2017年05月13日

理想美術館13 歌川広重と葛飾北斎 続き


歌川広重と葛飾北斎 続き


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夜逃げを重ねるたびに名前も変えていた北斎とは対照的で、出自も確かな、一方の・・・
歌川 広重(うたがわ ひろしげ)、
本名は安藤重右衛門。
江戸の定火消しの安藤家に生まれた惣領。
家督を継ぎ、その後、浮世絵師となった人。
今で言えば消防署長の御家柄・・かな??



私が習った時代は安藤広重(あんどう ひろしげ)と呼ばれていましたが、
安藤は本姓、広重は号であり、
両者を組み合わせて呼ぶのは?、
広重自身もそう名乗ったことはなさそう・・・・なので、
今では歌川広重。
歌川は浮世絵師の名前、
歌舞伎役者が市川とか中村とか名乗るような・・・


ついでに昔の有名人の名前について・・・ちょっと・・・

普通我々は、徳川家康、新田義貞、足利尊氏・・・等々
誰もが当たり前のにこう呼び習わしていますが、実は、
足利尊氏とか徳川家康とか書いてある当時の文献はどこにも無く
我々の時代になって、符牒の様な意味で、目印として
足利尊氏とか徳川家康と言うだけのことであって、
当時そういう呼び方は絶対にしなかった。
それは

明治4年に【壬申戸籍】が出来るまで、
家の名前と諱(いみな)とを直結することは許されなかったから・・・


足利と言うのは家の名前であって、
氏の名前ではありません。
尊氏と言うのは諱(いみな)ですから、
家の名前と諱とをくっつけて足利尊氏!
などというのは絶対無し!

例えば、北条家が出した鎌倉幕府の下し文くだしぶみというのが沢山あり、それには必ず執権の相模守平朝臣(さがみのかみたいらのあそん)とか武蔵守平朝臣(むさしのかみたいらのあそん)と、書きその下に【花押】がある。・・・北条某・・・というのはどこを探しても絶対に存在しない。

つまり、足利家の源尊氏、であり、徳川家の源家康であって、文書に出てくる場合、家康は江戸の内府とか、江戸大納言とか書かれ、正式文書では源家康、と表記される。
足利尊氏の場合も足利中納言とか、足利将軍とか鎌倉大納言、などというのは構わない。
家の名前と官職とを結び付けるのは有り。
だが、
徳川家康とか足利尊氏とは絶対言わない。


現在では氏の名前と家の名前とを混同していることに気付くことすらありません。

日本人が苗字と名前を持つ様になったのが、明治4年。
明治政府が政令を出して、
日本人はすべて苗字を一つ、名前一つにせよ、・・・
一番困ったのは、
苗字が今まで無かった大部分のお百姓さんたち。
・・・だからそれまでは、
西郷隆盛なんて言う名前は無かったので、
平朝臣隆盛と称した。
大久保利通は藤原朝臣利通、
大隈重信は菅原朝臣重信、
伊藤博文は越智宿禰博文。

・・・これらは偽物の系図からひねり出した・・・伊藤博文の家は足軽で身分が低いから大してお金が無い。そこで偽系図を作る時に安く済まそうということで、越智宿禰(おちのすくね)と言う様な氏姓をゲットした・・・・
越智宿禰は伊予国の名門だったが、後世には大した氏ではなくなっていたのです。

明治4年の壬申戸籍により、家名のある家はそのまま苗字とし、
そうでない大部分の人は結構良い加減に・・・、
あとは名前を一つ付ける事となって・・・・
今日に至り・・・・
それ以前は全然別だったことは全く知らない・・
知らされない・・為に、・・・・悲しいかな、
夫婦別姓??!!とかタワゴトをウソブクまでに堕落したのです!!

源頼朝の部下は全部源氏、とか、当然のように思われてますけれど、実は、
その殆どが平氏。・・・・8割くらいかな、・・・・
なのに平家物語=源平バトル・・・なんて
いとも簡単に歴史を歪曲してしまうのは、
戦後の教育の基本が間違っているから・・・・ですねぇ、
古事記さえ教えないんだから・・・全く腹立たしい!!!



話がまた脱線しましたが、
安藤広重、と言っていたのを歌川広重に統一したのは
別に壬申戸籍とは関係ないのですから、本当はどちらでも差し支えのないことと思います。
レッキとした定火消しの御家柄に生まれた安藤重右衛門様に、
立派な絵の才能が輝いていたことこそ
エポック!!!!・・であります。

しかし、そう考えると、
葛飾北斎という名前は、相当に怪しい・・・・・。
マジめちゃくちゃアヤシイ・・・が、
それも北斎らしいと言えば言えそう・・・・
なかなかのアヴァンギャルド!!!??だからねぇ・・・


90回以上も名前を変えた、とか言う説もあって、そんなこと誰がどうやって数えた??のか??超疑わしいが、それほど波乱万丈・・・・社会生活不適合者?!か?
どうしようもないくらいの目立ちたがりで、ヘンタイ?
絶対友達にはなりたくないタイプ・・・・
が、それが幸いして?ついに世界的名画を産んだのでした!
凄いねぇ・・・・・


歌川広重=安藤広重、はそういう破たんした所がなく
円満な知性の輝きをテライなく感じる。
非常に賢い構図。ここまでに用意周到、深く計算し尽くしているのに
そういう作為しました!的な厭味を全く感じさせない。
じつに巧緻な意匠なのに、大らかな平凡さでまとめ上げる!!
つまり名人!
だからヘンタイ北斎とは対照的。
この人はお友達になると・・・・きっと、良い事がある。


北斎の絵を飾っておくのは少々疲れる・・・良くも悪くも強烈に飛び込んでくるから・・・目を離せなくなるから・・・だが、
広重の絵は、優しく、癒してくれる、・・・ずっと長く飾っておきたくなる・・・目を離してもまたすぐに目をやりたくなる・・・・・


