に絶品!






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 藤原信実作 【三十六歌仙絵巻】断簡、斎宮女御 部分






琴の音に峯の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ


慎み深い素敵な和歌が添えられて、琴の名手、・・・実は、控え目な御性格。・・・・それでも、娑婆では・・・・源氏物語六条御息所のモデルと言われている御方であります。















posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(2) | 理想美術館

2015年01月26日

理想美術館 2   菱田春草作 【児島高徳】




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       菱田春草作 【児島高徳】






児島高徳(こじまたかのり)と云う人を知っていますか?
御存じない方の為にうんちくを少し・・・








ウィキより・・・・
元弘2年(1332年)、後醍醐天皇は、先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となる。この時高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動ルート誤判によって失敗に終わる。 高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまった。

その際、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。

因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。

この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、翌年に名和長年ら名和氏の導きにより天皇が隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父・範長とともに赴いて幕府軍と戦い戦功を挙げたとされるが、その論功行賞の記録には高徳の名前が無く、児島高徳否定説の根拠とされている。・・・・・・



 ★≪天皇陛下の忠実なる臣民であるという自覚≫は、明治の日本人に共有されたごくごく当たり前の感覚でした。
当時の人々にとって明治天皇は、神様であり、祖先様であり、親とも慕う・・・御存在。
日本という国が天皇を中心とした大家族の様であった時代・・・・
代々勤皇の家系の出であった水戸藩の横山大観も、信州飯田の勤皇家に生まれた菱田春草も、勿論共に、明治人を代表する熱烈なる精神の持ち主であります。

明治6年(1873年)8月発行の弐円紙幣表面には、右側に稲村ヶ崎で太刀を奉じる新田義貞が描かれ、左側には桜の木に詩を墨書する高徳が描かれていたくらいで、いずれも、大東亜戦争終結まで教科書で取り上げられ、知らぬ人は居ないくらい有名なエピソードでありました。

「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」

てんこうせんをむなしうすることなかれ、ときにはんれいのなきにしもあらず

天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう!・・・という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けた・・・・そのシーンを大天才菱田春草が描いたのがこの作品


桜の大木の幹に向って何やら書こうとしているのが児島高徳様。

春の気配が横溢していて、難しそうな話であるけれど、柔らかな日差しさえ感じるような温かさが溢れている・・・
全く名人芸ですね。

部分図を拡大してみて下さい。
凛々しい?・・と云うより可愛らしい?
菰に身を包んで体型がはっきり見えず
丸くて白いクマさん?みたい・・・
黒い烏帽子と太刀と沓とが印象的。




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          菱田春草作 【児島高徳】同部分




しかしもう少し突っ込んで観ると
やはり可愛らしさよりも凛々しさが立つ・・・
忠良という潔癖なる初々しさと、並々ならぬ決意とをこの姿形から感じる・・・・


白と黒、曲線と直線という相反する性質を掛け合わせた・・・ケンカさせた、
それ故の強さ・・・が、どこまでも柔らかい桜の気配をしっかり破っている・・・・

全く神技そのもの・・・見事です!!!


これまた理想美術館に是非揃えたい逸品!!

ですが・・・、現在この作品は有名なせんべ屋(播磨屋)さんの所有になっていて・・・
児島高徳の故郷に近い所に本社がありまして、全国にファンを持つオカキの専門店。
ホントに美味しいですよ、このせんべ屋さんのお品は!!!

・・今のところ美味しいせんべだけ楽しくいただいております。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(4) | 理想美術館

2015年01月25日

理想美術館 1  横山大観作 【大楠公】



今年から新しく【理想美術館】と題しまして、
コレハ!と言う傑作品をここに提示し、
思うままに推奨させていただきます。

私の夢は、
自分の作品だけを並べた美術館の実現ですが、
その夢の美術館にも、実は自分の絵だけではなく、
本当に心底・・・惚れた、人様の作品も・・・・・
隅っこの方には並べてやろうか?!
・・・・とも思うのです。

大好きな菱田春草作品は勿論ですが、
夢の美術館は、環境も設定もすべて自分好み、
デザインも建築も庭園も設備も・・・何もかも、
すべて≪自分にとっての完璧な美術館≫ですから、
本当は自分が描いた傑作品だけを並べて、
そのひとつづつの作品を観る人が
一点一点に魅了されてしまい・・・
いつまでも動けない・・・!!!

・・・是非、そうありたいと思いますが、・・・・・
しかし、自分がその美術館を巡るとしたら・・・
自分の絵ばかりでは自分が飽きるかなぁー・・・・・
とも思うので、
時々は人様の作品が、勿論大好きな作品が混ざっていたら、
それは楽しいに決まっている!!と思うのです。


理想美術館とでも言いましょうか、
自分にとってめちゃくちゃ都合の良い美術館を夢想しながら、一つづつ、一作づつ、ゆっくり語って参ろう
・・と言う試みです。

どうぞ、御ゆるりと・・・お付き合い願いましょう・・・




一回目は、当然の事ながら、横山大観先生のお作品です



大観先生は私共院展作家だけではなく、
日本画を志しているものが、折に触れてその業績を辿り、良き道標として仰ぐべき高き存在であることは間違いありません。勿論私も当然ながら師表としてかけがえのない御方と景仰しております。


富士山の作品が大変に多く、定評があり、そのどれもが雄大で荘重・・・行くところ可成らざるなき作風なんでありますけれど・・・実は、私が好きなのは大観先生描くところの人物画。

なんですね。



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            横山大観作 【大楠公】



世間で定評のある富士山作品よりも例えばこの作品【大楠公】などは、もう、大好き!!
垂涎の的!ナンデあります。


明快なる色彩構図、威風堂々、
「私」のないお姿はまことにこの様であったのではないか・・・と胸高鳴る思い。

定評があると言うのは一流の証拠ではありますけれど、
描いている本人は、定評ばかり要求されて、生産マシーンみたいになると
辟易・・・・、余程の修養が培われていなければ、それこそ粗製乱造の誹りを免れない。

大観先生はさすがそんな低レベルではありませんが、
この【大楠公】のお作品は大観先生唯一の武者絵でありますそうで、
定評とはいささか趣が違うけれども、【大楠公】と言う稀有なる歴史的英雄の気、と言ったモノを素晴らしく感じる。それこそ楠木正成ほど公に生きた人は無二であるとされるくらいですから、その気配が溢れていなければならない訳ですね。

一般的に言われている武者絵というジャンルに小さくまとめて入れてしまうのは惜しいくらい、人間の理想の姿というものが顕わされていると思うのです。

人というのは、ここまで行けるものなのだ・・・と言う思いを湧かせてくれる・・・

これはこれは、実に実に素晴らしい出来ばえ!!・・なんであります。


湊川神社の所蔵となっていますから、
(湊川神社の要請で大観が特別に謹製したから)
それこそ「私」の手に入るはずもありませんけれど・・・














posted by 絵師天山 at 20:55| Comment(3) | 理想美術館

2015年01月16日

魅惑の百人一首 51


【藤原実方朝臣】 (ふじわらのさねかたあそん)

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

   かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなもゆるおもいを





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              (天山書画)





朝臣というのはそのまま普通に読めば「ちょうしん」で、大ざっぱに言えば、天皇の部下である!という意味ですが、それを「あそん」と訓む。
朝臣(あそみ、あそん)は、天武天皇時代、八色の姓(やくさのかばね)の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当しました。
一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたためごく極稀、
皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるのがこの朝臣だった訳ですね。
読みは「あそみ」が古くもっと古くは阿曽美、旦臣とも書いた。

この朝臣が作られたのは、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室中心の体制強化を計った為でありました。

朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられ、その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰(すくね)の姓。
その後は、朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓をどんどん下賜していったので、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つように・・・・・。

さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められ、また、武家台頭による下級貴族の没落もあって、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味は失い、公式文書で使う形式的なものになっていったのですが、例えば織田三郎平朝臣信長・・・と云うように、公称しようとする場合は、我はこれこれの士族の出で、天皇の部下なり!とわざわざ言うことに価値があり、そこに自負心が込められている場合も多く、当然尊称でもあったのです。


話が脇道に逸れてしまいましたが・・・・

かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなもゆるおもいを

声を出して詠むと流麗なる響き。
すぐにも暗記できそうな歌ですね。


「かくとだに」、の「かく」、は「この様に」、ですから、この様にあるとさえ・・・

「えやはいびき」、「いぶき」は、・・・言う、と伊吹山のいぶき、との掛け言葉で、
言う事ができましょうか!? いやいや出来はしません!

