2018年01月01日

聖徳記念絵画館 その7


あけましておめでとうございます

平成の御代に入って早30年・・・

戊戌(つちのといぬ)の本年は、
ちょうど明治150年に当たります!!!



          IMG_4617.JPG

          松岡映丘筆、明治天皇像



明治元年3月、
明治天皇が天地の神々にお誓いになった

【五箇条御誓文】第一項は



広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ



この公論の【公】は、正に明治という画期的な時代を象徴する言葉でした。

つまり明治以前は長い間【公】のない【私】に終始した時代だった訳で、
・・・・・それまで日本の国ではそれぞれの世界が士農工商という身分制度や藩と藩の区別というような、すべてが【私】の世界に分断されてそれを幕府が統括する体制であったのが、その垣根を取り払っていわば、お互いの心と心とが直接触れ合うことのできる世界になった、と言う喜びがこの【公】という一字にに込められていると思うのです。

それは国内だけにとどまらず鎖国という【私】からの脱皮でもあり・・・・。

ペリー来航以来否応なく、西欧諸国の東洋侵略に対して一刻も早く対抗できる力を身につける為に外来の文化を積極的に採り入れ、活気あふれる明治文化を生み出す原動力ともなりました。



残念なことに、朝鮮と清とは押し寄せる外来文化に何の反応も示さず、西欧諸国の東洋への侵略の意図についても全く関心を持とうともせず、清はアヘン戦争以来まるで闘志無く、朝鮮は清の顔色を伺うばかりであり
文字通り【私】に浸り続けたまま・・・・・


このままでは日本は自らを守ることも出来ないし東洋は自滅するばかり・・

それを打開するために先ず清に朝鮮を独立国として認めさせねばならない。
日清戦争を戦い、それを奇貨として満州と朝鮮半島を制圧し、日本に迫ろうとするロシアの侵略の魔手を排除するために東洋の運命を一身に背負って戦ったのが日露戦争であります・・・・


日清日露両戦役の奇跡的なる勝利は日本人が【私】から【公】に脱皮し得たからであり、
その中心に明治天皇がおわしましたからであり、
世界中の人々を驚嘆せしめ畏敬せしめ・・・
世界史上の奇蹟!!・・であり
明治とは誠に輝かしい稀有なる時代だったのです。






          IMG_4634.JPG
          松岡映丘筆、明治天皇像



白人不敗の神話を打ちやぶり、大東亜戦争には敗れたものの、アジアの全ての植民地が西欧列強支配から解放され独立した事実は、東洋の植民地解放という名分が歴史を先導したことを証明しています。

そして今。
北朝鮮の核の脅威、中国による領海侵犯・・ロシア、
・・・・等々
日本は明治維新の時と同じようにその渦の中心に立たされ・・・晒され・・・ているのに、

・・・・【公】を忘れ・・・・










posted by 絵師天山 at 23:25| Comment(4) | 聖徳記念絵画館

2017年12月23日

聖徳記念絵画館 その6


     

      聖徳絵画館2.jpg 

      聖徳記念絵画館展示場


明治天皇の歌人としての卓越は良く知られています、

御生涯の御製の総数は九万三千三十二首!

これは勿論、和歌史上のダントツ最高記録で、
この93032首という数は、
作歌を仕事としている歌人でも
とても及び難い数であり、
我々の想像もつかないほど政務でお忙しい御生活の中でお作りになられた数であることを考えれば、ただ々々驚嘆するばかり・・・・


さらに驚くべきことに、ご生涯のうち最も御多忙であられた時期にお作りになったお歌が最も多い!!

年間最多の作歌数はナント7526首!
それが、日露戦争勃発の明治三十七年、で、
一日平均二十首以上!!!!!
専門歌人さえ脱帽するのも当然ですね。


その全ては明治天皇御製全集百十冊に収められ、
宮内庁侍従職の一室に門外不出の秘本として架蔵されてあります。

その中から八千九百三十六首の御製を選んで項目別に編纂した
【類纂新輯明治天皇御集】が平成二年に明治神宮から刊行されており、
今のところこの書が一般庶民の手にすることのできる最多の御製収録集。
もっと簡便な版本も多数あり、普及度も高いのは
御歌そのもののグレードの高さと人気度を証明しています。


御存じ、明治神宮のオミクジは、明治天皇両陛下の御製、
心の奥底に届く様な・・・・・
平易な語彙で表現されていて、
極めて解りやすく、心を打つお歌ばかり・・・



西行や藤原定家や・・・
歌仙とうたわれた歴史上の名歌人達も
明治天皇には及ばない・・・・?


