2015年09月28日

魅惑の百人一首 87  寂蓮法師(じゃくれんほうし)


 【寂蓮法師】 (じゃくれんほうし)

村雨の露も未だ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

   むらさめのつゆもまだひぬまきのはにきりたちのぼるあきのゆうぐれ





           jyakuren.jpg
            天山書画





「村雨」は、時々思い出したように烈しくふり、
止んではまた降る様な雨、のこと。

「まき」は、真木、で、
特定の樹木ではなく、立派な木、の意味。

秋の長雨なのでしょうか?
ウエットな雰囲気に溢れています。


寂蓮法師は、俊成の兄弟、俊海の子で
俊成の養子となって、中務少輔に至った後に出家。
本名藤原定長、修行行脚の生活をしながら
御子左家の歌人として活躍。
国宝源氏物語絵巻の詞書筆者の一人としても知られています。書も上手かった!
私は、この人の書が大好き!!


この歌の臨場感はその場に立って始めて得られるモノ、
題詠とは思われず、
深い山中を行くことに慣れた旅の歌人であった事を思わせ、
後に有名となる三夕の歌の

淋しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ

よりも、若干明るい印象があります。
同じ真木が使われてますネ。
物言わぬ森の風情が好きだったのかも知れません。


建仁元年二月に催された≪老若五十首歌合≫
老、には、忠良、慈円、定家、家隆、そして寂蓮。
対する若、には、後鳥羽院、良経、宮内卿、越前、雅経。
各五名、いずれも当代一流の豪華メンバーが揃って、
春夏秋冬、雑、の五題を
一人10首ずつ、計50首、50番として行われた折に
寂蓮のこの歌が生まれたのです。


この年は続いて千五百番歌合の百首詠進があり
和歌所が設けられ、新古今和歌集撰集の院宣が下る、等
新風への機運盛り上がる年でした。
次の年、寂蓮はこの世の人ではなくなりましたので
最晩年の円熟作品と言えるでしょう。


和歌文化最盛期に合わせるように円熟の境地に達したのは
大変幸せなことだったのではないでしょうか。









posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月27日

魅惑の百人一首 86     西行法師


【西行法師】 (さいぎょうほうし)

なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

   なげけとてつきやはものをおもはするかこちがおなるわがなみだかな






          saigyou.jpg
           天山書画





いよいよ、真打
重鎮の中の重鎮、西行の登場です!

およそ今日まで、この人の右に出る歌人はいったい幾人いるでしょうか?
あるいはこの方が最高峰ではないか?
とさえ思われるのですが、
日本画界に於ける春草みたいな・・・
江戸時代に突出したかの松尾芭蕉の名声に隠れがちなのは、
現代にありがちなねつ造歴史教育の賜物と言えましょうか、
芭蕉は和歌から転じてさらに突き詰めた俳句を切り拓いた
と、仰がれておりますけれども、実は
西行への思慕が高ずる余り、みちのくへの旅に出かけ
西行の足跡を辿ることで和歌では到底及ばないが故に
俳句という形を変えた自己表現をせざるを得なかった
とも言えましょう。
西行にとって和歌は命そのもの。
作歌の為に行脚した芭蕉とは根本が違うのであります。


後鳥羽院の御口伝には西行の歌の姿を
“おもしろくしかも心もことに深く、ありがたくいできがたきかたも共にあひかねて見ゆ生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人まねびなどすべき歌にあらず不可説言の上手也”
と、絶賛。新古今集にはダントツ最高の九十四首撰集!!
心ある人は誰でもその中の一首くらいはソランジル事が出来るまでに深く心に刻まれている歌ばかりであります。


「かこち顔」は、託(たく)す。
に、託(かこ)つけがましい、と云う意味を含ませた、
カコツケテ・・
口実にして ・ 利用して ・・・。
つまり、月は無心にただ照らしているだけなのに、
物思ひにふける私は月にカコツケテ未練な涙を流しております・・・
と言った意味なのでありましょう。


前書きには「恋といへる心をよめる」とあり、
題詠であるようですが、
単なる恋愛の歌とばかりも受け取れず
恋人を慕うというより
人間そのものへの愛着を詠んだ様に思われ・・
例え題詠としても物凄く深いあはれを感じさせられるのです。



世の中よ道こそなけれ思ひ入る山のおくにも鹿ぞ鳴くなる

定家は父俊成のこの歌(前出)と、この西行の歌

なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

とを対にして百人秀歌を編んだのですが、
その心、本当の意味は、
崇徳院の悲劇を真剣に受け止め共有し合った者同志!
と言う思いが底流に隠されていたと見るべきでありましょう。

何不足ない選ばれた出自であり、
エリートであった西行は23歳で出家、
幼い子供も家庭も捨て
隠者となってしまう訳ですから、
そこには余程の事情があるに違いありません。

当時旺盛な活動を繰り広げていた歌壇との交わりも浅く
独り自然を愛でながら、世を捨てても、人としての情を捨てきれぬ処に生ずる複雑なる感情を自由で大胆に詠みあげた数多の絶唱は、今なお私たちを心から楽しませてくれる訳です。孤高の魂とでも言えましょうか、頂点に立つ人にしか分からない境地であったことは確かです。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月26日

魅惑の百人一首 85     俊惠法師 (しゅんえほうし)


 【俊惠法師】 (しゅんえほうし)

夜もすがら物思ふ頃は明けやらで閨の隙さへつれなかりけり

   よもすがらものおもうころはあけやらでねやのひまさえつれなかりけり






           syunne.jpg
            天山書画





坊さんなのに恋の歌???!!

思いが届かず悶々として朝を待つナマグサ坊主か?

いえいえ、これは題詠。
「恋の歌として詠める」と、前書があります。

恋する女性になり替わってその心を詠ったもの・・
恋人の連れなさを恨んで眠れずなかなか朝は来ない、
寝返りを何度も打ちながら、悩ましく朝を待つ・・・
陽の射さない戸の隙間さえツレナイわー・・・


この俊惠法師(しゅんえほうし)は、源俊頼の子、源俊頼は
憂かりける人をはつせの山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを
の作者でしたね。・・・
父譲りで和歌の道に優れ、しかも超熱心。
歌会など盛んに催して、そのメンバーも豪華!

前回の清輔、源三位頼政、二条院讃岐・・・
平安末期並みいる歌人集団のまとめ役でありました。
独り寝の侘びしさを「閨の隙さへ」と詠んだ処は妖艶。

鴨長明(『方丈記』の作者ですね)の師匠でもあった、
と聞けば単なる生臭坊主である筈はなく・・・・
寝室の戸ビラの隙間がツレナイ!
などと、そう簡単に詠めるものではなく、
涙の別れでドアノブが冷たい・・・みたいな
もののあはれここに極まる!!
それはそれは非凡なる大天才なのであります!


和歌文学も平安末期ともなれば
超がつくほどの熟成をみせ
万葉集の豪快な作風・・・
素朴明快なる感情表現すらも
円熟の技巧によって創り出してしまえる?
・・・・ような名人が続出するのです。


題詠はもちろん、代詠も見事にこなし、
見てきた様な嘘も三十一文字に留め得る力量が
当たり前に・・


国風文化ここに極まるのが平安後期の歌人群、
俊惠法師はそのまとめ役の一人であり、
平安和歌世界の重鎮と言って良いでしょう。






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月25日

魅惑の百人一首 84     藤原清輔朝臣(ふじわらきよすけあそん)


【藤原清輔朝臣】(ふじわらきよすけあそん)

永らえばまたこの頃や忍ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

   ながらえばまたこのころやしのばれんうしとみしよぞいまはこいしき





           kiyosuke.jpg
            天山書画(ピンぼけご容赦下さい)





崇徳院の院宣によって詩歌集を撰集した左京大夫顕輔
前出の・・・・
秋風にたなびく雲の絶間よりもれ出づる月のかげのさやけさ
の作者でしたね、・・・・・
藤原俊成、定家、親子の
≪御子左家≫に対抗する≪六条家≫歌学は、
この左京大夫顕輔と、その息子。
今回の清輔とがその中心的存在でありました。



が、コチラの親子は仲たがいしがち、
父顕輔が少々次子清輔を疎んじていたらしく、
父の撰集した勅撰和歌集である詩歌集には採用されず終い。
さらにその頃 保元平治の乱の不穏なる時代相でもあり、
清輔は、正にこの歌の様な心境であったかも・・・・?

昔、心を痛めた事柄も、今になってみれば懐かしくさえ感じる・・・もの、
だから老いの先になれば、今のこの憂欝も懐かしく思える日が来るのでしょうかねえ・・・・


内心の深い嘆き、沈みがちな心を、精一杯三十一文字に託し、晴らそうとした秀歌だと思います。これまた和歌の徳と言えそうです。

  

清輔は二条天皇の下で続詩歌集を撰定していたものの
天皇の崩御によって、この勅撰和歌集事業は頓挫。
父よりもあるいは、秀でていたかも知れないその才能は
公に認められるところまでは行かなかった訳で、
自他共にそれが残念だったのでしょうか?