だから、私の理想とする美術館には北斎よりも広重を常設展示して、ごく、たまーーに北斎を出してくる、で、どっちも、良いなぁああ・・・・
それぞれがぁ・・・と悦に・・・入る、










posted by 絵師天山 at 00:54| Comment(2) | 理想美術館

2017年05月11日

理想美術館13 歌川広重と葛飾北斎


理想美術館13


       

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江戸時代に隆盛だった浮世絵版画が
非常に安価でポピュラーだった為に
外国にも沢山流出し、
その好奇なるエキゾチシズムは世界中の人気を得、
引いては後期印象派の発祥を促した・・・
ゴッホやゴーギャン、モネなど
今日大巨匠とされて、
たいへんな大天才である彼らの創作力の基になった、
のは、・・・実に日本の浮世絵であった。


この位の事は
一般的教養を備えた方にとっての常識とされていますが、
これと同じことが現在も進行している事に気付く方は
案外少ないのではないかと思います。


それはジャパンアニメ。

スマホという媒体によって映像革命にさらなる拍車がかかり
驚くほど短期間に、強烈に、
進行し続けているのに合わせ、
写真、動画、映画、・・・画像
・・・あらゆるカメラによる写実が溢れ返っている為に、
理性的な現実描写に慣れきって、
(疲れてしまい・・・・)
却って抽象化された二次元画面に
興味をソソラレル!


抽象化されている方が感情移入し易い・・・・

浮世絵も現代のジャパンアニメも根は一つ。
現実通りに描いてあっても面白くは・・・ない、
スーパーマンやゴジラが現実に近づいて行くよりも
口さえ無いキティちゃんの方が何倍も楽しい!・・
キティちゃんは究極の抽象化だから・・・。
現実を元にしての・・大胆な作為、抽象化、造形化
・・・の方が断然ウケル!!


つまりそれは日本人の造形感覚が非常に高度なレベルにある事を示しているのです。
今も昔も・・・・自分達が思う以上に・・・・超ハイレベル!!!

いつか別のところで言った事がありますが、世界中にジャパンアニメランドを政府主導で作りまくる。外貨を堂々と稼ぐのにこれほど有効な手はありません!デズニーランドなんか(・・クソ喰らえ!)クダランコケオドシに過ぎないから向かうところ敵なし!いくらでも儲かる!!・・・・・

話が逸れましたが、
今日語ろうとしているのは浮世絵の巨頭
歌川広重と葛飾北斎。


熱射病で救急車のお世話になる人が続出したあの
東京都美術館で開催された伊藤若冲展、・・・
入場制限五時間待ち!!!!
これも現代人の病んだ姿を素直に投影した縮図でしたが
映像力という病魔に犯されヤミクモに写実力に餓えた人々が集合したに過ぎない。


これに比べ、
この二人の巨匠が遺した偉業は段違い平行棒!


そもそも伊藤若冲は京都の老舗のボンボン。
資産家だから・・食うに困るわけではなく、
ひたすら絵を楽しみとして長生きした人。
御物とされ名品とされているかの
動植綵絵(どうしょくさいえ)の連作は、
ある意で素晴らしい作品でしょうが
実はこの作品、
興味をそそられた万物に対する作者の確認報告書、
・・であって、
つまりカメラが存在しない当時の“図鑑のつもり”
by本人・・・

・・に過ぎない・・・・のですが、
並外れた描写力が、スマホを握りしめた現代人に大受けし、今日の人気を得たもの。

それに比べ、北斎などは貧乏人の小倅・・・
始終金に困って借金生活、行き詰まれば夜逃げして
名前を変えて、改めて暮しを立て直す・・・・
当れば少々の金にはなったが、90年間の生涯、
大半は食うや食わず・・・
貧しかったのに、・・にもかかわらず・・・
創作意欲は人の何万倍もあった・・・・・。


が、しかし。
見た通りに写実的に描く事に
大した魅力を感じないのが一般的日本人だった、から・・・
当時は金持ちのぼんぼんが描いた自己満足写実画より
貧乏人が必死になって生活の為に工夫に工夫を重ねた
創意の方がずっと面白いし、それなら金払ってやる・・
人が多かった、しかし大金は払えない・・・
だから廉価な版画媒体にした・・・・訳です。ねえ・・・

そして、世界を動かした!!!






      
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最近小さい北斎美術館も開館し、
冨岳36景全作揃うことを自慢にする向きは昔からあり、
そう、欲しくもないけれど、・・・
著作権は切れているので、
上手に加工したヴィジュアルモノ・・・
を工夫し、作ってみたい。・・かな
世界一有名なのは神奈川沖・・・だが

もう少し上等な富士山だと良いけれど・・・
富士山そのものではない連作の面白さは確かに、ある!!

北斎はやはり肉筆モノの方が好きかなぁ・・・













この項、続く・・・








posted by 絵師天山 at 13:54| Comment(4) | 理想美術館

2017年03月11日

理想美術館12 “ガラクタだけのルーブル美術館”


およそ絵画の魅力は写実にあらず

写実に留まれば、それは、写真に近付くだけで
映像革命の嵐が吹き荒れて止まない今日
いくら人力で写真に迫ってみたところで
徒労に過ぎず、動画の足元にも及ばないし
御苦労さま・・・とネギラッテももらえない。

CGとか3Dとか4K・・?だったか・・?
ともかく次々に現れる、
数多のマヤカシモノの手練手管を用いれば
視覚的に人心を支配できるし
詐欺行為でも詐欺には見えない。・・・
無いことも有るといえるし、
アッタこともナカッタと言いきれる。
視覚を支配してしまえば
マインドコントロールなどいとも簡単!
映像の力は既に悪魔化している!!
と言っても決して言い過ぎではありません。

視覚によるインパクトは強烈なものがあり
誰しも最も・・・タブラカ・・されやすい分野。
・・・・だから。





東京芸術大学を頂点とした美大に入学するには
この写実力を鍛えないとマズイ。

石膏デッサンを代表格にした
写実力養成が必須の登竜門となる。

だから写実力があるほど周囲から一目置かれるし
世間も最も分かりやすい基準なので敬意を払う。


しかしこれほど映像の世界が果てしなく充実した今日
機械で出来るてしまう様な事を
人間の能力判定の基準にしてしまう
ことが・・・・果たして
宜しいのでしょうか???


