2015年12月28日

魅惑の百人一首 95    前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)


【前大僧正慈円】 (さきのだいそうじょうじえん)

おほけなくうき世の民におほふかな我がたつ杣に墨染の袖

   おおけなくうきよのたみにおおうかなわがたつそまにすみぞめのそで






          慈円.jpg
           (天山書画)





「おほけなく」は、身分不相応に、モッタイナクモ・・差し出がましくも・・・
「おほふ」は、蔽う、で、仏法によって天下の人々の幸を祈る、という様な意味。
以下墨染の袖で蔽う、に繋げたのです。


「我が立つ杣」は、伝教大師(最澄)が、比叡山根本中堂を建立するときに詠んだ和歌

阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣(そま)に冥加あらせたまへ

あのくだらさんみゃくさんぼだいのほとけたちわがたつそまにみょうがあらせたまえ

により、杣山=木材を伐り出す山、であり、比叡山の別名。

「墨染めの袖」は、墨染めに住み初めが掛けてあり、僧衣のこと。

僧慈円は、関白忠通の子。
であり、九条兼実の弟、良経の叔父に当たる。
政界に於ける九条家(=藤原一派)、の地位変動にリンクして天台座主という地位に四回も立たされたのですが、この詠は若い頃の入山修行の折のモノ。誠に初々しい・・・・

おおそれながら、
仏法に依って経世済民を図る立場になってしまいました・・
という、感懐を述べたものでありましょう。


比叡山を権力下に置いておくことは
当時の政界を牛耳るに必須。
藤原一族から天台座主に登った方は多いのです。


慈円は、六男でしたから、
既に11歳になった時出家しておりました。
藤原氏の権勢を一方から支える役割を仰せつかっていました。


鎌倉時代初期の歴史書である『愚管抄』はこの御方の著作。

和歌の名人であった事は勿論で
おびただしい数の作品が遺されています

権力の頂点に長居したにも関わらず長命を得ましたから、
仏法に依って民の幸せを祈ると同時に
ご自身も幸せだったのかも知れません。








posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月27日

魅惑の百人一首 94    参議雅経(さんぎまさつね)


【参議雅経】(さんぎまさつね)

み吉野の山の秋風小夜更けてふるさと寒く衣打つなり

   みよしののやまのあきかぜさよふけてふるさとさむくころもうつなり  






          参議雅経.jpg
           (天山書画)






「衣打つ」と言うのは、砧(きぬた)のこと、
絹地を木槌でたたいて柔らかくする作業のことで
たたくから、音が出る、
秋とこの砧(きぬた)の音とは古来
相性の良い付きもの・・・とされます。


先回の実朝の歌につづいてこの和歌、
ですから、哀愁漂う海辺から山野の哀しさへと遷る仕掛け。
さすがは定家卿、見事なる構成になっている訳ですね。


「ふるさと」は故郷ではなく旧都の事。古来・・・
吉野には応神天皇以下、多く朝廷の離宮がありました。


作者雅経は、俊成門下、後鳥羽院に信任され
新古今和歌集の撰者の一人・・・
若い頃には関東に下り、わがまま将軍頼家の蹴鞠の師匠を任じたこともありました。


本歌は古今集から

み吉野の山の白雪つもるらしふるさと寒くなりまさるなり

これじゃあ、パクリ?・・・になりませんか?
いやいや、本歌の言葉をそのまま使いすぎてはいますけれど、風の音、砧(きぬた)の音、・・音を配した所が秀逸!


そもそも本歌取りは何十年も何百年もずーっと以前に詠われた本歌をももじって、趣意を少し変化させ、本歌と共に一緒に重ねて味わう・・・その方がグッと楽しく、さらに、それがまた本歌になり、永く深くひっくるめて工夫されてゆくことをも将来の楽しみと致しましょう・・・・というもの。
普遍なる人の情を、時を超越して共感してしまおうとする訳で・・・・
それを指してパクリ・・・・とか言う方が野暮。


著作権違反とか何とか云いだしたのは
契約社会云々、という愚にもつかぬ縛りつけであり、白人の拵えたクダランルール。
本歌取りという素晴らしい文化は
そんな次元をはるかに超えており、それを
極々普通に楽しんできた我が日本こそ素晴らしい!!!!


声にして読んでみてください
本歌もコチラも、共に
気分よく詠えるでしょう・・・。
和歌の真髄が込められているから・・・・


加えて、吉野山に対する日本人の心情の深さが強く作用しています。
日本人は不思議なほど、吉野が好き。


私もいつの日か、【吉野山】という画題で大作を描かねば、と強く思う処がございます。
日本人の吉野に対する深い想いを画像化してみようと・・・計画中。


かの持統天皇は女帝という立場に成られた後にも、
公務の合間をぬって、30回以上も行幸を吉野に重ねておられるのですが、旧都と云われる吉野の何がそこまで惹かれるのでしょうか?大いなる謎・・・・当時は交通機関もろくに無いのに・・・


丹生(にゅう)と言う天然の水銀が産出する地が近くにあり
その水銀を不老長寿の妙薬に加工する技が吉野にあった、
・・・・・???
毒をもって毒を制す。微量の水銀毒素を体内に・・・入れ、
毒を排出しようと言う自然治癒能力を最大限に発揮させることで
却って不老長寿の力が湧いた・・・・
現代医学でも解明出来ない様な秘薬があるいは、ひそかに伝えられていたのかも知れません。


日本人の英知は医学方面でも勿論その才能を驚くほど発揮するものでありまして、岡山に林原美術館という立派な美術館がありますが、その母体は林原製薬。この会社は元来旧帝国陸軍の医療全般を担っており、当時世界に冠たる医療技術を誇っていたという事実があり、アメリカ始め連合国はこの医療技術欲しさに日本を戦争に追い込んだのである、という説さえあって、現代にも続いているので、この会社が生産しているルミンAという薬はその不思議なデトックス効果で根強い人気がある様です。

不老不死、不老長寿、・・・夢のまた夢であろうかと思われますが、アンチエイジング、とか、健康長寿とかに群がるのは洋の東西を問わないのでありましょう。

話が少々、逸れてしまいました・・・・










posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月26日

魅惑の百人一首 93 鎌倉右大臣


【 鎌倉右大臣】(かまくらのうだいじん)

世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも

   よのなかはつねにもがもななぎさこぐあまのこぶねのつなでかなしも





            源実朝.jpg
              (天山書画)





先回の二条院讃岐の項で
武士として歌人の誉れ高い源三位頼政を
百人一首に採り入れなかった定家の
「思いやり」について少し語りましたが、
コチラの鎌倉右大臣は正真正銘、源家棟梁。
武士の中で唯一の百人一首登場歌人なのです!


源実朝。
頼朝の次男。
鎌倉三代将軍。
かの鶴岡八幡宮境内銀杏の大樹足下で
甥の公暁によって暗殺されたその御方であります。


なぜ、宮廷に敵対する幕府のトップが
歌人として立派に百人一首に入れてもらえたのか?

この方の描いた絵が沢山残っておりまして、
それは観音像、彼は日課として
白衣観音像を毎日のように描いておりました。

それは上手い、なかなかのレベルであります・・・
勿論、和歌も上手、というよりも・・
コチラは、名人クラス! 


将軍様と言うより文化人だったのですねぇ

三代目の将軍であって且つ、
ナイーブな文化人であったことが
彼の悲劇でした。

北条氏というのは
後の足利氏の輪郭を小さめにした様な存在。
公を蔑(ないがし)ろにし
天下国家を私する事を家訓としている、かのような、
云わば、極悪反日家系集団・・・・・で、
むき出しのエゴイズムでさえ
歪曲とねつ造によって正義と塗り替え
堂々実行して行く・・・のが主なる仕事。


宮廷文化に憧れるナイーブな将軍、実朝は、
その集団の頂点に立つ、
掃き溜めに鶴・・・的、存在。

事実上、傀儡と成り下がっていました。
が、北条氏=反日集団にしてみれば、
言うことをちゃんと聞こうとしない
役立たずの邪魔者・・・・


源三位頼政は、奢り高ぶる平氏のエゴを
断罪する、という目的で平氏一門の末端に禄を得ながら
遂には、老いの身を公の為に投げ出したモノノフ!
でありましたが、
こちらの、実朝も、
将軍という立場は朝廷に戴いた公職、デアリ
無論、天皇家の御為にこそ存在する
という、本来の姿、本筋に忠実、
公に尽すことを第一義とした誠に敬愛すべき
ホンモノのモノノフ。

武家の在り方を良く弁えていた御方なのです。

北条氏はこれが面白くなかった・・・・・

結果に於いて、そそのかされた馬鹿甥に
斬り殺されることに・・・・・


それはそれは素晴らしい詠唱の多い実朝ですが
この作品は少々重く、抑圧され気味
だが、・・誠に深い深い、哀愁に満ちて・・

定家がこれを選んだのは
実朝の内面の祈りにも似た誠実な大和心を
これほど端的に見事に表わした歌は他になく
百人一首の選考基準に大いにマッチしていたからでありましょう。

家集、『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)
を読めば、将軍実朝は実は、大芸術家であったことを
誰しも感じない訳には行きません。


「名は体を表す」という金言に従えば
父源頼朝は、
朝=朝廷を頼る源・・・デアリ、?
実朝は朝=朝廷の実りの源・・・である?
筈の・・存在なのに、・・・

実のところ
周囲のエゴに振り回された残念な父子であった
・・・・のかも知れません。


けれども
頼朝や義経らに
およそ文化らしき香りは皆無で、
それは、北条氏も後の足利家も・・・
秀吉や家康にも無く・・・権勢欲にマミレ、
権力に執り付かれ、翻弄された人生を送った者から
当然・・・藝術は産まれない・・・・

実朝のような大芸術家が、
ソンナところに・・・・・・
産まれるはずもないのです。


「常にもがもな」は、
いつも変わらないでほしいものだ・・・
の、意味。


この和歌の本歌は万葉集の

河の上のゆつ岩むらに草むさず常にもがもな常処女にて

   かわのかみのゆついわむらにくさむさずつねにもがもはとこおとめにて

「綱手かなしも」は、
舟の引綱は趣があるなぁー

この本歌は古今和歌集東歌

みちのくはいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも

   みちのくはいずくはあれどしおがまのうらこぐふねのつなでかなしも

実朝は定家から和歌の手ほどきを受けておりましたが
本歌取りを学んで試作して見せたのがこの名歌となりました。

天皇を核とした和歌文化に憧れを持ち
朝廷にとっての忠臣でありたかった実朝の
心の実が見事に表出された詠であります。




posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月25日

魅惑の百人一首 92 二条院讃岐


【二条院讃岐】(にじょういんのさぬき)

我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし

   わがそではしおひにみえぬおきのいしのひとこそしらねかわくまもなし






            讃岐二条院.jpg
              (天山書画)






