2015年04月10日

魅惑の百人一首 60 小式部内侍

【小式部内侍】(こしきぶのないし)

大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天橋立

    おおえやまいくののみちのとおければまだふみもみずあまのはしだて





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              天山書画





小式部内侍(こしきぶのないし)の母はかの和泉式部。
年若くして中宮彰子にお仕えし
歌名の誉れ高き母譲り・・・・
抜きん出た才気と美貌とで
宮中のアイドルとなっておりました。


が、この賢き一人娘?は母を残して早世してしまうのです。
数多の恋愛遍歴を辿った母和泉式部がはじめて産んだ子供であり、
我が子に先立たれた母の思いは如何ばかり・・・・


この≪魅惑の百人一首≫で和泉式部を採り上げた時には
まだ発想の段階であり出来てはいませんでしたが、
この春の院展にあわせて【遊魂・和泉式部】が完成。

皆さま、御高覧いただきましてありがとうございました

 




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娘 小式部内侍も是非
いつの日にか描いてみたい存在です。


大江山は山城と丹波の国境、老坂。
いくの、は生野で丹波国天田郡にある野、で
今の福知山あたり。

『和泉式部保昌に俱して丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人は遣はしけむや、使はまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれて立ちけるを、ひきとどめて詠める』
と、詞書にあり・・・・

生野を行く野に掛けて、上の句は丹後の国府までの道のりの遠さ、を語り・・・・
ふみ は、踏むのふみと文のふみとを見事に掛けてあり、
母和泉式部の居る景勝地など行ったこともないし母からの便りなど来ていませんよ
と・・・間髪を入れず 
・・・・言いかえした。


これには中納言定頼ならずともさぞかし驚かされた事でありましょう。

ただただ美しく可愛らしい
まだあどけなさの残る
はちきれんばかりの若さ故にもてはやされている・・・
小娘と思いきや


母上が居ないのに独りで歌合に出れる?
母上に手紙を書いて頼んだかい?
その御返事は来たの?
御母さんが居なくて心細いだろ?
と、からかうと・・・・

その小娘は
中納言定頼の袖を取り、引き止めて
即座にこの和歌を返した!!

宮中はこの話で騒然!
しばらくこの話題でモチキリだったとか。

小式部内侍の聡明さにやんやの喝采が・・・


小式部内侍 15歳くらいのこと
これぞ、既知即妙・・・
天橋立を持ち出して
母親の七光は必要ありません
手紙も来てないし

と言いながらも
母の処にも行ってみたいわ
と、可愛らしさもにじませ
旅情までかきたてる

御見事!あっぱれ!!!!!

直衣の袖を押さえられた定頼のあわてぶりが手に取る様に伝わりますね

が、
美人薄命?
天は才を与えて寿を与え損ねてしまったのか??






posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 百人一首

2015年03月23日

魅惑の百人一首 59  赤染衛門(あかぞめえもん)

【赤染衛門】(あかぞめえもん)

やすらはで寝なましものをさ夜更けて傾ぶくまでの月を見しかな

   やすらはでななましものをさよふけてかたぶくまでのつきをみしかな





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            天山書画





ためらわずに寝てしまえば良かったのに
あなたがお越しになるかも知れないので
待ちわびて月が西の山に傾くまで見てしまいました・・・
と、言うわけですね。


“やすらはで”は、ためらう、躊躇する、こと。
小夜ふけての“さ”が良い。
夜が更けてでは可愛らしくないし
さよ=小夜、が効いています。


“なかの関白 少将に侍りける時、
はらからなる人に物いひわたり侍りけり、
たのめてこざりける
つとめて女にかはりて詠める”


『なかの関白』は、
中関白道隆(妻は前出儀同三司の母)
藤原道長の兄でしたね。

『なかの関白』家、と言えば始めはときめいて、
後、お気の毒な運命を辿る
頂点を極めた道長の陰に甘んじてしまった家系。


道隆がまだ蔵人少将であった頃に
作者赤染衛門(あかぞめえもん)の姉妹と情を交わしあっていたけれど、
心当てにさせながらも結局来なかった翌朝、
姉妹に替わって代作してあげた恨み歌なのであります。