・・・・
写実力は勿論必要だが
それだけでは『美』は生まれない、
という犯しがたい事実にこそ
目を向けるべき時代である、と言える。


写実する力が無ければ、意味不明
何描いてあるか分からなければ、人には伝わらない。
しかしだからといって写実するだけでは
理解し易くなるけれども・・・別に
美しくはならないのです。


“ビックリするのと美しさとは別物”であるように
解り易く丁寧に説明しただけでは
感情までは伝わらず
まして美しさが生ずる筈がない。


その事に気付くか気付かないかで
その人の人生も随分変わり
気付いた方が何倍も楽しく
幸せな筈なのに
ともすると、
写実力を養成した人ほど
写実にコダワリ、写実力を全ての規範に据える。

だから美大で優秀な成績である人ほど
写実から離れる事が出来ず
専門バカみたいになって、もまだ
写実の呪縛から逃れられない・・・ので

素人からは、妙に感心されたり??、
馬鹿にされたり!!
ともかく面倒くさいから放っておけ・・・扱いになる。

和歌や短歌で言えば分かりやすく
事実の説明を5・7・5でされても
31文字で短縮解説されても・・・
ソレだけじゃ全くつまらん!

言外の意味や観てきた様な映像が瞼に浮かぶ
かのような、省略、或いは誇張という
作為が加わらなければ・・・・
事実の羅列から、感動は生まれない・・・のと同じ。

つまり写実は必須の手段ではあるが
目標ではないし、
あくまでも一つの手段であって
もっと大事で
もっと必須な手段が他にもある。
沢山ある・・・・・無数にある・・・
・・・・・訳であります。



詰まる所、表題の如く

ルーブル美術館にはガラクタしか無い!


と言いきれる・・・・

美しくもないものを並べて美術館と称しているのは
単なる詐欺。・・・コケオドシと言うんだなぁ。


ルーブルに限らず、
美術館と称したガラクタの山・・・が、
多過ぎる。

美しい・・・
と言う事が、解らない。

思わず魅せられる、
と言う意味が受け取れない。

そんな人で溢れ返った世界は実に住みにくい・・・のですが。




理想美術館は絵の魅力満載、
絵でなければ表現出来ない、
魅惑される以外の何物もない、・・・
ただただ限りなくひたすら美しい・・・・存在。

でなければ・・・・・なりません。ねぇ


それはつまり、普遍なる【大和絵】の世界。




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春日霊現記絵巻より、部分図












posted by 絵師天山 at 03:22| Comment(0) | 理想美術館

2015年09月10日

理想美術館 11    円山応挙作 金刀比羅宮襖絵


良く知られた 【讃岐の金比羅山】

正確に言えば、香川県仲多度郡琴平山中腹の広大な神域に多数の社殿、堂宇、書院、楼門、鳥居、などを構え、年間に400万人もの参拝者が訪れる、日本を代表する神社の一つ、金刀比羅宮。

その表書院と奥書院の襖、床の間の壁、等に描かれた円山応挙の大作品群は、応挙の代表作の一つである事は無論、
書院空間の美 ここに極まる 絶品。


今を去る7,8年前、かの東京芸大の美術館で開催された金刀比羅宮書院の美展は、現場を再現し演出して見せると言う御馳走展示。書院の中に入り込んませてもらえる様な感覚に捉えられる展示方法が話題になりました。

各地を巡回の後、確か、フランス ギメ東洋美術館にもはるばる出かけ・・・
応挙だけではなく、現代人に大受けの若冲、岸岱、の障壁画も加わっておりましたので、さらに話題に


            


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             表書院 山水の間




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             同、拡大図



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             山水の間 西南角から







この書院は、勿論庭園が付属しており、
結構と相まって、神域の一部として清楚なる威容をかもしだしていますが、その庭園には
泉水が施されていて、この応挙の手に成る、障壁画の谷川と呼応するかのごとく配置されていおり、
奥書院内に佇めば、大床に描かれた大瀧から水が流れ出し、左手への奔流を、伝って視点移動してゆくと、
その先には障子越しの本物の泉水が水音を立てて流れている・・・という仕掛け。


スバラシイ意匠です。
ずいぶん時代を超えてきたので老朽化は否めないが、古色が加わったとも言えるので、気心の知れた小人数で散策出来れば、それは記憶に残る床しい時間を過ごすことが出来るでしょう。


美術という熟語は明治時代に出来たらしいのですが、
美術館と称して、“コレノどこが美しいの??” とハナハダ疑問が湧きに沸くおかしな施設が目白押しの今日、
老若男女、時代国籍を問わず、普遍なる美しさを十二分に湛え、少なくとも美術と言うに相応しい列品を揃えてさらにその美を増幅してしまう仕掛けをも誂えるのは、むしろ、日本人の美意識として当然ではないかと、私は思うのです。


コケオドシ、や、およそ美とは縁遠い仕掛けで脅かすのみ。
騙されるのは、始めだけ、・・・・二度と誰も来ない様なシロモノを
美術と言うな! 美術館と名乗るな!!・・・と。言わせていただきましょう。


ついでに、絵を描きたい側へも、(自嘲も含めて)
自分だけに通用する価値観で済ますな!
ただの独りよがりを美術と言うな! 
その程度で、絵を描いてます私・・・
などと言いたもうな!!
単なる写実、映像の乱用、自分にとって新しいだけ、
・・・・そんなのは美術ではなーーーい!!