「潮が干いた後でも海面には出てこない石は
有るのか無いのか?
有るとしても、常に海中なのだから、
いつも海水で濡れている・・・・
その、いつも濡れている石の様に・・・
人知れず、貴方様をお慕い申し上げております・・」

と言うところでしょうか。

一見、けな気な女性の
熱い思いが表現されているかに見えます。


作者二条院讃岐は二条天皇にお仕えした女房であり
かの源三位頼政の娘。

平家全盛下に汚名を耐えしのび続けた頼政は、
時至って遂に以仁王を奉じて挙兵・・・
結局、潰えたとはいえ
奢る平氏に一矢報いたことに
世間は喝采を挙げた・・

しかし平家の世の中では単なる反逆者。
・・・・・この父、頼政を
「潮干に見えぬ沖の石」と、捉えて、娘は詠じた・・・
と考えれば、俄然、趣が深くなって参ります。

歌詠みとしてかなりの実力者であった
源三位頼政を定家は
大いに認めて居たけれど
百人一首には入れなかった、反逆者だから・・・
その代わりに、この二条院讃岐の詠を採り入れることで
頼政へ最高の敬意を表したのではないか?
と思われるのであります。


反逆者に対する世間の圧力に対して
蔭ながらの篤き応援を感じる訳ですね。


二条天皇崩御の後には後鳥羽院の中宮任子
宜秋門院=ぎしゅうもんいん)
にもお仕えし、長年にわたって宮廷歌人として活躍
父の反逆によっての危うい立場も切り抜けつつ
長命であったそうです。

正に、沖の石の様に、
命がけで正義を貫こうとした父を持った娘として
複雑な心境が見え隠れしているので・・・・。

父を慕う床しい心ばえを想えばあはれはヒトシオに・・・・・。





posted by 絵師天山 at 16:19| Comment(0) | 百人一首

2015年12月16日

かつてはルノワールだった・・・・


JR上野駅公園口正面には、かの文化会館があり
すぐ右手お向かいには、国立西洋美術館があります。


いずれも主に西洋の音楽、美術を紹介する為の施設。
昭和39年東京オリンピックの年には
既にあったことは確かで
もうズイブン見慣れたし、
時折り改修され、現役続行中だが、
少々古臭くなりました。
文化に携わる我々は勿論
ごくたまに上野駅公園口を使う人々にとっても
ごく当たり前の馴染んだ存在・・・


この度の再びのオリンピック招致は
不透明だが、景気回復のテコ入れが期待され
世界に対する日本の在り様を
認知してもらうのに大変良い、のでは?
漠然と・・・そう、思われています。


直接スポーツに関係する諸氏はもちろん
恩恵にあずかれそうな人々は悉く大賛成
その他大多数は、積極的、消極的、
無関心・・・も含めて
大かたは別に反対する理由は無い・・
上手く利用しさえすればヨロシイ
・・・的な、気配・・・

私の様に正面切って大反対!!
と、思ってる人はあまりいないのでしょう。
・・・・・
か???



文化会館も西洋美術館もブッコワシ!!て、
邦楽会館と日本美術館に建て替えるべし!!

と常々考えている私としましては・・・

一部の人々だけが唱えていることを
世界の常識だと思い込まされての
似非文明論に踊り易いこの現実世界にあって


結果的には、合法的にゴッソリと
物質的精神的共に大きな犠牲を払わされる
オリンピック開催は大反対!
反対するのは
日本文明回帰への・・シアワセへの・・・
大切な大前提デアル!!
と思うのですが、

なかなか、多勢に無勢でしょうなぁーー・・・



スポーツというものは
結果が明快なので
引きずり込まれるような魅力に溢れています。

それに比べれば絵画などは
何が良いのかスグに解る人はそんなには、居らず、
ハッキリしない、・・・・特に現代日本画は・・・?


勝てば官軍!
負け犬の遠吠え
勝利こそ!!

敗者になってはいかん!
敗者には成りたくない・・・
しかし・・・・
100人が100人とも、
勝者を目指している世界は・・・
実は・・・・窮屈
幸せじゃあありません。
ね・・
たとえその内の一人でも応援に回ってくれる人がいれば、もうそれだけで住みやすくなるもの。


以前、相撲について語った時に
横綱白鳳はケシカラン!!
と申しましたが、
相撲を始め、日本文化は大変多面的であって
一筋縄では行かないモノだらけ・・・
だからこそ
面白い!!!!
相撲はスポーツという小さな枠に
はめる事が出来ないからこそ面白いのに
白鳳以下大方の外国人力士は
そのあたりを理解し難いらしい・・

勝ってナンボじゃ!!
・・・が、まかり通る、


実は、民主主義もこれと同じ様なもので・・・
49対51が堂々とまかり通る。

つまり49人は不幸せでも
51人が良しとすることが正義!デアル!
と、決めてしまう・・・・
実は・・・・オカシイ・・・・・
残りの半数は我慢しているのだから


何時の頃からかこういう単純な理屈が正しい!
とされる世の中になってしまいました、・・・
善玉と悪玉しか出てこないハリウッド映画から?

日本文明の本質とはかけ離れて行くばかり・・・

本当は多面的な日本文化こそ
人類の真の幸せのカギを握っているのに
日本人自身がその事に思いが及ばない
漠然と日本は好きだが、
何が大切なのか、その神髄に迫ることなく
西欧の規範に盲従する癖を付けられてきたまんま。
長いものには巻かれろ?
西欧に対する劣等意識がその根底にあり
それはぬぐい切れないほど強靭、根深いもの・・・

だから、文化の町上野の入口には
文化会館と西洋美術館が未だに堂々と鎮座しているんです

だからこそ、ぶっ壊せ!!
と私は言ってるんです。
おかしいと思わないオカシサに気付きましょう
・・・!!!と。

同じ理由でオリンピック開催も絶対反対!!
勝ち負けだけの安っぽい価値観を謳歌する祭典
内実はとっくの昔に悪魔化してしまった
世界的集金システム繁栄の為の茶番




かく言う私も・・・・

物心ついて人様より絵が好きである自分に気付き
漠然と画家になりたいなどと思い始めたころ
私の身の回りに目についたものは
欧米の文化でした。
油絵具を買ってもらった時の嬉しさを
いまだにハッキリと覚えています。
早速自転車に括りつけ
石神井公園三宝寺池へ、
イーゼルを地面に立てて
カンバスに向かって水辺の風景を描く!!
印象派の巨匠達が皆揃ってしている事が
即、
自称絵好きの少年が当然やるべき事
・・・・だったのです。


迷うことなく西欧の芸術を楽しく学ぼうとした、

ルノワールが好きで
ムーランドラギャレットという作品を
60号のキャンバスに模写したのは、
まだ高校一年生の夏休み。


お祭りの様な華やかな野外の景で
木漏れ日の中で人々が楽しげに歓談したりダンスしたり・・・
有名な作品ですね、甘美な色彩世界に魅せられたからです。


セザンヌ、ロートレック、モネ、
ルオー、シャガール・・・・
ルノワールがすべてではなかった
けれども、自分の関心事はすべてに渡って
西欧優先・・・油絵こそ絵画でした。

当時45倍という難関だった東京芸大油絵科の受験に失敗。
度重なる浪人生活を過ごした上で
私学の東京造形大学へ・・・
思い通りにならなかった受験戦争は
その後もコンプレックスとして後を引きましたが

大学で出会った日本画には
生理的に即、気に入った!
臭くないし、すぐ乾く・・・
へー、こんな世界があったのか!!・・・面白い!と。


父の書棚にあった東山魁夷の作品集を観たり、
教科書で見た古典的日本画を博物館に行って観たり・・・
急速に日本画世界に心が向いて・・・
当時は茅場町にあった山種美術館にも良く通いました。
岡倉天心の著書を貪るように読み始めたのもそのころ・・・

まさか、自分が院展のメンバーになるなどと
考えても見なかった頃ですが、
内心の奥底に潜んでいた日本文化の核心に触れたいと言う
本能的なるものが疼きだしていたのだと思います。


しかし、その欲求はまだ曖昧
それほどしっかりしたものではありません・・・、

初めて師匠に連れられての海外旅行
プラド美術館で
フラアンジェリコ描く天使の陰影の美しさに言葉を失ったり、
先輩が食い入るように半日も眺めていたブラックゴヤに私もつられるように魅せられたり・・・・
石造りの都市美、見たこともない風景
・・・あらゆる文物に対する憧景が駆り立てられ
好奇心の虜となって、圧倒されたのでした。



まだ幼かった、とはいえ
物事の真実を見極める力がまるで育って無かった
・・・のです。
凡人だね・・・ぇ


宗教に呪縛されている絵画に感動したり、
目を見張るような写実力にオノノいたり、
質量の巨大さに圧倒されたり・・・・
恥ずかしながら
さんざん無駄な事を重ねてきました


日本人の殆どが未だ錯覚している様に
西欧文化に呪縛されたうえでの日本回帰であり、
神髄に触れる努力をまだ真剣には取り組んでいない状態・・・が長く・・・。




しかしぃーーこれからは本領発揮!
遠回りをしてきましたが・・・
今からでも決して遅くはありません、
これからはさらなる本気で
日本画らしい日本画を!

普遍なる美の核心を求めなければ・・・

文化とは日本文化のことを言うのであって
それ以外は文化とは言えないレベル

もう、目移りしたり騙されてばかりいないで
日本人としてのハートに
命をかけて・・・・忠実に・・・・




もっと、ずっと簡単に言えば
もうこれ以上日本の美味いものを

教えてやることはないのさ・・・



モッタイナイ!!





posted by 絵師天山 at 16:59| Comment(0) | 日本画の真髄

2015年11月30日

【歴史の真実】40   安倍総理は、12月8日に靖国神社参拝せよ!

今年は戦後70年の記念すべき節目の年でありました。
もう本当のことも、嘘で塗りつぶしたことも
みな、風化しつつあります。
けれども、
【歴史の真実】
風化させてはなりません。


実は、
東條首相は熱烈無比なる
余人なき愛国者そのものであり
軍閥と名付けられ
戦争責任を問われ続けてきた
・・・・モノ?・・・コト?・・には
何ら、実態はない・・・
むしろ憂国の士の所産であります。


戦後の、・・・・
検閲による日本人の洗脳、
徹底的なる思想の統制
アメリカにとって都合の悪い本の「焚書」
三十項目からなるプレスコード・・・・


それらによってこの70年・・・
いまだに日本のメディアは
呪縛から解き放たれてはいません。

勿論、日本人自身!!も・・・・


トルーマン
チャーチル、
スターリン・・・・etc・・・・
ABCD包囲網によって
日本に開戦を強い、
アングロサクソンの世界侵略を完成させようとした・・
意図・・・・・こそが、本当の戦犯です。


先頃の100人以上も抹殺されたパリのテロにしても、
背後で指図しているのはCIAかもしれないし
それを援護しているのは未だに露骨な侵略を国是としているロシアかも知れず、
・・・・もう、一筋縄では何事も立ち行かなくなった・・・・。
言葉には出来ないまでも、・・・・・
誰もが、この閉塞感を嫌々共有せざるをえない時代。


【歴史の真実】を閉ざしたままだから・・・です。

余剰軍備の消化試合を目論んでか?
当然の仕事の様に、
軍需産業が暗躍し戦争を起こす・・・・、

どんな時代にも必ず

爆弾消費戦略最優先課題でした。

だからこそ、
ノーベル賞は世界最高峰の権威でいられる・・・


十字軍の時代から現在、今の今まで、
世界制覇をもくろみ続けているのは、
いったい誰?