さすが名人
代作とは思えない程に親身なる心情に溢れており、
作者自身にも思い当たる経験があったものか、
男の不実な約束やぶりを恨みながらも、
男のことなんか忘れようとして?
山の端に沈みかける月に向って精一杯感情移入している切ない女心・・・・


なぜ赤染衛門(あかぞめえもん)などと、呼ばれているのか?
それは、右衛門尉(うえもんのじょう)赤染時用の娘だったから・・・


母は、始め平兼盛の妻だった、
が、妊娠したまま離縁して時用に嫁ぎ彼女を産んだので、
実父は平兼盛なのかも・・・・。


道長の妻倫子(りんし)に仕え中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)にも仕出した後、大江匡衡(おおえのまさひら)に嫁し、長寿を得てお幸せに暮らしたとか・・・・

ケレン味のない穏やかな作風ながら
溢れだす真情、
ほとばしるような情熱さえも
賢い理性でコントロールできてしまうお人柄・・

一見あっさりしてるけれど
実は非常にバランスの取れた才媛・・・・。
代作の名人でもあり、
誰もが好感を抱く作品が多いのです。







posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 百人一首

2015年03月22日

魅惑の百人一首 58  大位弐三(だいにのさんみ)

【大弐三位】(だいにのさんみ)

有馬山猪なの篠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする

   ありまやまゐなのしのはらかぜふけばいでそよひとをわすれやわする
  




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             天山書画





『猪名の笹原』
という歌枕が共通項=前提、になっています。
猪名はゐな。つまり否。
有馬山は神戸六甲山あたり、有馬温泉方面のこと。
ずいぶん昔から手頃で身近なリゾート地であり
『猪名の笹原』はその中でも少々ウラ淋しい処として
人の心に『寂しさ』を想起させる印象的な地なのです。

歌枕の効用で、
『猪名の笹原』といえば誰もが『寂しさ』を感じる仕掛け。


前書きには
“離れ離れなる男のおぼつかなくなどいひたりけるに詠める”
とあり、最近トンとご無沙汰になっているくせに、
“おぼつかな”・・・・などと、
何を思い出したのか図々しくも女性の心を疑ってみせた・・
そのトンチンカンなる男に向けて言い返した歌なのであります。

女性の方には男の不実さがとっくに知れている・・・


“そよ”と言えば、そよ風、ですが
それを“そよ人”と言ったのは
そよ風みたいに頼りない男、というイメージが込められ
“おぼつかな”と言って寄こしたことを捉えて、
いでそよ人・・・・さあ、そこですよ
どうして私が忘れたりしましょうか!
お忘れになったのは頼りないあなたの方でしょう!!!
と、ヤンワリ言いかえしている訳ですね。


角を立てずに、相手の不実を正してやり返す。
鮮やか、かつ微妙?な心境の佳作であります。


紫式部を母に持ち中宮様にお仕えし後冷泉天皇の乳母ともなられたお人ですが、
母に劣らぬ才媛であったのでしょう。
大位弐三(だいにのさんみ)と言う呼称は、
正三位と言う位で大宰府大弐(だざいふのだいに)と言う役職に就いた
高階成章の妻となった故の呼名。
藤三位(とうのさんみ)とも呼ばれたので、
何しろ天皇陛下の乳母ですから、偉い!!



posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(3) | 百人一首

2015年02月15日

魅惑の百人一首 57 【紫式部】

【紫式部】

めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かげ

   めぐりあいてみしやそれともわかぬまにくもがくれにしよわのつきかげ






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             天山書画





源氏物語作者紫式部
実は名歌人でもあった事は隠されがち。

源氏物語そのものが数多の和歌で綴られており、文章そのものもまるで和歌を連らなりの様に美しく麗しいことを知らない人が多いので・・・・

訳文ばかり重宝される似非文化迎合時代である事が非常に残念なのであります。

原文あるいは原文に近い形で源氏物語を楽しむという様なユトリ、余裕があまりにも無さすぎるから致し方ありません。

非常にバランスの取れた、
極端には走らない・・・
けれども、心の抑揚感だけは見逃さない、
そんな秀歌を産み出す大名人であることは間違いありません。

従ってこの人の代表作を絞り込むことは至難・・・
藤原定家はさすが、良くこの歌を選んだな!
と、感心させられるばかり・・・


見しやそれともわかぬまに・・・
この曖昧さ、中途半端さ・・・
決めかねている感じが、何とも落ち着きが悪くて、
だからそれが却って良いのですね・・・

夜半の月光が雲に隠れたり出たり・・・
夜中の時間経過が、しみじみ、伝わってきます。


めぐりあいの忘れ難さ・・・
心に残る、
月はイコール彼氏?なのでしょうか・・・

それとも・・・・?

前書は
「はやくよりわらはともだち侍りける人の、年頃へてゆきあひたる、ほのかにて七月十日ころの月にきほひてかへり侍りければ」
・・・とあり、
幼馴染が男であったのか女であったのか?


夜半には沈んで居なくなってしまう頃の月と
幼友達とを掛け合わせて、
さらに、七夕の余情をも描き込んでいる。
なかなかプロフェッショナルな歌なんですね。
中愁にはまだ間があって
上弦の月の物足りなさを仄めかせ・・・・
さらなる名月を想起しているのであります。


申すまでもなく、名歌中の名歌、と言えましょう。

上東門院=中宮彰子に仕え、
道長にも一目置かれていたと言う才女、
さて本当の処はどんな女性だったのか?
藤原宣孝と結婚し大弐三位(だいにのさんみ)を産んだとされていますが、
その実像は??

和泉式部程のダイレクトさはないけれど、
用意周到、水も漏らさぬ配慮はどこで培ったものか・・・

世にも不思議なる陰陽師
阿倍清明にゾッコン入れ揚げていた事、が・・・
どういう人物を作ったのか?
実に、興味は尽きないところであります。





posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年02月14日

魅惑の百人一首 56  【和泉式部】(いずみしきぶ)

【和泉式部】(いずみしきぶ)

あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一度の逢ふ事もがな

   あらざらんこのよのほかのおもいでにいまひとたびのあうこともがな





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            天山書画





お待たせしました。
ここからは女流歌人が続きます、
或る意味、真打?の登場ですね。
勿論この御方以外にトップはおりません!
御存じ、【和泉式部】(いずみしきぶ)サマ・・・


もうご存じの向きには要らざる解説になりますが、
この和泉式部様は・・・
かの、清少納言も紫式部も昔ながらの小野小町も・・・
みーーーんな蹴散らしてしまう程の、ぶっ飛んだ女!

ナンでありまして、情の豊かさに於いて、この御方の右に出る程の女はそうは居ない・・
筆者などは是非一度この人にはお目に掛かってみたいと熱望しております。


あらざらむ=いなくなってしまうであろう・・・死んだ後?

この世のほか=あの世・・・死後?


この世もあの世も両方を貫いてもさらに思い出として、もう一度逢いたいのよーーー!!!
って、言う意味。


物凄い深さですね。
ホントあり得ないくらいのシツコサ!
粘着系女子!!!!


作者、和泉式部は、はじめ和泉守橘道貞(いずみのかみたちばなのみちさだ)と結婚。
一子、小式部内侍(こしきぶのないし)を産みます。

後、冷泉天皇皇子の為尊親王(ためたかしんのう)、弟敦道親王(あつみちしんのう)との恋を重ね、さらに中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)に仕えた上、藤原保昌(やすまさ)と結婚。

その時代に書いた和泉式部日記が今なお、遺されています。

当時百花繚乱と言える数多の女流歌人がそえぞれに個性を発揮し開花していた中、
・・・ダントツブッチギリに情熱的華麗なる人生及び歌風!