もっと真面目にヤレ!!!


円山応挙は、
名人というものはこう言う存在である!
・・・ということを、明示した大天才でした、
しかも単に天才というだけでなしに
天才を名人の域に高め尽くした。


This is Nihonga!!

余白の美、ここに極まる名品を描き出しています。
この人に比べれば、伊藤若冲などは幼稚園児くらいのレベルなんだが、
どうしたことか昨今は、現代病とも言える空間恐怖症に陥っている人が多いらしく、余すところなく空間を埋め尽くしてある方が安心するらしい・・・・余白の美がわからなくなって久しい・・・・。



この所秋雨続きでイライラしているせいか、
人の批判がズルズル出てきます・・・・自分のことは置いといて




思わず魅せられるような、美しさで溢れているのが私の理想美術館ですから、作品群の高さも勿論だが、それを活かす仕掛けも最高級でなければなりません。この金刀比羅宮書院のように、自然の美と人口の美とを上手くマッチさせた、あまりの魅力にうっとりとしてしまう様な意匠を凝らしに凝らしたいものであります。






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この襖絵群すべては、金刀比羅宮の書院にあるから素晴らしいので、
この意匠にあやかった立派な施設を整え、
環境をも生かし、そこにしか成り立ちえない美を創造した上で、
理想美術館の一部として、新たに造りあげられたら・・・・と念願しています。



もう一点、私の大好きな応挙の作品はこちら、
月に桜の図





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薄っすらと満月が背景に描かれているのがお分かりでしょうか???

この作品は現在、冷泉家の所有であり、
御子左家、長い伝統のほんの近代に収集したコレクションの一点。
日常の暮らしの中の応挙作品を肌で感じられる貴重な一点であります。



ついでに、若冲の書院床の花鳥図もご覧いただきましょう。





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金箔の砂子を施した画面に、丁寧に植物図鑑の様に描かれています。
【余白の美】は、完全に無視してますね。
現代人にはこの方がウケル???









 

  





posted by 絵師天山 at 14:12| Comment(3) | 理想美術館

2015年09月04日

理想美術館 10  土佐光吉作 源氏物語屏風


土佐光吉画 【源氏物語屏風】

先々回のこの項では狩野探幽の源氏屏風を採り上げましたが
それに優るとも劣らない素晴らしい源氏屏風がこれ。


二人は江戸時代の絵師ですが、
土佐 光吉(とさ みつよし、1539年(天文11年) - 1613年6月22日(慶長18年5月5日))
狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))

生没年の差がおよそ半世紀、あり、
土佐派、と狩野派、
という元々の流派の違いもあり、
表現者として
解釈の違い、価値観の違い・・・
源氏物語、という同一テーマなのに
かなりの表現の差が表れています。

どちらが良い悪いではなくて、
どちらも相当楽しめるのに・・・
個性の違い、流派の違い、さらに
50年という時の推移ということにも関わって
その差が産まれているのでありましょう。


時、あたかも関ヶ原の合戦前後・・・
大きく世の中が動いていた時期に
二人の巨匠は活躍していました。
光吉は関ヶ原合戦以前に・・・
探幽は合戦後・・・の生まれ。


歴史は光陰の如く足早に流れ去るとしても
源氏物語を象徴とする【もののあはれ】
普遍なる心の内、人としての心情の不易なる面は
少しも変わらないけれど・・・
産まれ出た絵画としての表現方法は
ずいぶんちがう・・・


関ヶ原の合戦以後・・・・
落ち着きを取り戻してゆく世情に合わせるかのごとく
上品で完璧にオメカシし、
取り澄ました様な気品あふれる探幽作品に対して
光吉屏風は、【もののあはれ】の核心を衝いた
飾らない、素裸な美しさ・・
を醸し出しているように感じるのです。


完全メークの美女VSスッピン美女
・・・・!!!????



光吉源氏物語屏風、いずれも部分図です。





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    桐壺




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     空蝉




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      夕顔




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      紅葉賀




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      花宴




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       葵




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       須磨




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         蓬生




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           関屋




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           絵合




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            朝顔




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             玉鬘




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           胡蝶




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            篝火




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         野分




                 




                 




 
                 








パーフェクト美女も
勿論、宜しいが・・・

お飾りだけじゃないスッピン美女の方が・・・・























  


posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(2) | 理想美術館

2015年09月03日

理想美術館  9     後三年合戦絵詞(ごさんねんかっせんえことば)


藝術の秋。理想の美術館を追い求めてみたくなる季節です、久しぶりに理想美術館を語りましょう。
今回で9点目、戦記絵巻、【後三年合戦絵詞】の登場です。


   

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本当は【八幡太郎絵詞】(はちまんたろうえことば)
と言う名前で流布していた時代の方が長く、現在は東京国立博物館の所蔵となり、めったにはお目にかかれません。まあ、南北朝、あるいは鎌倉時代の作品ではないかとされていますので、絵の具の剥落やヤツレ、汚点なども多く、美術品としての健全な美しさはもう、失いかけて・・・、気安く公開出来ないのかも・・・・。






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その画品からいって、第一等級の傑作でありますが、
なかなか簡単に味わう事は、物理的にも難しい。
何しろ上中下三巻、別に序文も付いている絵巻物ですから
その全貌を一同に味わうにはかなりの仕掛けが必要。
さらに、制作当初は六巻本として描かれたものらしいので、
本当の全貌はもう既に見る事は・・・・。






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八幡太郎義家は、
鎌倉幕府の基礎をなしたとされる河内源氏の棟梁=大先祖様、であり
七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称し
家督を継いだのが14歳という年少にかかわらず、
胆力知力に優れ・・・その
智某と才格は抜群であった・・・そうで
鎌倉御家人にとってのスーパーヒーロー
元祖英雄!
モノノフそのもの、伝説の武将なんであります。





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         馬上の八幡太郎義家さま・・・彼こそレジェンド!