広島長崎への原爆投下・・・・
一夜にして10万人以上を焼き殺した東京大空襲





          5昭和陛下.jpg

           昭和20年3月東京大空襲直後東京市内を御視察される昭和天皇





・・・・無抵抗な民間人を原爆や焼夷弾で虐殺した以上、

投下された側の日本が悪の国でなければならない。

民主主義を日本に与えた正義の国アメリカ!
である為には、
東京裁判によって戦犯を産み出し
≪晒らし首≫にしなくてはならない、

そのためにはどんな嘘でも嘘で上塗る・・


国府軍が主張する虚偽の南京三十万人大虐殺を持ち出し、
松井石根大将をB級戦犯として処刑したのを手始めに
・・・・今も尚、
日本軍が朝鮮女性を二十万人強制連行して性奴隷にした
などと主張する韓国を支持している。
・・・のが、

初の黒人大統領を得た
立派な国、最先進の国・・・・・

アメリカ・・・の実態です。


ベトナムもイラクも正義の戦いと称して
ぶっ潰してきました!!!
ロシアも、イギリスも、フランスも・・・・
国益と称して、堂々と加担する。
ニューヨークのツインタワー倒すなんて屁でもない。


その結果は?

ナチ野郎!!・・・と、
悪魔の烙印を押してやった、
憎っくきドイツに・・・
溢れ出した難民を、
片っぱしから
放り込んどけばいいかぁ???
はははh・・・・・



かつて、橋本龍太郎総理は、アメリカ訪問の後
アメリカの国債を売りたいと言う衝動に駆られる・・・
とつぶやいたが為に、
以後日本のメディアに叩かれまくって
あっという間に失脚しました。


アメリカのご機嫌を損ねた・・から

アメリカからの理不尽なる年次要望書によって
日本は、この70年キッチリ!
苦杯を飲まされ続けており
膨大な、天文学的数字のアメリカ国債を
買わされ続けている・・・
それを、
日本国民の為に少し、売りたい、
財源にしたい、と・・・・・・思う。

言っただけで、
日本のメディアが日本の総理大臣を叩く!


そういう仕掛けになっている。
ユダヤアングロサクソン支配。




こんなことは氷山の一角。

直接アメリカから小金をもらって
新政権を打ち立て、総理大臣にまで登りつめ・・・
た、後・・・余世を茶碗焼いて過ごしている細川某・・・
などは、・・まだ小物だが、


自称、他称、の大物たちが、
勢ぞろいし、アメリカ神社にご参拝し続けて来たのが
日本の政治ごっこだった。

・・・シナ寄りの珍奇なる政権すら、あとで
アメリカに依り戻す為のカンフル剤でしかなく、

現、安倍政権も当然
その安定には、アメリカのお墨付きが欠かせない。
と思い込んでいる節が見える。

国内向けの経済政策すらアメリカを困らせるような事は出来ない


日本の通貨は、実は、日本人の思うようにはさせてもらえないように仕組まれている。

安倍総理大臣様
この12月8日、
大東亜戦争開戦の記念すべきこの70周年に、
せめて靖国神社へ詣でて下さい。

アメリカ神社にばかり参拝してる場合ではありません、

どうか、・・・

・・・・

命まで投げ出した
日本人二百数十万人の御霊に礼を尽くし
心の底から我々の代表として謝罪し、感謝し、
アメリカによる植民地支配からは抜け出します
、と
内外に貴方の御存在を存分に示して下さい。
日本を取り戻す!
スローガンに偽りなし、
自分を取り戻しただけでは・・・決して終わりません

英霊に誓ってください。



そして、内外に向け・・・
今後、日本は
核融合の実現と活用を
最優先国家プロジェクトとし
その財源には
限度無しに日銀からの新円を充て
それでも足りなければ
アメリカの国債を売り払ってでも
断固推進します!!! と、

ニイタカヤマをノボッテクダサイ・・・・・


貴方の骨を拾う人は大勢居りますから
・・・・どうぞ頑張って!




そしてさらには

今上陛下の靖国神社参拝をお導き下さい。







            天皇靖国.jpg

              昭和27年秋 昭和天皇靖国神社御参拝













posted by 絵師天山 at 01:00| Comment(0) | 歴史の真実

2015年11月28日

根津美術館 物語をえがく展


根津美術館では自前のコレクションから
物語をえがくー王朝文学からお伽草子までー
展、を開催しています。


新装成った根津美術館も見もの・・・

11月14日から12月23日まで
表参道駅近く、徒歩圏 根津美術館へどうぞ。






           1根津.jpg






殊にお伽草紙はあまり見慣れない・・・?
かと、思われますが、
大和絵の素朴なる一面が顕れていて
日本画の本質が飾り気なく覗いており
好感を持てるはず。


お伽草子は、室町時代より
婦人や、子供向けの物語草子として
民間に流布されたもの。
簡単な内容で素朴な説話を
これまた簡単な挿絵とともに楽しむ、・・・






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絵巻物形式や冊子形式の奈良絵本
あるいは木版の刊本、と
形式も変遷して行きましたが





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江戸時代には庶民の娯楽として
相当栄えたのです。
複雑な構成や詳細な描写には乏しいので
余計に入りやすい。
現代人ののゲーム?
みたいな感じでしょうか??違うかな?


面白さの裏にある寓意に当時の世相が垣間見られたり、
中世の民間信仰を理解する手がかりともなっています。
いわば、庶民の為の大和絵


普通の大和絵に比べてその筆法描法は
少々拙いところがありますが、
拙いが故の力強さ、
土俗的ともいえるおおらかさ、と共に
独特の清らかさ、
無邪気なる心ばえ・・・
飾らない情感、
八百万の神々と共に遊ぶ・・・
というような、楽しさに溢れているのです。




現代人が忘れてしまいそうな心を・・・
ノゾけます…よ








美術館からのメッセージ

物語は、古くから絵に描かれ、楽しまれました。たとえば、伊勢物語の存在がはじめて文献上に知られるのは源氏物語のなかですが、そこにおいて伊勢物語はすでに絵巻として登場します。もちろん源氏物語も、成立後まもなく絵に描かれ始めたと考えられています。また、中世まではもっぱら絵巻や冊子、色紙といった小画面に描かれた物語絵は、近世になると大画面の屏風にも描かれるようになり、物語が室内を彩りました。
 このたびの展覧会では、伊勢や源氏の王朝文学から平家物語、曾我物語、西行物語、そして酒吞童子をはじめとするお伽草子まで、さまざまな物語を描いた多彩な形式の絵画作品を集めます。晩秋のひとときを、物語と絵とともにお過ごしください。





posted by 絵師天山 at 01:00| Comment(0) | アトリエ天山からのお知らせ

2015年11月27日

続 久隅守景展

圧巻でした!!

久隅守景展!!!


後期展示は前期よりもさらにグレードアップ!!





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昨年は菱田春草展で大いに楽しませていただきましたが、
概ね、昨今は、心底楽しめる美術展は・・・・皆無
僅かに、一点、二点、まあまあの品物が見れれば儲けもの・・・
ぐらいの、まったく残念極まる展示会だけは・・・

目白押し・・


写実しかできないおぢさん、・・・フェルメール展とか
塗りたくるだけのおぢさん、・・・モネ展とか
・・・・・

枕絵なんか、展覧会までして見るもの??
ではないし、・・・・
いくらかマシではあるけれど
もう、琳派で全てをククルのは、
かなり、時代オクレではないかと・・・思いますけれど・・・

空間恐怖症の若冲にも辟易・・・だし


西欧への劣等意識で成り立ってしまっている砂上の楼閣が
音を立てて崩れさる時が、・・・
ホントに・・・・待たれます・・・・・


審美眼の深い人には、全くさびしい限りの現代美術界ですが

この久隅守景展は、極上!!

ヨダレもの・・・・まさに圧巻でした!!!


私自身、無知であったことを反省・・・・
これほどまでの・・・・・
知らなかった・・・??


師匠の探幽よりもハイグレードであることは
先ず間違いなく、応挙などでも・・・
太刀打ちできないかもしれないクラス・・・
雪舟がちょうど好敵手であるのかも知れません・・・
春草もビックリ・・・・!!

あっと驚く超ハイクラスの絵師であることが今日これだけハッキリと明示されたのですから、
この・・・平成の御代も捨てたものではありません・・・・まさに、日本文化の精髄ここにあり!
掃き溜めに鶴とは正しくこの事・・・・・





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           鷹狩図屏風部分






こんな、素晴らしい絵師が、
日本に居た!
のでした・・・・・









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写真などでは、万分の一の良さも伝わらず、
誠に残念。

和紙も、大版のものは、
桶が作れないので出来なかった時代なのに、
屏風という、小さな和紙を張り継いで成り立つ、
日本の知恵によって工夫された大画面に
非常に心温まる世界を描出・・・・


先日、北の湖親方の訃報で申し上げた事ですけれど
大相撲が神事であって、スポーツという範疇には
納まりきれないのと同じく、

日本文化の全ては、いわば、神事であるとも言え、
それは絵画も同じ、
豊かな精神美という分母は
欠かす事が出来ないものであり、
八百万の神々と共に、生を楽しむ、

そこに、何らの、痛々しさもなければ、
卑怯未練もないし、だいいち、我欲や、争いの心は、
そもそも・・・美しいはずは、ない!

神の御前では、人間の競争心もむしろ微笑ましく、
愛でる事さえ出来るけれども・・・・
私闘で、感激する人は、
世界広しといえども、誰ひとり居らん!!!

のであります。

その事を、この作品群は、無言で語っている訳ですね。








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いや、まいった!まいった!
上には上がいますねぇ、
日本には。
凄いねー日本人は・・・








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誠に素晴らしい!!