明治天皇のご事績を絵画化する聖徳記念絵画館にしても、
偉大な名君顕彰を企図したものでありますが、
和歌はもっと身近に・・・
明治天皇を敬慕するには
・・・大変良いアイテムですね。


・・・教育勅語も素晴らしいものなんだが、
これを時代遅れとか、なんとか言って排除しようと
今だに反対している馬鹿者もあり、
ユダヤ・アングロサクソン支配に盲従させられた挙句
目先の利害しか考えられない様に躾けられて・・・
折角の日本の凄さを忘れ・・・
何をかイワンや・・・・こう言うアホにも
和歌であれば解りやすく、日本の日本たる素晴らしさを・・
ちょこっと、覗かせてやれば目が覚めて?!
・・・・和歌は非常に良い働きをするのではないか?
と、思います。




ここで御製をいくつか例示させていただきましょう。

先回にご紹介した伊勢神宮御親拝
明治24年、皇大神宮にて
【社頭祈世】と題された、


 

 とこしへに民やすかれといのるなる
       わがよをまもれ伊勢のおほかみ

 ちはやふる神ぞ知るらむ民のため
       世をやすかれと祈る心は



明治帝は明治元年に御年15歳ですから
この明治24年伊勢神宮御親拝は40歳直前・・・

明治27年は維新後初めての対外戦争として清国との戦い
幸いにして短期間で決着し28年年頭に


 よものうみ波をさまりてこの春は
        心のどかに花を見るかな





最大の国難日露戦争開戦前夜の時期に


 暁のねざめしづかに思ふかな
        わがまつりごといかがあらむと


 まつりごとただしき国といはれなむ
        百のつかさよちから尽くして




明治37年二月遂に開戦となってからは、詠まれる和歌の数も質もさらにグレードアップ!!