でも、この歌一つ取り上げても清輔の力量は抜きん出たものであった事は明らか。

新古今集にも撰ばれ、勿論この百人一首にも採られ、
長い長い和歌歴史の中でも、
欠かすことのできない歌詠みであるとされて来たのです。


ネガティヴをポジティヴへ転換するという人生に於ける大切な、無くてはならぬ心の営みをサラリと言ってのけたところに名歌たる所以があります。
心が折れそうな時は大いに励ましてくれる歌ですね。






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月24日

生誕100年記念 今野忠一展

秋たけなわの山形県天童市では
今野忠一生誕100年記念展が開催されています
亡くなられてからおよそ10年
師匠と仰ぎ27年、
あわせて37年、これまでずっと・・・
常に指標とし、先生に照準を合わせて研鑽してきました。
外面的な“求めるモノ”は違っていますが
大和絵の真髄を求める心は同じ。
先生の様に・・・・
日本画でなければ表現し尽くせない世界に
何とかして辿りつきたい思いです。


   


        忠一100.jpg






【反性の結合】
これこそが、日本画の日本的造形方法の核
大和絵の神髄であります。





          IMG_9630.JPG

           宿鳥





          IMG_9614.JPG

           老樹





          IMG_9622.JPG

           源々





          IMG_9597.JPG

           月山





          IMG_9677.JPG

           北嶂残雪





          IMG_9673.JPG

           早春の響






山形県天童市 市立天童美術館
9月18日〜10月18日
生誕100年記念今野忠一展



今野忠一(1915年〜2006年)は
山岳画家というジャンルを切り開き、
日本の名山を描き続けました。
忠一が活躍した時代は、戦後の日本画改革期と重なり、
日本画の形状が大型化し、
厚塗り、西洋絵画表現の導入がおこなわれた時代でもありました。
この変動期の日本画の世界で、暗色を取り入れながら、
陰影法や遠近法をなるべく使わないように試みました。
この試みによって日本画の要素を失わないギリギリの表現を確立し、
日本画改革の旗手のひとりとして活躍しました。
忠一は風景をとおし、人間と自然との対話を主題とした数々の名作を生みだし後、
日本の名山を描きました。さらに最晩年は実景から入った心象風景を描き、心の山河を表現しました。
2015年は忠一の生誕100年という節目の年になります。
この機会に代表作を展示公開し、その功績を顕彰します。


      案内パンフレットより・・・・









posted by 絵師天山 at 12:09| Comment(0) | 日本画の真髄

2015年09月16日

院展100年


院展100年記念に私からも一言
しかし、それは既にお二人の大先輩が
言い尽くしているのと同じ、
ただ、当時の言語表現では現代人は分かりにくく
現代語訳しなければ通じないことを
残念に思いつつ、
この一文を再び提示致します。









菱田春草、横山大観 連名による

【絵画について】   (現代語訳)


私ども先頃来、
インド米欧巡遊の折には長くご無沙汰致しましたこと、お詫び申し上げます。
帰朝しまして早々、日露戦争大勝利に連れて今後美術界も又、いよいよ数多の希望が満たされる時代となるかと存じております。そのような折、皆様具賢の方々より私共の将来の展望についてお尋ね下さり、感謝いたしている次第ですが、この際、意のあるところをいささか改めて述べさせていただき、もってお導きをお願いするものであります。

私共の外遊がどのようであったかというご質問を多く頂いておりますが、基本的にはすべて以前より考えていた事と大差はなくむしろ、色々見聞するにつれ、従来の覚悟をさらに徹底追及してゆこう、という決意を改めて固めたに過ぎません。

およそ芸術というものは作者の人格による表現でありますから、技術は単なる表現の手段であろうかと思います。従って、内面的修養充実を心掛けておれば、表現の手段方法はそれぞれに任せられるべき事でありましょう。

私共の様な至らぬ者でも、この道を歩むと決めた以上は自分なりの理想を自分なりの方法によって表現することでそこに自ずから流れ出たものが認められるようになりたいものと存じております。

このように考えると、東西の画風、流派、様式などが人文思潮の流れに応じて変転進化しつつ極まることなき永続性こそ芸術そのものであると言わねばなりません。

筆を取って画面に向かえば大和民族固有の趣味が期せずして自然に流れ出して来るという、それこそがいわゆる日本画でありまして材料や、技術の動向によって東西を区分けする事に意味はありません。

従って、私共は“真正の絵画探究”をするにあたって、自己の中から湧きだして来るもののみを描き出す以外に方法のないことを改めて思うのであります。

よくよく国内近頃の傾向を見ると、ただ写実を奨励してそれによって旧来の型にはまった画流の欠点を補おうとするのは、一応の応急処置ではあるけれども、だからと言って、写実派などというものの存在が必要だとは思われません。

もし写実が芸術の究極であるとすると、そもそも自然そのものが大芸術でありますから人間の行うちっぽけな芸術は無用である、とさえ言えるでありましょう。

考えて見れば自然そのままでない処を目指すことが芸術でありますから、“自然以上”を求めなくて芸術に何の意味がありましょうか。

そもそも絵画は、推量し想像させるようにもってゆくことに意味があるのでありますから、“しんしんと降る雪の音”を表現するに露骨な写実をしたところで遠く及ばないことは明らかでありまして、単なる写実で表現出来るものには自ずから限度があるのです。

しかし東洋では古くから写実も行われて参りました。ただし、それは眼に依るも、心象を活かす、という写実方法でありまして、浅薄な洋画家流の者が上辺の形だけ捉えようと苦心するのは、つまらぬ囚われでしかありません。

近頃流行りの写生なるものは教える側も習う側も、モデルに向かう好奇心に浮かれているだけであって不完全な設備、方法もさることながらそのいい加減な描写の態度は、本来の洋画家に対して失礼の極みと申せましょう。

一方で写実派があるならば、対する理想派が必要かと言うとそういうものでもなく、絵画の入口は写実ではあるけれども、目標は理想の実現であるのですから、写実派と理想派に分けるべきではありません。故に写実派に対しての観念派ないし理想派といった区分けは、主題上のものについてであって、制作上の表現についてではないのです。
あえて写実派に対するものを求めるとすれば、それは却って形式化を招くこととなり類型化に陥るのでありまして、写実のみに囚われる愚、と全く同じ誤りと言えましょう。

よくよく国内作家の風潮を見ると、日々に追われて、形式に堕し、新しき創意なく、ただ左右の者達としのぎを削り合い、ドングリの背比べをする事のみに終始しているのは誠に情けない有様であります。

近年欧米で典型派と情熱派とが相互にしのぎを削っているその側面には、描法に於ける印象派、色彩派などの新技術と主題に於ける比喩派、表象派、他の新思想とが双方現れて来たことが影響しているのでありまして、詰まる所描法と主題との一軽一重により生まれる変化のあらわれ、に過ぎないのでありましょう。

考えて見れば主題というものは、ほぼ、どのような種類の芸術にも共有されるものですが、手法はそれぞれの特異なものであって当然、絵画には絵画たる手法があるのでありますから、画道の研究の中で、ある特殊なる描法を主張することもこれ又当然有り得べきことでありましょう。

私共は既にこの研究を通して今後はいよいよ色彩研究を深めて参ろうとするものですが、それはあくまでも私共独自の色彩研究でありまして、かつての光琳やドラクロワの亜流でないことは勿論で前人の用いて来た輪郭を省略し無線に成しもっぱら色彩によって形成してゆくやり方をご覧になって、これを東洋画ではないとし、もっとひどいのになると、朦朧体と誹謗する人さえあるのですが・・。
さりながら、造形美術の起源よりすれば絵画と彫刻が区別されたのはそう古いことではなく、双方とも輪郭線によって成り立ってきたものであります。そしてそれらが美術と呼称されるようになると、絵画は明暗、濃淡よりも色彩的に志向し彫刻はレリーフから立体へと志向して行きます。

即ち色と形、双方に大きな志向の差が産まれてくるのは必然で絵に於いては書画一致の範囲から離れて
色彩によって絵として自立してゆくことになるのは、音楽がその音調によって音楽らしくなってゆくのと同じことと言えましょう。

加えて彫刻は塑像が現れるようになって以後、写実性を深めてきた今日であり、なお絵画だけが線描に留まって、彫刻の形式から出ないと言う事は実に心細い限りであります。

そもそも【線】なるものは“説明して理解してもらう為のもの”であって線による絵画のまどろっこしさは、文字ではないか、と言いたくなる程で、それに反し色彩はもっぱら直覚に訴うるものでありますから、彩画こそ、われを忘れる様な快味を与える為の近道と言えるでありましょう。文学ではなく音楽でもなく彫刻建築でもない絵画の絵画たる所以は色にあると言わねばなりません。

歴史的に見ても我が国にの残されている上代古典作品には、色線による描法の発達がありました。
古画の剥落した痕を調べて見れば下描きの線と言うのは色彩の境界を示すだけで、その上から重ね塗りして描出した後、更に色彩線によって輪郭を描き起こすという工程が加わるのです。これはその当時さえも、色彩が主であって、描線が従であった事の証であります。

我が国は古来より既に色彩を主とした域に達していたのであります。

これを考えてみれば、色彩を主用した絵画が邦画の特性を失う、と言う非難は当たらない、誤りであることは勿論、むしろある意味でつまらぬ縛り、となるものであり、この故に昔人は色線を用いて後の世の無線描法の為のステップを既に踏んでいてくれたものと思うのです。

又、他方、没骨描法と言うものが現れ、あらゆる表現手段の一部となって来ましたので、これを色彩をもって表す【色的没骨】に敷衍すればさらなる新段階が生ずるものと思われます。

シナの昔人が既に言っている様に“墨に五彩あり”とは、筆墨中に色彩を望もうとする意味で、単に文人画に止まらず雪舟の写し取る大自然の世界に於いてもこの考え方が含まれていることを知らねばなりません。

色彩を塗るのではなく描くのである。
という言葉の中に既に色彩的没骨法が胚胎しているのであります。輪郭と色彩とは不可分と言う意味でもありましょう。

今日の日本画家は今なお、輪郭線を主用し色は補用している有様ですから、言ってみれば有限をもって無限を表そうとし塗り合わせた色と色とを繋ぐ為に線を利用しているに過ぎないのであって、こんなものは明らかに自己満足の類に他なりません。

この様な処へ色彩の没骨による色彩的主用を志向するのは当然であって、あらゆる見地からしても必須の事と思われます。しかし世人は良く“東洋画の精華は筆墨にある”、と言い、“筆墨なき絵画は日本画ではない”、と言い、私共の主張と相容れない方も多いのですが、これは美術史ということを考えずただ骨董家の視点にとどまっているだけなのです。