どこまでいっても、
結局は弱肉強食でしかない西欧文明は
一日も早く・・・・滅びねば・・・・・・


普遍なる人間性を謳歌しようとする
日本文化こそ
世界の頂点へ舞登らねばなりません。





posted by 絵師天山 at 01:00| Comment(0) | 日本画の真髄

2015年11月26日

魅惑の百人一首 91   後京極摂政太政大臣


【後京極摂政太政大臣】(ごきょうごくのせっしょうだじょうだいじん)

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

   きりぎりすなくやしもよのさむしろにころもかたしきひとりかもねん





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               天山書画






「衣かたしき」=衣片敷き・・・で
男女が共寝する場合お互いに袖を敷き交わすが、
独り寝の場合は片袖を敷くだけ・・・という訳ですね。


「さむしろ」はムシロ=フトンの役目と
寒し・・・にも掛かる様で、
とにかく独り寝は淋しく切なく、侘しいものだなあああ・・・


本歌は、

さむしろに衣かたしきこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む


の、両歌。・・・
恋を秋に移してさらに余情をたたえています。


後京極摂政太政大臣・・・という、長たらしい肩書は、
位人臣を極めた御方なのに、
不幸にも不慮の死を遂げてしまい
38年の齢を惜しまれたから・・・でありましょうか・・・

のちのきょうごくのせっしょう、だじょうだいじん、・・
藤原良経のこと・・・・。


関白忠通の孫であり、九条兼実の息子、
幼少より英明、詩歌を好み、俊成に師事。
定家を庇護して新風和歌教育に尽力した・・・
後鳥羽院に強く信任され和歌所寄人としても大活躍


新古今集巻頭をかざる名歌


み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり

は、殊に有名・・・・・
しみじみとした春彩を想起させます・・・・



私事ですが、
行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ

九条良経(=藤原良経)のこの和歌の上の句が我母校の校歌に採り入れられておりまして、
・・千歳の昔ぃ行く末はぁぁ・・空も一つぅぅの武蔵野にぃぃ・・・・・・ぃーー
なかなか荘重なる響き、であり、校歌とは思えぬような格調の高い調べなんですが、
在学当時は勿論そんな名歌人の歌が校歌に使われているなどという事は露知らず、
ただ、武蔵野の面影がまだ残っていた地域なので、それとは知らずに唱わされて居りましたが、
今になって見れば、大好きな九条良経サマの和歌に若いうちに親しんでいたことを知り、さらなる愛着を感じずには居られません。



西行こそ最高の歌人デアル!!
と、・・・西行の項で申しましたが、
・・・・日本画界に於ける最高の画人は?と言えば勿論
春草!
と言いきっているのですけれど、
しかし、まあ、大観も居れば、等伯も居るし、
探幽もいれば応挙だっている、・・・様に・・・
西行に優るとも劣らない名歌人がこの人!
九条良経サマ!!!!ナンであります!!

新古今和歌集仮名序の作者でもあり、79首の撰入は俊成をも凌ぐ・・・


この歌を贈られた女性は・・・
心の深いところでドキリとし、
どんなにかあはれを催した事でありましょう・・・
ただ単に秋の寂寥感を詠ったものではないのですね。



承久の変の後、隠岐の島に流された後鳥羽院さまは
新古今をさらに厳選、1978首中、約1600首を残し、いわゆる隠岐本を抄したのですけれど、良経の詠は79首中、わずか7首を除くだけだった、ということからも、如何に重んじられてゐたかを知ることができます。


清新で明るく、大きいだけでなくおっとりとして鷹揚。
いかにも貴人に相応しい詠みぶり。
家集≪秋篠月清集≫巻頭の歌がそのあたりを良く伝えています。

むかしたれかかる桜のはなをうゑて吉野を春の山となしけん

勅歌に対して、至尊調(しそんちょう)という表現を用いたのはかの保田與重郎(やすだ よじゅうろう)氏ですが、この良経の詠みぶりを評せば貴人調、という事が出来るかも知れません。
職業歌人などには及びもつかない格調の高さであります。

38歳で盗賊に襲われ頓死した・・・と
伝えられられていることは、当時としてもあり得ない様な稀有なることでもあり、様々と憶測が飛び、事実・・・なにか、闇の働きによって惨殺されたのかも知れず、この御方の地位と当時のお立場を考えれば、恐らく、鎌倉方の権謀術策に違いなく、嫌な想像は当たらずとも遠からずではないかと・・・・





posted by 絵師天山 at 02:00| Comment(1) | 百人一首

2015年11月25日

魅惑の百人一首 90   殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)

 【殷富門院大輔】(いんぷもんいんのたいふ)

見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色は変らず

   みせばやなおじまのおまのそでだにもぬれにぞぬれしいろはかわらず 





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            天山書画





ちょっと耳慣れない、殷富門院さま・・・・は、
後白河院第一皇女であり、
源頼政が驕る平家に立ち向かった時、
錦の御旗として奉じた以仁王(もちひとおう)
の姉宮さまであり、
式子内親王(しょくしないしんのう)様の、
一番上の姉宮さまでもある・・・
亮子(りょうし)内親王、さま・・・のこと、つまり、
殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)とは、
亮子内親王に仕えた女房の一人。
大輔は役職ですね。


病没してしまう式子内親王を気遣い
逆賊として戦死された以仁王の遺児を預かり・・
なかなかに気苦労の絶えなかった殷富門院さまの
御日常を豊かにすべく、
定家の姉上である京極局(きょうごくのつぼね)とか
健御前(けんごぜん)やらと共に和歌の名手として
長くお仕えしお慰め申し上げておりました。


超ベテラン女房・・・・

色変わりしてしまう程涙に濡れた私の袖を見て下さいませ!
と、解釈すればいかにも優雅な感じになりましょうか・・・

千載集恋の部に「歌合し侍りけるとき、恋の歌として詠める」
とあり、本歌は源重之による

松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか

の・・・歌に応える形をとって詠われたものです。


海人の袖は当然濡れているけれど、
私の袖は(それを通り越して)色あせてしまう程なんだから!

見せばやな・・・と言う初句がとても印象的。
こんな風に女性に甘えられたら悪い気はしませんねー・・


気の毒なくらい可哀そうな式子内親王の歌(前回)と対比させて、恋愛の種々相を取り合わせようと、定家は狙ったのかも知れません。つまりは、式子内親王の御製と肩を並べるほど高い評価を得ていたのですね。









posted by 絵師天山 at 00:32| Comment(0) | 百人一首

2015年11月22日

【歴史の真実】39   日本相撲協会理事長逝く

公益財団法人日本相撲協会理事長
北の湖親方が亡くなられました。
享年62歳
北海道出身
花のニッパチ(昭和28年生まれ)の主人公であり
勿論、周知の大横綱、

輪島との熱戦やら、
勝って当たり前、のカワイゲのなさやら・・
土俵を割った相手をダメ押しした挙句
ふんぞり返って勝ち名乗り、・・・
まあ、あまりの強さに不人気な面もあったくらい。





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だが、
彼ほど横綱らしい力士もおりません、
後の千代の富士が大横綱に成長したのも
北の湖親方の大いなる存在の寄らしめるところ・・・


昨今のモンゴル人横綱などには
真似も出来ない人格者であり、
引退以後その人望によって、周囲の柱となり、盾ともなり、
八百長問題などで協会が揺れたときも
苦虫をかみつぶしたような?実直なる各方面への対応など、
それはそれは、実に感心させられたものでした。


なかなか、ああはなれません。

彼ほど、公、(おおやけ)という事を良く知っていた力士は他にいない。

つまり、相撲は国技でありスポーツという範疇だけでは捕えられない“神事そのものなのである”という、当前な事を貫き通した人だったと思うのです。

白鳳などはこのあたりが全然分かって居りません。
成績は北の湖理事長を凌いだかもしれないが、
根本が間違っているから、
並みいる相撲好きを唸らせることが出来ない・・・。

最近は最後の4、5番は面白くないので
私なんか中継を見ないことが多い
なぜか?
横綱大関、上位の出番は見逃せないところな筈だが、
横綱大関のやるべきことじゃあない技が
毎日のように繰り出されて・・・

ファンとしては白けるだけ。

先日など、なんと【ねこだまし】をやったらしい。
最高の記録保持者である白鳳サマが、・・・だよ。


【ねこだまし】という技は、
立会の時に相手の目と鼻の先でパチンと手をたたいて
相手を翻弄させ出鼻をくじこうとする・・・言わば、
文字通り、窮鼠猫を噛む・・・式の・・・
とても敵わない相手に、もう万策尽き、仕方なしに
下位力士が最後のあだ花として・・・
まあ、取りあえずやってみる、
技とも言えんような姑息な・・・・・
(他に効き目のありそうなのがないから・・・)
・・・・


少なくとも
横綱のやることじゃあない!!
まして大横綱北の湖理事長の実績を凌駕する様な横綱が
こんなこと、やるかぁ!!  ホントに??
あほか! 白鳳・・・・・・誠に残念。

卑怯未練も勝負の内、と考えるのは
それはスポーツ。
そこに【公】はない。
自分さえよければ良い。自分が勝つことが正義!
他には何もない。

・・・・・・相撲は、
卑怯未練は一切しないのが当たり前なんです。
なぜなら、神事。だから。
神様に見ていただくんだから・・・
猫だましなんて、横綱の眼中にあるべき技ではない!


白鳳が猫だましを下位力士に平気でやっちゃうのは
つまり、【公】、を知らないからなんであります。

これを簡単に考えてはなりません。
日本文化の破壊に直結しているのだから。

勝負事だから誰でも勝ちたい、
当然、手段を選ばず
勝てば官軍、負け犬の遠吠え・・・
まあ、相撲を【私】と勘違いしていても許される
下位レベルならともかく・・・
横綱に昇格した力士が問答無用・・
勝ち負けだけに執着しているのが・・・
美しいか??
そこに精神の美しさがあるのか??
神事というのは、結果を追いかけることも必要だが
そこに美がなくてはならない。
そこにホンモノを見る事が出来るから無限の魅力が生まれる。
神と共にそれをこそ楽しむ・・・




美しくなければ神事とは言わない、んであります。

白鳳は明らかに日本文化を貶めています。

伊勢神宮式年遷宮にみられる美、

相撲の世界にもそれと同質の美を見るが故に
何百年も何千年も続いてきたのであり、
ただの勝ち負け・・結果追求だけで、人は感動しない

心底の魅力は感じられない。
少なくとも大人は・・・
私闘の明け暮れなど、見たいとも思わない!!
幼児性が抜けていない野蛮人の勝ち名乗りなど

いりまへん・・・


つまり
大相撲の本質は
北の湖理事長の死とともに・・・・
滅んでしまったのかも知れないのであります。

日本にしかない文化がまた一つ崩れ去ろうとしています。

北の湖理事長は白鳳の幼児性さえ
自身の不徳、と責任を感じていたのかも知れません。

惜しまれることです。









posted by 絵師天山 at 02:30| Comment(0) | 歴史の真実

2015年11月18日

秋のブログギャラリー


天山という新雅号を用いる前の作品も少し混じっていますが
久しぶりに、天山作品群・・、
秋の景に絞って御披露いたします。


   



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紅葉をテーマにして、
深山の秋景色や・・・
山湖に映る紅葉、
色々な設定の秋を描いてきました。

何といっても秋が一番!!

春になればなったでそれは、春が一番!