 いくさ人いかなる野辺にあかすらむ
        蚊の声しげくなれる夜頃を


 いたでおふ人のみとりに心せよ
        にはかに風のさむくなりぬる


 ともしびをさしかふるまで軍人(いくさびと)
        おこせしふみをよみ見つるかな


 はからずも夜をふかしけりくにのため
        身をすてたりし人をかぞへて

 年へなば国のちからとなりぬべき
        人をおほくも失ひにけり

 国をおもふ道にふたつはなかりけり  
        軍(いくさ)の場(には)にたつもたたぬも

 子らは皆軍のにはに出ではてて
        翁やひとり山田もるらむ



明治帝の御仁慈は国民全般のみならず敵国の将兵の上にも


 国のためあたなす仇はくだくとも
        いつくしむべき事な忘れそ




辛うじて勝利に終わった日露戦争後、戦後状況に如何に対応すべきかの深い御懸念が・・・


 戦のかちにほこりてむらぎもの
        心ゆるぶなわがいくさびと


 国のため心も身をもくだきつる
        人のいさををたづねもらすな

 萬代もふみのうへにぞのこさせむ
        国につくしし臣の子の名は

 国のためかばねさらししますらをの
        たままつるべき時近づきぬ

 靖国のやしろにいつくかがみこそ
        やまと心のひかりなりけれ



そして御晩年老熟期に・・・・



 目にみえぬ神にむかひてはぢざるは
        人の心のまことなりけり

 すすむ世を見るにつけても思ふかな
        わが国民のうへはいかにと

 ことのはのまことの道を月花の
        もてあそびとは思はざらなむ


至尊調・・・といわれる所以が・・・


 千万の民の力をあつめなば
        いかなる業もならむとぞ思ふ

 なりはいを楽しむ民のよろこびは
        やがてもおのがよろこびにして

 わが国は神のすゑなり神祭る
        昔のてぶり忘るなゆめ

 わがしれる野にも山にもしげらせよ
        神ながらなる道をしへぐさ

 たらちねの親のみまへにありと見し
        夢のをしくも覚めにけるかな


御感性の瑞々しさ・・・飾り氣の無さ・・・


 思ふことおもふがままに言ひいづる
        をさなごころやまことなるらむ

 むらぎもの心のかぎりつくしてむ
        わが思ふことなりもならずも

 いかならむことある時もうつせみの
        人の心よゆたかならなむ

 こころからそこなふことのなくもがな
        親のかたみとおもふこの身を



最後の御年の御製・・・に


 なすことのなくて終らば世に長き
        齢をたもつかひやなからむ




聖徳記念絵画館の列品に添えて、御製も併せて掲げてくだされば・・・と思うのですが。


この項終わりに

【春雨】と題された珠玉の御製を・・・




  春さめの音ききながら文机の
         上にねぶりのもよほされつつ


  しづかなる春の雨夜を歌ひとつ
         よまでふかすがをしくもあるかな

  春さめのしづかなる夜になりにけり
         すずりとりよせ歌やよままし







posted by 絵師天山 at 00:59| Comment(3) | 聖徳記念絵画館

2017年12月13日

聖徳記念絵画館 その5


神宮親謁(伊勢の神宮ご参拝)



     IMG_4570.JPG




時   明治2年3月12日(1869年4月23日)

所   内宮玉垣御門(皇大神宮)

奉納者  侯爵 池田仲博

画家   松岡映丘(まつおかえいきゅう)


明治2年3月12日、天皇は、京都から東京へお帰りの途中、伊勢の神宮に参拝され、御祭神に、天皇政治の復活と政治の刷新をご奉告、国運の発展をお祈りになりました、天皇の神宮ご参拝はこれが初めてのことで、天皇は、みずから祖先を尊ぶお志をお示しになりました。

絵は、玉垣御門を通り神前に参進される光景です。




作者 松岡映丘氏については、
当ブログでも再三取り上げ、
大和絵の復興に生涯を尽くした誠実なる画人、
柳田國男の弟・・・

播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。

幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。その時分より歴史画、特に武者絵を好み、日本画家を目指した。明治28年(1895年)、最初は狩野派の橋本雅邦に学んだが、鎧を描くのが大好きだった映丘には合わず半年ほどで通わなくなり、明治30年(1897年)に兄の友人田山花袋の紹介で、今度は住吉派(土佐派の分派)の山名貫義に入門する。そこで本格的に大和絵の歴史や技法、有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事など)を研究するようになる。

明治32年(1899年)に東京美術学校日本画科に入学し、ここでは川端玉章、寺崎広業らの指導を受ける。また在学中に小堀鞆音や梶田半古、吉川霊華らの「歴史風俗画会」に参加している。明治37年(1904年)に首席で卒業する。映丘の画号は在学中に兄井上通泰に付けられたもので、『日本書紀』「天岩戸再生の条」で美の形容して「映二丘二谷」から取られている[1]。翌年、神奈川県立高等女学校と当時併設されていた神奈川女子師範学校の教諭を務めた。明治41年(1908年)、東京美術学校教授の小堀鞆音の抜擢で同校助教授に就任する。1912年の第6回文展において「宇治の宮の姫君たち」が初入選すると、以後官展を舞台に活動した。

1916年には「金鈴社」の結成に参加。1920年に、大阪堺出身の門人で、大阪では島成園門下だった林静野と結婚。静野の画業はよくわかっていないが、夫に勝るとも劣らない作品が残っている。1921年には自ら「新興大和絵会」を創立し、大正・昭和にかけて大和絵の復興運動を展開した。この会は1931年には解散したが、『絵巻物講話』(中央美術社)や、編著『図録絵巻物小釈』(森江書店、1926年)を著し、1929年には『日本絵巻物集成』(雄山閣)や『日本風俗画大成』(全10巻・中央美術社、復刻国書刊行会)の編纂を行った。

1928年秋に昭和天皇御大典を奉祝した記念絵画を納めている。1929年、第10回帝展に出品した《平治の重盛》で帝国美術院賞を受けた。1930年に帝国美術院会員に選ばれた。