「伊吹のさしも草」で伊吹のヨモギ。
さしも草はモグサ、燃え草、春に萌える如く芽吹くのでヨモギのことをこう呼んだのですね。

さしも知らじな、は、さしも草に掛かって、
「こんなに燃える思いを抱いているとも知るまいなあ・・・・」、となります。

熱烈にくどき落とそうとしている訳。
念の入ったナンパなんです。

前書きにも勿論、「女にはじめてつかわしける」とあり、
頷かせる為の手練手管、・・・なかなか実方朝臣スミにおけぬプレイボーイだったのかも知れません。

ついナビイてしまう女性も・・・・
感心させられてしまう程の老練さだから・・・、
恋歌の名人芸はこれに止まらず、実方の得意であったようで、
少々図に乗り後に粗暴なふるまいが禍し、左遷。
任地で没した事がわかっています。



    




posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 百人一首

2015年01月15日

魅惑の百人一首 50


【藤原義孝】(ふじわらののりたか)

君が為惜しからざりし命さえ長くもがなと思ひけるかな

    きみがためおしからざりしいのちさえながくもがなとおもいけるかな




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              (天山書画)





前書きは、「をんなのもとよりかへりてつかはしける」・・・とあり、
こちらも後朝(きぬぎぬ)の歌。

あなたの為なら命も惜しくありませんがお逢いしたあとでは命が長くあってほしいと思うようになりました。・・・・と伝えたのですね。

傍から見れば、「あー、ソウですかどうぞご勝手に好きなようにせい!このリア充め!」、ってなもんで、お熱いこと夥しく、こんな奴は打っちゃっておけ!と言うところでありますが、何と、この貴公子は弱冠21歳でホントに死んでしまった!・・ので、それを知らされると気の毒で放ってもおけない感じがしてきます。

もっとも当時流行した伝染病で急死したので、恋人の為に命をなげだしたのではありません。

作者藤原義孝は、ヨシタカ、ではなく、ノリタカ、と読む説が有力。
それというのもかの西行法師が出家するまえは北面の武士佐藤義清(のりきよ)と名乗っていたのと同じ。

現代の読み方とは違う音訓が意外に沢山ありまして、良子をナガコ、と呼んだり、護良親王をモリヨシでなくて、モリナガ親王とお呼びする事と似ております。

藤原義孝は謙徳公、藤原伊尹(これただ)の三男。
謙徳公は前出しました、摂政・太政大臣にまで上り詰めたその翌年に早逝した少々訳ありの御方・・・でしたね。
兄の挙賢(あげかた)の前少将(さきのしょうしょう)に対して後少将(のちのしょうしょう)と呼ばれました。大鏡には流行病で兄と共に一日で急死した顛末が記されております。有名な書家藤原行成の父、と言った方が解りやすいかも・・・・いずれにせよ藤原氏の公達です。






         
posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(2) | 百人一首

2015年01月14日

魅惑の百人一首 49


【大中臣能宣朝臣】(おおなかとみのよしのぶあそん)


御垣守衛士の焚く火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ

   みかきもりえじのたくひのよるはもえひるはきえつつものをこそおもえ





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             天山書画





「御垣守衛士」は、宮中の門周辺を守る衛兵。
夜は保安の為篝火(かがりび)を焚き、
昼になれば当然、消す。
夜に火を焚き昼には消す・・・ように
燃え上がる恋心は満たされず、昼になった様に恋の炎も消えうせて、結局物思いに沈んでおります・・・。
ナサケナイ・・・
「とほほ」な、感じが良く伝わって参ります。

篝火を恋と結び付けてみたのですね。
先回の源重之は岩にぶつかる浪に例えたけれど、コチラは篝火。
その前にも、木の葉の様に波間を漂う船に例えた人も・・・・

実らぬ恋を訴える方法はそれぞれ、様々・・・
実ることがないからこそ・・・歌が生まれる?


「物をこそ思へ」は、物思いすることだ・・・との意味です。

伊勢神宮本宮は、幾重にも垣で囲まれており【御垣内】と言う言葉が視覚的実感として理解し易く、古事記のイニシエより神祇を司る御家柄=中臣氏に産まれたこの大中臣能宣朝臣の恋歌に垣の例えが出てくるのももっとも、・・・であろうと思われるのです。

伊勢神宮での大切な祭祀、神事はすべて夜。
篝火をともしたり消したりすることは浄闇の中の秘儀に実に相応しい。
中臣氏の末裔として自然な連想なのですね。


現代の宮中はおそらく既にLED照明ですから皇居を守る皇宮警察は篝火を灯す事もなく、和歌の余韻を感じさせるような気配は全然無くなってしまったのかも知れませんから、式年遷宮をハイライトとした伊勢神宮の神事は実に尊いものと言わねばならないのです。

前出の好忠も恵慶も重之も、この能宣と同時代を生きた歌仲間=失恋仲間?でありましたが、満たされぬ人恋しさをそれぞれが背負って共に和歌を通して日々の暮らしをポジティブに転換して生きることを楽しんでいたのでありましょう。








posted by 絵師天山 at 02:00| Comment(0) | 百人一首

2015年01月13日

魅惑の百人一首 48


【源重之】(みなもとのしげゆき)

風をいたみ岩うつ波の己れのみ砕けて物を思ふ比かな

    かぜをいたみいわうつなみのおのれのみくだけてものをおもうころかな





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海辺の岩場の情景を歌ったのではありません。
岩に打ちつける波が千々に砕け散る様な思いで私は悩み苦しんでいます!
と嘆いているので・・・・

つまり、これまた悲恋の詠。

「女性の連れなさ」に哀れにも儚んで・・・・
情けなさで塞ぎ込む・・少年の様な心を詠い込んだのです。

源重之は清和天皇の第三皇子貞元親王の孫。
この御方には片思いの作が多い・・・・・。

文字通り、「オノレのみ砕けて」しまう恋に悩まされ続けたのでありましょう。

ちょっと不器用な人だったのかも知れません、
女心がとうとう分からなかった?のかも・・・・
王朝の雅な恋愛遊戯などとはおよそ対局に生きたお人柄。
いわば硬派、バンカラ、ですかね。

漂泊の旅を好んだ処にもロマンチシズムを持て余す感じが伝わってくる。
私歌集≪重之集≫には九州から東北まで全国の地名が見え、陸奥の国で没したことも分かっています。

「風をいたみ」は、風が激しいので・・・
「岩うつ波の己のみ砕けて」は、相手の連れなさを岩に見立てて、
そこに当たって砕ける波を自分に例えているのです。


恋の歌にしてはかなり斬新な切り口。
「岩に向って自分の思いだけ千々に乱れ・・・」


冷泉天皇がまだ東宮時代に帯刀先生(たてわきせんじょう)を務めました。
=現在でいえば・・・東宮警察署署長かな?


武勇に秀でた近衛隊長様だったんです。

武骨だけれどきっと・・・
とても良い奴だったに違いありません。




posted by 絵師天山 at 00:51| Comment(0) | 百人一首

2014年12月22日

【歴史の真実】24   保田 與重郎の慧眼


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          写真はすべて早池峰神楽です




  
昭和16年春、
大東亜戦争開戦直前のこの時期に、
保田 與重郎(やすだ よじゅうろう)は日本人の歴史観についてこの様に述べています。


民族的優越感 
日本歴史学の建設 国史確認の問題 

より抜粋

・・・・・我々は日本人であった欣びと、
日本人の使命の激しさを、
子孫に伝へるようにけふの日を送らねばならぬ。



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さうして歴史は常にそのやうに
書き傳えねばならぬのである。




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かくて我々の生きた歴史も、
書くべき歴史も、
共に死んで了った我を土臺として始められるべきである。




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我々は不断に死の覚悟を教へ、
死の礼法さえ誨(をし)へた、
久しい間我々の教育を今こそ回想すべきである。



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天智天皇天武天皇の朝を中心とした
白鳳の詩人たちのあの慟哭の悲歌には
最も古い形で日本人の子孫につたへるといふことにわたる心がまへがうつされてゐたのである。



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語りつぎ云ひつぎゆかんと歌はれた悲歌の根底には
あの変動期の詩人たちが詩人の鋭さで眺めた、
神ながらの大文化の精神があったから、
とよりは他に想像が成り立たぬのである。・・・・・






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民族的優越感 
新時代の歴史観

より抜粋


・・・・歴史として日本国の示す思想は、
比較によって他にすぐれてゐるなどといふことを
第二義のこととする。



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我々は、東海に儼乎として立つ我が国が、
歴史学として思想として、今や世界を称するものに対し、
自身の裁可によって独自に世界を称し得る国であることを知らねばならない。



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我々は我国の歴史に於いて知る、
我々が独立の誇りをもつ日に、
他に世界を称する考へに従ってはならない、



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我々は今この国の立つ状態を思ふとき、
その困難と危険に心のときめきを禁じ難い。



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その心は遠御祖の磐余彦天皇(いはれひこてんのう=神武天皇)の聖慮にも通ふだろう。



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後鳥羽院や後醍醐天皇の御自信にも通ふものであろう。



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我々の久しい歴史には一貫した悲願があったのである。



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しかもその精神に於いて我々の運命と使命を描き、
明日と今日を示すものが我々のもつべき歴史書である。



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我々の當面する事態を、古きあとに遡って、
あるひは遠き日ののちを慮って、
そこで描かれるものが、我らの歴史の思想である。



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我々の歴史の帰決としての状態が
今や世界といふものに対して、別なる歴史の世界を以って対立するとき、
我々の国家的国民的民族的なもののみが、最も廣く深い意味をもつのである。



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我々の史学が、西洋史的時代分類に対して、
なんらの疑問をもたなかったといふことは、
今日歴史を最も深い思想で考へる者らの思はねばならぬところである。



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中世以後近世史を別つ思想の根拠は、
商圏をもった民族の移動を根拠にして、
一方白人の侵略史を段階づけたものである。




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しかるに我が国の文部省の修史官の思想は、
この白人の歴史観を日本歴史にあてはめることによって、
我が国史を描かんとしたのである。



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今日日本のもつ国史観は、
その時代分類によってみても、
如何にして白人の描いた時代分類を自国に当てはめるかの努力にあったし、
この考へ方はそのまま歴史観の上にもあらはれてゐるのである。