ゴシップに事欠かないと言うのはこの御方のこと・・・で、
現代ならもうこの人一人の御蔭で数多のメディアも楽に飯が食える!
ベリースペシャルスキャンダラスガール!・・と言うわけ。


しかし、人に何と云われようと、後ろ指さされようと・・・
心の表出は止められない。


この歌も、病の床で思いついたモノ。
これでも、この御方の作品では地味ーーな方で、
代表作とは言えぬくらい、おとなしい歌。
もっとずっと奔放なのは枚挙に暇がありません。

例えば・・・

黒髪の乱れも知らず打ち伏せば先ずかきやりし人ぞ恋しき

とか・・・

物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出ずる魂かとぞ見る

とか・・・
ちょっと、ここには出しずらいくらいのエロス爆発で・・

いやはやホント一度お目にかかりたい・・・


いったいどんな美人だったんだろー!!


痛切なる慕情には素直に従う・・・、
命なんかいらないワ!
慕情は生き死にを超えるノヨ!


道長の権勢頂点に達し、
藤原氏の専横に人々が目を背けるような時代・・
良くも悪くも平安文化円熟期に当たり、
昭和のバブルみたいに功罪相交錯しているとは言え、
ともかくも国風文化醸成に和泉式部も一翼を担っていたのは間違いないのであって、
式部の奔放さと時代の要請とがマッチしてこの様な世界が生まれたのでした。

和泉式部の時代は遠い過去の様だけれど、
実はとても身近で、・・・
いつも変わらぬ普遍の人情を
・・・素裸で表出し得た、
そんな歌名人であったのだと思うのです。


絵師天山としては・・
この御方のお姿はぜひ描いてみたい、・・・と思います。
尽きぬ魅力が溢れる和泉式部像を!現代に蘇らす!!・・・












posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(4) | 百人一首

2015年01月31日

魅惑の百人一首 55


【大納言公任】 (だいなごんきんとう)

瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ

   たきのおとはたえてひさしくなりぬれどなこそながれてなおきこえけれ





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           (天山書画)




こちらは、たなぼたの和歌。
えっ?何の事?
棚から牡丹餅・・・・


瀧の『た』、絶えての『た』、なりぬれの『な』、名こその『な』、流れての『な』、なほの『な』、
『た』、から『な』、へ繰り返して変容してゆくゴロの良さだから
・・・・『た』『な』ボタ・・・


大納言公任(だいなごんきんとう)はかの道長全盛期に正二位大納言まで登り詰めた俊英。

大納言は大臣に次ぐ官だから、今で言えば次官?か?な?
・・・・とにかく高官。
歌人、歌学者として抜きん出て、詩歌管弦の才あふれ、
その活躍ぶりは道長とその取り巻きを大いに喜ばせました。

この歌は道長のお伴で大覚寺へ行った時のもの。

その昔嵯峨上皇が造ったと聞こえる瀧が今はもうないけれど、
その名は尚有名なままですねぇ・・・


『た』『た』『な』『な』『な』・・・・とやって、大いに盛り上がり、
道長の覚えもメデタカッタ!
・・で、いよいよ重用される様になりました。
つまり、人の拵えたものを拝借して、
ちょこっと歌にし・・・・
昇進しちゃった・・・
これはホントの棚から牡丹餅・・・

しかし、歌としての出来栄えは相当なものですから
・・・『た』『な』ボタだし、
下の句の『な』音の後に『ら行』を重ね、
歌の調べを補強するカタチになっている、とか・・・
遠足気分で参集した道長一行は
実際この歌に喝采を惜しまなかった事でありましょう。
・・・・芸の冴え!
と言って宜しい。