・・・・雪も、初夏の花々も・・・みんな素晴らしいが、


やっぱり秋が好き、・・・

源氏物語に登場する御姫君たちの中で・・・
六条御息所の姫君、
秋好中宮様が特に大切に描かれているのも
もちろん、

秋こそ芸術だからですね・・・








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秋を司るのは、龍田姫様です。






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posted by 絵師天山 at 15:54| Comment(0) | 天山作品紹介

2015年11月09日

【歴史の真実】38   明治神宮 秋の大祭

明治神宮は、明治天皇、
昭憲皇太后御二柱をお祀りする神社で、
大正9年(1920)11月1日にご鎮座になりました。
もう、間もなく記念すべき100周年を迎えようとしています。


良く知られていることですが、明治天皇はご在世中、日本の近代化を推し進められ、
憲法、教育、文化、国防などすべてにわたって飛躍的な発展を成し遂げられました。
振り返って見れば、明治時代は日本にとって
実に特別な時代であったと言えましょう。

明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御されると、天皇のご神霊をお祀りする神宮を創建して、ご遺徳を永遠に景仰申し上げたいと熱望する声が国民の間から沸きおこり、大正3年(1914)4月11日、昭憲皇太后が崩御されると、そのご神霊も共にお祀りすることとなりました。




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文化の日は、本当は【明治節】と言います。
言うまでもなく明治天皇御誕辰の祝日。
戦後の誤った史観によって文化の日という名称に慣れさせられてしまいましたが、11月3日は
明治神宮で最も重要な祭儀。
当日は、明治天皇の御生誕日にあたるので、宮中より勅使の差遣がある大祭です。


私も、毎年11月3日、余程の事情がない限り例年参拝を欠かさないよう心掛けております、



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菊の季節でもあり、秋たけなわ・・・
例年菊の展示会が参道で行われています。



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明治神宮が出来る前はこの辺り一帯は
南豊島御料地(皇室の所有地)といって、
現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、
荒れ地のような景観が続いていたそうです。




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「永遠の森」を目指した壮大な計画のもと、
大正4年から造営工事が始まりましたが、
全国から植樹する木を奉納したいと献木が集まり、
北は樺太(サハリン)から南は台湾まで、
日本だけではなく満州(中国東北部)朝鮮からも届き、
全部で約10万本の木が奉献され
延べ11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕により植林することによって、代々木の杜が誕生しました。



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当時、樹木の種類は在来種等を含め365種でしたが、
東京の気候にそぐわない種類もあり、
現在では234種類になりました。
今や、東京ドーム15個分の杜は、
まるで自然林のように大きく豊かに成長し、
平成25年の「鎮座百年記念 明治神宮境内総合調査」では、
日本新発見の昆虫(ジングウウスマルヒメバチと命名)
が報告されたほか、数多くの絶滅危惧種や、
都会には珍しい生物がいることが報告されました。


人口の森なのに、常緑広葉樹が中心になった
太古の杜、のような景観を成しているのです、



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湧水も、池も・・・・
大都会のオアシス・・




コチラは宝物殿


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近くの西参道では流鏑馬の勇壮なる行事が・・・・



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11月3日は快晴、と決まっているとか・・・

必ず小春日和!
スバラシイ一日を過ごすことができます。

これも一重に、明治大帝の御かげ・・・
誠に、有り難き極みであります。





          

            




posted by 絵師天山 at 02:21| Comment(0) | 歴史の真実

2015年11月08日

魅惑の百人一首 89   式子内親王

【式子内親王】 (しょくしないしんのう)

玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば忍ぶることの弱りもぞする

  たまのおよたえねばたえねながらえばしのぶることのよわりもぞする






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             天山書画




心の奥底に、深く深く残る詠。

西行の深さに通じるものを感じるのは
私ばかりではないでしょう。

以前、和歌を題材としての個展を開催した折
細長い短冊色紙という小画面に
式子内親王の和歌から想を得た作品を描いたのは
この歌・・・・


山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水

激しい言葉は一つも使っていないのに
押しとどめる事の出来ない春律、息吹き、
春の胎動、が、音もなく寄せてくるその気分を
余すところなく詠いきった
清々しくも素晴らしい名歌と心打たれたからです。



名人、信実描くところの御物
【三十六歌仙絵巻】
の中でも・・特別に傑出した画像の御方は
この式子内親王サマ・・・・それはトビきりの美しさ・・・
名画人の天才的力量が、この御方の心根の高さを余す処なく示してくれております。




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この百人一首に採られた歌は、
実らない忍ぶ恋を詠ったものなのかも知れず
つまるところ、本当のことは解らずじまい
であり・・恋心のお相手は撰者の定家であった
などという様な俗説が産まれてしまう程、
多くの世間の憶測を呼んだご存在でありましたが
人品卑しからず・・・
品位と言う言葉こそこの御方に相応しく、それはそれは
御立派な内親王殿下であらせられたのでありましょう。

後白河院第三皇女として御誕辰
幼くして伊勢の斎宮となられ
十余年の若き命を捧げ
斎院退下の後、次々と肉親の死に遭遇され
さらに、ご自身も重い病を得
溢れんばかりの詩心を抱きながら
針の先で僅かにでも触れれば
砕け散り、裂けてしまいそうな
張りつめた日々を過ごされた・・・・


遺された数多くの御作の殆どが
仄かな・・・有るや無しやの・・・
風の音、一滴の露、夢の如き幻・・・

露わな表現など一つもないのに
この歌に限っては

玉の緒よ絶えねば絶えね・・
と、半ば絶望的・・・
死ぬことなんかナンでもない・・・・
口に出来るような恋など・・・
・・・決して許されぬ・・・
固く思い定めていなければ
こんな歌が産まれるはずはありません。


忍ぶ恋、とされているけれども
この忍ぶ恋が仮に顕れてしまっても
口にすることすら憚られる・・・・
相当特殊なる事情が隠されているに違いないのです。


出口のない心情がホトバシリ出た故の詠歌であって
これほど激しく詠いあげた恋唄は他に類を見ません


恐らく、内々にはその「特殊なる事情」は知られており
それはどうすることも出来ないことであることも
良く知られていたが故に
この絶唱を・・・
ゴモットモなること・・・として敬愛したのであり
誰となく・・・御相手は定家だった・・・などと言い出したのは
むしろ冗談に紛らわし
厳しい現実を回避するための方便だったのでしょう。


後世の世阿弥はさらに定家蔓(ていかかずら)として
どうしようもないタイトな現実を美化し
上塗りして差し上げたのであろうと思われるのです。







posted by 絵師天山 at 01:18| Comment(0) | 百人一首

2015年11月07日

久隅守景展

10月10日から11月29日まで
サントリー美術館で
久隅守景展が開催されています。


あまり聞かない名前の絵師ですが、
知る人ぞ知る貴重な存在!
それはそれは素晴らしい絵画世界に浸れます!
ぜひ、お勧め!
滅多にない企画であり・・・、
ホンモノの大和絵の神髄に触れる事が出来るでしょう。





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近頃、美術館と称しながら、
美術品らしいモノが
殆どなく、ただ、
驚かせるだけ・・・とか
珍しいだけ・・・・とか
高そうなだけ・・・

コケオドシの決して美術とは言えないような
全然美しくないものが並んでいる
そんな風潮に一石を投じています。

これは、美しい!!!

久隅守景は大したものです。

久しぶりに心からうっとりし、
思いきり楽しめた展覧会でした。
展示替えしていますから
もう一度伺おうと思っています。




posted by 絵師天山 at 12:47| Comment(0) | アトリエ天山からのお知らせ

2015年09月29日

魅惑の百人一首 88 皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)


 【皇嘉門院別当】 (こうかもんいんのべっとう)

難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋わたるべき

   なにわえのあしのかりねのひとよゆえみおつくしてやこいわたるべき





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            天山書画





「かりね」は、刈り根と仮寝、
「ひとよ」は、一夜と、一節、(節と節との間)
「みをつくし」は、身を尽くしと、澪標(船の航路を示す杭)
に・・・それぞれ掛けられています。


前書に“摂政右大臣の時の家の歌合に≪旅宿逢恋≫といへる恋をよめる”として、この和歌があり、作者は崇徳天皇皇后聖子の女房。太皇太后宮亮源俊隆の娘。皇嘉門院は摂政兼実の姉に当たり、その女房等も兼実邸の歌合に加わっていたのでしょう。

なかなか技巧を凝らした見事な詠ではありませんか!
プロフェッショナルな気配を濃厚に感じます。
江口あたりの遊女の契りに見立てて・・・
仮初の契りが、生涯の傷になるのであろうか?
と仄めかし、艶っぽい心象を醸し出す。


悩み多きご日常を過ごしたであろう崇徳院
・・・さま。そして・・・
その支えとなった皇后聖子サマの暮らしに華やぎを与え
お役目とは言いながら、蔭にあってどれほど御慰め申し上げたことか・・・
一流歌人と言う程の活躍をされては居ないのに
この和歌が百人一首に収められていることからしても、
別当の果たした役割の大きさが想像される処であります。


皇嘉門院サマは保元の乱に於いて、夫である天皇と
実の父が対立すると言う悲運に立たれたのです・・・・。






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月28日

魅惑の百人一首 87  寂蓮法師(じゃくれんほうし)


 【寂蓮法師】 (じゃくれんほうし)

村雨の露も未だ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

   むらさめのつゆもまだひぬまきのはにきりたちのぼるあきのゆうぐれ





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            天山書画





「村雨」は、時々思い出したように烈しくふり、
止んではまた降る様な雨、のこと。

「まき」は、真木、で、
特定の樹木ではなく、立派な木、の意味。

秋の長雨なのでしょうか?
ウエットな雰囲気に溢れています。


寂蓮法師は、俊成の兄弟、俊海の子で
俊成の養子となって、中務少輔に至った後に出家。
本名藤原定長、修行行脚の生活をしながら
御子左家の歌人として活躍。
国宝源氏物語絵巻の詞書筆者の一人としても知られています。書も上手かった!
私は、この人の書が大好き!!


この歌の臨場感はその場に立って始めて得られるモノ、
題詠とは思われず、
深い山中を行くことに慣れた旅の歌人であった事を思わせ、
後に有名となる三夕の歌の

淋しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ

よりも、若干明るい印象があります。
同じ真木が使われてますネ。
物言わぬ森の風情が好きだったのかも知れません。


建仁元年二月に催された≪老若五十首歌合≫
老、には、忠良、慈円、定家、家隆、そして寂蓮。
対する若、には、後鳥羽院、良経、宮内卿、越前、雅経。
各五名、いずれも当代一流の豪華メンバーが揃って、
春夏秋冬、雑、の五題を
一人10首ずつ、計50首、50番として行われた折に
寂蓮のこの歌が生まれたのです。


この年は続いて千五百番歌合の百首詠進があり
和歌所が設けられ、新古今和歌集撰集の院宣が下る、等
新風への機運盛り上がる年でした。
次の年、寂蓮はこの世の人ではなくなりましたので
最晩年の円熟作品と言えるでしょう。


和歌文化最盛期に合わせるように円熟の境地に達したのは
大変幸せなことだったのではないでしょうか。









posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月27日

魅惑の百人一首 86     西行法師


【西行法師】 (さいぎょうほうし)

なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

   なげけとてつきやはものをおもはするかこちがおなるわがなみだかな






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           天山書画





いよいよ、真打
重鎮の中の重鎮、西行の登場です!