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唯物史観的日本歴史観にしても、
最近の世界史論者の立場にしても、
一歩国史観に於いては、
この修史官の文明開花的思想を脱してゐないのである。

・・・・・・・


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・・・・この文部省の修史官の歴史思想がその自身の無思想を暴露したのは、
明治の最末期の南北朝正閏論といはれる問題に於いてであった。



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これは簡単に云へば、南北朝の正閏は未だ判明になし得ないといふことを国定教科書に記載したことである。



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この問題は議会で起り、
一代の学界、文壇を騒然たらしめ、
最後に桂首相がことの来由を奏上したと傳へられてゐる。



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この時に際して、仄かに聞く處によれば、
明治天皇は首相の言未だ了らざるに、
“両朝正閏の事は、維新の當時既に確定し、
亦紛更を試みる余地なし”と、宣はせ給うたといふ。




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聖鑑日月の如し、とはかかることをいひ、

聖断に維新の當時とあるを特に思ふべきであらう。・・・・・・



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


保田 與重郎(やすだ よじゅうろう)
1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日)、日本の文芸評論家
奈良県桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高校から東京帝国大学美学科美術史学科卒業。
在学中より、『コギト』、亀井勝一郎らとともに『日本浪曼派』創刊同人として活躍。高校時代のマルクス主義から後に、ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開。1936年(昭和11年)に、処女作である「日本の橋」で第一回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。以後、日本浪曼派の中心人物として、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで、時代を代表する評論家となる。

大東亜戦争を「正当化」したとされ、戦線の拡大を扇動する論陣を張る(論者によって捉え方が異なる)。1948年(昭和23年)、公職追放。戦後、言論および存在は黙殺された時期があったが、1960年代後半から復権した。その間も「祖国」を創刊し、匿名で時評文を書く(「絶対平和論」「日本に祈る」など)。その姿勢は、戦前から一貫していた。







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2014年12月21日

魅惑の百人一首 47


【恵慶法師】(えぎょうほうし)

八重葎茂れる宿の淋しきに人こそ見えね秋は来にけり

   やえむぐらしげれるやどのさびしきにひとこそみえねあきはきにけり




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                 天山書画






“八重葎(やえむぐら)”とは、幾重にも重なり茂り合った草ぐさ。

偉大な生物学者でもあられた昭和天皇様の名言に
雑草という名前の植物はありません”とありますが、
葎(むぐら)は、アカネソウ科の植物であり、
昭和大帝には誠に大変失礼ながら、これこそ・・・雑草の代表格と言えましょう。


“人こそ見えね”は、訪れて来る人とて居ないけれど・・・

秋寂を感じさせる詠歌です。


“河原院にてあれたる宿に秋来ぬ、といふ心を人びとよみ侍りけるに”・・

と、前書があり、河原院とは・・・お馴染み源氏物語主人公、
光源氏のモデルともされている
源融(みなもとのとおる)が、六条に造った数寄を凝らした庭園で、
百年を経てこの作者恵慶法師が歌友達と共にたまり場としていた処なのです。


その頃はもう荒れるに委されていたようで、
廃園に人の姿も見えないことを、見えぬ秋がやってきた事に掛けている訳ですね。

河原院であったとされる庭園は今もあり、京都駅の北、徒歩僅かの位置に現存していますので、
旅のついでに立ち寄ってみるのも一興。

謡曲では秋の演能の代表作に【紅葉狩】が有名ですが、
この和歌が登場していて、秋深まる山々に出かけてみたくなるオモモチ・・・
誰もが求める爽やかなる秋気を謡い綴っています。


古今集 秋の秀歌で有名な

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

と言う、藤原敏行の名作に似たところがあります。

人こそ見えね・・・・と言いながら・・・

実は古人今人共に通じ合う秋への思いが込められて、
歴史の推移と自然の推移とが同時に詠み込まれているのです。







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2014年12月20日

魅惑の百人一首 46


【曽禰好忠】 (そねのよしただ)

由良のとを渡る舟人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな

   ゆらのとをわたるふなびとかじをたえゆくえもしらぬこいのみちかな




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天山書画






叶わぬ恋の歌が続きます・・・・コチラも・・
満たされた心とは程遠い感じですね・・

「由良のと」、とは由良の門。
狭くなっている出入り口。水門。
海峡ですね、丹後の地「由良」(ゆら)であろうとされています。


「梶を絶え」の梶、は、「ろ」=櫓(ろ)や櫂(かい)・・・オールですね。

絶え、は梶を繋ぐ緒が切れて・・・と言う意味で、つまり
漂流してしまった。と言うことになります。

満たされ、結ばれ、幸せいっぱい・・・・
実る恋では歌にはならないのかも知れません。


波間に漂う木の葉の様な不安な心地を表出しているのです。

広い大海原に梶を失ってたゆとふ小舟・・・


作者曽禰好忠は卑位卑官。
生没年さえ確かではありませんが、
あの名歌人中の名歌人!とされる和泉式部と並んで平安中期異色の歌人と称されることもあり、自由で清新なる作品が多いのです。


こちらも名歌人とされた後京極摂政良経(ごきょうごくのせっしょうよしつね)も、この歌を本歌として秀歌を残しています。


“梶を絶え由良の湊による舟のたよりもしらぬ奥津塩風”

   かじをたえゆらのみなとによるふねのたよりもしらぬおきつしおかぜ


鎌倉幕府の横暴で隠岐の島流刑の憂き目に遭わされたかの後鳥羽上皇さまは、流刑地に於いても勅撰和歌集編纂に力を注いでおられましたが、
その右腕と頼みにされておられた九条良経も、この好忠作品を非常に好んでいた証しでありましょう。

この和歌には又別の解釈もあります様で・・・・

荒波に梶を獲られてしまった!・・・と言う
つまり、
頼むべき思い人を失ってしまった!と・・・・
激しい失恋を詠んだのかも知れません。

それらを考え合わせればこの作品は相当な深さがあり、たゆとふ様な恋路の儚さを万人に共感させる名歌、と言うことになりましょうか。

他の名人達の陰に隠れた曽禰好忠の才能を改めて感じさせられるのであります。









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2014年12月19日

魅惑の百人一首 45


【謙徳公】 (けんとくこう) 

あはれとも言うべき人は思ほえで身のいたずらになりぬべきかも

   あわれともいうべきひとはおもおえでみのいたずらになりぬべきかも






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天山書画





謙徳公とは、一条摂政藤原伊尹(これただ)のおくり名。

おくり名、とは、その方の生前の功績に対する尊称の様なもので、
尊敬をこめた呼び名でありますが、古来≪徳≫の字が入った御名前には、隠された意味がありまして、
その死後≪徳≫の字が付けられている人は、生前、相当理不尽な・・・めちゃくちゃ不遇扱いをされた人、
なのであります。


・・・生前に、権力闘争か何かで理不尽なるひどい目にあわされた身分の高い人を
その死後、ひどい目に合わせた人々が、自分たちが祟られないように≪徳≫の字を付与して、
畏れた・・・のです。


現代はもうそんな事を知る人も殆ど居ませんから、徳の字が入ったお名前も極普通でありますが、

【聖徳太子】、などはこの典型で、7人の語る言葉を同時に理解した・・・とか、
桁違いのスーパーマンぶりが伝えられ、様々な賛辞に彩られたご一生であられた・・・
ということになっていて、今だに尊崇の的とされておられますが、
・・・≪徳≫の字の上に≪聖≫まで上乗せされたと言う事は・・・
・・・歴史の真実は果たしてどのような?
と・・・・拝察されるのであります。


この作者、謙徳公も、深い事は解りませんが、
太政大臣まで登りつめ和歌所別当(わかどころべっとう)=長官、
ともなり、位人臣を極めた伊尹(これただ)には、何か秘められた不遇があったはず・・・
と、観るべきでありましょう。死後に≪徳≫の字をおくり名されているから・・・・

身分の高い人ほど・・・生前の不遇を強いられた御方に対しては
その死後≪徳≫の字を付けて祟りを鎮めるという習慣がありました。

この作品も思い人に背かれて、逢ってもくれないのを恨んだ・・誠に不遇なる恋歌で
失恋を嘆き、相手の翻意を促し、かき口説くように・・
“死んでしまいそうです”・・・とまで言った訳で、
高位高官であっても意のままにならない事が・・・・まるで、

恋ばかりでなく、人生そのものの不遇を暗示しているかのよう・・・

百人一首に選ばれた歌は必ずしも名歌、秀歌ではない場合があり・・・
選ばれた和歌がその歌人の代表作というよりは、その歌人の人となり、
人生そのものを代弁している様な作品が多く、
この和歌などはその典型ではなかろうか?
と思われるのです。

貞信公忠平(ていしんこうただひら=前出、26)
の孫に当たる一条摂政藤原伊尹(いちじょうのせっしょうこれただ)

“物いひ侍りける女の後につれなく侍りてさらにあはず侍りければ・・・”、
(もの言いはべりける女の後につれなくはべりてさらに逢わずはべりければ)
・・・・・・との前書すらあはれに思えて参ります。








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2014年12月18日

魅惑の百人一首 44


【中納言朝忠】 (ちゅうなごんあさただ)

 逢う事の絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし

   あうことのたえてしなくばなかなかにひとをもみをもうらみざらまし




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       天山書画






悲恋のおもむき・・・片恋なのかも知れませんね。
何れにせよ、満足とは程遠い恋歌であります。
“なかなかに”なんて言葉、・・・
それこそなかなか和歌に用いるものでもないでしょう。
この場合は却って、と言う意味です。


いっそ、逢うこともなければこんな恨みがましい心さえ浮かばなかったでしょうに・・・
と、嘆いている訳です。
口ずさんでみれば、調子の良さに感心させられる歌でもあります。

在原業平の有名な秀歌
“世の中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし”
と、意味は違いますが表現の仕方が良く似ているのです。


桜なんかいっそ無くなってしまえば
こんなに心騒ぐことも無いのに・・・と言う訳。


なまじあなたなんかに逢ってしまったもんだから・・
こんなに心騒ぐじゃあありませんか、
いっそ逢わなければよかったのに・・・・
ステバチにさえなっているのですね。


中納言朝忠がこの和歌を詠んだのは51歳の時。
・・・とすれば、これは老いらくの恋か?
昔日の述懐か?