ところが、“ごますりのヨイショ野郎!”
と蔑む向きも有りましたようで、
評価だだ下がりのこともあったとか・・・
高官といえど、宮づかいはツライ・・・


恋の歌が続いて、少々重たくなった頃合いに、こんな軽妙な和歌を配列したのは百人一首撰者藤原定家の明と言えましょうか。






posted by 絵師天山 at 10:00| Comment(0) | 百人一首

2015年01月30日

魅惑の百人一首 54


 【儀同三司母】 (ぎどうさんしのはは)

忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな

   わすれじのゆくすえまではかたければきょうをかぎりのいのちともがな




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            (天山書画)







永遠に忘れない!
と言う誓いも・・・変わらないとは限らない・・・・
けれど、・・・・
そう誓って下さる今日を限りの命であってほしい・・・・・

何という清い心根でありましょう。

この作者【儀同三司母】は、本名高階貴子。
やんごとない、尊い御身分の女性です。
名族高階家の息女であり、円融院にお仕えし、
高内侍(こうのないし)と呼ばれました。


内侍(ないし)とは、女中のこと、
女中といっても勿論宮中のことですから、
天子の御側にてヨロズ御用をお勤めする役。
その頭目を尚侍(ないしのかみ)と言い、
その次を典侍(ないしのすけ)と言い、
その次を掌侍(ないしのじょう)と言います。
そして、この掌侍は四人あり、
四人の内第一の掌侍を勾当の内侍(こうとうのないし)と言い、
勾当内侍の居る役所を長橋局と言う。
残る三人の掌侍は、上に氏を付けて、源内侍、藤内侍、などと言う。

つまり高階家出身の掌侍さま、だから高内侍。

中関白道隆の妻となり、伊周(これちか)、隆家、一条天皇后定子、を産んだことで知られております。
字儀通り、めちゃくちゃ高貴なお方!


儀同三司と言う、解りにくい熟語の意味は、儀は儀礼の儀。
同三司は、三公、大臣に同じ、という意味で、
つまり准大臣。
大臣扱いの人・・・のこと。

この場合は息子伊周が儀同三司であったので、その御母様、ということになります。

本名で呼べばよいのに、と思われるかも知れませんが、この呼称の方がよりこの御方らしさがにじみ出ているのでありまして、高階貴子・・と言ってしまっては野暮、&失礼・・・。



この和歌は新古今集恋三の巻頭にあり、
『中関白かよひそめ侍りけるころ』との前書き。


中関白(なかのかんぱく)は、藤原兼家の長子藤原道隆。
あの道長の実の兄・・・
つまりコチラも位人臣を極めた名門中の名門、の御曹司!

いわばハイソサエティー同士の交際が始まったところ・・・
逢い初めて燃え上がったまま、死んでしまいたいのよー!とオッシャッたのでした。

結局結ばれ、名族の子孫を産んでゆくので、
一時は人も羨むお立場に・・・
そんなにも恵まれた出自なのに、
今ここで死んでしまいたい! 
と、あっさり詠嘆してしまうのが・・・さらに純!?
当時は、藤原氏の極盛期を控え、
父子兄弟謀り合う権勢争いに明け暮れていた時期。

中関白道隆も、弟道長に謀られ、伊周、隆家兄弟は流嫡の憂き目に合い、母貴子の晩年は不遇。

マサカ騙し騙される修羅場を迎えるとは・・・思いもよらない純な心でした。








posted by 絵師天山 at 10:00| Comment(0) | 百人一首

2015年01月29日

魅惑の百人一首 53


【右大将道綱母】 (うだいしょうみちつなのはは)

嘆きつつ独り寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかはしる

   なげきつつひとりねるよのあくるまはいかにひさしきものとかはしる



 
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          天山書画





こちらの朝はなかなか来ないようですが・・・・

逢瀬の充実と時間の推移とは正比例するもの・・・ですが、
思いが届かない場合は反比例。
同じ24時間でも時により場合によってずいぶんと差がつくものなのでありましょう。

蜻蛉日記の作者【右大将道綱母】は本当は何と言う名前だったのでしょうか?