およそ今日まで、この人の右に出る歌人はいったい幾人いるでしょうか?
あるいはこの方が最高峰ではないか?
とさえ思われるのですが、
日本画界に於ける春草みたいな・・・
江戸時代に突出したかの松尾芭蕉の名声に隠れがちなのは、
現代にありがちなねつ造歴史教育の賜物と言えましょうか、
芭蕉は和歌から転じてさらに突き詰めた俳句を切り拓いた
と、仰がれておりますけれども、実は
西行への思慕が高ずる余り、みちのくへの旅に出かけ
西行の足跡を辿ることで和歌では到底及ばないが故に
俳句という形を変えた自己表現をせざるを得なかった
とも言えましょう。
西行にとって和歌は命そのもの。
作歌の為に行脚した芭蕉とは根本が違うのであります。


後鳥羽院の御口伝には西行の歌の姿を
“おもしろくしかも心もことに深く、ありがたくいできがたきかたも共にあひかねて見ゆ生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人まねびなどすべき歌にあらず不可説言の上手也”
と、絶賛。新古今集にはダントツ最高の九十四首撰集!!
心ある人は誰でもその中の一首くらいはソランジル事が出来るまでに深く心に刻まれている歌ばかりであります。


「かこち顔」は、託(たく)す。
に、託(かこ)つけがましい、と云う意味を含ませた、
カコツケテ・・
口実にして ・ 利用して ・・・。
つまり、月は無心にただ照らしているだけなのに、
物思ひにふける私は月にカコツケテ未練な涙を流しております・・・
と言った意味なのでありましょう。


前書きには「恋といへる心をよめる」とあり、
題詠であるようですが、
単なる恋愛の歌とばかりも受け取れず
恋人を慕うというより
人間そのものへの愛着を詠んだ様に思われ・・
例え題詠としても物凄く深いあはれを感じさせられるのです。



世の中よ道こそなけれ思ひ入る山のおくにも鹿ぞ鳴くなる

定家は父俊成のこの歌(前出)と、この西行の歌

なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

とを対にして百人秀歌を編んだのですが、
その心、本当の意味は、
崇徳院の悲劇を真剣に受け止め共有し合った者同志!
と言う思いが底流に隠されていたと見るべきでありましょう。

何不足ない選ばれた出自であり、
エリートであった西行は23歳で出家、
幼い子供も家庭も捨て
隠者となってしまう訳ですから、
そこには余程の事情があるに違いありません。

当時旺盛な活動を繰り広げていた歌壇との交わりも浅く
独り自然を愛でながら、世を捨てても、人としての情を捨てきれぬ処に生ずる複雑なる感情を自由で大胆に詠みあげた数多の絶唱は、今なお私たちを心から楽しませてくれる訳です。孤高の魂とでも言えましょうか、頂点に立つ人にしか分からない境地であったことは確かです。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月26日

魅惑の百人一首 85     俊惠法師 (しゅんえほうし)


 【俊惠法師】 (しゅんえほうし)

夜もすがら物思ふ頃は明けやらで閨の隙さへつれなかりけり

   よもすがらものおもうころはあけやらでねやのひまさえつれなかりけり






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            天山書画





坊さんなのに恋の歌???!!

思いが届かず悶々として朝を待つナマグサ坊主か?

いえいえ、これは題詠。
「恋の歌として詠める」と、前書があります。

恋する女性になり替わってその心を詠ったもの・・
恋人の連れなさを恨んで眠れずなかなか朝は来ない、
寝返りを何度も打ちながら、悩ましく朝を待つ・・・
陽の射さない戸の隙間さえツレナイわー・・・


この俊惠法師(しゅんえほうし)は、源俊頼の子、源俊頼は
憂かりける人をはつせの山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを
の作者でしたね。・・・
父譲りで和歌の道に優れ、しかも超熱心。
歌会など盛んに催して、そのメンバーも豪華!

前回の清輔、源三位頼政、二条院讃岐・・・
平安末期並みいる歌人集団のまとめ役でありました。
独り寝の侘びしさを「閨の隙さへ」と詠んだ処は妖艶。

鴨長明(『方丈記』の作者ですね)の師匠でもあった、
と聞けば単なる生臭坊主である筈はなく・・・・
寝室の戸ビラの隙間がツレナイ!
などと、そう簡単に詠めるものではなく、
涙の別れでドアノブが冷たい・・・みたいな
もののあはれここに極まる!!
それはそれは非凡なる大天才なのであります!


和歌文学も平安末期ともなれば
超がつくほどの熟成をみせ
万葉集の豪快な作風・・・
素朴明快なる感情表現すらも
円熟の技巧によって創り出してしまえる?
・・・・ような名人が続出するのです。


題詠はもちろん、代詠も見事にこなし、
見てきた様な嘘も三十一文字に留め得る力量が
当たり前に・・


国風文化ここに極まるのが平安後期の歌人群、
俊惠法師はそのまとめ役の一人であり、
平安和歌世界の重鎮と言って良いでしょう。






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2015年09月25日

魅惑の百人一首 84     藤原清輔朝臣(ふじわらきよすけあそん)


【藤原清輔朝臣】(ふじわらきよすけあそん)

永らえばまたこの頃や忍ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

   ながらえばまたこのころやしのばれんうしとみしよぞいまはこいしき





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            天山書画(ピンぼけご容赦下さい)





崇徳院の院宣によって詩歌集を撰集した左京大夫顕輔
前出の・・・・
秋風にたなびく雲の絶間よりもれ出づる月のかげのさやけさ
の作者でしたね、・・・・・
藤原俊成、定家、親子の
≪御子左家≫に対抗する≪六条家≫歌学は、
この左京大夫顕輔と、その息子。
今回の清輔とがその中心的存在でありました。



が、コチラの親子は仲たがいしがち、
父顕輔が少々次子清輔を疎んじていたらしく、
父の撰集した勅撰和歌集である詩歌集には採用されず終い。
さらにその頃 保元平治の乱の不穏なる時代相でもあり、
清輔は、正にこの歌の様な心境であったかも・・・・?

昔、心を痛めた事柄も、今になってみれば懐かしくさえ感じる・・・もの、
だから老いの先になれば、今のこの憂欝も懐かしく思える日が来るのでしょうかねえ・・・・


内心の深い嘆き、沈みがちな心を、精一杯三十一文字に託し、晴らそうとした秀歌だと思います。これまた和歌の徳と言えそうです。

  

清輔は二条天皇の下で続詩歌集を撰定していたものの
天皇の崩御によって、この勅撰和歌集事業は頓挫。
父よりもあるいは、秀でていたかも知れないその才能は
公に認められるところまでは行かなかった訳で、
自他共にそれが残念だったのでしょうか?


でも、この歌一つ取り上げても清輔の力量は抜きん出たものであった事は明らか。

新古今集にも撰ばれ、勿論この百人一首にも採られ、
長い長い和歌歴史の中でも、
欠かすことのできない歌詠みであるとされて来たのです。


ネガティヴをポジティヴへ転換するという人生に於ける大切な、無くてはならぬ心の営みをサラリと言ってのけたところに名歌たる所以があります。
心が折れそうな時は大いに励ましてくれる歌ですね。






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月24日

生誕100年記念 今野忠一展

秋たけなわの山形県天童市では
今野忠一生誕100年記念展が開催されています
亡くなられてからおよそ10年
師匠と仰ぎ27年、
あわせて37年、これまでずっと・・・
常に指標とし、先生に照準を合わせて研鑽してきました。
外面的な“求めるモノ”は違っていますが
大和絵の真髄を求める心は同じ。
先生の様に・・・・
日本画でなければ表現し尽くせない世界に
何とかして辿りつきたい思いです。


   


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【反性の結合】
これこそが、日本画の日本的造形方法の核
大和絵の神髄であります。





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           宿鳥





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           老樹





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           源々





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           月山





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           北嶂残雪





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           早春の響






山形県天童市 市立天童美術館
9月18日〜10月18日
生誕100年記念今野忠一展



今野忠一(1915年〜2006年)は
山岳画家というジャンルを切り開き、
日本の名山を描き続けました。
忠一が活躍した時代は、戦後の日本画改革期と重なり、
日本画の形状が大型化し、
厚塗り、西洋絵画表現の導入がおこなわれた時代でもありました。
この変動期の日本画の世界で、暗色を取り入れながら、
陰影法や遠近法をなるべく使わないように試みました。
この試みによって日本画の要素を失わないギリギリの表現を確立し、
日本画改革の旗手のひとりとして活躍しました。
忠一は風景をとおし、人間と自然との対話を主題とした数々の名作を生みだし後、
日本の名山を描きました。さらに最晩年は実景から入った心象風景を描き、心の山河を表現しました。
2015年は忠一の生誕100年という節目の年になります。
この機会に代表作を展示公開し、その功績を顕彰します。


      案内パンフレットより・・・・









posted by 絵師天山 at 12:09| Comment(0) | 日本画の真髄

2015年09月16日

院展100年


院展100年記念に私からも一言
しかし、それは既にお二人の大先輩が
言い尽くしているのと同じ、
ただ、当時の言語表現では現代人は分かりにくく
現代語訳しなければ通じないことを
残念に思いつつ、
この一文を再び提示致します。









菱田春草、横山大観 連名による

【絵画について】   (現代語訳)


私ども先頃来、
インド米欧巡遊の折には長くご無沙汰致しましたこと、お詫び申し上げます。
帰朝しまして早々、日露戦争大勝利に連れて今後美術界も又、いよいよ数多の希望が満たされる時代となるかと存じております。そのような折、皆様具賢の方々より私共の将来の展望についてお尋ね下さり、感謝いたしている次第ですが、この際、意のあるところをいささか改めて述べさせていただき、もってお導きをお願いするものであります。

私共の外遊がどのようであったかというご質問を多く頂いておりますが、基本的にはすべて以前より考えていた事と大差はなくむしろ、色々見聞するにつれ、従来の覚悟をさらに徹底追及してゆこう、という決意を改めて固めたに過ぎません。

およそ芸術というものは作者の人格による表現でありますから、技術は単なる表現の手段であろうかと思います。従って、内面的修養充実を心掛けておれば、表現の手段方法はそれぞれに任せられるべき事でありましょう。

私共の様な至らぬ者でも、この道を歩むと決めた以上は自分なりの理想を自分なりの方法によって表現することでそこに自ずから流れ出たものが認められるようになりたいものと存じております。

このように考えると、東西の画風、流派、様式などが人文思潮の流れに応じて変転進化しつつ極まることなき永続性こそ芸術そのものであると言わねばなりません。

筆を取って画面に向かえば大和民族固有の趣味が期せずして自然に流れ出して来るという、それこそがいわゆる日本画でありまして材料や、技術の動向によって東西を区分けする事に意味はありません。