何れにせよ誰にも共感を得られる名調子、
笙の名人であった、と伝えられるのもさすが、と言うべきでありましょう。






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2014年12月17日

魅惑の百人一首 43


【権中納言敦忠】 (ごんちゅうなごんあつただ)

逢ひ見ての後の心に比ぶれば昔はものを思はざりけり

   あいみてののちのこころにくらぶればむかしはものをおもわざりけり




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             天山書画





貴方と契りを交わす以前は・・・
「物思いをしなかったに等しい」
「物思いなどしなかったも同然」・・
である程に、感動的な一夜でした・・・!!
全くもって、スバラシイひと夜を過ごしました!

と、これ以上無いほどの直截な表現。

『はじめてをんなのもとにまかりて又のあしたにつかはしける』
と、前書があります。

スバラシイ一夜が明けた翌日に贈られた歌で、
後朝(きぬぎぬ)と言う奥床しい言葉は、
魅惑の日本語の一つ。

贈る側も贈られる側も生涯の良き思い出となった事でしょう。
≪もののあはれ≫極まる様な思いの深さです。


「後朝」を「きぬぎぬ」と読むようになったのは平安時代、
『通い婚』が普通で男女は同居してはいません。
男性は女性のもとを訪れて、共に一夜を過ごし、
翌早朝のまだ暗いころに帰ります。


夜は互いの衣を重ねて敷き寝ていたが・・・
すぐに・・・・お別れの時間。
共に過ごした短か夜を惜しみつつ、・・・
お互い重ねていた衣を着て別れます。
一晩重なり合っていた二人が離れ離れになる様を「衣衣」、
・・それで、翌朝のつらい別れのことを「後朝(きぬぎぬ)」
と、呼ぶようになったのです。

いと、いと、・・・をかし(ロマンチック)
 
後朝の別れを済ませて家に帰りついた男性は、
「後朝の歌」や「後朝の文」などと言われる手紙を送り届けるのが礼儀。
「こんなに別れがつらいなんて…また来るからね」・・・
なんて言うアツい内容を手紙にしたため・・・
使者に届けさせたのです。
束の間の幸福な時間の余韻が膨らんで、
さらにさらに・・恋の炎が燃え盛る!!
使者を雇わなければなりませんが・・・・
なんて良い時代なんだー!



作者、権中納言敦忠は、
藤原時平の三男。
権中納言の権(ごん)は正官の一歩手前、
仮に任ずる、という意味で、
サラリーマン社会で言えば部長待遇?
みたいな感じでしょうか・・・
正官だと、ただの中納言。
権(ごん)が付けばそれに準ずる位ですよ、
と言う意味で、現代の神官の位にも、禰宜(ねぎ)
と、権禰宜(ごんねぎ)、があるのと同じです。

権中納言敦忠は、琵琶の名人で、
琵琶中納言という別名もあり、才芸、美貌、共に優れていましたが、権勢を誇った藤原時平の子孫であり、かの菅原道真の祟りを被って、長命できなかった(享年38歳)、と言われてます。

いかにも貴公子然とした、大らかな歌いぶりですね。




posted by 絵師天山 at 15:00| Comment(4) | 百人一首

2014年12月16日

魅惑の百人一首 42


【清原元輔】(きよはらのもとすけ)

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは

   ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすえのまつやまなみこさじとは




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             天山書画





 チギリキナ・・・と言う初句が心に残ります。

契り合ったのに!
あんなに誓いあったのに!・・・

つまり、失恋したのでしょうね。
袖にされた・・・んです。結果としては。

「袖をしぼる」・・と言うのは
良く使われる表現で、涙で袖が濡れてしまう。
絞るほど沢山泣いた・・・
涙でびしょびしょ・・・

現実には鼻水も垂らしてグジョグジョですから
キタナイ事おびただしく、
不潔極まる状態ですが、表現の誇張ですね。

“末の松山”は仙台近くの海岸にあった、とされる歌枕。
波は越えない高さと位置にあった、とされてます。

古今集(巻20、みちのく歌=東歌)に・・・

君をおきてあだし心をわが持たば末の松山浪も越えなむ

   きみをおきてあだしごころをわがもたばすえのまつやまなみもこえなん

末の松山が波に洗われてしまう!
ナンてことは・・・万が一にもナイ!
様に・・・あなたへの一途な思いは絶対に変わりはしません。
という、この歌を踏まえているのです。
あだし心、は浮気心ですね。


末の松山が浪に洗われる事は決してないくらいに
あんなに愛を誓い合ったのに、それなのに・・
心が変わったんですね、アンタは!!!

フラれた側のクソッタレ発言がこの歌になった。

フラれた元輔はこの失意の御蔭で百人一首を飾る栄誉に輝いたのですから、どちらが良かったのか?知りませんが、本人は残念だった事でしょう。こんなにも未練たっぷりだったのですから。


清原元輔は清少納言のお父様。
清少納言の清は清原の清、デス

中宮定子にお仕えした才女で父よりも有名。
父の失恋歌についてのコメントは残されてはいませんが、
“いとをかし”と言ったか?どうか?

枕草子もそれは素敵な古典ですね。
解りやすいし現代人の心にさえ共通の思いを湧かせてくれる。
普遍性が込められているのです。

父元輔も凡人にあらず。
万葉集に訓点を付したり、和歌所の寄人になったり、歌人として大活躍したのです。

相手の不実を咎め心変わりを恨むような言葉を使ってないのが却って痛々しい。
が、元輔のお人柄も偲ばれる歌であります。








posted by 絵師天山 at 13:26| Comment(0) | 百人一首

2014年12月13日

【歴史の真実】23 赤穂浪士討ち入り


12月14日は赤穂浪士討ち入り記念日

記念日というのもおかしいが、・・・
我が日本国では、年末は
第九!ではなくて・・・・
とにかく忠臣蔵・・・なんデス!!!!。


赤穂浪士(あこうろうし)とは、言わずと知れた・・
元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜
旧主浅野長矩の仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、
吉良義央および家人を殺害した、
元赤穂藩士大石内蔵助良雄
以下47人の武士であり・・・・

浅野 長矩(あさの ながのり)は、
播磨赤穂藩の第3代藩主。
官位は従五位下 内匠頭=たくみのかみ。
官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。
元禄赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか)とは、
江戸時代前期の高家(こうけ)旗本(はたもと)。
高家肝煎(きもいり)・・・。
元禄赤穂事件の一方の当事者であり、
同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。
幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。
吉良上野介と呼ばれることが多く・・・・
本姓は源氏(清和源氏)。
家紋は丸に二つ引・五三桐(ごさんのきり)・・・・。

『忠臣蔵』とは、・・・・
人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつである
『仮名手本忠臣蔵』の通称。
また歌舞伎や演劇・映画の分野で、
赤穂浪士の復仇事件元禄赤穂事件に題材をとった創作作品のこと。
・・・・・・

御存じ忠臣蔵・・・・・

この話・・・
実は、
隠された歴史の真実が集約されているのであります。

★★★★★★★★★★★★


日本歴史を天皇から切り離して語りたがるのは戦後の左翼思想

司馬遼太郎に代表されますが・・・・
詰まる所・・反日
天皇は象徴【おかざり】
国家の一機関・・・と決めつけ・・・無視する!

その実態は・・・・
単なる嫌戦思想、
何が何でも平和だけが後生大事・・・
国が滅んでも
自分の息子だけは絶対戦争に行かせない!!!

国家がなくなっても・・・個人の平和が最高!!!
現実にはあり得ない馬鹿げたワガママが蔓延した・・・

国家の利益と個人の利益とをごちゃまぜにして
識別すら出来なくなった・・

幼児性日本人が蔓延した時からの悪癖。

例えば・・・沖縄の辺野古基地問題にしても、
虎視淡々と狙っている、
シナ、朝鮮、ロシア・・
・・などの侵略意図
をマトモに受ければ、
一番困るのは自分達、・・
沖縄県人なのに・・
米軍基地のみならず
自衛隊の駐屯さえ反対すると言う愚かさ・・・
自分を守ってくれる軍隊を不要!・・とする
馬鹿さ加減・・

侵略の意思は未来永劫絶えない・・・という現実認識
子供じみた上辺の平和思想・・で塗り替えさせられた・・・
いわゆる平和主義沖縄県民の良識??
左翼思想の被害者?