1935年の帝展の改組で画壇が大きく揺れ、映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成した。1937年には帝国芸術院会員となるが、1938年に死去。56歳没。墓所は多磨霊園。


と、ウィキにも詳しく・・・
混迷する現代の日本画家はこの人を当面の目標にすべきであるとさえ
・・・私は思っております。


先回に遠近法に囚われている、と言う様な話をしましたが、
この作品もごく浅く遠近法を取り入れています。
が、参進される有様を横から見ての表現ですから、
距離感は余り無い。
・・・従って説明的な遠近を感じないで済み
神域の雰囲気を壊さない。


先回の作品は天皇のお姿を描かない古法が守られている、
と申し上げましたが、
黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を纏われた
明治天皇自らの御親拝を詳らかにする、という意味で
この場合は、しっかりとお姿が描きだされ

天蓋を持つ侍者が赤色である他は皆黒い装束
玉垣が幾重にも重なるその垂直性と水平性とを拮抗対比させた中に
赤と御袍の緋黄土色という画中最も強い色彩を置いて
鮮烈な印象を生もうとした作者の意匠は見事!

神宮の社そのものは描かず、鳥居をくぐり内垣に入る手前を舞台にすることで
今度は天皇は描いたが、御祭神の社は描かない、という最上の礼を尽くしているのです。


しかも万幕の白黒が縦じまの強い造形ですから
空を少し暗い色にして不安定にし、
画面上部の重さで下部の強い造形に負けない工夫が成されているので、
実に、さすがは映丘先生。
筆技の妙・・・・!!
全く大したもの・・・・なんですね。







posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(2) | 聖徳記念絵画館

2017年12月10日

聖徳記念絵画館 その4

 
 即位礼(ご即位の儀式)



      IMG_4567.JPG  




時   明治元年8月27日(1868年」10月12日)

所   紫宸殿(ししんでん)(京都御所内)

奉納者  京都市

画家   猪飼嘯谷(いかいしょうこく)



即位の儀式は、昔から唐の制度にならって行われてきましたが、天皇の政治が新しい方針の下に行われる時なので、衣服は我が国古来の服装を用いられ、式場も全く新しい様式に改められました。

天皇は、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を着用され高御座(たかみくら)にお登りになり、即位のことを天地の神々にお告げになりました。

絵は、即位礼の光景です。 



この作者については、以下、

猪飼嘯谷 いかい-しょうこく
1881−1939 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治14年4月12日生まれ。谷口香嶠(こうきょう)に四条派をまなぶ。はじめ母校京都市美術工芸学校で,明治43年から大正14年までは京都絵画専門学校(現京都市立芸大)でおしえた。歴史画を中心に明治41年以降文展で活躍,帝展に出品せず,昭和12年新文展に無鑑査出品した。昭和14年6月16日死去。59歳。京都出身。本名は卯吉(うきち)。作品に「大正天皇大礼絵巻」。



・・・とあります様に、長命は得られなかったが、四条派ですから、伝統的アカデミックなる出自。
京都派の日本画家として、王道を歩んだことは間違いありません。「大正天皇大礼絵巻」の作者でもあり、御皇室への尊崇は人並はずれたものがあったことも確かです。


拡大してご覧になると良く分かりますが、伝統的大和絵の手法。
精細、緻密、堅実、・・・・
テーマは即位礼ですから、明治天皇の御事績の中でもエポックなる出来事、
それに相応しいとされたのがこの作者、猪飼嘯谷先生だったのでしょう。


当然テーマに相応しいとされた作者が、御事績それぞれの担当と認定されて、制作に励む訳ですから、最重要なる儀式のシーンを描く人!としてこの人以外には居なかった?のかも知れません。

何れにせよ、手がたい熟練の手腕は、大したもので、
若干・・・遠近法に囚われてしまった!
という惜しいところもあるにせよ、この温厚さは十二分に頷ける。



遠近法は、所謂、送り・・・
コチラが近い方で、あちらは遠い方・・・
と、視点の遠近を描き分けることによって
より写真的真実に近づくので、解り易い。
が、解りやすいのと、美しさとは別物ですから、
絵画の魅力を発揮させるにはこの遠近法に囚われない
ということが重要なファクターになる。