従って、私共は“真正の絵画探究”をするにあたって、自己の中から湧きだして来るもののみを描き出す以外に方法のないことを改めて思うのであります。

よくよく国内近頃の傾向を見ると、ただ写実を奨励してそれによって旧来の型にはまった画流の欠点を補おうとするのは、一応の応急処置ではあるけれども、だからと言って、写実派などというものの存在が必要だとは思われません。

もし写実が芸術の究極であるとすると、そもそも自然そのものが大芸術でありますから人間の行うちっぽけな芸術は無用である、とさえ言えるでありましょう。

考えて見れば自然そのままでない処を目指すことが芸術でありますから、“自然以上”を求めなくて芸術に何の意味がありましょうか。

そもそも絵画は、推量し想像させるようにもってゆくことに意味があるのでありますから、“しんしんと降る雪の音”を表現するに露骨な写実をしたところで遠く及ばないことは明らかでありまして、単なる写実で表現出来るものには自ずから限度があるのです。

しかし東洋では古くから写実も行われて参りました。ただし、それは眼に依るも、心象を活かす、という写実方法でありまして、浅薄な洋画家流の者が上辺の形だけ捉えようと苦心するのは、つまらぬ囚われでしかありません。

近頃流行りの写生なるものは教える側も習う側も、モデルに向かう好奇心に浮かれているだけであって不完全な設備、方法もさることながらそのいい加減な描写の態度は、本来の洋画家に対して失礼の極みと申せましょう。

一方で写実派があるならば、対する理想派が必要かと言うとそういうものでもなく、絵画の入口は写実ではあるけれども、目標は理想の実現であるのですから、写実派と理想派に分けるべきではありません。故に写実派に対しての観念派ないし理想派といった区分けは、主題上のものについてであって、制作上の表現についてではないのです。
あえて写実派に対するものを求めるとすれば、それは却って形式化を招くこととなり類型化に陥るのでありまして、写実のみに囚われる愚、と全く同じ誤りと言えましょう。

よくよく国内作家の風潮を見ると、日々に追われて、形式に堕し、新しき創意なく、ただ左右の者達としのぎを削り合い、ドングリの背比べをする事のみに終始しているのは誠に情けない有様であります。

近年欧米で典型派と情熱派とが相互にしのぎを削っているその側面には、描法に於ける印象派、色彩派などの新技術と主題に於ける比喩派、表象派、他の新思想とが双方現れて来たことが影響しているのでありまして、詰まる所描法と主題との一軽一重により生まれる変化のあらわれ、に過ぎないのでありましょう。

考えて見れば主題というものは、ほぼ、どのような種類の芸術にも共有されるものですが、手法はそれぞれの特異なものであって当然、絵画には絵画たる手法があるのでありますから、画道の研究の中で、ある特殊なる描法を主張することもこれ又当然有り得べきことでありましょう。

私共は既にこの研究を通して今後はいよいよ色彩研究を深めて参ろうとするものですが、それはあくまでも私共独自の色彩研究でありまして、かつての光琳やドラクロワの亜流でないことは勿論で前人の用いて来た輪郭を省略し無線に成しもっぱら色彩によって形成してゆくやり方をご覧になって、これを東洋画ではないとし、もっとひどいのになると、朦朧体と誹謗する人さえあるのですが・・。
さりながら、造形美術の起源よりすれば絵画と彫刻が区別されたのはそう古いことではなく、双方とも輪郭線によって成り立ってきたものであります。そしてそれらが美術と呼称されるようになると、絵画は明暗、濃淡よりも色彩的に志向し彫刻はレリーフから立体へと志向して行きます。

即ち色と形、双方に大きな志向の差が産まれてくるのは必然で絵に於いては書画一致の範囲から離れて
色彩によって絵として自立してゆくことになるのは、音楽がその音調によって音楽らしくなってゆくのと同じことと言えましょう。

加えて彫刻は塑像が現れるようになって以後、写実性を深めてきた今日であり、なお絵画だけが線描に留まって、彫刻の形式から出ないと言う事は実に心細い限りであります。

そもそも【線】なるものは“説明して理解してもらう為のもの”であって線による絵画のまどろっこしさは、文字ではないか、と言いたくなる程で、それに反し色彩はもっぱら直覚に訴うるものでありますから、彩画こそ、われを忘れる様な快味を与える為の近道と言えるでありましょう。文学ではなく音楽でもなく彫刻建築でもない絵画の絵画たる所以は色にあると言わねばなりません。

歴史的に見ても我が国にの残されている上代古典作品には、色線による描法の発達がありました。
古画の剥落した痕を調べて見れば下描きの線と言うのは色彩の境界を示すだけで、その上から重ね塗りして描出した後、更に色彩線によって輪郭を描き起こすという工程が加わるのです。これはその当時さえも、色彩が主であって、描線が従であった事の証であります。

我が国は古来より既に色彩を主とした域に達していたのであります。

これを考えてみれば、色彩を主用した絵画が邦画の特性を失う、と言う非難は当たらない、誤りであることは勿論、むしろある意味でつまらぬ縛り、となるものであり、この故に昔人は色線を用いて後の世の無線描法の為のステップを既に踏んでいてくれたものと思うのです。

又、他方、没骨描法と言うものが現れ、あらゆる表現手段の一部となって来ましたので、これを色彩をもって表す【色的没骨】に敷衍すればさらなる新段階が生ずるものと思われます。

シナの昔人が既に言っている様に“墨に五彩あり”とは、筆墨中に色彩を望もうとする意味で、単に文人画に止まらず雪舟の写し取る大自然の世界に於いてもこの考え方が含まれていることを知らねばなりません。

色彩を塗るのではなく描くのである。
という言葉の中に既に色彩的没骨法が胚胎しているのであります。輪郭と色彩とは不可分と言う意味でもありましょう。

今日の日本画家は今なお、輪郭線を主用し色は補用している有様ですから、言ってみれば有限をもって無限を表そうとし塗り合わせた色と色とを繋ぐ為に線を利用しているに過ぎないのであって、こんなものは明らかに自己満足の類に他なりません。

この様な処へ色彩の没骨による色彩的主用を志向するのは当然であって、あらゆる見地からしても必須の事と思われます。しかし世人は良く“東洋画の精華は筆墨にある”、と言い、“筆墨なき絵画は日本画ではない”、と言い、私共の主張と相容れない方も多いのですが、これは美術史ということを考えずただ骨董家の視点にとどまっているだけなのです。

我が国古代、上代、に於いて既に色線による絵画が一つの理想画として遺されているのに、中世、宋代禅画の輸入により一時筆力墨色の発達を見たのは、むしろ鎌倉武士の素朴さと、東山茶人の侘び寂びに同調した一種の変調と言えるものであって、日本固有の特色とは言えません。

加えて、描線と言うものが雪舟以降既に、狩野派の極めたものである以上、有限である線をもって無限を表すのは無理というもの、であり、行き詰まるのが当然であります。

日本文化の特色と言うのは、外国からの影響を廃して独自の文化が養成された時代の所産であって、藤原時代の雄麗さ、元禄時代の婉麗さ、この両時期のみに見られるものであります。 
もっとも藤原時代末期に鳥羽僧正の様な筆力軽妙の逸材も現れてはいますが、この時代の特色はあの源氏物語の様な着色豊富の制作群にあるのです。
その後、足利時代に抑えつけられた国風文化は桃山の豪華さを生み、次に、狩野、土佐、が現れたほか、文人派、写生派現れ、梅花桃李一時に渙発するように反動発達します。

中でも光琳による色彩印象派は空前絶後なる光彩を放っているのであります。ともすれば光琳を日本の南画であると言った評や、豪奢な装飾性のみに光琳らしさを求めるなどの評もありますが本当は主線画の中から古代の色線描法をを取り入れて千年の後に色的没骨を蘇らせた処に光琳の真価があるのであります。

不幸にしてそれを繋ぐものは出ませんでした。抱一独りがそれを継承せんとしましたが、写実派の影響が色濃く残り真価を受け継ぐまでには至らず、ましてその後は語るべき程の者が現れませんでした。
しかし例え光琳がいかなる大天才であろうとも今日20世紀よりすればなお、更なる進歩があるべきはずである、と私共は確信しているのであります。

我が国の絵画が諸外国に優先して遥かに高い印象派色彩派を有してきた事実を忘れ、軽々しくも、ラスキン一派の唱導に驚いたりターナーやドラクロアを称賛し、曳いては、ウィスラーにも劣るかの様な意識しか持たない者が居るばかりではなく、宗達、光琳による色彩的印象派すら洋画の模倣なりと成すような手あいが居ることは全く笑うべき愚かさであり、東西美術史の対比すら学んでいないわけであります。

私共の意図はただただ、絵画の大成にあるのでありまして、日本画の特徴のみを云々して満足することではなく、大和民族として生をいただいている以上は、風土による感化は自明のことであり、到らざる身ではありますが、画家として世に立つ以上は自分なりに独自の道を歩もうと存じ、外国の真似をするなどは深く恥ずる処であります。

全く今日、誰が真剣に絵画というものを研究しているでしょうか。いったい何人が胸奥に情熱をほとばしらせて独自の手法を志しているでしょうか。殆どの者は表面の図様を写すだけ、でしかありますまい。
元明時代の衣装に現代の色彩を塗りこめ、狩野派風の富士山を描いた横に円山派の雁の群を描き入れ、これこれの図・・などと、自称しているのも実に厚かましいばかりであります。
又、団体を組んで、何々研究などと自称している者も多くおりますが、ただ権力権勢を得んがために徒党を組んでいるだけのこと、でありましょう。昔から天才は各分野にわたってその才を示すもので、同一人が絵画彫刻建築、ないし、音楽文学に通じ、更には、科学工業政治等々にさえ渉れる者がおりますが、この研究は大天才にして初めて大成功を納めうるものですから、私共不肖の者があえて行おうとするも、無謀でありますが、如何せん時勢と境遇とに駆り立てられ、止むなく邁進する決意をいたしておるところでございます。

それ故、私共の生涯すべて修養中であり、自ら後を危うくすることは出来ない故に、門弟を養うことも叶いません。
然るに、何ということか、少し研究考察を深めた作品は、鑑賞者の目には止まらず偶々良し、とされる作品は殆ど全て、模擬踏襲のものばかり。否、むしろ従来作そのままを複製した様な作品でなければ良く認められない故に、今日いわゆる大家たる者も、それを肯定し、認められにくい追及をする愚を犯さず、ただ古人従来の模倣を平然とし、少々気鋭と自認し東西を参酌したと自称する者もその目的は観者への迎合である場合が殆どであります。

たとえ処世の為とは言え、軽薄姑息であることは免れず、とても百年の計、とは申せません。この様な時、私共が微力を尽くさんと、自ら危地へ志向するのは、止み難き覚悟の故であります。
この企図の成否は世の鑑賞者の何如に依っており、それ故に私共制作者の企図を今一度深くお考えくださいますよう。何となれば、僅かなる識者をのぞけば大多数の鑑賞者は所有作品の値上りを待つのみ、でありまして、その作品に対する一片の愛着すら持たない場合が殆どであるからです。