シナから間接的に金もらって反対しとるんだろうが・・・・
・・・・・

しかし、

天皇を日本文化の核、であると、認識した時には
今日、通例とされてきた歴史概念は
180度一変するのが常であり・・・・。

この場合も、

赤穂浪士の討ち入りは単なる仕返し、仇討・・・
とされておりますが、

天皇はお飾りではなく
国家の事実上の中枢であるという認識に立てば・・

忠臣蔵も、全く次元を変えて、
世界的、国家的プロジェクトであった事が見えてまいります。
フランス革命なんぞの比ではない!!



★★★

時の御門は・・・
第113代東山天皇。
御在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日)

延宝三年9月3日霊元天皇の第四皇子として御誕辰。
天和3年(1682年)3月に儲君となり、12月に親王宣下があった。
天和3年(1683年)2月に直仁親王(崇光天皇皇太子、南朝により廃される)以来300年ぶりの立太子礼を経て皇太子となる。
貞享4年(1687年)1月に元服し、
同年3月21日に霊元天皇の譲位にともない践祚(せんそ)した。
同年4月に即位式をあげ・・・
さらに11月16日には長く廃絶していた大嘗祭『だいじょうさい』の儀式を復活させた。
この背景には朝儀復活や王政復古運動に尽力していた父・霊元天皇の意向が強く働いていた。

諱(いみな)は、朝仁(あさひと)。

立太子の儀、並びに大嘗会(だいじょうえ)
共に、久しき中絶の儀を再興したもの。
儲君の制はこの天皇をはじめとする。

霊元天皇は修学院離宮をお造りになった後水尾天皇の第19皇子。

つまり、後醍醐天皇親政にのっとり、
幕府統治の根本的誤りを正し
日本古来の天皇親政を図られた後水尾天皇の御意思を
この東山天皇がある程度、結実なされた・・・

そんな時代相・・・



次なる天皇は、中御門天皇(なかみかどてんのう)。
第114代天皇、
御在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) 〜享保20年3月21日(1735年4月13日)

中御門陛下は元禄14年、
東山天皇(第113代天皇)の第五皇子として
御誕辰されておられますので、
赤穂浪士討ち入り当時はまだ御幼少・・・ですが

親王宣下、立太子の儀、践祚(せんそ)
即位式を挙行。さらに
元服の儀を・・・・

当時既に
天皇元服は古式に習った
実に稀なことであり・・・

次々に幕府政治の破たんを示す事柄が続き

遂に幕府転覆を画策したのが
他ならぬ赤穂浪士の討ち入りの顛末でありました。

歴史の真実を、そう言う捉え方で収めるのを忌み嫌う時代風潮から
忠臣蔵は単なる興行として、
お話
として祭り上げられてきましたが

実は2・26事件に優るとも劣らないクーデターであった!
というのが紛れもない事実。


被害者(・・とされる)、吉良上野介(きらこうずけのすけ)は、
高家、つまり高師直の子孫。

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(歴史上では足利尊氏とされてきた肖像画はじつは高師直)

師直(もろなお)と言うのは、
あの足利家の番頭であった高家の棟梁。

御醍醐天皇の親政をとん挫させた張本人足利家・・・
サタンの生まれ変わりの様な足利家の腰ぎんちゃくであり・・・
吉良上野介(きらこうずけのすけ)はその腰ぎんちゃくの末裔・・・


大石内蔵助率いる赤穂浪士は・・・勿論・・・・
楠木正成以下忠臣義士の末裔の選りすぐり・・・であり
三島由紀夫と同様・・・オモイキリ憂国の士・・・
・・・・・・

足利直義も仕組まれて
あるいはみずから仕組んで
ナント!
源頼朝像に化けてますが・・・・


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(こちらは有名。源頼朝像とされているのは実は足利直義像=足利尊氏の弟、ねつ造してまで天皇の権威を貶めたかった・・)


反日=反天皇は、オゾマシク
時代を越えて、脈々と続けられてきているのです・・・
(シナ共産党の目標が天皇の絞死刑であるように・・・)

詰まる所・・・
日本文化とは天皇の事

天皇制こそ日本文化であり
世界にその比を見ない価値そのもの

他に価値など何もない・・・ので・・・
日本にとどまらず世界は天皇に始まり天皇に終わる・・
この地球はそれ以外の星ではあり得ない。


宝永四年。
(江戸時代中期の1707年)・・・
討ち入りは1703年・・・・

現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火となっている宝永大噴火(ほうえいだいふんか)が・・・。

クーデターとしての赤穂浪士討ち入りの結果・・・
憂国の四十七士を単なる犯罪人に仕立てて自害させ・・・
クーデターを怨恨事件に貶めた故に・・・

大政奉還し日本文化の拠って来る所以を尊重し得なかった
江戸幕府及び日本国民に対する天譴災異(てんけんさいい)
こそが・・・結果・・・

富士山大噴火として表れたのであります。

従って、東山天皇は中御門天皇に譲位された・・・
当然天譴災異(てんけんさいい)の責任を取られた・・・・

改元することが最大の禊祓いだから・・・・・


討ち入りの時、内蔵助が使用した山鹿流の陣太鼓こそ
日本固有文化そのもの・・・・・・

忠臣蔵=クーデター


眉つばだと思うならば良く御調べ下さい・・
お仕着せられたクダラン概念をヨクヨク取り払って・・・・
曇りなき眼で・・・・

安倍首相率いる自民党がグローバルを翳した途端に
襲いかかる天譴災異(てんけんさいい)・・・
第三の矢は外国頼みだから・・・
詰まる所・・・日本独立を後回しにしたから・・・・


利益と勘違いして外国に日本を売り渡す、
・・・・ことなかれ・・・・
登った木の幹を・・・
自ら切り落とすべからず・・・

愛国の士は何処に・・・・
もし居なければ・・・

再びの富士山大噴火は必至!















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2014年12月01日

魅惑の百人一首 41


【壬生 忠見】(みぶのただみ)

 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

   こいすちょうわがなはまだきたちにけりひとしれずこそおもいそめしか





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“人知れず恋に落ちたのだが、早くも噂が立ってしまいました”
・・・・と言った意味でしょうか、

百人一首の中で恋歌は何と43首!
和歌というものは、否、
芸術は、これ凡て・・・もののあはれ・・
恋心から発しているのかも知れません。

私たち絵師も、花に恋し、風景に恋し、人に恋するからこそ
花鳥画がうまれ、山水画が産まれる・・・・


前出、平兼盛の作
忍れど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで
と、歌合で競い合い、負歌とされたのですが、
その心は同じ。
むしろこちらの方がよほど余韻が深いのかも知れません。

壬生 忠見(みぶのただみ)は、
壬生 忠岑(みぶのただみね)の子。


出世はしませんでしたが歌人としてはかなり優能、
多くの歌合に参戦しています。
心に残る秀歌を沢山詠んでおり・・・例えば・・・

“いづかたに鳴きてゆくらむ時鳥淀の渡りのまだ夜深きに”
   いずかたになきてゆくらむほととぎすよどのわたりのまだよふかきに

さりげなく、余韻の深い良い歌ですね・・・・
ホトトギスは初夏の季語・・・
飛びすぎてゆく・・・
その前後の時間的経過、心理的経過、を十二分に想像させてくれます。

余白の美というのはこういうことを言うので、
絵で言えば描いた処を引き立てるのは描いていない
余白=空間、和歌に於いては語らない処の余韻
がいかに深いか、で
その価値が決まるのでありましょう。


31文字だけで言外の心象を無限に言い尽くす・・・

壬生 忠見は父祖の代からの職業歌人ですから、
云わば職人技の名人芸・・・ナンデスね


歌合で理不尽にも『負歌』と決めつけられて憤死してしまった!
云い伝えられております。


さもありなん・・・・・


posted by 絵師天山 at 17:45| Comment(0) | 百人一首

2014年11月18日

【歴史の真実】22 憲法作り直しの必然


平成二十四年に書かれた東京大学名誉教授小堀桂一郎先生の“時評「正眼・心眼」”
【憲法作り直しの必然性】から一部抜粋させていただきました。



・・・・五月三日は国民の祝日の一つとしての憲法記念日である。現行の日本国憲法が制定・公布されたのは昭和二十一年の十一月三日で、翌二十二年の五月の此の日に新憲法として施行された。
その事を記念し、国民の祝日として二十三年に制定されたのがこの記念日である。

施行以来65年を経過したこの憲法を、今や言葉通りに祝う気持でこの日を迎える人は、ほんの一握りの共和制思想の持主でしかないだろう。あとの大多数の人々は、少しでも早く廃棄か改正か、方式はともかく、現在のものに替へて新たに主権国家の現実にふさはしい真の憲法を自主的に作り直さなければ、国民の明日の安全を保障できないという焦燥感に駆られてゐる。

そして有力な政党が揃って四月の末に独自の新憲法草案を公表すると言う所にまで事態は迫ってきた。

どうしてその様な事態になったのか、その問いを、現行憲法の公布と施行とを日常生活の中に生じた身近の事件として経験してゐる世代の一人として受け止めて考へてみると、答えは実は簡単である。

この憲法の公布は筆者の中学初年級の時の事であるが、中学生の子供にとってさへも、この憲法の成立事情のいかがはしさは、誰に教えられなくとも直観的に認識出来た。
それは米国占領軍の要求を受け、その監視の下に、大日本帝国憲法を排除する形で採択を強制されたものだといふ実情が隠し様もなく見えてゐたからである。