我が国古代、上代、に於いて既に色線による絵画が一つの理想画として遺されているのに、中世、宋代禅画の輸入により一時筆力墨色の発達を見たのは、むしろ鎌倉武士の素朴さと、東山茶人の侘び寂びに同調した一種の変調と言えるものであって、日本固有の特色とは言えません。

加えて、描線と言うものが雪舟以降既に、狩野派の極めたものである以上、有限である線をもって無限を表すのは無理というもの、であり、行き詰まるのが当然であります。

日本文化の特色と言うのは、外国からの影響を廃して独自の文化が養成された時代の所産であって、藤原時代の雄麗さ、元禄時代の婉麗さ、この両時期のみに見られるものであります。 
もっとも藤原時代末期に鳥羽僧正の様な筆力軽妙の逸材も現れてはいますが、この時代の特色はあの源氏物語の様な着色豊富の制作群にあるのです。
その後、足利時代に抑えつけられた国風文化は桃山の豪華さを生み、次に、狩野、土佐、が現れたほか、文人派、写生派現れ、梅花桃李一時に渙発するように反動発達します。

中でも光琳による色彩印象派は空前絶後なる光彩を放っているのであります。ともすれば光琳を日本の南画であると言った評や、豪奢な装飾性のみに光琳らしさを求めるなどの評もありますが本当は主線画の中から古代の色線描法をを取り入れて千年の後に色的没骨を蘇らせた処に光琳の真価があるのであります。

不幸にしてそれを繋ぐものは出ませんでした。抱一独りがそれを継承せんとしましたが、写実派の影響が色濃く残り真価を受け継ぐまでには至らず、ましてその後は語るべき程の者が現れませんでした。
しかし例え光琳がいかなる大天才であろうとも今日20世紀よりすればなお、更なる進歩があるべきはずである、と私共は確信しているのであります。

我が国の絵画が諸外国に優先して遥かに高い印象派色彩派を有してきた事実を忘れ、軽々しくも、ラスキン一派の唱導に驚いたりターナーやドラクロアを称賛し、曳いては、ウィスラーにも劣るかの様な意識しか持たない者が居るばかりではなく、宗達、光琳による色彩的印象派すら洋画の模倣なりと成すような手あいが居ることは全く笑うべき愚かさであり、東西美術史の対比すら学んでいないわけであります。

私共の意図はただただ、絵画の大成にあるのでありまして、日本画の特徴のみを云々して満足することではなく、大和民族として生をいただいている以上は、風土による感化は自明のことであり、到らざる身ではありますが、画家として世に立つ以上は自分なりに独自の道を歩もうと存じ、外国の真似をするなどは深く恥ずる処であります。

全く今日、誰が真剣に絵画というものを研究しているでしょうか。いったい何人が胸奥に情熱をほとばしらせて独自の手法を志しているでしょうか。殆どの者は表面の図様を写すだけ、でしかありますまい。
元明時代の衣装に現代の色彩を塗りこめ、狩野派風の富士山を描いた横に円山派の雁の群を描き入れ、これこれの図・・などと、自称しているのも実に厚かましいばかりであります。
又、団体を組んで、何々研究などと自称している者も多くおりますが、ただ権力権勢を得んがために徒党を組んでいるだけのこと、でありましょう。昔から天才は各分野にわたってその才を示すもので、同一人が絵画彫刻建築、ないし、音楽文学に通じ、更には、科学工業政治等々にさえ渉れる者がおりますが、この研究は大天才にして初めて大成功を納めうるものですから、私共不肖の者があえて行おうとするも、無謀でありますが、如何せん時勢と境遇とに駆り立てられ、止むなく邁進する決意をいたしておるところでございます。

それ故、私共の生涯すべて修養中であり、自ら後を危うくすることは出来ない故に、門弟を養うことも叶いません。
然るに、何ということか、少し研究考察を深めた作品は、鑑賞者の目には止まらず偶々良し、とされる作品は殆ど全て、模擬踏襲のものばかり。否、むしろ従来作そのままを複製した様な作品でなければ良く認められない故に、今日いわゆる大家たる者も、それを肯定し、認められにくい追及をする愚を犯さず、ただ古人従来の模倣を平然とし、少々気鋭と自認し東西を参酌したと自称する者もその目的は観者への迎合である場合が殆どであります。

たとえ処世の為とは言え、軽薄姑息であることは免れず、とても百年の計、とは申せません。この様な時、私共が微力を尽くさんと、自ら危地へ志向するのは、止み難き覚悟の故であります。
この企図の成否は世の鑑賞者の何如に依っており、それ故に私共制作者の企図を今一度深くお考えくださいますよう。何となれば、僅かなる識者をのぞけば大多数の鑑賞者は所有作品の値上りを待つのみ、でありまして、その作品に対する一片の愛着すら持たない場合が殆どであるからです。

しかし、これはただ鑑賞者の罪ではなく、作家の側もその殆どが趣意もなければ自信もなく、金を儲けて豪邸に美人を住まわせることが終生の目標と言うような浅ましい境涯を出でないからでありまして、このようにして活ける芸術は死んだ調度品となり下がり、絵画を装飾と決めつけ、建築の部品と成す、という習慣に浸りきってしまうのであります。

芸術の自由は全くなくなり、悪戯に床の間の形に左右され、香炉花瓶の実用品と同じものとされ、茶道具扱いされて素晴らしい世界観、宇宙観をも見事に打ち消されてしまう訳で、こうなると、何をかいわんや、研究も進歩も今更全く無用の長物と言えましょう。

識者が言っている通り、探幽出でて狩野派衰え、光起ありて土佐派亡ぶる、が如き流弊の極みは、バルビゾン派の反動となり、ラファエル前派の勃興もこれまた自然の理と言えましょう。
このような一大危機に際し、専心研究し、ただ前途の開拓をもって自己の慰安とする私共の覚悟の程、上記の通りです。

幸いにも大方のご高察をいただくことが叶うならば、私共の素志も、ほぼ貫徹出来るチャンスもあろうかと思いますが、もし、不幸にして今生にてどなたにも御賛同頂けぬ時は、百年の後を期する他ありません。

私共は、徒に空論を述べようとするのではありません、作家としての手腕は実技にあり、その経験を重ねることが必須でありますから、ただただ多くの作品を制作して沢山のご批判の機会に恵まれれば、私共の趣意は自ずから明らかにされてゆくでありましょう。

不慣れにも言葉を弄したところでその意を十分には言い尽くせませんが大要は御理解いただけるのではないかと存じます。
乱筆乱文、ご容赦いただきますよう。 

 明治三十八年一二月 日本美術院 

     菱田春草 横山大観

             





この時から百有余年、展覧会は100回を迎えても
現実には院展が本来の姿から遠く離れてしまっているのは実に残念であります。

               







posted by 絵師天山 at 03:46| Comment(0) | 院展

2015年09月10日

理想美術館 11    円山応挙作 金刀比羅宮襖絵


良く知られた 【讃岐の金比羅山】

正確に言えば、香川県仲多度郡琴平山中腹の広大な神域に多数の社殿、堂宇、書院、楼門、鳥居、などを構え、年間に400万人もの参拝者が訪れる、日本を代表する神社の一つ、金刀比羅宮。

その表書院と奥書院の襖、床の間の壁、等に描かれた円山応挙の大作品群は、応挙の代表作の一つである事は無論、
書院空間の美 ここに極まる 絶品。


今を去る7,8年前、かの東京芸大の美術館で開催された金刀比羅宮書院の美展は、現場を再現し演出して見せると言う御馳走展示。書院の中に入り込んませてもらえる様な感覚に捉えられる展示方法が話題になりました。

各地を巡回の後、確か、フランス ギメ東洋美術館にもはるばる出かけ・・・
応挙だけではなく、現代人に大受けの若冲、岸岱、の障壁画も加わっておりましたので、さらに話題に


            


            oukyo1.jpg
             表書院 山水の間




            oukyo3.jpg
             同、拡大図



            oukyo2.jpg
             山水の間 西南角から







この書院は、勿論庭園が付属しており、
結構と相まって、神域の一部として清楚なる威容をかもしだしていますが、その庭園には
泉水が施されていて、この応挙の手に成る、障壁画の谷川と呼応するかのごとく配置されていおり、
奥書院内に佇めば、大床に描かれた大瀧から水が流れ出し、左手への奔流を、伝って視点移動してゆくと、
その先には障子越しの本物の泉水が水音を立てて流れている・・・という仕掛け。


スバラシイ意匠です。
ずいぶん時代を超えてきたので老朽化は否めないが、古色が加わったとも言えるので、気心の知れた小人数で散策出来れば、それは記憶に残る床しい時間を過ごすことが出来るでしょう。


美術という熟語は明治時代に出来たらしいのですが、
美術館と称して、“コレノどこが美しいの??” とハナハダ疑問が湧きに沸くおかしな施設が目白押しの今日、
老若男女、時代国籍を問わず、普遍なる美しさを十二分に湛え、少なくとも美術と言うに相応しい列品を揃えてさらにその美を増幅してしまう仕掛けをも誂えるのは、むしろ、日本人の美意識として当然ではないかと、私は思うのです。


コケオドシ、や、およそ美とは縁遠い仕掛けで脅かすのみ。
騙されるのは、始めだけ、・・・・二度と誰も来ない様なシロモノを
美術と言うな! 美術館と名乗るな!!・・・と。言わせていただきましょう。


ついでに、絵を描きたい側へも、(自嘲も含めて)
自分だけに通用する価値観で済ますな!
ただの独りよがりを美術と言うな! 
その程度で、絵を描いてます私・・・
などと言いたもうな!!
単なる写実、映像の乱用、自分にとって新しいだけ、
・・・・そんなのは美術ではなーーーい!!