天皇家をないがしろにし、あわよくば・・・
日本の王様になろうとタクランだ鎌倉幕府。
そのアイデンティティーを担うのがこの御方・・・
ステイタスヒーロー・・・
とも言えるのですが、
九郎判官義経みたいにねつ造され・・・?
あからさまに造られたヒーローとは大いに違って、
質実剛健。
モノノフとしての非常に素朴な一面が
強くのこされているが故に
時代を超え、人々の共感を呼ぶのであります。




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そもそも 武士=モノノフ、という言葉は
物部氏から来ていて・・・
モノノベ・・・が、モノノフ・・・に、
その物部氏のご先祖は古事記にはっきりと記されており・・・
天照大御神の命を受け、
葦原の中つ国を治めるために
高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)った・・・・
天孫邇邇藝命降臨(てんそんこうりん)の際、
警護役として先導した武神が
天忍日命(あめのおしひのみこと)と
天津久米命(あめのくめのみこと)
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、
天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、
それぞれ祖神となり、
さらにその子孫は物部氏であること相違なく、
大和盆地の東に現存する、
石上神社(いそのかみじんじゃ)は、
物部氏の本拠地であったことが分かっています。

後の大伴家持が万葉集で詠った【海ゆかば】
の精神もつまりはモノノフの心・・

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ


義家も物部氏も大伴氏も、軍神の鑑・・・・・
武士の中の武士、なんですね


  

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この絵巻物の作者は、【飛騨守惟久】(ひだのかみこれひさ)

巨勢惟久(こせのこれひさ)と、同一絵師ではなかろうか?
・・・・はっきりとはしません。
これほどの名画なのに、作者像が良くわからない・・・
平安、鎌倉から南北朝にかけて数多の名人画工が居たはずですが
作品すら残らずに、貴族の日記にのみその名が登場する画人もいますので、
解らないことが多い。
現代のアーティストのようにこれ見よがしにサインすることもない場合がありますので
作者が誰かすら伝承となっている場合もあるのですね。





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とにかく、大傑作。
全貌は飾れない・・・にしても・・・・・
私の理想美術館には、自ら労作した
復元模写を出陳したいものであります。







                

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かの西行が北面の武士であったことはよく知られており、
北面の武士、つまり宮中警護の近衛兵(このえへい)軍団・・
西行はその頭目でしたから、
ナント頭目様が出家して漂泊の旅を続けた!!
当時としては大変な話題です!

現在で言えば皇宮警察署長!・・かな?

八幡太郎義家様も元々は同じお立場。
天忍日命 天津久米命と同じお役目だったのですね。

イザとなれば真っ先に命を張る・・・
天皇家をお守りすることは
日本文化を守る事に他ならない!

故に・・・命の、平和の、平凡な日常の・・・
何よりも大切なことを、・・
誰よりも良く・・・・知っていたのです。







         
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           天忍日命 日本神代絵巻部分 天山画





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           天津久米命  日本神代絵巻部分 天山画










posted by 絵師天山 at 08:00| Comment(2) | 理想美術館

2015年05月28日

理想美術館 8   狩野探幽 【源氏物語屏風】


狩野探幽作 【源氏物語屏風】

狩野探幽(かのうたんにゅう) 
という名人は、江戸時代の御方であり、狩野派の最大にして最高のピークを形成したその張本人であり、生きているうちの名声は勿論、亡くなった後の世にさえその名声は轟いており、悔しいくらいメジャーであり続けている・・・まぎれも無き大名人・・・・

私などの野人からすれば、もう嫉妬してしまうくらいの存在なんでありまして、
その行くトコロ可ならざる無き作風は脱帽させられるばかり・・・・
その扱われ方に於いては、羨ましいくらい・・・・。

このお作品【源氏物語屏風】は、天皇陛下のご所有。
いわゆる御物。








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国宝は巷の宝物ですが、御物は御皇室の所蔵であり、別格。
しかも狩野探幽作の【源氏物語屏風】は御物中の御物、!

とされ、なかなか、そう簡単には拝見することさえママならない・・・




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そもそもここで申し上げている『理想美術館』というのは、
私にとって都合の良い、
自分が満足するための美術館構想でありまして、
・・・・・
自分の作品が、自分の好みにとって、
一番都合のよい手段方法で永遠に保存されてゆくこと
を企図した、大変、手前勝手なる美術館であり、
それ以上でも以下でもない。



が、

自分の誠心誠意、ぎりぎりに精魂込めた作品群がすべて御物に、!!
もし、なるならば、!!
万が一
皇室のご所有に帰するならば
この私の満足の為の美術館構想など
どっちでも宜しい・・・



御物以上の公はありません、

・・・・・・・・
・・・・・・・




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         源氏物語屏風 狩野探幽作六曲一双 部分





ともあれ、
狩野探幽は慶長7年生まれ、
関ヶ原の合戦直後のことですから、
ざっと、その活躍期は、今から400年前。

つまり死後400年間もの長い間
その名作品は時を超え・・
人々に“美しさ”を語り続けて来た訳でありまして
非常に良いとされる作品は

長い間
数多の人の目に触れることによって、
さらにさらに・・・・
・・・益々その真価は浸透し、
誰知らぬものも居なくなる。

いわゆる【人口に膾炙する】
・・・というのはこういうこと
ちょうど400年位・・・・
美術品としては最も周知されやすいピークであるとも言える。

どういうことかと申しますと、
500年以上経た作品は経年劣化が激しくなりますので、
いくら名作品であってもその劣化は止めようがないから、
やつれ方は時が経てば経つほど尋常でなくなるのは当然、
・・・・押しとどめる事は不可能。