この憲法は日本占領の連合国軍総司令部が立案し、日本国政府に押し付けた占領基本方針の法制化以外のものではなかったから、占領継続中は法文と国政の現実との間に辻褄が合ってゐた。
然し、昭和27年4月28日に日本と連合国との間の講和条約が法的効力を発生し、我が国が独立国としての国家主権を回復した途端に、憲法と我が国のあるべき姿との間に実に多くの矛盾が生じてくることが忽ちのうちに明らかになった。

日本の国柄を示す詞として国体という語が用ゐられてきた事はよく知られてゐると思うが、この語に相当する単語を英語の語彙の中に探してみると、それは「憲法」と言う単語と同じものになる。
これは面白い暗合であるが、さうなると、元来同じ概念であるべき憲法と国体とが、日本国憲法の場合には同義どころか全く矛盾そのもので、
憲法は日本国の国体とは全く相容れないアメリカ合衆国の国是を日米戦争の敗戦国としての日本に押しかぶせたものだといふ構造が、事あるごとに露呈されて来た。


この不協和を何とか調整するために、やむを得ず採られた便法が建前と本音の使い分けという姑息な手口である。この態度は社会の各局面に生ずる憲法への抵触や撞着の事例を、あれは建前なのだかえらまあ仕方がないとして目を瞑って見逃しておくといふごまかしを日常化させてしまう事態を招いた。

かうした対処を、法解釈の柔軟性として評価する向もあるけれども、それはやはり国民の倫理に悪影響を与える偽善である。建前と本音の使い分けという世間通用の悪習を奨励している元凶が現憲法であるとは、深刻な皮肉である

(平成二十四年五月)





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2014年11月17日

魅惑の百人一首 40


【平兼盛】 (たいらのかねもり)

 忍ぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで

   しのぶれどいろにでにけりわがこいはものやおもうとひとのとうまで





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 データーがぼけてスミマセン

「物や思ふ」、・・・は、何か考え事してるの?と、
人に問われてしまう程に恋心が顔色に出てしまいました・・・。 

恥じらいもなくのぼせるほどに憧れたお相手は、誰?

それが絶世の美女であろうとなかろうと、
超イケメンだろうとなかろうと・・・・
この場合は誰でも良いので、むしろ恋心そのものを普遍的なものとして表現し得た処にこの歌の凄さがあるのでしょう。
隠せないほどの情熱をほとばしらせるのが恋と言うものなのであります。


この和歌は次出の和歌、 壬生 忠見(みぶ の ただみ)の
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか”と
対にされて「歌合せ」に登場。
その優劣を公に問われたのですが、いずれ劣らぬ恋歌と感ぜられてなかなか勝負が決まりませんでした。


ここで、歌合(うたあわせ)について少し・・・

歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。
平安時代に始まり、記録にあるものとしては仁和元年(885年)の在民部卿家歌合が最古のものとされる。他に天徳4年(960年)の天徳内裏歌合、建久3年(1192年)の六百番歌合、建仁元年(1201年)の千五百番歌合などが名高い。基本的に「遊び」であるが、平安期には歌の優劣が出世にもかかわる重大事であったため今日行われるような気軽なものではない。また、時代が下るにつれて文学性が高くなり、前述のように「判詞」が文学論・歌論としての位置づけを持つようになった。・・・・・

詳細はウィキペディアへ・・・

優劣を競いあう歌合、盛んなころはそれは華々しい一大イベント!

この二人の対戦では判者の左大臣実頼が優劣を決めかねたくらい両者は拮抗。
上司大納言源高明に判じてもらおうとしましたが、やはり判じ得ず、秘かに天皇のご意見を伺うと、天皇も又、判を下すことが出来ず兼盛の歌を口ずさんでおられたので、実頼は天皇の御意は兼盛の作にある、と見て兼盛の勝ち!としたのです。


倒置法を用い明快に言い切った強い歌ですね。

院展の審査で何百という搬入作品を次から次へと拝見するのですが、時に非常に強い作品が出る。
他の作品を圧倒する強さが入選に有利に働くこともある。
余情とか深みには欠けるけれどコンペとなると強い方が評価されやすい場合もあるのです。



posted by 絵師天山 at 15:00| Comment(0) | 百人一首

2014年11月16日

魅惑の菱田春草 L 続、究極の癒し 【早春】



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この六曲一双の金屏風【早春】こそ菱田春草の絶筆・・・とされています。
明治44年3月の制作。


ずっと若い時にごく短期間『秋江』と号した時があり、転じて『春草』銘にしてからは文字通りしなやかな萌芽そのものの様な命の精妙さ・・・生命の神秘さえ描きつくし、最後に【早春】で幕を閉じることに・・・

厳密に言うと雀の掛け軸【梅に雀】の図が小品としての絶筆であり、知人に贈った菊の扇が44年8月の作で、これがホントの絶筆であるとも言われていますが。

正真正銘精魂傾けて取り組んだ最後の大作はこの【早春】

前回 “魅惑の菱田春草 K 究極の癒し【雀に鴉】”でも語りましたが、死を目前にしてこその本領が発揮され、それ故に溢れんばかりの滋味がコンコンと湧き出でるが如し・・・ 

何でもないごく極アリフレタ景・・・
背景の金地が豪華ではあるけれど、・・・


何もこんな豪華な金地に八つ手や南天などありふれた植物なんか描かなくとも、ボタンとか桜とか描いてくれたらよさそうなものなのに・・・・


豪華絢爛たる金地にごくツマラナイもの?を並べたが故に魅せられる・・
・・つまり、平凡と非凡との取り合わせなんですね。


見事なる設定の妙・・・・・・!

こういう事はなかなか思いつかない。

現代でも絹地の金屏風六曲一双を仕立ててもらうと・・・数百万円の経費がかかる。

春草は生涯貧乏絵描きの域を出なかったけれど、材料をケチる事はまずありませんでした。何とか工面して思う存分の制作に勤めた。

一流の絵師でも金屏風に描けるのは滅多にない機会ですから、そんなチャンスに、しかも死にそうなのに・・・ボタンでもなく桜でもなく・・・・
ヤツデとナンテン・・・・!!??

これは出来そうで出来ない事ですよ・・・・
それほど決死の作画だった・・・・・


私も自分で屏風仕立てを金地にして描いたことがありますが、・・・残念、桜でしたね。
考えが浅い・・・・のです。
金屏風には、誰もが喜ぶような画題で描けば売れやすくなって高い材料費の元が取りやすい・・・なんていう(私みたいな?)娑婆っ気は、大天才にはゴザイマセン!!!


もうこれで最後だと言う並々ならぬ決意はこのことからもワカル!

ありふれた題材で尚且つ、“非凡”を極めてやろう!!という決心が伝わって参ります。

国立近代美術館で最後のコーナーに飾られていましたね・・・
良く観ると、屏風に傷んだところがあって・・・修復されると良いんですが
・・・惜しまれます



屏風制作は表具師に仕立ててもらったモノに描く場合と、パネルにして描いたモノをあとから屏風に仕立ててもらう場合とあり、コチラは前者。

絵絹に金箔を貼る訳ですが、箔と箔とのつなぎ目が見えないように貼る場合と、つなぎ目が重なって見えるように貼る場合があり、コチラも前者。

金箔も一度張っただけではコクが出ないので、
二度貼り、三度貼り、・・・貼る回数が多いほど深みがでて豪華さが増す・・・・江戸時代の金箔は機械で作らず、職人の手仕事で出来ていたから、現代の金箔よりも相当な厚手・・・・だから現代の金箔は薄すぎて、一枚貼り・・・くらいでは大して美しくないのです。

もう、残りわずかであろうと思いますが、明治以前に作られた金屏風が遺されていれば、それは、大変な価値がある。・・勿論、下手な絵なんか描いてあったら、却って無価値ですけれど・・・・

春草のこの作品は相当立派な絹地の金屏風であり・・・今これと同じものを注文制作してもらうと500万円でも足りない?かもしれません・・・・


       

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そんな、金銭価値云々など、全く思いつかない・・・
暖かな癒しが感じられる・・・・

画面から醸し出されるものは・・・人類愛とでもいえるような崇高さ、
すましこんでいるだけの高さではなくて、誰にとっても、難しくない、ただただ優しい・・・と言う高さ・・・・・



一番癒してもらいたいのは、目が見えなくなる恐怖に晒されていた絵師・・・であり、明日をも知れない命の灯が消えてしまいそうな若者、・・・・
・・・春草自身である筈なのに・・・・

この作品はスズメと鴉の屏風にも増して滋味が溢れ出して来る・・・その不思議!!





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八つ手も南天も、その全ての葉はコチラを向いている事に気付きませんか?
現実には横を向いた葉、・・・があれば、斜めに生えてる葉もある・・・が、僅かな裏葉以外は、殆ど正面に向いた葉として描くと・・・
三次元を二次元に置き換えるとき、“見たまま”では三次元に敵わない、でも、誇張と省略を加え、反対の性質を上手く結合してやることで、三次元よりも深い感情を伝えられるようになる・・・これは日本画ならではの、造形法なんですね。








posted by 絵師天山 at 15:00| Comment(1) | 菱田春草

2014年11月15日

歴史の真実 21  日本独立!!