藤原兼家の側室となって、道綱を産んだ女性。藤原家の繁栄を支えたおひとり・・・

藤原兼家は、道長のお父さん。
道綱は道長の腹違いの兄弟。


この和歌からすると藤原兼家との仲は今一つ、
兼家が他所へ泊って、自分の処に明け方戻り門をたたいたが、開けなかった・・・ら・・・又他所へ泊りにいってしまった・・・その翌日の歌。

イヤミですかね? しかも、この歌は兼家からの言い訳的贈歌に対する返歌で、ことさら色褪せた菊の花を添えた!
・・・そうで、いやー、兼家の当惑ぶりが思われます。

蜻蛉日記にはそのあたりの事実関係があらわに記されていて、この歌の兼家の返歌は

げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり

もう、バンザイ・・・勘弁して下さーーい!
ですかね。


しかし、嫉妬される内は愛情がある証拠。
あながち薄幸の女性と決めてしまうことも出来ません。
事実、息子藤原道綱は正妻腹道長ほどではないにしても・・大納言まで登り詰める訳ですから、母としての幸福感も人一倍感じたことでありましょう。その上、今だに蜻蛉日記は人々を楽しませているのですから、社会人として大成功者である、とも言えましょう。


気丈な女の恨み事・・・?と言うよりも、いわゆる可愛い女の歌と言えるのかな・・・
このとき兼家27歳、作者19歳。道綱が産まれて二か月ほど経った頃でした。


 

posted by 絵師天山 at 10:00| Comment(3) | 百人一首

2015年01月28日

魅惑の百人一首 52


【藤原道信朝臣】 (ふじわらみちのぶのあそん)

明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

   あけぬればくるるものとはしりながらなおうらめしきあさぼらけかな




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           (天山書画)






当たり前のことですよね・・・朝が来ない日はありません、あっても困るし・・
陽はまた昇り日はまた沈む、これ地球上での永遠の鉄理であります。

当然の事とは言いながら別れの時間が来るのは恨めしい!

さて、そのお相手は??

【俊頼髄脳】という説話集にはこんな雅なお話が遺されています。

“道信の中将の山吹の花を持ちて上の御局といへる所を過ぎけるに、女房たち数多こぼれて、さるめでたき物を持ちてただに過ぐるやうやある、といひかけたりければ、固よりやまうけたりけむ、
『くちなしにちしほやちしほ染めてけり・・・』と言いて差し入れたりければ、若き人々え取らざりければ、奥に伊勢大輔(いせのたいふ)がさぶらいけるを、あれ取れ、と宮の仰せられければ、受け給ひて一間がほどをゐざりていでけるに、思ひよりて、
『・・・・こはえもいはぬ花の色かは』とこそ付けたりけれ。是を上聞し召して、大輔(たいふ)なからましかば恥かましける事かな、とぞ仰せられける。”


この和歌の作者【藤原道信朝臣】は、『いみじき和歌の上手』と称された夭折の天才貴公子!
宮殿(上の御局)を山吹の花をかかえて通り過ぎる処を、その艶やかさに女房達がザワついて、ただ通り過ぎるだけですか?と問いかけると、すかさず道信様、かかえていた山吹を御簾の内に差し入れて、『くちなしに・・・』、と、上の句を投げかけた・・・・

クチナシはガーデニアとも呼ばれる白くて芳香の秀でたオハナ。その実は朱色で羽子板の羽根みたいな形をしていて、煮出すとそれは美しい黄色の染料となります。料理にも使われますね、お節料理の栗きんとんの黄色はこれ。
日本画材としても昔は良く使われました、なんと、金箔を貼る前の地塗りとして!
透明感のある爽やかな黄金色が得られるからです。