データとして遺すことは出来るが
ホンモノが醸し出す魅力には遠く及ばない
オリジナルこそ真実だから


美術はオリジナル以外の価値はナイ
と言いきれる、のであります。


従って、人口に膾炙したころから
決して止められない
モノとしての劣化が始まるのであり

500年以前の大天才による名品が
例え探幽を遥かに勝る!
としても
物としての美しさは遥かに劣る・・・から
ちょうど400年くらい経た名品あたりがまだ
モノとしての美しさを十分留めており、
しかも人口に膾炙され、周知されたので、
その光彩をさらに際立たせている事になるが故に
羨ましい程に高い評価を受けるのであります。

出来たてのほやほやの名品は
ホントに名品であっても
まだ多くの人に知られてはいない・・・
モノとしての新しさは格段だが、
まだまだ認知され方が僅かでしかない訳ですね。

その点で、円山応挙とか尾形光琳とか
狩野探幽あたり、
江戸時代初期の名人達は随分と得をしているのです。

そこへ行くと
巨勢金岡などは、
1000年近い昔の大名人だから
もうモノとしての名作品は一枚も遺されておらず
残念、伝説の巨匠でしかない。

平安時代の貴族の日記にしばしばその名前が登場し、当時のもてはやされ方は半端ない巨匠であるにかかわらずそのオリジナルを楽しむことはもう全く出来ないからであります。

美術品は結局モノ・・だから
いつかは滅ぶ
が、
日本に限って美術品は
モノとして亡び続けたけれど
名人が続出するお国柄故に、
必ずいつの時代にも
もてはやされるべき名品が存在し
名人続出による名品、
モノとしての、オリジナルの美しさ
は、途切れることが無かった。
これからも、
きっと・・・
モノは有限だが、
日本人の美意識には限りが、
無く・・・


それにしても、この屏風はスバラシイ!

平成の源氏物語屏風をこの手でぜひ・・・・










posted by 絵師天山 at 08:00| Comment(5) | 理想美術館

2015年03月26日

理想美術館 7   小堀鞆音作 【武者】

小堀鞆音(ともと)作 【武者】(もののふ)





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              明治30年 







永遠の大傑作です!
これぞ大和絵!!
芸術に新旧などあるはずもなく
日本画こそ世界最高の芸術たることを
この作品は実証しています・・・
いくら絶賛しても足りないくらいの名作!!!

スバラシイ!!!!

現在は東京芸大付属美術館所蔵で
めったに開陳されることもなく
保存されてきました・・・
が、
栃木県佐野市のお生まれなので
佐野市では先般、没後80年展を開催
その威容を垣間見ることが出来たのです。


実は私もいつか武者絵を描いてみたくて
研究をささやかに続けており
以前、芸大の古田先生にお願いして
大学の保管室で拝見させていただいたことがあり
授業の一環として武者絵を採り上げていることを
その時に知り、
さらに鞆音の画稿も同時に拝見いたしました。
そのあたりから嫡孫である
小堀桂一郎先生とのお近づきを頂いて
大和絵の神髄について
直接学ぶことが叶った訳です。


佐野市吉澤記念美術館では
没後80年を記念して
鞆音の作品群が陳列され
初見の作品も・・・
中には行方が不明となっていた屏風もあり、
それはもうウットリ・・・
しかも小堀桂一郎先生の記念講演さえあって
忘れ難い一日を過ごしたのでした。






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             同 部分図







小堀鞆音(ともと)画伯ご自身の言葉に触れてみましょう。


【歴史畫は故實に拠るべし】


歴史畫(れきしが)を畫(えが)くには、能く当時の風俗習慣を調査し、成るべく其時代の風俗に当嵌るものを畫かなければならぬ、然るに此事たるや、至って困難な事柄であるから、割合に材料の豊かなるに係わらず、畫家は動(やや)もすれば、此方面から遠ざからんとする傾向がある、試に事實に就いて見れば、年々の文展若しくは展覧会と称すべきものに、古實(こじつ)を畫いたものの少ないに見ても分かる、勿論古實の少ないのは、当時現代の嗜好若しくは、其他の事情にも依るであらうか、他に一つの原因は、畫家殊に新進の畫家が煩を厭ふて此方面を研究するのを避けんとするに依るものであらう。


歴史畫を畫くには、困難が伴ふ、彼の熱いとか寒いとき云ふような、山の色や野の景は、天然の大景に触れて、其儘(そのまま)有りのままに畫くことは出来るから、割合に困難でないけれども、歴史上の古實を畫くには、種々其時代の遺物を調べねばならぬので、天然物を手本として、写生するよりは余程煩難(はんなん)ではあるけれども、古實物には云ふに云はれぬ、曲雅(きょくが)な趣がある、殊に我が国は幸いにして、徴すべき文献に乏しくないのは、此方面を研究する人にとっては殆ど天幸と云ふてもよい程である、絵巻物に就いて云ふても、今日残存して居るのは悉く名畫、大物ばかりと云ふことは出来ぬけれども、当時の風俗を有りの儘に畫たものは少なくない、殊に足利時代のものには此傾向がある、加ふるに是等の中で名のあるものは、風俗を其通り畫いた上に、高尚で気品のあるものは多い、其後御所には、高倉家、山科家などがあって、装束のことを司って居ったが、是等の人々は段々没して了って、その流儀も廃れ、今日となっては唯僅に葵祭に依って、其命脈を保つに過ぎぬのである、斯様な訳で歴史畫は中々面倒で、古實を調べ上ぐるにも、困難であるから、徳川時代にしても、公卿が束帯(そくたい)をつけるにしても、大名が太刀を佩(は)くにも、其れぞれ作法があり、儀式があったもので、我流を許さなかったものである、又太刀と云ふても、束帯の時のものと、武装の時とは違って居る、弓に就いて云ふても、源平時代のよりは、徳川時代に至るまでは、その変遷は著しくあるから、唯漫然と古實を調べず筆を取るときは歴史畫は全然失敗に終わるものである。