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          【常磐】(ときわ)





1000億円を超える賠償を求めて日本国基幹産業の中核を担う【東芝】が、
韓国企業及び社秘を漏えいして利己に走った元日本人アホ社員を訴えました。
漸く・・・というか、やっと、そういう気運が兆した・・・・

英知を集結させた長年の研究成果を理不尽に奪われた者として当然の行動であり、むしろ遅きに過ぎるくらいで、ドロボー国家及び紛れもなきチンピラ国賊を訴えたのです。

結果は、・・・
どうせ疲弊しきったドロボー韓国企業に賠償能力などはなく、
・・・会社ばかりか国までも売った!
・・・・という自覚すらない
民主的グローバリゼーションボケのバカ者も

改心する心が万が一にあったところで後の祭り・・・・

何も償うことなど出来る訳はありません。

元々人のふんどしで相撲を取るような国であり輩なのですから
・・・尻拭いなんて、およそ出来るはずもない。
懺悔する気持ちが浮かべば・・・
まだ人間の内に入れるかも知れませんが。
恐らく、
逆切れして見せて時間を稼ぐくらいが関の山・・・・
全く盗人猛々しい!
とは、正にこのことなのであります。

・・・年俸倍増!
くらいの擬似エサで簡単に騙され、
無自覚に反日活動に流されるロクデナシですから、
自分が登った木の枝の元を切り取る愚行に気付かない。

呆れるほどの幼児性・・・
全く残念・・・・いたしかたありません。

国益イコール個人の利益・・・・という、
当たり前中の当たり前
・・・なことすらわからなくなって、
国家観念は完全欠落してるのに
自分だけは世界平和!などとウソブく・・・
民主的グローバル日本人が蔓延し、
外国の圧力代表になり下がった
各種メディアに組して踊らされ、
幼児性を振り回し、
どれほど国家国民の利益を阻み、
それによって日本が貶められたか
・・・・・図りしれないのです。

APEC(アジア太平洋経済協力)に於いて、
習近平の、苦虫をかみつぶしたような表情へ、
笑顔を向けて握手を求めたわが国 
総理大臣安倍首相の外交戦略も、
現時点では一定の評価があってしかるべき・・・・
本来は米国主導のくびきからはなれ・・・
河野談話を完全否定するところから始めねばなりませんが・・・

恫喝し圧服させ服従させて置きたい相手なのに、
自ら会談を受け入れざるを得ない
対外、対内、共に苦境に立たされている習近平の
・・・・現今の仏頂面にさえ・・
日本国総理大臣として笑顔を向けねばならないのは、
核武装なく丸裸同然である日本国家防衛の現状を
誰よりも総理が熟知しているからであり、
自国日本のメディアは明らかにシナ、習近平の味方で、まかり間違えば安定政権を揺るがされ、引いては国家安全保障さえ揺さぶられかねない、という自覚と理性とが総理にあるからで、

本来は習近平と対等会談せずとも・・・・・、
いやいやマトモに話し相手になってやる必要すらないのです。

が、それでも尚、笑顔で握手を求めるのは・・・
皇居及び日本の大都市すべてに照準を合わせた核弾道ミサイルが・・

シナはじめロシアからアメリカから、
雨あられと降り注ぐ用意が現存する・・・
という、実にハッキリとした現実を踏まえている・・・・からですね。

珊瑚ドロボーのシナ漁船団も当面海上保安庁巡視船の優秀なる装備と技量とによって、その2,3隻も沈めてしまえばあとはクモの子を散らすように逃げ去ってしまうのでしょうが、その後のシナリオが用意されているので、シナの野心を熟知した上で賢明な対処をしてゆくしかありません。
まだ日本は確固たる独立国には程遠いから・・・・

周辺国のみならず自国の少数民族等を同じシナリオで傷め続けているシナ共産党独裁政権はもはや世界の癌以外の何物でもないことが誰の目にもハッキリし、
国外逃亡を人口の7割以上が切実に望んでいる韓国の実態もより広くに知れ渡るでしょう、

シナ・韓国は自ら亡国へのスパイラルを確実に降下しており、あとはただ利己が渦巻くのみ・・・

であるにも関わらず日本のメディアは相変わらず、必死の形相でシナ・韓国の味方であり続けようとしている。

習近平が韓国大統領には笑顔で挨拶し、安倍総理とはその態度に格段の差を見せた、
と何やら誇らしげに報道し、総理周辺からは解散風が吹いた!!と攻め立てる・・・

・・・・日本を取りまく数多の略奪国家の意を体し、
その手足となって暗躍する日本のメディアは、あろうことか
習近平とリンクして自国の総理大臣をやっつけている。
・・・・何というおぞましさでしょう!

外交的後退は敵国の国内問題にすり替えて反撃する・・・・
共産党の常とう手段ですね。問題のすり替えは名人芸ですから・・・
反撃のコマは、日本メディア!

解散権は総理大臣にあって、此の度日銀から80兆円を市場に放出させ、景気回復への底入れをし直し、
原発も徐々に稼働させていって、消費税増税を先延ばしにすれば・・・・総選挙。
更なる安定政権となれば・・・・やっと憲法改正に手が届く・・・
自分の都合が悪くて公表出来ないが、実質は韓国の利益代表以外の何物でもない公明党を与党から追い出せる。
し・・・・
自民党内に巣食い続ける反日民主的グローバル分子も、国益に叶った親日人材に挿げ替えられる・・・

日本独立の機運はようやく兆したのに、・・・
そうはさせじと周辺略奪国家は日本のメディアを武器に一斉に反旗を翻し、国益を最優先しようと努力している総理大臣をたたきに叩く!

国家として一人前の国であればそこで初めてグローバルという価値観を内外に示すべきでありましょう。大人として当然の世界への貢献です。
が、しかし、現実には自分が未だ幼児であるという自覚も生まれず、国家という体を成していない現在の日本で唱えているグローバルでは、およそ国益に反することにしかななりません。

食糧の自給自足も遥か・・・夢の様に遠く、エネルギー自給への確固たる信念すら持ちえない。
どころか・・・自分の国の中枢を常時原爆で狙われていることが分かっていてもそれに対して反撃準備の可能性にさえ言及出来ないのは・・・・そんな状態は、国家とは言えない。まだ日本は国という体をなしていないのです。

メディアは、安倍首相が反日国の首脳に馬鹿にされ、ぞんざいに扱われていることを遺憾とし外交的成功を正しく伝えてしかるべきところなのに、まだ有りもしない解散風を一方的に非難すると言う攻撃を一斉に展開する・・・・・・しかもそれが公平でグローバルなメディアの使命!?などと話をすり替えて平然としている・・・・

東芝の裏切りアホ社員の罪どころではない。
・・いったい・・・・どこの国の放送局だ?
安倍さんにとって代わるくらいな愛国者をじゃんじゃん育てる!のが本来だろうに・・・・

そして、米中会談は喧々諤々・・・9時間も続いたと言う・・・
温暖化問題だと・・・・・へー、嘘だね・・・
彼等はお互いに『いや日本は俺のモノで、お前のモノじゃあないゾ!!』と、ののしりあったに過ぎません。
しかも、9時間も!!!

食料とエネルギーを自給出来ずに国家は独立し得ない。
食料とエネルギーの自給によってはじめて真の国防が成立する。
国家の独立がなければ個人の安寧はあり得ない。

この当たり前な事を真っ先に教えるのが教育・・・

アメリカの軍事基地がなぜ日本国内にあるのか?
我らの羽生 結弦(はにゅう ゆづる)君がシナ人選手によって一方的に血みどろにされたのはなぜか・・・・
この際、良く考えねば・・・・



このまま行くと、
日本の方が先に無くなっちゃって、
ホントに・・・笑えない・・・

グローバル自滅・・・

珊瑚ドロボーのシナ漁船団はアメリカの指令で行動している!!!




posted by 絵師天山 at 15:00| Comment(0) | 歴史の真実

2014年11月14日

魅惑の百人一首 39


【参議等】 (さんぎ ひとし)

 浅茅生の小野の篠原忍ぶれど余りてなどか人の恋しき

   あさじうのおののしのはらしのぶれどあまりてなどかひとのこいしき





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    少々データがぼけて・・・失礼します


忍ぶ恋の物語。
思い叶わぬゆえにこそ恋心はいや増す・・と言う訳で
古今和歌集にある
“浅茅生の小野篠原しのぶとも人知るらめやいふ人なしに”(読み人しらず)
の歌を本歌として参議等=源等朝臣(みなもとのひとしあそん)が、王朝風に作り替えた作品であります。


浅茅生”あさじう・・・は、カヤがまばらに生えている所。
小野”は、特定の場所ではなくて、 
小野の篠原” で、篠=細い竹の生えている原。 
つまり、上の句は忍ぶというテーマを修飾している。
侘しく、モノ淋しい情景を、叶わぬ恋心に投影させたのです。


参議等(=源等朝臣)は、嵯峨天皇の曾孫。
『余りてなどか』という詞によって、あふれる恋情の激しさを詠いきったとされています。
深い慕情故の絶唱ですね・・・・

参議は、役職。
大臣と参会して国政を議する職、大臣、納言に次ぐ要職ですが、小野篁(おの の たかむら)も参議篁と称されていましたね。
篁は三位(さんみ)、こちらの等は四位。
参議に抜擢されても三位と四位とでは呼称を書き分ける事になっていました。
ややこしいが、それが慣例。大事なポイントです。
三位以上の者は姓朝臣名・・つまり、例、小野の朝臣篁。
四位の者は姓名朝臣・・・つまり、例、源等の朝臣。
・・・・と呼ぶナラワシ・・・・・。