けれども、先回も申し上げましたが時代は
西洋化の大波が押し寄せ、大和絵の大家も
時の要請は看過し得ない、・・・・
こう言うテーマは、
遠近法から超越して、所謂【吹き抜け屋台】式に描くと
超面白くなるんだが・・・・残念、
御時世という波には抗えなかったのでありましょう。



それでも基本は伝統的大和絵の手法ですから、
明暗とか立体感とか、写真的写実からは解き放たれている分だけマシ。

衣装美、・・・装束の華麗さは、
立体も平面で捕らえる・・・・という
大和絵の手法ならでは

陛下のお姿を隠して殆ど描かない・・というのも
古法に従っており、理に適っています。


後出の他作品には、陛下の御影を露出させて描いた場面もありますが、
即位礼という性質上、玉体は見えない様に描くのは当然の事。


平成の御代になった折の、今上陛下の即位礼では、
ナント!総理大臣が燕尾服で高御座の前に立ち、
有象無象の政治家を従えて、万歳ナド・・・していましたが、
燕尾服も間違っていますし、
そもそも総理大臣風情が高御座の前に立つこと自体驚きの不作法。
・・・・・なのであり、
いかに現代とはいえ、古式を知らないのにも程がある・・・
と言う事は、知っておかなければならないでしょう。
明治帝は鎌倉幕府以来手放されていた実権を取り戻し
あらゆる点に於いて、日本の日本たる所以を取り戻そうと聖慮を尽くされたのであります。



この図は、その正当なる古式を十分に伝え、
紫宸殿に設えた高御座の布置、・・・居並ぶ、皇族、公卿、命婦女王
しかも正面からは描かない、・・・という当然しかるべき謙虚なる視点。
悠久の日本歴史そのものが儀式として表現されたかのような荘厳華麗・・・

畏れを知らぬ傍若無人とは、明らかに一線を画す
考え抜かれた構図であることは確かです。






posted by 絵師天山 at 11:39| Comment(3) | 聖徳記念絵画館

2017年09月10日

聖徳記念絵画館 その3


聖徳記念絵画館 その3は、この作品から。



      IMG_4565.JPG

       13 江戸開城談判(江戸城開け渡しの会談)


時   明治元年3月14日(1868年4月6日)

所    芝 田町鹿児島藩邸(東京)

奉納者  侯爵  西郷吉之助(さいごうきちのすけ)
      伯爵  勝 精(かつくわし)

画家   結城素明(ゆうきそめい)


明治元年3月初め、大総督熾仁親王(たるひとしんのう)の率いる官軍は、江戸城にせまり、総攻撃の態勢を整えましたが、旧幕臣もこれを迎え討つ準備を着々と進めておりました。幕軍の代表安房守勝義那(あわのかみ かつよしくに=海舟)はこれを憂え、戦いを起こさないよう努力、官軍の大総督参謀西郷吉之助(隆盛)と芝田町の鹿児島藩邸で会談しました。この結果、江戸城の開け渡しが決定し、江戸市民は戦災を免れることができました。
絵は、西郷と勝が会談する光景です。





何とまあ、陳腐な絵ではありませんか!
おぢさんとおぢさんが・・・・
すすけた畳の部屋で対面しているだけ・・・・
慎ましさと、緊張感・・は漂うものの、
これと言って見どころは無く、
上記の説明文が無ければ
何の事か分からず
大した魅力も有りはしません。


歴史的瞬間というのはこんな風に
ナンでもない感じなのかもしれませんが、
それにしても、
写真や動画、映像文化に慣れ親しんでしまった現代人からすると、
何だか・・・・つまらん



確かに、よーっく観れば、細部にわたって良く描き込まれては・・・いますが、
歴史的瞬間な割に、ドラマチックな様子がそれほど・・・
感じられない・・・

作者の結城素明(ゆうきそめい)という画家が
ヘタクソなのか??