しかし、これはただ鑑賞者の罪ではなく、作家の側もその殆どが趣意もなければ自信もなく、金を儲けて豪邸に美人を住まわせることが終生の目標と言うような浅ましい境涯を出でないからでありまして、このようにして活ける芸術は死んだ調度品となり下がり、絵画を装飾と決めつけ、建築の部品と成す、という習慣に浸りきってしまうのであります。

芸術の自由は全くなくなり、悪戯に床の間の形に左右され、香炉花瓶の実用品と同じものとされ、茶道具扱いされて素晴らしい世界観、宇宙観をも見事に打ち消されてしまう訳で、こうなると、何をかいわんや、研究も進歩も今更全く無用の長物と言えましょう。

識者が言っている通り、探幽出でて狩野派衰え、光起ありて土佐派亡ぶる、が如き流弊の極みは、バルビゾン派の反動となり、ラファエル前派の勃興もこれまた自然の理と言えましょう。
このような一大危機に際し、専心研究し、ただ前途の開拓をもって自己の慰安とする私共の覚悟の程、上記の通りです。

幸いにも大方のご高察をいただくことが叶うならば、私共の素志も、ほぼ貫徹出来るチャンスもあろうかと思いますが、もし、不幸にして今生にてどなたにも御賛同頂けぬ時は、百年の後を期する他ありません。

私共は、徒に空論を述べようとするのではありません、作家としての手腕は実技にあり、その経験を重ねることが必須でありますから、ただただ多くの作品を制作して沢山のご批判の機会に恵まれれば、私共の趣意は自ずから明らかにされてゆくでありましょう。

不慣れにも言葉を弄したところでその意を十分には言い尽くせませんが大要は御理解いただけるのではないかと存じます。
乱筆乱文、ご容赦いただきますよう。 

 明治三十八年一二月 日本美術院 

     菱田春草 横山大観

             





この時から百有余年、展覧会は100回を迎えても
現実には院展が本来の姿から遠く離れてしまっているのは実に残念であります。

               







posted by 絵師天山 at 03:46| Comment(0) | 院展

2015年09月10日

理想美術館 11    円山応挙作 金刀比羅宮襖絵


良く知られた 【讃岐の金比羅山】

正確に言えば、香川県仲多度郡琴平山中腹の広大な神域に多数の社殿、堂宇、書院、楼門、鳥居、などを構え、年間に400万人もの参拝者が訪れる、日本を代表する神社の一つ、金刀比羅宮。

その表書院と奥書院の襖、床の間の壁、等に描かれた円山応挙の大作品群は、応挙の代表作の一つである事は無論、
書院空間の美 ここに極まる 絶品。


今を去る7,8年前、かの東京芸大の美術館で開催された金刀比羅宮書院の美展は、現場を再現し演出して見せると言う御馳走展示。書院の中に入り込んませてもらえる様な感覚に捉えられる展示方法が話題になりました。

各地を巡回の後、確か、フランス ギメ東洋美術館にもはるばる出かけ・・・
応挙だけではなく、現代人に大受けの若冲、岸岱、の障壁画も加わっておりましたので、さらに話題に


            


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             表書院 山水の間




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             同、拡大図



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             山水の間 西南角から







この書院は、勿論庭園が付属しており、
結構と相まって、神域の一部として清楚なる威容をかもしだしていますが、その庭園には
泉水が施されていて、この応挙の手に成る、障壁画の谷川と呼応するかのごとく配置されていおり、
奥書院内に佇めば、大床に描かれた大瀧から水が流れ出し、左手への奔流を、伝って視点移動してゆくと、
その先には障子越しの本物の泉水が水音を立てて流れている・・・という仕掛け。


スバラシイ意匠です。
ずいぶん時代を超えてきたので老朽化は否めないが、古色が加わったとも言えるので、気心の知れた小人数で散策出来れば、それは記憶に残る床しい時間を過ごすことが出来るでしょう。


美術という熟語は明治時代に出来たらしいのですが、
美術館と称して、“コレノどこが美しいの??” とハナハダ疑問が湧きに沸くおかしな施設が目白押しの今日、
老若男女、時代国籍を問わず、普遍なる美しさを十二分に湛え、少なくとも美術と言うに相応しい列品を揃えてさらにその美を増幅してしまう仕掛けをも誂えるのは、むしろ、日本人の美意識として当然ではないかと、私は思うのです。


コケオドシ、や、およそ美とは縁遠い仕掛けで脅かすのみ。
騙されるのは、始めだけ、・・・・二度と誰も来ない様なシロモノを
美術と言うな! 美術館と名乗るな!!・・・と。言わせていただきましょう。


ついでに、絵を描きたい側へも、(自嘲も含めて)
自分だけに通用する価値観で済ますな!
ただの独りよがりを美術と言うな! 
その程度で、絵を描いてます私・・・
などと言いたもうな!!
単なる写実、映像の乱用、自分にとって新しいだけ、
・・・・そんなのは美術ではなーーーい!!

もっと真面目にヤレ!!!


円山応挙は、
名人というものはこう言う存在である!
・・・ということを、明示した大天才でした、
しかも単に天才というだけでなしに
天才を名人の域に高め尽くした。


This is Nihonga!!

余白の美、ここに極まる名品を描き出しています。
この人に比べれば、伊藤若冲などは幼稚園児くらいのレベルなんだが、
どうしたことか昨今は、現代病とも言える空間恐怖症に陥っている人が多いらしく、余すところなく空間を埋め尽くしてある方が安心するらしい・・・・余白の美がわからなくなって久しい・・・・。



この所秋雨続きでイライラしているせいか、
人の批判がズルズル出てきます・・・・自分のことは置いといて




思わず魅せられるような、美しさで溢れているのが私の理想美術館ですから、作品群の高さも勿論だが、それを活かす仕掛けも最高級でなければなりません。この金刀比羅宮書院のように、自然の美と人口の美とを上手くマッチさせた、あまりの魅力にうっとりとしてしまう様な意匠を凝らしに凝らしたいものであります。






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この襖絵群すべては、金刀比羅宮の書院にあるから素晴らしいので、
この意匠にあやかった立派な施設を整え、
環境をも生かし、そこにしか成り立ちえない美を創造した上で、
理想美術館の一部として、新たに造りあげられたら・・・・と念願しています。



もう一点、私の大好きな応挙の作品はこちら、
月に桜の図





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薄っすらと満月が背景に描かれているのがお分かりでしょうか???

この作品は現在、冷泉家の所有であり、
御子左家、長い伝統のほんの近代に収集したコレクションの一点。
日常の暮らしの中の応挙作品を肌で感じられる貴重な一点であります。



ついでに、若冲の書院床の花鳥図もご覧いただきましょう。





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金箔の砂子を施した画面に、丁寧に植物図鑑の様に描かれています。
【余白の美】は、完全に無視してますね。
現代人にはこの方がウケル???









 

  





posted by 絵師天山 at 14:12| Comment(0) | 理想美術館

2015年09月08日

魅惑の百人一首 83     皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)


【皇太后宮大夫俊成】(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

   よななかよみちこそなけれおもいいるやまのおくにもしかぞなくなる





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             天山書画






現実逃避、ネガティブ、逃げ腰、弱気・・・!?
なんだか、心の弱った折には共感されるかも知れないけれど
少々・・女々しくないか???

いえいえ、決して。
個人的な鬱屈を披歴した歌ではなく、
ご政道の、かく行われるべき姿 からかけ離れてしまった現状を憂いての、鹿鳴に託した歌なのであります。


明治政府が西洋の文物を取り入れ、近代化のシンボルとして建設した鹿鳴館は、この歌の心を捉えての命名??
と考えるのは、深読みに過ぎるけれど、当たらずも遠からずなのではないかと、私などは感じてしまいます。


現政権担当者の非力、非道を嘆いて、今上陛下の御心痛を慮っての作でありましょう。


九十の齢を経、正に歌道の重鎮たる俊成のこの歌を、敢えて百人一首に加えた息子藤原定家の心のうちも、確かに同じ様な気配があったのであろうと思われるのです。


千載集の撰者であった訳ですが、自分のこの歌は入れなかったが、後に、後白河院の勅により入れられた。と言う後日譚も伝えられています。


崇徳院退位の前年、俊成27歳の時の作、
という前後関係から類推すれば、容易にその心は知れましょう。


親友であった西行も、この折に出家してしまうのです。
無常の心は若き俊成をも強く捉えたのでありました。

皇太后宮大夫(こうたいごうぐうだいぶ)とは、
皇太后宮の諸事を司る皇太后宮職長官のこと。

俊成が主に仕えたのは、後白河后 忻子、
(公能女、俊成の姪、藤原忻子)
六十三歳で出家し釈阿と名乗り、後白河の院宣によって千載集の撰者を勤めたのは七十四歳の時でありました。


後鳥羽院は勿論この歌を高く評価されておられます。






            
posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年09月07日

魅惑の百人一首 82     道因法師


 【道因法師】(どういんほうし)

思いわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

   おもいわびさてもいのちはあるものをうきにたえぬはなみだなりけり






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               天山書画 




魅惑の百人一首も早82番目!
いよいよこのあたりから真打登場!!
重鎮のオンパレードです。


よくもこれ程厚みのある歌人群が揃いも揃ったり!
平安時代という国風文化の精華は誠に素晴らしいものがあります。

この歌の作者道因法師は、
元の俗名を 藤原敦頼(あつより)と言い
先に登場しました左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)の子
清輔(きよすけ)が主催した尚歯会(高齢の人が集って詩歌などで遊ぶ会)に、
満84歳で出席。さらに、91歳の時には
右大臣家の歌合に参加した、という記録もあり、
なかなかの健胆家・・・ 長寿を得たのですね。

老境に入っても、秀歌を詠ませ給え! 
と住吉様に願掛けしたり、
俊成の夢枕に立って、わが作品を撰集せよ!と迫ったり、・・・
けっこう強烈な爺様だったらしく、この歌もやや自虐的・・・
少々やっかいなネガティヴさをたたえ、
命と生理の相反する処を
若干コミカルに詠いあげています。

千載集の恋の部に入れられており
ツレナイ人を思い侘びれば、いっそのこと死んでしまいたくなるけれど
そうは言ってもなかなかおいそれとは死に切れるものでもなく・・
そのくせ、憂きことあれば涙というものは止められん・・・と
わがままにも??嘆いた・・・のであります、が、
ごもっともな話・・・・
歌道一筋に心を寄せたと伝えられる作者の志の深さは
こんな風な、しみじみとした哀感の滲みだす処?に、
現れているのかもしれません。


友達にすると面倒臭いタイプ、だが、
居なくなるとちょっと淋しくなる・・・・そんな人柄だったのではないか?と思われるのです。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首