もっと真面目にヤレ!!!


円山応挙は、
名人というものはこう言う存在である!
・・・ということを、明示した大天才でした、
しかも単に天才というだけでなしに
天才を名人の域に高め尽くした。


This is Nihonga!!

余白の美、ここに極まる名品を描き出しています。
この人に比べれば、伊藤若冲などは幼稚園児くらいのレベルなんだが、
どうしたことか昨今は、現代病とも言える空間恐怖症に陥っている人が多いらしく、余すところなく空間を埋め尽くしてある方が安心するらしい・・・・余白の美がわからなくなって久しい・・・・。



この所秋雨続きでイライラしているせいか、
人の批判がズルズル出てきます・・・・自分のことは置いといて




思わず魅せられるような、美しさで溢れているのが私の理想美術館ですから、作品群の高さも勿論だが、それを活かす仕掛けも最高級でなければなりません。この金刀比羅宮書院のように、自然の美と人口の美とを上手くマッチさせた、あまりの魅力にうっとりとしてしまう様な意匠を凝らしに凝らしたいものであります。






       oukyo4.jpg





       oukyo5.jpg





    
        oukyo9.jpg






        oukyo10.jpg





        oukyo11.jpg





        oukyo12.jpg





この襖絵群すべては、金刀比羅宮の書院にあるから素晴らしいので、
この意匠にあやかった立派な施設を整え、
環境をも生かし、そこにしか成り立ちえない美を創造した上で、
理想美術館の一部として、新たに造りあげられたら・・・・と念願しています。



もう一点、私の大好きな応挙の作品はこちら、
月に桜の図





             oukyo13.jpg





薄っすらと満月が背景に描かれているのがお分かりでしょうか???

この作品は現在、冷泉家の所有であり、
御子左家、長い伝統のほんの近代に収集したコレクションの一点。
日常の暮らしの中の応挙作品を肌で感じられる貴重な一点であります。



ついでに、若冲の書院床の花鳥図もご覧いただきましょう。





         jyakutyuu1.jpg




金箔の砂子を施した画面に、丁寧に植物図鑑の様に描かれています。
【余白の美】は、完全に無視してますね。
現代人にはこの方がウケル???









 

  





posted by 絵師天山 at 14:12| Comment(0) | 理想美術館

2015年09月08日

魅惑の百人一首 83     皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)


【皇太后宮大夫俊成】(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

   よななかよみちこそなけれおもいいるやまのおくにもしかぞなくなる





            syunnzei.jpg

             天山書画






現実逃避、ネガティブ、逃げ腰、弱気・・・!?
なんだか、心の弱った折には共感されるかも知れないけれど
少々・・女々しくないか???

いえいえ、決して。
個人的な鬱屈を披歴した歌ではなく、
ご政道の、かく行われるべき姿 からかけ離れてしまった現状を憂いての、鹿鳴に託した歌なのであります。


明治政府が西洋の文物を取り入れ、近代化のシンボルとして建設した鹿鳴館は、この歌の心を捉えての命名??
と考えるのは、深読みに過ぎるけれど、当たらずも遠からずなのではないかと、私などは感じてしまいます。


現政権担当者の非力、非道を嘆いて、今上陛下の御心痛を慮っての作でありましょう。


九十の齢を経、正に歌道の重鎮たる俊成のこの歌を、敢えて百人一首に加えた息子藤原定家の心のうちも、確かに同じ様な気配があったのであろうと思われるのです。


千載集の撰者であった訳ですが、自分のこの歌は入れなかったが、後に、後白河院の勅により入れられた。と言う後日譚も伝えられています。


崇徳院退位の前年、俊成27歳の時の作、
という前後関係から類推すれば、容易にその心は知れましょう。


親友であった西行も、この折に出家してしまうのです。
無常の心は若き俊成をも強く捉えたのでありました。

皇太后宮大夫(こうたいごうぐうだいぶ)とは、
皇太后宮の諸事を司る皇太后宮職長官のこと。

俊成が主に仕えたのは、後白河后 忻子、
(公能女、俊成の姪、藤原忻子)
六十三歳で出家し釈阿と名乗り、後白河の院宣によって千載集の撰者を勤めたのは七十四歳の時でありました。


後鳥羽院は勿論この歌を高く評価されておられます。






            
posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月07日

魅惑の百人一首 82     道因法師


 【道因法師】(どういんほうし)

思いわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

   おもいわびさてもいのちはあるものをうきにたえぬはなみだなりけり






              douin.jpg

               天山書画 




魅惑の百人一首も早82番目!
いよいよこのあたりから真打登場!!
重鎮のオンパレードです。


よくもこれ程厚みのある歌人群が揃いも揃ったり!
平安時代という国風文化の精華は誠に素晴らしいものがあります。

この歌の作者道因法師は、
元の俗名を 藤原敦頼(あつより)と言い
先に登場しました左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)の子
清輔(きよすけ)が主催した尚歯会(高齢の人が集って詩歌などで遊ぶ会)に、
満84歳で出席。さらに、91歳の時には
右大臣家の歌合に参加した、という記録もあり、
なかなかの健胆家・・・ 長寿を得たのですね。

老境に入っても、秀歌を詠ませ給え! 
と住吉様に願掛けしたり、
俊成の夢枕に立って、わが作品を撰集せよ!と迫ったり、・・・
けっこう強烈な爺様だったらしく、この歌もやや自虐的・・・
少々やっかいなネガティヴさをたたえ、
命と生理の相反する処を
若干コミカルに詠いあげています。

千載集の恋の部に入れられており
ツレナイ人を思い侘びれば、いっそのこと死んでしまいたくなるけれど
そうは言ってもなかなかおいそれとは死に切れるものでもなく・・
そのくせ、憂きことあれば涙というものは止められん・・・と
わがままにも??嘆いた・・・のであります、が、
ごもっともな話・・・・
歌道一筋に心を寄せたと伝えられる作者の志の深さは
こんな風な、しみじみとした哀感の滲みだす処?に、
現れているのかもしれません。


友達にすると面倒臭いタイプ、だが、
居なくなるとちょっと淋しくなる・・・・そんな人柄だったのではないか?と思われるのです。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月06日

院展100年


今年再興100年を迎えた院展
会場はなかなかの活気です。が・・
記念図録冒頭には東京芸大美術館准教授
古田亮先生による【再興第100回院展によせて】
が採録されており、ここに引用させていただきます。


           




・・・・明治31年に岡倉天心が創設した日本美術院は、当初は全国規模で活発な展覧会活動をおこなっていた。しかし明治36年以降は展覧会を開催して居らず、岡倉が没する大正2年には事実上休止状態にあった。
横山大観は岡倉の葬儀に際して日本美術院の再興を期し、下村観山は「親のないときは兄弟です」と言って文展審査員を辞し大観に従った。実はその時すでに、大観は洋画家の未醒と意気投合し「絵画自由研究所」設立の計画が進んでいた。二人の計画が、そのまま日本美術院の再興というかたちに方向転換したのである。
 岡倉の一周忌にあたる大正3年9月2日、大観たちは谷中に再建した研究所で開院式を行った。再興時の経営同人(画家)は、大観、観山のほか、木村武山、安田靫彦、今村紫紅、そして未醒のわずか6名だった。
この時大観は日本美術院の三則を発表した。この三則が、現在の日本美術院網領となる。


一、日本美術院ハ新日本ノ藝術樹立二益スル所
  アランガ為二、再ビソノ研究所ヲ起コス

一、日本美術院ハ藝術ノ自由研究ヲ主トス、
  故二教師ナシ先輩アリ、教習ナシ研究アリ

一、日本美術院ハ邦画ト洋画トヲ従来ノ区別ノ如ク
  分割セズ、日本彫刻ト西洋塑像トモ亦然リ



このうち最も重要なのが、
日本美術院ハ藝術ノ自由研究ヲ主トス、  
故二教師ナシ先輩アリ、教習ナシ研究アリ 
という二番目の項である。

自由研究という言葉は、大正時代に特有の時代思潮である自由主義に由来しており、当時は自由劇場、自由教育、自由恋愛、といった言葉が盛んに使われていた。一方、日本美術院が研究機関であり、より専門的で高度な研究をするインスティチュートでなければならないという、岡倉が明治三一年に日本美術院を創設した時の研究重視の理念に基づいている。

自由と研究、どちらも芸術の創造にはなくてはならないものだ、また、どちらも作家一人ひとりの創意と努力にゆえあねられるものであって、誰かから規範や型を与えられるものではない。夏休みの課題と本質的には変わらないのだ。

しかし、何を研究すべきかを自分で見つけ出すことほど、難しいことはない

同時に、再興院展100回という節目の時期にあたって今日の出品作家各自に求められていることは、院にとって、そして未来の院展にとって、初志である自由研究とは何かを考えてゆくことではないだろうか。自分達はこれからどこに向かっていくのか、新しい時代をどう生きていくのかという課題は、今、眼の前にある課題といってよい。その答えを見出すための手がかりを探ってみることにしよう。・・・・・・

 

              



・・・・・
と、書き起こし、再興第一回展の大観作品、下村観山作品、今村紫紅作品・・等々を取り出し、伝統と革新との相克が院展の歴史の骨子となって来た事に触れ、さらに、巨匠たる画人の続出がその支えとなって来たことを述べた上、はたして現在は? と思いを致す時、大観、観山、・・等々、数多の巨匠は不在であり・・異端者さえ不在で、みな様及ばぬ力量であるが故に革新よりも伝統が優先されている、・・・・・ので、しかも、その伝統なるものは・・・・甚だ頼りのない浮薄な・・・・内容でしかない、と断じています。