その美しい黄色と山吹の花の黄色と連想して、『ちしほやちしほ・・・』と、当意即妙なる上の句を投げかけた。何しろ和歌名人の貴公子、このくらいは朝飯前!・・・が、若女房達はこれに即答できかねて・・・処へ、宮様(=勿論中宮彰子様の事です)、が、そこに控えていた伊勢大輔にお声をかけて、その山吹の花を受けて下の句を奉れ!と、命じられた。

ちょっと間は空いたけれど、想いをこらしてつけたのが、『こはえもいはぬ花の色かな』。
これはまたエモイワレヌ美しき色じゃあありませんか!!!
と、見事に返された。
この話を伝え聞いた御門=一条天皇は、
「大輔でなければ恥をかいただけだったろうにねぇー」とおっしゃったとか・・・

紫式部や和泉式部、名だたる才媛と共に上東門院にお仕えした宮廷歌人、さすがの伊勢大輔! と、言いたいところですが、本当にさすがなのはこの【藤原道信朝臣】ですね。何とも素晴らしい!



女のもとより雪ふり侍りける日かへりてつかはしける

帰るさの道やは変るかはらねど解くるに惑ふ今朝の淡雪

帰り道の様子は変わらないけれど淡雪は融けて解こうとしても解けず思い惑う心を持て余して・・・・と
後朝の歌、・・・その第二首にこの歌を詠んだので、・・・

明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

・・・・・このお相手ならずとも
しばし、うっとりしてしまいますねぇ・・・・








posted by 絵師天山 at 10:00| Comment(2) | 百人一首

2015年01月16日

魅惑の百人一首 51


【藤原実方朝臣】 (ふじわらのさねかたあそん)

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

   かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなもゆるおもいを





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              (天山書画)





朝臣というのはそのまま普通に読めば「ちょうしん」で、大ざっぱに言えば、天皇の部下である!という意味ですが、それを「あそん」と訓む。
朝臣(あそみ、あそん)は、天武天皇時代、八色の姓(やくさのかばね)の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当しました。
一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたためごく極稀、
皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるのがこの朝臣だった訳ですね。
読みは「あそみ」が古くもっと古くは阿曽美、旦臣とも書いた。

この朝臣が作られたのは、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室中心の体制強化を計った為でありました。

朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられ、その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰(すくね)の姓。
その後は、朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓をどんどん下賜していったので、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つように・・・・・。

さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められ、また、武家台頭による下級貴族の没落もあって、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味は失い、公式文書で使う形式的なものになっていったのですが、例えば織田三郎平朝臣信長・・・と云うように、公称しようとする場合は、我はこれこれの士族の出で、天皇の部下なり!とわざわざ言うことに価値があり、そこに自負心が込められている場合も多く、当然尊称でもあったのです。


話が脇道に逸れてしまいましたが・・・・

かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなもゆるおもいを

声を出して詠むと流麗なる響き。
すぐにも暗記できそうな歌ですね。


「かくとだに」、の「かく」、は「この様に」、ですから、この様にあるとさえ・・・

「えやはいびき」、「いぶき」は、・・・言う、と伊吹山のいぶき、との掛け言葉で、
言う事ができましょうか!? いやいや出来はしません!

「伊吹のさしも草」で伊吹のヨモギ。
さしも草はモグサ、燃え草、春に萌える如く芽吹くのでヨモギのことをこう呼んだのですね。

さしも知らじな、は、さしも草に掛かって、
「こんなに燃える思いを抱いているとも知るまいなあ・・・・」、となります。

熱烈にくどき落とそうとしている訳。
念の入ったナンパなんです。

前書きにも勿論、「女にはじめてつかわしける」とあり、
頷かせる為の手練手管、・・・なかなか実方朝臣スミにおけぬプレイボーイだったのかも知れません。

ついナビイてしまう女性も・・・・
感心させられてしまう程の老練さだから・・・、
恋歌の名人芸はこれに止まらず、実方の得意であったようで、
少々図に乗り後に粗暴なふるまいが禍し、左遷。
任地で没した事がわかっています。



    




posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 百人一首