歴史畫は斯様に面倒であるから、却て調査に困難であるけれども、青年畫家にして努力を惜しまずんば、幸いにして参考品には乏しくない、勿論強いて歴史畫を作らねばならなぬ必要もないけれども、国家を建てて居る間は、前代の前賢古哲、忠臣孝子の事實を描写して、後世に伝ふると云ふことは、時代の民を教化するに、非常に力あるものと思ふ、然るに今日に至るも、此方面に進歩を見ないのは、全く青年畫家の努力の足らないのと云はざるを得ぬ、兎に角議論は暫く措(さしお)き、歴史物は野山の實景を其の儘に描くよりは、余程困難であると思ふ。(大正三年四月)








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                大礼服の小堀鞆音画伯





【弦廼舎畫談】(つるのやがだん)
弦廼舎とは、鞆音画伯の蔵書群をまとめた文庫のことです





私は今回文展へ渡辺橋に於ける正行(まさつら)を描いて出しました、この図はあまり是迄外で見たことはありませんが、先年上田萬年博士が萬国会議に際して、この美談を担ぎ出し、一等国民の見本としたとのことであります、私はその前25年の美術協会に、佐野常民氏が会長で赤十字に関係を有たれる処から、この図を試みましたが、それは縦物で、今回のは五尺二寸に三尺七寸の横物で、参考としては太平記ばかりであります、實は先年清浦子爵から吉野皇居へ参内の正行(まさつら)を描いてくれとの事でありましたが、矢ッ帳り渡辺橋の方に気が向いて、今回急に仕上げて文展に出し、来年はこれを桑港博覧会に出品し、その上図が気に入ったならこれを清浦子爵にさし上げたいと思ふております。


文展も一科二科が合併され、鑑別も今年は楽でありました、今は何々流派と云ふように劃然(かくぜん)と区別が立たず、数百年来研究した事をいささか打ち破って居るやうであるが、速成の畫はなかなか昔のような考へを以って居ては行かぬと見えます、が結局其の筆趣が元へ戻って来るやうに思はれます、昔の人は半生涯を模写で送ったものでありますが、今は何でも写生一点張りで、もとより写生が絵の結局でありますが、いきなり写生となりますと、写實には到達しても絵畫と云ふものにはなりません、それ故私どもでは臨写(りんしゃ)、模写の習練を積ませて、それから写生に取り掛からせるのであります。


それから色彩のことでありますが、近頃は滅茶苦茶で、線をきちんと引く絵を描くのは骨が折れるから、色彩で胡麻化す傾きがありますが、その色彩が甚だしいのは護謨(ゴム)で固めたものを用ひて居る、裏打ちする間が保たれぬ程のを平気で用ひて居る、先年セントルイスの博覧会に出品した日本画の返ったのを見ると、絵の具は剥落する、変色する、見られたものではなかった、農商務省の役人たちは非常に心配して、こんなものは出品者に返す訳には行かぬ、どうしたら宜しかろうかと云ふことになって、その相談が博物館にありました、すると博物館には美術学校第一期の卒業で溝口禎次郎と云ふ気の利いた人が居まして、それは少しも御心配に及ばぬ、こんな米国へ一航海したばかりで、剥落したり、変色したりする不体裁な絵を出品したのは怪しからぬといって、一々呼び出して、叱ってお返しなさって差し支えないと云はれた、それで農商務省の方でも胸撫で下ろしたといふ話であります、實に呆れ返ったことであります。


併しながら決して今日でもこれが改まった訳ではなく、否
盛んに行はれて、真に五十年なり百年なり其の色彩を保つほどのものを用ひるのは少ない、随ってその描く所のものも、ただ一時の人気に投ずるやうなものさへ描けばよいと思うて居るらしい人が多いのは、まことに嘆かはしいことであります。
(大正三年四月)






いずれ、この大傑作は御物となるべきハイクラスの玉品ですが、
陛下のお手元に届く前にコソッと・・・
ケシカランことですが・・・
理想美術館で展示させていただきたいものと・・・・・




御参考までに嫡孫小堀桂一郎先生による評伝
【小堀鞆音】が,昨年ミネルヴァ書房から発刊されております、

「やまとごころ」の造形に生涯をかけた画家、・・・・という著者の言葉をお借りすれば・・・

『・・・・鞆音が復古大和絵と呼ぶのが妥当である画法を生涯頑なに守り、画題の点でも歴史画といふ枠の中に立ち籠ってそこから一歩も踏み出そうとしなかったのには確乎たる信條に基く意図があった。彼が目指したのは、日本の古典文学の厖大な遺産が蔵している実に豊かで深い精神の美の世界を、人の想像力に訴へるのに適した画像の魅力を以て伝え、記憶に留めてもらふといふ事業だった。・・・』

とあり、自らのおじい様を語ったこの評伝は実に一読に値するものであります。



         

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         ミネルヴァ日本評伝選
        ー歴史畫は故實に拠るべしー小堀鞆音









posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 理想美術館

2015年03月24日

理想美術館 6   松岡映丘作 【春光春衣】


松岡映丘作 【春光春衣】





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                大正5年 160×70p






作者35歳の作品ですから早熟の天才画家と言ってよろしい。
日本画は含蓄の芸術とも言われ、
どこまでも奥が深いので、
ある程度の年齢を経ないとその人らしさが稔らない。
漸くその人らしい表現力が頭角を顕すのはだいたい中年にさしかかる頃・・・
天才肌の絵師でも30代40代に入らないと本格的な創作性が出てこないのが通例で、