さらに・・・・


                ★




・・・・・では、その伝統とは何かと考えてみると、自らが生み出した院展様式、それもここ4,50年のうちに浸透した表現形式のひとつにすぎないのではないだろうか。克明な写実描写による風景、人物、動物、絵画的な強さは失われ、映像的なイメージが拡散する世界。そうした<型>は、一世代あるいは二世代前の先達たちによって創り出された新しい伝統であって、紫紅に言わせればまっさきに壊すべき伝統という事になるだろう。・・・・・・

・・・・現在、院展には巨匠も異端もいなくなった。作家、作品は平均化し、すべてが、≪院展の日本画≫で括られるようになってすでに久しい。・・・・・


・・・・グローバル化というより強大な「外」が立ちはだかるのが、今日私達が置かれている状況であろう。そのなかでアジア、日本、日本画を捉えなければならないとすれば、より強固な「道」を見出してゆくことが必要となってくることは明らかである。困難なことと言わざるを得ないが、日本美術院の画家たちが個々に「独創的な役割を演ずる」ことでしか、前途の光を見出す事はできないであろう。



              




と、結ばれており、・・・穿ち得て余暈ナシ!
誠にその通り! 
つまるところ、院展スタイルから一歩も抜け出せなくなって久しい・・・・という現状を憂いて居られるのであります。
内部でしか通用しない価値観を翳したところで・・・
社会全般に良く見られる飽和しきったつまらない組織に過ぎず・・・
しかもそのスタイルさえ
極限られたクダラン流行が元になっているだけ。

100年続いたということは、
それだけでも素晴らしいことではありますが、しかし、
その実態に気付かない者がいくら集まっても・・・
本当の価値はありません。

警鐘を鳴らして下さる先生が記念図録の冒頭を飾って
意義を正して下さったことだけは・・・・唯一の
救いであろうと思った訳です。



岡倉天心著「東洋の理想」には、こう書かれています。

・・・この派(日本美術院派)の信条によれば、
自由こそ芸術家の最大の特権である。
ただし、たえず進化し自己発展を続けて止まないと言う意味での自由である。
藝術は理想でもなければ、現実そのものでもない。
一体に模倣は、相手が自然であれ昔の巨匠であれ、
いや何よりも自分自身の模倣は、
個性の実現にとって自殺行為である。
個性とはつねに生命と人間と自然との壮大なドラマの中で、
悲劇と喜劇とを問わず、独創的な役割を演ずることをこそ喜びとするのだ。
・・・・・・・・










posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 院展

2015年09月04日

理想美術館 10  土佐光吉作 源氏物語屏風


土佐光吉画 【源氏物語屏風】

先々回のこの項では狩野探幽の源氏屏風を採り上げましたが
それに優るとも劣らない素晴らしい源氏屏風がこれ。


二人は江戸時代の絵師ですが、
土佐 光吉(とさ みつよし、1539年(天文11年) - 1613年6月22日(慶長18年5月5日))
狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))

生没年の差がおよそ半世紀、あり、
土佐派、と狩野派、
という元々の流派の違いもあり、
表現者として
解釈の違い、価値観の違い・・・
源氏物語、という同一テーマなのに
かなりの表現の差が表れています。

どちらが良い悪いではなくて、
どちらも相当楽しめるのに・・・
個性の違い、流派の違い、さらに
50年という時の推移ということにも関わって
その差が産まれているのでありましょう。


時、あたかも関ヶ原の合戦前後・・・
大きく世の中が動いていた時期に
二人の巨匠は活躍していました。
光吉は関ヶ原合戦以前に・・・
探幽は合戦後・・・の生まれ。


歴史は光陰の如く足早に流れ去るとしても
源氏物語を象徴とする【もののあはれ】
普遍なる心の内、人としての心情の不易なる面は
少しも変わらないけれど・・・
産まれ出た絵画としての表現方法は
ずいぶんちがう・・・


関ヶ原の合戦以後・・・・
落ち着きを取り戻してゆく世情に合わせるかのごとく
上品で完璧にオメカシし、
取り澄ました様な気品あふれる探幽作品に対して
光吉屏風は、【もののあはれ】の核心を衝いた
飾らない、素裸な美しさ・・
を醸し出しているように感じるのです。


完全メークの美女VSスッピン美女
・・・・!!!????



光吉源氏物語屏風、いずれも部分図です。





  IMG_9285.JPG

    桐壺




    IMG_9288.JPG

     空蝉




     IMG_9289.JPG

      夕顔




     IMG_9295.JPG

      紅葉賀




     IMG_9296.JPG

      花宴




      IMG_9297.JPG

       葵




       IMG_9305.JPG

       須磨




        IMG_9313.JPG

         蓬生




          IMG_9314.JPG

           関屋




          IMG_9315.JPG

           絵合




          IMG_9323.JPG

            朝顔




           IMG_9326.JPG

             玉鬘




          IMG_9333.JPG

           胡蝶




          IMG_9336.JPG 

            篝火




         IMG_9337.JPG

         野分




                 




                 




 
                 








パーフェクト美女も
勿論、宜しいが・・・

お飾りだけじゃないスッピン美女の方が・・・・























  


posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 理想美術館

2015年09月03日

理想美術館  9     後三年合戦絵詞(ごさんねんかっせんえことば)


藝術の秋。理想の美術館を追い求めてみたくなる季節です、久しぶりに理想美術館を語りましょう。
今回で9点目、戦記絵巻、【後三年合戦絵詞】の登場です。


   

      IMG_7365.JPG


本当は【八幡太郎絵詞】(はちまんたろうえことば)
と言う名前で流布していた時代の方が長く、現在は東京国立博物館の所蔵となり、めったにはお目にかかれません。まあ、南北朝、あるいは鎌倉時代の作品ではないかとされていますので、絵の具の剥落やヤツレ、汚点なども多く、美術品としての健全な美しさはもう、失いかけて・・・、気安く公開出来ないのかも・・・・。






       IMG_7363.JPG




その画品からいって、第一等級の傑作でありますが、
なかなか簡単に味わう事は、物理的にも難しい。
何しろ上中下三巻、別に序文も付いている絵巻物ですから
その全貌を一同に味わうにはかなりの仕掛けが必要。
さらに、制作当初は六巻本として描かれたものらしいので、
本当の全貌はもう既に見る事は・・・・。






           IMG_7332.JPG 





八幡太郎義家は、
鎌倉幕府の基礎をなしたとされる河内源氏の棟梁=大先祖様、であり
七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称し
家督を継いだのが14歳という年少にかかわらず、
胆力知力に優れ・・・その
智某と才格は抜群であった・・・そうで
鎌倉御家人にとってのスーパーヒーロー
元祖英雄!
モノノフそのもの、伝説の武将なんであります。





        IMG_7397.JPG
         馬上の八幡太郎義家さま・・・彼こそレジェンド!




天皇家をないがしろにし、あわよくば・・・
日本の王様になろうとタクランだ鎌倉幕府。
そのアイデンティティーを担うのがこの御方・・・
ステイタスヒーロー・・・
とも言えるのですが、
九郎判官義経みたいにねつ造され・・・?
あからさまに造られたヒーローとは大いに違って、
質実剛健。
モノノフとしての非常に素朴な一面が
強くのこされているが故に
時代を超え、人々の共感を呼ぶのであります。




         IMG_7361.JPG





そもそも 武士=モノノフ、という言葉は
物部氏から来ていて・・・
モノノベ・・・が、モノノフ・・・に、
その物部氏のご先祖は古事記にはっきりと記されており・・・
天照大御神の命を受け、
葦原の中つ国を治めるために
高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)った・・・・
天孫邇邇藝命降臨(てんそんこうりん)の際、
警護役として先導した武神が
天忍日命(あめのおしひのみこと)と
天津久米命(あめのくめのみこと)
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、
天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、
それぞれ祖神となり、
さらにその子孫は物部氏であること相違なく、
大和盆地の東に現存する、
石上神社(いそのかみじんじゃ)は、
物部氏の本拠地であったことが分かっています。

後の大伴家持が万葉集で詠った【海ゆかば】
の精神もつまりはモノノフの心・・

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ


義家も物部氏も大伴氏も、軍神の鑑・・・・・
武士の中の武士、なんですね


  

          IMG_7340.JPG





              IMG_7360.JPG




この絵巻物の作者は、【飛騨守惟久】(ひだのかみこれひさ)

巨勢惟久(こせのこれひさ)と、同一絵師ではなかろうか?
・・・・はっきりとはしません。
これほどの名画なのに、作者像が良くわからない・・・
平安、鎌倉から南北朝にかけて数多の名人画工が居たはずですが
作品すら残らずに、貴族の日記にのみその名が登場する画人もいますので、
解らないことが多い。
現代のアーティストのようにこれ見よがしにサインすることもない場合がありますので
作者が誰かすら伝承となっている場合もあるのですね。





            IMG_7399.JPG




            IMG_7419.JPG




            IMG_7421.JPG




とにかく、大傑作。
全貌は飾れない・・・にしても・・・・・
私の理想美術館には、自ら労作した
復元模写を出陳したいものであります。







                

                 IMG_7310.JPG





かの西行が北面の武士であったことはよく知られており、
北面の武士、つまり宮中警護の近衛兵(このえへい)軍団・・
西行はその頭目でしたから、
ナント頭目様が出家して漂泊の旅を続けた!!
当時としては大変な話題です!

現在で言えば皇宮警察署長!・・かな?

八幡太郎義家様も元々は同じお立場。
天忍日命 天津久米命と同じお役目だったのですね。

イザとなれば真っ先に命を張る・・・
天皇家をお守りすることは
日本文化を守る事に他ならない!