ウィキペディアによれば・・・

結城素明
東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名という。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の天真画塾に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
27年(1894年)1月、素明は玉章の内弟子となった平福百穂と知り合い意気投合、両者に後年まで絵画技法上の共通性はないが、終生無二の親友として交友する。明治33年(1900年)无声会を結成、1904年東京美術学校助教授、1916年金鈴社結成に加わる。文展に出品、1913年教授、1919年東京女子高等師範学校教授兼任、1923年から英独仏へ留学、1925年帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1944年従三位・勲二等瑞宝章受章、1945年東京美術学校名誉教授。
作品


つまり、地位、からしても、名声から言っても
当代一流と言うに相応しい御方。

しかも、当の勝海舟から名前まで戴いた・・・


だのに、平凡さはぬぐえない駄作・・?


写実的絵画としては良いところまで行っているのですが、
この程度の写真的リアリティでは物足りない、
確かに写真から受け止められる感じを越えてはいるのだけれど、
今一つ絵画の魅力が足りないのは、
時代相にも、その因が・・・・

聖徳記念絵画館が出来上がる前後の時代は
正に西欧化の大波が押し寄せてきた頃であり
かろうじて日露戦争を勝ち越して残るには残ったが、
疲弊と西欧化への願望とが渦巻いていた。

絵画の世界もしかり、
写真的写実こそこれからの主流!
そういう風潮が強烈だった。

写実に偏らず、
写意を優先し魅力化した伝統的大和絵すら
時代遅れの烙印を押されていたころ・・・

芸大の教授さえもが、写生帳を片時も離さない時代だったから
この作品は、和紙に岩絵の具で描かれているのに、
油絵的写実に留まってはばからない。


加えて、この壁画群の性質として、
画題が始めから他人によって選定されており
大方の構図、などにも自ずからある程度の制約があり
画家の自由自在なる創作性に委ねられる割合が少なかった

よって、後に芸術院会員にまで登りつめ
画家として大成功を納めた程の立派な先生も
制約を大真面目に受け止め、
ましてや、自分の名付け親の実像を描くのに
全力を振り絞って写実力のみを注いだ結果が
・・・この様に
少々陳腐と言わざるを得ない作品になった・・・・

芸術的価値と言うよりも、
記録的価値が優先してしまった典型例であります。


客観性が九分九厘を占め
主観性が殆ど見当たらないのは
時代の要請を真摯に受け止めたが故とも言えるのでしょう。



だがしかし、結城素明(ゆうきそめい)の
愚直なる?写実性の力量こそ
この壁画制作に無くてはならないものでもありました。






つづく
posted by 絵師天山 at 00:54| Comment(2) | 聖徳記念絵画館

2017年09月01日

聖徳記念絵画館 その2


明治神宮外苑に聖徳記念絵画館の建築が企画されたのは大正7年のこと、
設計図案を全国から公募で募り、
150通を超える応募のなかからコンペで一等当選図案が決定されました。
海外諸国に伍して近代国家に“矢を放つ如き速さ”で脱皮してしまった日本という国家の真骨頂がこの図案にも良く現れています。
日本人は、
法隆寺の木造建築の如き世界にも稀に見る建造物を
どれくらい前から建てて来たのか?
出雲大社から出土した遺構を見ても、
日本人の匠の技は正に至芸、石造りの西洋建築の典型を造るくらい、ごく普通のお手軽仕事・・・・
甚だ優秀なこの一等当選図案は、神宮の造営局でさらなる審議を重ねた上大正8年夏、設計図の決定案が確定され、次いで10月に基礎工事に着手、
その竣工は大正15年10月。



 

     聖徳絵画館3.jpg






     聖徳絵画館1.jpg





この建物は壁画館として構想されたもので、
掲げられる壁画の数や画題の選定は建物の建築より早く、
大正6年5月に選定委員会が組織され、
閑院宮戴仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)を総裁に戴き、
顧問金子堅太郎以下10人の委員が選定の審議に当たり、
大正10年1月には全80点の画題選定を終え
“考証図”と呼ばれる粗描の図案を制作
その本図それぞれの制作担当者を選ぶことに、・・・