勿論菱田春草のような桁外れの早熟なる大天才、という例外もあり、
奥村土牛の様に80歳になって代表作が生まれる大器晩成型もありますが・・・


松岡映丘(まつおかえいきゅう)は
明治14年、
兵庫県の医者の家系に八男として生まれ、
兄に民俗学で有名な柳田國男が居ます。
昭和13年56歳で没したので
画家としては長命を得ませんでしたが・・・・



生涯をかけて≪日本画らしさ≫を追求、
大和絵の復興こそ彼の最大の関心事でありました。
現代の自称日本画達が本当に学ぶべきは
こういう絵師の画業。
道半ばにして亡くなられたとは言え、
この作品の様に朗らかで明快なる作風であり、
少しのケレン味もなく
ただただ美しく芳しく心地よく・・・・
香気ただよう様・・・・
春風に吹かれる如し・・・・


春の一日
マイ美術館にこの絵を陳列し
極上の日本酒で一杯!!
肴は焼き蛤!
・・・・・って感じでしょ?


35歳という若さでこんな境地に達した事は素晴らしい!


大東亜戦争勃発直前
時あたかも皇紀2600年記念の年
国威宣揚の渦中にあり
時代の流れに抗うことが出来た最後の時期に亡くなられたので、
くだらない欧米風の影響がそれほど観られないことも
この絵師の業績を輝かせています。


ちょうどこの春に奈良県立万葉文化館で大々的な回顧展が開催されていますのでご紹介しましょう。


松岡映丘ー古典美の再興ー
柳田國男 井上通泰、松岡映丘ら松岡家の人びと
平成27年3月21日〜5月10日


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東京美術学校の教授職を勤め
数多の弟子たちを育て、
それぞれが相当な活躍をしていますので
現代日本画壇の基礎を打ち立てた人といっても宜しい。

ホンモノの大和絵を学生に教える事が出来た
最後の芸大教授?であるかもしれません。


つい二三年前には東京でも回顧展が開催されました。

日本画らしい日本画がなくなりつつある現代
再び脚光を浴びるのも当然、というべきでありましょう。








posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(3) | 理想美術館

2015年02月16日

理想美術館 5  今野忠一作 【富士】


今野忠一作 【富士】




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天地の 分かれし時ゆ

神さびて 高く貴き

駿河なる 布士の高嶺を

天のはら 振り放け見れば

渡る日の 影も隠らひ

照る月の 光も見えず

白雲も い行きはばかり

時じくぞ 雪は降りける

語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ

不尽の 高嶺は


田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける

               山部赤人 万葉集巻三


歌聖、と称され、和歌の神様として祭られている 
柿本人麻呂、の柿。そして・・
こちらも歌聖と呼ばれた・・
山部赤人、の山。
山と柿とで山柿の門、と言うと・・・、
和歌の世界のこと・・


何れ劣らぬ万葉を代表する名歌人でありますが、
紀貫之などは、赤人の気宇壮大なる歌は
名人、人麻呂にも優る、と言っております。

富士山を詠った和歌は沢山ありそうで・・・すが・・・
なかなかこの歌以上に印象に残る和歌はなく、
探しても見つからないところを見れば、
不二を詠うことの難しさに到り

当然絵にすることの難しさも・・・感じさせられてしまう。

本当に富士山を描くことは難しく、
どんな名品とされる絵でも、
ホンモノの富士山から誰もが感じる、深さ、高さ、広さ・・
その他・・あらゆる好印象を凌ぐ様な絵画は、
めったに・・・・
御目にかかれません。


幼児でも富士山は描けるし
だれでも富士山を描こうと思えば一応は・・描ける?が
誰もが称賛、賛嘆するほどのモノは、まず、・・
難しい・・・


この作品は、奈良県知事が正真正銘、
人麻呂の末裔である柿本知事であった当時に
奈良県立万葉文化館建設構想が持ち上がり、
万葉集の秀歌を絵画化して展示保存する企画が実行に移され
当時現役の巨匠から有力新人まで
百数十人が一人一歌を担当して力作を寄せたことがあり、
この赤人の名歌に相応しいとして
私の師、今野忠一は特別にこの名歌を指名され、
それに師匠が応えた結果がこの作品に結実したのでした。


万葉集を代表する様な名歌は先生の様な巨匠が担当したのです。

ちなみに、私は、自分で選んだ大津皇子と石川郎女との恋歌を担いました・・・



これこそ言語を絶する名作であります。

実にスバラシイ!

説明は要りませんね。


是非にも私の理想美術館に展示したいものでありますが・・・
現在は奈良県の所有ですから、
議会の採決で認めてくれなければ個人の所有に移るはずもなく、
今のところ到底不可能でありましょう・・・・
処置なし・・・かな?!


作者、師、今野忠一先生が
自作についてコメントを遺されております。






『きわだって美しく崇高な不二の山というものへの美意識は、万葉時代の人々にも現代の私たちにも同じように受けつがれているものと考えられますが、
さて実際に描くとなると、万葉の歌の中に詠まれていると推察される場所からの不二を説明的に表現するか、あるいは、自分のもっとも感動を覚えたと思う不二を描こうか迷いました。
しかし、不二の崇高で神秘的なものが、そして自分の感動が少しでも表現できたら、それはそのまま万葉の人々の心につながるものであろう、と思いました。
あらためて静岡県、神奈川県、そして山梨方面と、場所や季節、時間を考慮し、
写生を致しました。結果、自分のもっとも感動を得た、と思う不二を描くことに致しました。』












posted by 絵師天山 at 16:22| Comment(4) | 理想美術館