故に・・・命の、平和の、平凡な日常の・・・
何よりも大切なことを、・・
誰よりも良く・・・・知っていたのです。







         
          IMG_1458.JPG

           天忍日命 日本神代絵巻部分 天山画





          IMG_1461.JPG
           
           天津久米命  日本神代絵巻部分 天山画










posted by 絵師天山 at 08:00| Comment(0) | 理想美術館

2015年09月02日

魅惑の百人一首 81    後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)


【後徳大寺左大臣】(ごとくだいじのさだいじん)

時鳥鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

   ほととぎすなきつるかたをながむればただありあけのつきぞのこれる





          tokudaiji.jpg

           天山書画





ホトトギスの鳴き声を聞いたことがありますか?
テッペンカケタカ・・・・とか言うのですけど、
春過ぎて夏を迎える頃、それは心に沁みる声なのです・・・

あちらの方角から聞こえたなあ・・・と
その方角を眺めてみると、
おや、・・そこには、
黙したままの有明の月をみつけましたョ
・・・という体なのでありましょう。


ホトトギスの鳴き声がイメージとしてはっきり浮かび上がる人は勿論この気分も良く分かる・・のですが、はっきりとホトトギスの声を定める事が出来ない方でも、この和歌の余韻によって、気分は想定できるのではないかと思うのです。


初夏の青葉の香りを想起させてくれるのですね。

野鳥の声、さえずり、はそれはそれは美しいものだから・・・

山間の宿に泊まり翌朝早くに鳥の鳴き声で目が覚める・・
なんて、超ゼイタク!!


どんな鳥か、何という名前か、どんな風に鳴いたのか!
そんなクダラン詮索はドチラデモヨロシイ!


とにかく沁み入るような緑の中に浸る空気感を野鳥が代表してくれている訳ですから、ホトトギスであろうと何だろうとカマワナイ!・・が、しかし、誰しも心地よい行楽の季節である初夏、を代表してくれるのは・・・やはり、ホトトギスなんでしょうね!

この作者は藤原実定。
後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)
は、追号であり徳大寺実能の孫。右大臣公能の子、
母は権中納言俊忠の娘・・
つまり俊成には甥であり
定家とは従兄弟に当たるのです。

平清盛の福原遷都後に荒廃した平安京を見て
“旧き都を来て見れば浅茅が原とぞ荒れにける
月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ”・・と
詠じたのがこのお方。
平家物語にも登場しております。


詩歌管弦に優れ、世才にも長け、
大変な蔵書家であったことも伝えられており
並みいる歌人たちの良き理解者であられた様です。





posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月01日

魅惑の百人一首 80    待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)


【待賢門院堀河】(たいけんもんいんのほりかわ)

長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ

   ながからむこころもしらずくろかみのみだれてけさはものをこそおもへ





          horikawa.jpg

           天山書画





十二単と称される女房装束は、衣を重ね着する処に最大の妙がありまして、季節により時に応じた組み合わせの決まり事さえあって、それは絢爛華麗! 正に世界に冠たる衣装美と言って良いモノ・・・ですが、その豪華な色彩の乱舞をまとめ上げるのはそれを着る女性の黒髪なのです。

長い長い髪の黒色によって全ての色彩をまとめてしまうので、あらゆる色が引き締まり、美しい!

その黒髪が乱れると言うのは・・
これ又趣向の違う美しさを奏でる訳ですが、
男も女自身もそれを知っているからこそ、
このような名歌が生まれたのでありましょう。


思い人の心が変わらないかどうか分からないので、黒髪が乱れるみたいに心も乱れております・・・と言う女性の心理を詠ったのですね。

堀河は文字通り待賢門院に仕える女房でありまして、
待賢門院さま、とは閑院宮公実の娘
 藤原璋子(ふじわらのしょうし)
鳥羽天皇の御后様であられまして、崇徳天皇、後白河天皇の御母君ともなられました御方。

この御方にお仕え申しあげていた 女房の堀河・・・
元は前斎院令子内親王
(さきのさいいんれいしないしんのう)
にお仕えしていて、その頃は六条と呼ばれておりました。

崇徳院の悲運にこの和歌をからめ、
物語的精彩を深読みする解釈もあります様で、

つまり、後朝(きぬぎぬ)の歌は、
男がまず読みかけて女が返す。
・・・・・・
この歌も女=堀河、の返し、ですが、
お相手は崇徳院様ではないか??!!
・・・と解釈する説ですね。

と、すれば・・・
必ずしも恋の歌ではないのかも知れず
悲劇の崇徳院との哀しい悲しいお別れ・・・
を詠ったモノ
であるのかも知れません。







posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年08月31日

魅惑の百人一首 79   左京大夫顕輔 (さきょうのだいふあきすけ)


【左京大夫顕輔 】(さきょうのだいふあきすけ)

秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月のかげのさやけさ

   あきかぜにたなびくくものたえまよりもれいづるかげのさやけさ





            akisuke.jpg

             天山書画





月の影、と言うと、月の光の事。
さやけさ、とは、清い澄み切った様・・・

秋と言えば、何といっても、月!

名月の季節。

晴れ渡った夜空を行く雲が開け、
間から清くすがすがしい月光が・・・

たなびく雲も月の光に照らされてこそ
その存在が浮かび上がる訳ですね。


実に実に スッキリとした気品あふれる名歌です。
説明の必要がありません。


左京大夫は前にも道雅(みちまさ)の処で出てきましたが、
左京職、左京の庶政を行う役所の長官。
職の長官を大夫(だいふ)と読むのです。


三男坊の藤原顕輔は、二人の兄に家督をお任せして
御自分は和歌の道に専念できたラッキーボーイ!


六条藤家と呼ばれる歌流の基を築いたのでした。

崇徳院(すとくいん)の院宣により詞花集を撰進、
この歌も新古今集秋の部に
「崇徳院に百歌たてまつりけるに・・・」
としてあり、六条歌学は崇徳院の余慶によって成立したのであります。
さやけき月の光とは、悲劇の崇徳院サマのことであるのかも知れません。



六条歌学は俊成定家の御子左家と拮抗・対峙・・、
当時の歌道家が果たした役割は誠に大きいものが・・・





posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(0) | 百人一首

2015年08月30日

魅惑の百人一首 78   源兼昌(みなもとのかねまさ)


【源兼昌】(みなもとのかねまさ)

淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守

  あわじしまかようちどりのなくこえにいくよねざめぬすまのせきもり





      kanemasa.jpg

     天山書画





「幾夜寝覚めぬ」 幾夜目を覚ましたであろうか・・・
須磨と言えば明石、
須磨、明石と言えば、・・・・・源氏物語。
不遇時代の光源氏を想い起こしますネ。


源氏物語の須磨の巻に・・・

まどろまれぬあかつきの空に千鳥いとあはれに鳴く・・・

「友千鳥もろごゑになくあかつきは一人寝覚めの床も頼もし」

とあり、

もろごゑ、は諸声。
群鳴く暁は、床で目が覚めて孤独に泣いてしまっても
お仲間が居て頼もしいなあ・・・、


弘徽殿女御(こきでんのにょうご)一派から恨まれ、左遷の憂き目に遭っている光の君の心情が千鳥と共に詠われており、これを本歌としたものと思われます。
源氏物語は思った以上に和歌が多く含まれ、この物語に心酔した人は数知れないのですから、当然本歌取りも良く行われていたのです。
もっとも古く万葉集にも須磨は歌枕として登場しますので、さかのぼればどれ位以前から人々は須磨への想いを描いて来たのか、解らない位でありましょう。
もともと海辺であり、海女や藻塩と結んで題詠の材となっており、勿論関守も同様、旅心を詠うにかっこうの題材でありました。


源氏物語がまとまった草紙になって約百年が過ぎ、歌枕としての面目も新たにした須磨の情景を思い浮かべれば、更なる余情を感じさせられる…という仕掛けになっている、・・・この歌はいつか、一服の名画に託さねばなりませんね。

“行平の中納言も 関吹きこゆる と言ひけむ浦波、夜々は げに いと近う聞えて またなく あはれなるものは、かかるところの秋なりけり”(源氏物語 須磨より)

在原行平が謫居(たっきょ)した地でもあり、
須磨という画題で、いずれ絵画化してみたいと思います・・・

時を超えて楽しみを共有してきたのが日本人の文化史ですから
歌枕もその為。・・・須磨はその代表格という訳で・・・・。

実際、瀬戸内の情景が目に浮かぶ・・・


このところ例年だと残暑でギラギラしているのに
早くも秋の長雨状態・・・虫の声も聞こえ、秋の夜長・・
秋こそ芸術です。



posted by 絵師天山 at 23:04| Comment(0) | 百人一首

2015年08月23日

遂に100回展!!