“考証図”を作ったのは東京美術学校校長、正木直彦の推薦による五姓田芳柳。
それぞれの画題の趣旨説明文を作るのは池辺義象が担当。

80点の壁画が絵画館に収まるについて、造営局はその各作品の奉納者を募り、選定。
費用の負担者、画料を寄進してくれる個人、法人を求めた訳です。


壁画制作については調成委員と呼ぶ画家を複数委嘱、
絵画委員黒田清輝発議により、
日本画部では竹内栖鳳、山元春挙、川合玉堂、下村観山、小堀鞆音、横山大観の6人
洋画部では、岡田三郎助、和田英作、中村不折、長原孝太郎、藤島武二、小林萬伍の6人

とし、第一回の調成委員会を大正12年9月半ばに予定していたのが
関東大震災に見舞われ、延期。暮も押し迫った12月開催、
日本画洋画、共に40点という配合も決まり実際の揮毫者選定に入ることに・・

しかし、
翌13年、絵画委員として画家たちを統括するようは役割を担っていた黒田清輝が死去。

次いで14年春には、川合玉堂、下村観山、横山大観、の三人が絵画調成委員を辞退するという事態に・・・・


既に建物の建築は大正8年に始まっている・・・のに、
日本画の調成委員で東京在住の玉堂、観山、鞆音、大観の四人は、
絵画館の展示が専ら明治天皇の御事績を讃える壁画に限られていることを不満として、
工芸作品なども含めた幅の広い聖徳記念美術館とすべきであると建議。
しかし、建物自体が壁画館として設計され、建造も始まっている・・・
今更の目的変更は不可。
明治神宮奉賛会理事会のこの回答に不満を抱いてのマサカ!の辞退・・・・

小堀鞆音も他の三人と共に美術館化への建議を唱えたものの自己の建議が容れられないことを不本意としての辞退ははなはだ宜しくない・・・熱い“皇室に対する尊崇の気持ち”が彼を留めさせた。


まあ、良くあること?でしょうね。

一つの事業に向かう姿勢は、それぞれであり、
始めは熱心で冷めてしまう人もあれば、
その逆の人も居て、事情もそれぞれ、
黙して語らずの人もあれば、喚き散らすような無粋も・・・

まして関東大震災という未曽有の天譴があり
普通の生活すらおぼつかないような時期・・・

大観先生は、滅びかけた院展を再興し、
大正12年9月1日にようやく開催に漕ぎつけた!
と思うや否や2日には関東大震災に見舞われる・・・という憂き目を体験・・・

正にそのさなかの聖徳記念絵画館事業参加云々・・・。

ナンとも不本意であったのだと思います。


大観作品が加わって居れば・・・

タラ、レバ・・・は言っても仕方がない。

有力な画家の不参加は大事業にとっては一つの頓挫でありましたが、
結果残された小堀鞆音のさらなる自覚を促し、新たな人材のチャンスに繋がる訳です。




続く
posted by 絵師天山 at 11:03| Comment(0) | 聖徳記念絵画館

2017年08月31日

聖徳記念絵画館 その1


明治神宮外苑、青山から続く銀杏並木のその先、
視点の定まる所に聖徳記念絵画館はあります。

秋たけなわ、銀杏が黄金色に染まる頃、この有名な並木道を歩いたことがある方は多いはず、
ですが、遠近法の消失点にある中央奥の建物が絵画館であることを知る人は少なく、
神宮球場や国立競技場、ラグビー場、等々、外苑周辺の施設を利用する大勢の人々も、通りがかる沢山の人々も、その殆どは明治神宮外苑のシンボルこそ、この
聖徳記念絵画館だ!・・という事は知らない。

勿論、入ったこともなければ、関心を持ったこともなく、
そう言われれば、・・・そんな建物があったか??