官職位階については、なかなか細かくて
後の世からするとただややこしいだけですが、
当時、本人と関係者にとっては重大。
誤った呼称は、大いに礼を欠くことになるので、
・・・・・形は違えど・・・今もそれは同じ・・・


現在でも例えば政治家なら、政界引退した大臣経験者を、元某大臣の某・・と呼んだり、お相撲さんが引退すると、現役時代の最高位・・元大関某・・・と呼んだりするのと同様、三位とか四位とかご本人の現役時代の最高位で尊称して差し上げるのも当然の礼儀でありました。

太政大臣左大臣・・・等の権官から、昇殿を許されない末端の者まで、官職は実に多彩で多数あり、その位、職責のなかでそれぞれが活躍したのは今も昔も変わらないのです。

古来、日本国民は押し並べてこれスベカラク
・・・陛下の臣民。
先祖の先祖のまた先祖様を辿れば、ことごとく
・・みな天皇家に通じているのが日本人ですから。




posted by 絵師天山 at 15:00| Comment(0) | 百人一首

2014年11月13日

魅惑の百人一首 38


【右近】 (うこん)

 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

   わすらるるみをばおもわずちかいてしひとのいのちのおしくもあるかな





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この歌にゾォゾォーっとする男性は思い人にゾッコン愛された経験があるはず。

あるいは、源氏物語に登場する六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)を想起した人は、かなりの源氏オタク。
正しくモノノあはれを知る人です。


忘れられてしまう辛さは何でもないけれど、私を忘れないと誓ったあなたに天罰が降って万一の事が無ければ良いけど・・・・・・・・・・!
なんて言われたら男性はもう縮み上がって生きた心地もしない?
この女から離れようなんてこれっぽっちも思えなくなる強烈さです。


情の深さゆえの嘆きをこんな形でぶつけられたら・・・・?

右近は、右近衛少将(うこんえのしょうしょう)藤原季縄(すえなわ)の女(むすめ)であり、醍醐天皇中宮穏子(だいごてんのうちゅうぐうおんし)の女房。上流貴紳らと恋を重ね、この歌は権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)=後出、に贈った歌であろうとされています。

敦忠は藤原時平の三男、母は在原業平の孫に当たり、三十六歌仙のひとり、才芸に優れ、評判の美貌の持ち主であった・・・とされています。イケメンはつらい・・・・

【大和物語】(伊勢物語に似た代表的な和歌物語)には
男の忘れじとよろずのことをかけて誓ひけれど、忘れけるのちにいひやりける
として、この和歌が見える・・・が、その返しは“えきかず”とあり、縮み上がった男性は返事もままならず・・・・返し歌どころではなかった・・・・!?

作者自身も共に誓ったのである。との説もあって、その場合は、
いずれ捨てられるわが身のことなど考えもしないで神に誓ったけれど、一緒に誓ったあの方は心変わりの報いを受けないのかしら・・・? と、幾分強さは減じる、ものの・・・かえって、後からしみじみと恐ろしさがジワジワ・・・私は貴方から捨てられるという神罰をもう受けているけれど、貴方の方は??罰があたって・・・死んでおしまい!!!!・・・・


中宮様の女房として数々の恋愛遍歴を重ねた複雑な女心を巧みに表現したのでありましょう。
後出、敦忠の詠
あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物をおもはざりけり”は、
いったい誰に対しての歌だったのか・・・・

そして、右近の真情は如何に!!!


posted by 絵師天山 at 14:00| Comment(0) | 百人一首

2014年11月12日

魅惑の百人一首 37


【文屋朝康】 (ぶんやのあさやす)

 白露に風の吹きしく秋の野は貫きとめぬ玉ぞ散りける

   しらつゆにかぜのふきしきあきののはつらぬきとめぬたまぞちりける




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首輪の玉がちぎれ飛んだ? みたいなのかな??

秋草の葉に散りばめられた水玉=白露が、
秋風に吹かれて散りゆく有様を、
宝石が飛び散る如くに見立てたこの作者は文屋朝康。
康秀の御子息です。

文屋康秀は
吹くからに秋の草木のいをるればむべ山風をあらしといふらむ
の作者でしたね。


山に風で嵐・・・と言った父に対して、
白露を“貫き止めぬ玉”に見立てたのが息子、
双方ともに秋をオシャレに愛でているので、・・・
歌人としての筋金入りなるサービス精神を感じさせますね。

秋草の繊細華麗なる美は誰の心にも既に強く印象されており、いわば誰にも共通した美しさ。
そこへ、真珠の玉を散りばめたら! もう誰しもウットリ・・・ですから・・
“貫き止めぬ玉”と言いおおせたのはやはりプロの匠の技。
耽美の極致、!!


有名歌人として名うての技を引っさげ、数多の歌合(うたあわせ)で大評判だったのは確かです。

“吹きしく”・・・・は吹き頻く・・・でしきりに吹くと言う意味。
水玉がこぼれてキラキラと秋野を飾る為には風による動きが・・
静止していない水玉の輝き・・が、視覚的に必要なのですね。


しかし、白露を玉と見立て、糸に貫くという趣向は当時類型的表現であり、結構似たような和歌ものこされて、
初見は誰でもが感激してしまいますが、類型も多いので、少々べタ?な感じも否めない・・・。

本歌取りも本歌に優る場合もあり、そうでないこともあり、優劣を決め難いこともあり・・
何れにせよ、類型そのものをも楽しんでしまう、という醍醐味さえあるのですから、ベタであろうとなかろうと和歌というものの深さはこのあたりにも表れていると言うべきでありましょう。



posted by 絵師天山 at 14:00| Comment(2) | 百人一首

2014年11月11日

魅惑の百人一首 36


【清原深養父】 (きよはらのふかやぶ)


 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいずこ(く)に月宿るらむ

   なつのよはまだよいながらあけぬるをくものいずこ(く)につきやどるらん





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才女、清小納言の曽祖父(ひいおじい)さま。
ひ孫の名声に隠れてますけれど・・・


この作者清原深養父は、
月はいったいどこへ行っちゃった? と、
夏の夜がすぐに明けてしまい、出ていた筈の月がどこかへ消えてしまった、
のを、驚き、嘆じた、のでありましょう。


月に見とれつつ夜更かしし、わずかにまどろんでいる間に白み始め、いつの間にか月の姿も失せてしまった・・・

前書に
月のおもしろかりける夜、あかつきかたによめる」、とあり
観月の余韻が残っているのに明るくなって消えてしまったあの月は
いったいどのあたりに宿っているのかしら・・・・?! と、
まるで思い人が不意に消えてしまったかの様に詠嘆しているのですね。

名月と言えば中秋。
しかし秋の月ばかりではなく、つい夜更かししてしまう夏の夜、
まだ宵の内と思っている間に、登り入る月は行くへも定まらぬうち
空の方が白けて見えなくなる。
そんな儚い美しさですよ・・・・と表現した感性は
見事というしかありません。


清小納言の明快なる審美的断定のルーツは
このあたりからの遺伝?でしょうか・・・


清原深養父の恋歌には
虫のごとこゑにたててはなかねども涙のみこそ下にながるれ
とか・・・
今ははや恋ひ死なましをあひ見むとたのめしことぞ命なりける
などがあり、かなりの純情ぶり。
感傷的で、おセンチ・・・
繊細なガラスの神経だったのかも? ・・・
でなければ “雲のいずこに月やどるらむ” などと
名唱し得ないのかもしれません。





posted by 絵師天山 at 14:00| Comment(0) | 百人一首

2014年11月10日

魅惑の百人一首 35


【紀貫之】 (きのつらゆき)

 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける

   ひとはいさこころもしらずふるさとは花ぞむかしのかににおいける





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之れを貫く・・・貫之、
・・と言う、非常に強い意味のお名前。
御存じ古今集の撰者で仮名序の筆者、古典文学の大御所みたいな御方です。
勿論三十六歌仙のお一人。
勅撰集への入集はなんと四百首を越え、和歌の効用、その徳にまで言及出来る数少ない歌人であると言えましょう。


「やまとうたは人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける・・・・」

・・に始まるかの有名な古今集仮名序は、時代を超えた普遍の真理に溢れています。

この作品は古今集春の部にあり、前書には
「初瀬に詣づるごとにやどりける人の家に、ひさしくやどらで、ほどへてのちにいたりければ、かの家のあるじ“かくさだかになむやどりはある”と、いひだして侍りければ、そこにたてりける梅の花ををりてよめる」・・・とあり
作者貫之が大和の長谷寺に参詣した折、馴染みの宿の女主人が、
“これこの通り宿はちゃんとありますのに”と、
疎遠を当てこすって寄こしたのに対して
折り取った梅花一枝を添えて当意即妙の挨拶を返すのですね・・


「人はいさ心も知らず」・・・
人の心はさあ、どうであろうか?と、・・
軽くいなして、私の懐かしい処はあなたの処で
他に寄る所など有る筈はありませんし、
あなたの色香さえ以前のままでしょう・・・と
さりげなくトボケてみせたのです。

梅花が添えられたこの歌が届けられる・・・


女主人の喜びようが目に浮かぶほどであります。




posted by 絵師天山 at 13:00| Comment(4) | 百人一首