再興第100回院展が開催されます
9月1日から16日まで
上野 東京都美術館



            021.JPG





遂に記念すべき100回展が巡ってまいりました。
昨年99回の時にはそれほど感じなかったのですが、
いよいよ100回!を間近に控えて見ると
ホント、凄いことだなあ・・・と、

始まりがあれば終わりもあるのでしょうが、
100年も続いたと言う事は
もうそれだけで、結構な・・・
先輩方の様々な思いが込められているのです。


昨今はどうも、
日本画らしからぬ傾向を新時代の価値観として
奨励、容認し、
不易と流行のバランスどころか優先順位さえ忘れ、
単なる思い付き、・・・
しかも、外国の真似というクダラン流行による
日本画の堕落が深刻で・・・


私としても、それを、押し留める力量が足らず忸怩たる思い。

しかし、ともかく、
100年もの期間、下手でも上手でも、それなりに
精魂込めた作品を発表出来る機会に恵まれ続けたのですから
その点は大変アリガタイこと・・・
創業者 岡倉天心先生はじめ大観、春草、鞆音・・・・
諸先輩の御蔭に違いありません。


油絵具を日本画絵の具に置き換えただけで
陰影を取った写実性を骨子とし、
目先の変化のみを後生大事に、
アニメやCG、3D・・・
ただただ耳目を驚かす上面の映像刺激に従属、
・・・いや、服従しているだけなのに・・
これこそ新時代の日本画ナンであります!
・・・とは情けない


洋画風に人物画、風景画、静物画、・・・などと分別するのではなく、
花鳥画、山水画、歴史画、風俗画、と言うように大別される大和絵。
その本来の素晴らしさを一言で代表してしまうのが【雪月花】というテーマでありましょう。


今回の出品作品はこの、【雪月花】
長年描いてみたかったテーマです。




            雪月花2.jpg




            雪月花6.jpg




            雪月花1.jpg
               いずれも三部作の部分です



どうぞ会場へお運びください、
御高覧、御高評お願い致します。

100回記念展です!!
お見逃しありませんよう








posted by 絵師天山 at 00:24| Comment(0) | 院展

2015年08月05日

【歴史の真実】37  戦後70年に思う  小堀桂一郎


8月3日産経新聞 正論 で小堀桂一郎先生が「終戦の詔書」について語っておられます。

★★★



戦後70年に思う 「終戦の詔書」に残る深い傷痕 
東京大学名誉教授・小堀桂一郎


先帝陛下の「終戦の詔書」を奉戴してより満70年の記念日が近づいて来る。
この詔書を斯かる題で呼ぶのは
〈吾等は…日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり〉
とのポツダム宣言の冒頭句を受けた形で陛下が戦争を終結する手続に着手せよ、
との勅命を政府に下し給うたと見る故に名づけた事である。

≪国民の耳に達した玉音放送≫

元来詔勅とは〈詔(みことのり)を承けては必ず謹しめ〉と上宮太子の仰せられた上古の昔から文字通りに唯奉戴服膺(ふくよう)すべきものであつて、その内容を批判的に論(あげつら)つたり字句の由来を穿鑿(せんさく)したりすべきものではなかつた。然(しか)し近代になると、五箇条の御誓文、軍人勅諭、教育勅語等を日本精神史上の重要文献と見て、その成立の由来や制定・発布の経過等に文献学的分析を施し、聖旨が歴史の展開に齎(もたら)した意味を考究し評価を下すといふ作業が、謹直な意図に発する史料研究の一種として承認される様になつた。畏れ多い話ではあるがこれも時代の要請の必然といふ事であらう。

さういふわけで、例へば昭和16年12月8日の米英両国に対する宣戦の詔書にも当時の指導的言論人であつた徳富蘇峰により『宣戦の大詔』と題する「謹解」の一書が直ちに著述・刊行されもした。

昭和20年8月14日付で戦争終結を御下命になつた詔書についても同様の「謹解」の役割を果すべき識者による解説への要望は夙(つと)に存したであらう。殊にこの場合、詔書の本文は8月15日正午の所謂(いはゆる)玉音放送を通じて一応全国民の耳に達してはゐたが、録音や再生装置の不備もあつて、陛下のお聲(こえ)だけは確かに拝聴したが、内容はどうもよく理解できなかつたといふ人々が多かつたからである。

「終戦の詔書」の解題役として逸速(いちはや)く名乗を挙げたのは鈴木貫太郎内閣で内閣書記官長を務めた迫水久常氏である。迫水氏は詔勅の起草には慥(たし)かに一役を買つた人であるが、自負心の強い秀才官僚の型に属してゐた。本来ならば軽々しく口にすべきではない、重大な詔勅の成立過程に関して、自分の知り得た裏話を公けの場で語る事についての抑制のたしなみを全く持ち合せてゐなかつた。

 ≪最大の眼目は何だったか≫

詔勅の起草時に実はその第一稿を執筆した漢学者の川田瑞穂氏、詔勅の文体上の彫琢・完成に重大な役割を果した安岡正篤氏の様に迫水氏の誇らしげな内情の打ち明け話を不謹慎と感じ自らは固く沈黙を守つた人々も周囲には居た。然しともかくも迫水氏の積極的姿勢のおかげで、天皇御親(おんみづか)らのお聲を以て全国に放送された詔勅といへども、その本文は何人かの臣下の者が知恵を寄せ集めて作成した一篇の合作文書であるといふ内実を国民は知らされたわけである。

「終戦の詔書」の文章上の完成度について最も重要な寄与をなしたのは、当時大東亜省の顧問として首相官邸に出入してゐた安岡氏である。安岡氏は詔書の成立に自分が関与した度合については、既に世間に種々取沙汰される様になつてからも長く沈黙を守つてゐたが、昭和37年になつて初めて公開の席上で語る事をした。

安岡氏によれば、この詔書全文中の最大の山場はその第3段落に当る部分で、天皇はそこで、大東亜戦争の名分に共鳴し東亜の解放のために共に戦つてくれたアジアの諸盟邦に対し、業半ばにしての帝国の挫折につき深い遺憾の意を表され、次いでこの戦争で非命に斃(たふ)れた多数の殃死(あうし)者とその遺族に向けての深甚の哀悼の言葉を贈られ、又戦禍により家業を失つた者の厚生について懇ろな御軫念(しんねん)の程を披瀝(ひれき)される。次いで戦後復興の事業の前途多難を慮(おもんばか)つて激励の辞を述べられた後、この詔書の最大の眼目をなすべきお言葉が来る。

 ≪「義命」知らぬ戦後政治≫

安岡氏の胸裡(きょうり)に生じた文案は〈爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ義命ノ存スル所堪ヘ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス〉といふ至高の格調を具へた一節だつた。

ところがこの詔勅文案が8月14日午後、詔書正文を決定する最後の閣議にかけられた段階で〈義命〉といふのは辞書に載つてゐない難しい語だとの苦情が出て削除され、代つて現行本文の如く〈朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所…〉といふ表現に替へられ、〈万世の為に太平を開く〉といふ究極の字眼はその大前提を失つて宙に浮いてしまつた。

事情を知つた安岡氏は〈学問のない人にはかなひません〉と長大息したが後の祭だつた。以上の経緯は最近安岡氏の門弟筋の関西師友協会が編纂した『安岡正篤と終戦の詔勅』(PHP研究所刊)に詳しい記述があるので正確な理解を期したい向は参照されたい。いづれにせよ、この字句の改変によつて先哲の苦心の修辞は台無しになつてしまひ、戦後の政治は〈義命ノ存スル所〉には関心を向けること無く専ら〈時運ノ趨ク所〉に追随して流されるがままになつてしまつた。安岡氏の嗟嘆(さたん)は筆者も心中深く共有するところである。(こぼり けいいちろう)



★★★


誠に・・・その通りであります。







posted by 絵師天山 at 00:43| Comment(0) | 歴史の真実

2015年07月30日

【魅惑の百人一首】 77  崇徳院


 【崇徳院】(すとくいん)

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

   せをはやみいわにせかるるたきがわのわれてもすえにあわんとぞおもう






            sutokuin.jpg
             天山書画






非常に有名な詠唱であり、
百人一首中一番好きな歌!と感じる人も多いようです。


普通は恋歌とされていて、激情表出にウットリする女性も多いので、
「瀬を早み・・・」と、初句がでれば必ず「あはむとぞ思ふ」が、思い浮かぶ。


が、しかし、本来は「瀬を早み」ではなくて、「ゆきなやみ」としてこの歌は生まれました。

崇徳帝が新院となられて、直ぐに藤原公能以下13名の歌人に百首歌の詠進を命じ、御自らも百首を試みられた久安百首の中の一首であります。

その時は「ゆきなやみ」とされたのが、その後「瀬を早み」と初句を詠み替え、さらに「谷川」を「滝川」に改められました。

院政と藤原氏の権勢争いの犠牲となられた新院の嘆きや不満を慮れば、讃岐配流に至る心の動き、鬱屈した激情は故ないことではなく、この絶唱は、恋に託した心境歌、と見るべきであると思われるのです。


無理強いで血流が裂かれたとしても未来にはまたあるべき姿となりたいものだ!
と言う様な御意志の表れでもありましょう。

「岩にせかるる」は、岩に堰かるる・・・で
岩石によって堰き止められている・・・
この場合、岩は藤原氏と言うことになり
「滝川」は滝壺にたたき落とされた天皇家本流・・・という処でしょうか?

以前、謙徳公(けんとくこう)の項でも申し上げましたが、
諡号(しごう=貴人や高徳の人に、死後おくる名前。おくりな。)
で「徳」の字を付けられた御方は総て生前理不尽なるひどい目にあわされていて、せめても、として諡号には「徳」の字を付けて差し上げ、祟らないように配慮するのが当然の処置だった。


怨霊となってる・・から!? 祟らないように・・・!
その祟(たた)るという字はの字に良く似ていますね。
祟と崇・・・・・偶然かもしれませんが・・・
どれくらい理不尽な目に遭わされたのか、
これだけでも十二分に想像が付く様な気がするのですが。


結局、崇徳院は讃岐において悶々の内に崩御なされるのですから、これ以上の理不尽はなく、しかもその後長い間顧みられることさえなかったので、珍しいくらい重ねがさねの理不尽さ・・・を味わう事に・・・

鳥羽天皇第一皇子として御誕辰、第七十五代天皇として御即位されましたが、院政の中・・・実権なく、父鳥羽天皇の庇護もなく(実子ではなく叔父であるとされ)、閑居の内に過ごされた末の配流でありました。








posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(0) | 百人一首

2015年07月29日

魅惑の百人一首 76 法性寺入道前関白太政大臣 


 【法性寺入道前関白太政大臣】
(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)


わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波

   わたのはらこぎいでてみればひさかたのくもいにまごうおきつしらなみ






            hossyouji.jpg
              天山書画




子を思う基俊に愚痴こぼしの歌を贈られたのは
此の人。法性寺入道前関白太政大臣、
関白忠通様の詠であります。


忠通は、保元の乱に崇徳院(すとくいん)を讃岐に流し
弟頼長の野心を砕いて頂点を極めた藤原氏の長者。
従一位摂政関白太政大臣という最高位まで登り詰め
法性寺殿に隠退して悠々自適しました。

さすがおおらかなる詠いぶり。

「新院(崇徳)位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」と、前書。

崇徳院御在位は、
保安四年(1123)〜永治元年(1141)まで、
この一首は、内裏歌合せで詠まれたもので
コセコセした処がなく、壮大なイメージが広がり
作者の心境を表明したものであろうとされています。


この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

と詠った道長の心境表出と通うものがありますね。

後にメジャーとなる法性寺流という書道の流れは、この忠通を祖としており、
俊頼や基俊などの近臣を集めては、書に歌に日々を楽しみ過ごしたのでしょう。

「雲ゐにまがふ」・・と言うのは、
雲が居る所と茫漠たる海面との見分けがつかない、
という様な意味で、
続く「沖つ白波」・・が効いております。
青々しく、どこまでも広がる海と空
そして、白波・・・・雄大そのもの・・・

「海上遠望」というお題、は
当時としては新しいものであったとか・・・
道長のやりたい放題の権勢は
既に過去のものとなったものの
新たなる時代を迎えて今度は私が天下を握った!
という気分を
ややオブラートに包んで表現したのではないかと思われるのです。

後に崇徳院を流刑にしてしまう訳ですから、
ケシカラン臣下の代表とも言えますが・・・







posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(0) | 百人一首

2015年07月28日

魅惑の百人一首 75  藤原基俊


 【藤原基俊】(ふじわらのもととし)

契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も往ぬめり

   ちぎりおきしさせもがつゆをいのちにてあわれことしのあきもいぬめり






             mototosi.jpg
               天山書画





「させもが露」・・・? って、何・・

千載集に・・・
「僧都光覚 維摩経の講師の請を申しけるを、
たびたび漏れにければ、
法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを
しめじが原と侍りけれど、
又その年も漏れにければ遣わしける」と、前書。


僧都光覚(そうずこうかく)は、基俊の息子。
例年十月興福寺で行われる維摩経講法会の講師に
この息子を抜擢してもらえるように、父 基俊が
時の関白忠通に運動していた。
が、忠通は、・・・「しめじが原」と言って
請け合ったにも拘わらず、又も採用されなかった・・・

何が何でも子供の立身出世を願う・・・
親心の歌なのですね。


「しめじが原」は、・・清水観音様のありがたい御歌

なほ頼めしめじが原のさせも草われ世にあらむ限りは

なおたのめしめじがはらのさせもぐさわれよにあらんかぎりは

私を頼みとしなさい、どれほど辛くとも私がこの世にあって衆生を救おうとする限りは!

と、観音様自らおおせられた詠で、
良く知られたこの歌の様に請け合うよ!
・・・、と忠通は約束してくれたのに
又また、ダメでした!・・・との恨み節。



「させもが露を命にて」・・・とは、
清水観音のお歌を頼みとせよ、と言って下さった
あれほどの甘露を命綱として・・・
という意味を表として、その裏には
頼み甲斐のないような草の露をも
頼みとして居りましたのに・・
という、二重の意味を持たせた“トホホ・・・”な歌なのであり・・
トホホ・・ではあるけれど、なかなどうしてテクニカルなんですね!


「あはれ」また今年の秋も「往ぬ」めり・・
過ぎてしまいましたぞーー!って、
この歌を贈られた忠通はさぞかし嫌だったことでありましょう。

頂点に立つ人は
部下全員の希望を叶えてやるわけにも往きませんから、
テキトーに?慰めたんでしょうが、
それを逆手に取った処に子を思う親の気持ちが表れていて
それで共感を呼ぶのかも知れません。

伝統派歌人 基俊は右大臣家の名門生まれ、
微官に終わりましたが定家の父俊成の師として
活躍していました。






posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(0) | 百人一首

2015年07月25日

大東亜戦争七十年展 最終章


 この夏必見です!




                ポスた.jpg




平成二十七年 遊就館特別展
 大東亜戦争七十年展 最終章
    −今を生きるすべての人へー






          1英霊.jpg





          2英霊.jpg





          3英霊.jpg





          4英霊.jpg





          5英霊.jpg









     6英霊.jpg














posted by 絵師天山 at 11:28| Comment(0) | 歴史の真実

靖国神社みたま祭 雪洞絵


先の靖国神社みたま祭 雪洞絵の御礼が届きました



          mitama9.jpg





          羽衣御霊祭.jpg





          雪洞お礼.jpg





          記念雪洞.jpg






誠に有り難いことです






posted by 絵師天山 at 11:09| Comment(0) | アトリエ天山からのお知らせ

2015年07月24日

【歴史の真実】36 終戦の詔勅

終戦の詔勅

コチラが、いわゆる玉音放送の全文です

戦後70年、
日本人としてけじめをつける為にも是非熟読を




朕深ク 世界ノ大勢ト 帝國ノ現状トニ鑑ミ 

非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク
 
朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇 四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ
 
抑々 帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遣範ニシテ

朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦 

實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 

他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵カス如キハ 固ヨリ朕カ志ニアラス
 
然ルニ 交戰巳ニ四歳ヲ閲シ

朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庶ノ奉公 

各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス 

世界ノ大勢亦我ニ利アラス
 
加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 

頻ニ無辜ヲ殺傷シ

惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
  
而モ 尚 交戰ヲ繼續セムカ 

終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 

延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
 
斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
 
是レ 朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
  
朕ハ 帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ

遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
 
帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者 

及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク且

戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ

朕ノ深ク軫念スル所ナリ
  

惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス

爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル

然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所

堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 

以テ萬世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス
  
朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 

常ニ爾臣民ト共ニ在リ

若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 

或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 

為ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
 

宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 

確ク神州ノ不滅ヲ信シ 

任重クシテ道遠キヲ念ヒ 

總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 

道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 

誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 

世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ

爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
  


posted by 絵師天山 at 12:52| Comment(0) | 歴史の真実

2015年07月18日

【歴史の真実】35  ノーベル賞


戦後70年、
欧米化の最たるもの、
その象徴が、ノーベル賞や
世界遺産、ミシュランガイド・・・


絵画の世界も同様、
子供じみたお絵かきレベルが
何十億単位の金銭的価値を持つ一方
大和絵のそれは実にお寂しい限り・・・

世界に正当な評価というものは存在せず
陰に陽にゲンコツを振り上げ
手前みそなる権威を創り上げ
嘘でも何でも利益にしてしまう力を持ちさえすれば
それが・・・・・・正義


別にタイヤの会社が暇にまかせて
ウソブイた感想に左右されなくとも
近所の美味しい食堂はゴマンと存在しているし

世界遺産指定されなくとも
富士山は世界に冠たる御山であり

爆弾オタクのダブついた賞金を
仰々しく貰わなくとも
小さな町工場さえ
世界に一つしかないレベルを産み出すのは
別に取り立てて言うほど珍しいことではない


・・・のが、日本という御国なのであります。



こう言ってはなんだが
外国はすべて野蛮未開であって
日本だけが文明らしきものがある、
・・・のが歴史的真実なんだが、
自分からそう言ってしまうのを
日本人は美徳として嫌がる・・・


そのナイーブさが
良くも悪くも
今日の弱肉強食を
甘受してしまう現実を生み出しているのですね。

結果として大損させられているのです。


夜寝るまで靴を履いていて
町中の汚れがまとわりついたきったない靴を
室内にまで持ち込み
果てはそのままベットで寝る連中と
我々とどちらが・・・・・

ですよね・・・・サルでもわかる・・・・

花の都の【おパリ】様ですら
ついこの間まで糞尿を道端に捨てていた
ヴェルサイユ宮殿にはトイレが造られていない!

アホらしくもばかばかしい欧米賛仰は
ユダヤアングロサクソンによって
創り出された虚構なのです。
ハリウッドと同じ



本当は
【ノーベル賞が世界最高の権威】・・・・
という世界の方が間違っている

4兆円も毎年余計に電気代がかさんでるのは
世界の石油産業の御都合によって巧妙に
原発反対運動をリードされているから

外交と称して大金を献上する・・だけ、なのも
本当の平和維持は国民の独立心に依るのだ、
と言うことを忘れているから

アメリカにとって都合の良いTPPを
のまされようとしているのも
日本の指導者がぬぐいきれない
【ノーベル賞が世界最高の権威】などという
誤った価値観に縛りつけられているから

・・・であり
大半の日本人の価値観が

ねつ造された権威を崇拝させられている


・・・為ですね



賞なんか貰わなくとも
真実、幸せに暮らしてゆければ
・・・その方が

ノーベル賞という権威がなければ成り立たない世界
・・・・・の方がよほど幼稚です。




靖国神社みたま祭が今年は露天がなく
静かな賑わいで
英霊に対する鎮魂の意味がより深まったのに

例年の5分の一の参拝者に終わった


と報道されるのは
実に実に不思議

本来の英霊に対するお祭りとなり静かな賑わいを見せています、まだご参拝されていない方はどうぞお早めに


と報道するのが本当でしょう・・・

まるで参拝しちゃいけないみたいに・・・
今日の繁栄があるのは事実、英霊の御蔭・・・
一年に一度くらいはご挨拶したくなるのが自然じゃあないか!・・・

その、真実を語れない理由は何か、


マスゴミとまで揶揄されているのに
言ってはならないことと思い込んで
既得権にしがみついている
その理由は何か・・・・・



【ノーベル賞こそ世界最高のアリガタさ!】だから・・・・・










             mitama30.jpg







posted by 絵師天山 at 03:08| Comment(0) | 歴史の真実