まして聖徳記念絵画館の存在意味など知る由もないのが現代人一般の傾向でありましょう。

しかしながら、この聖徳記念絵画館には日本という特別な国のその特別である本当の意味が、込められているのです。




     250px-Seitokukinen_kaigakan01s1024.jpg



案内のパンフレットには・・・・

明治神宮外苑の中心的な建造物、聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后お二方の御事績を永く後世に伝えることを目的として建設され、建物の着工から全壁画の完成まで、約20年の歳月を費やしました。
館内には、延べ250メートルの壁面に、明治天皇・昭憲皇太后お二方bの御一代の御事績を描いた縦3メートル、横2,7メートルの絵画80枚が、年代順に展示されております。絵画はすべて、当代一流の画家が、史実に基づき、心血を注いで描きあげたものであり、いづれも、芸術的価値の高い歴史的史料であり、また世界に誇る文化財であります。これを巡覧すれば、御治世46年の間、国運発展の原動力となられた明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳と、偉大な御事績を目のあたりに仰ぎ見ることができ、また驚くべき速さで近代国家へと発展しつつある明治期の躍進の姿を偲ぶことができます。


驚くべき速さ、・・早さばかりではなく驚異的な“質の高さ”・・で
日本という国家がユダヤ・アングロサクソン(=白人社会)の流儀を取り入れ、所謂
“近代国家”へと変貌したその本質は、明治天皇というリーダーを戴いた故であり、
今尚この絵画館はその事を雄弁に語り続けています。

明治時代という極めて困難な時代に明治天皇という稀有なる一大英傑を得たことが日本にとって、
引いては世界にとって、どれくらい重要であったか、・・・
現代人の多くは知る由もなく、
多くの国民がその事実に気付かない、・・・否、
気づこうともしないことこそが、今日のあらゆる混迷を生み出す元凶である、・・と言っても過言ではないでしょう。


歴史とは常に勝者が塗り替えるものであり、明治天皇のご事績を無視するところから始められた戦後が、混迷の坂道を転がり続けるのも当然かも知れません。


偶然に・・・タマタマ、困難な時代に英傑が現れたのか?
いえ、決してそうではなく、
難局を越えるべき時には、越えるべき必要を痛感し実行できる存在が相応に産まれ出る!!!
・・・のが日本という不思議な国家であります。

それはともかく、
11月3日を“文化の日”と制定し、
“明治節”とは言わなくなった。いや、言ってはいけなかった。

救国の英雄の誕生日を曖昧に塗りつぶし、
日本の日本たる所以から目を背ける様、
国家ぐるみで反国家を唱える摩訶不思議な時代相に不審すら感じない。
・・・どころか、“明治節”を唱えたがる方が誤っているという、
オカシナ国民性?が幅を利かせた。




 しかし、
この聖徳記念絵画館は静かに、
黙しつつ、
昨今の世相に反駁することもなく・・・
真実のみを伝えているのです。    
 



平成の絵師として、聖徳記念絵画館に掲げられている数々の作品を語り遺すことも無意味ではないでしょう。

新シリーズ・・・・どうぞお付き合いください。






日本画40点、油絵40点の構成。
一点が3メートル×2、7メートル、という大作。全80点!!!

見ごたえは充分!
絵画ならではの魅力に溢れています。
報道写真とか、動画とか、映像媒体では得られない味わいがあるのですね。


当代一流の画家達を動員。
・・・・・・なのに
横山大観の作品は??
・・・なぜ無いの?
・・・・・・・


語り始めはこのあたりから。






御存じの方も居られましょうが、
横山大観は水戸の生まれ、先祖代々勤皇の心篤く、
先の大戦では、自身の作品の売上金で
陸軍、海軍に戦闘機を献納するくらい愛国心の強い人だった!

終戦後戦犯に問われかねなかったところ、
色々と蔭から助けてくれる方があって、何とか免れた・・・が、
帝国技芸員などの公職は自ら降りた・・・


そういう画家です。

私の属する院展が今日まで続いているのは勿論創立者の代表とも言うべき
大観先生の御蔭。
日本画が滅びゆくかに見える世相であっても大観先生の偉大なる画業は
若い人にも共感され、今なお盲を啓く砦となっております。

つまり、
明治天皇の偉大なる御事績を絵画化する・・・という
聖徳記念絵画館の企画は、大観先生にとっても
願ってもない“させていただきたい仕事”であり
是非ぜひ参加したかった。




が、




つづく





posted by 絵師天山 at 11:56| Comment(0) | 聖徳記念絵画館