2015年05月30日

魅惑の百人一首  70    良暹法師(りょうせんほうし)  

めでたく・・
後半、折り返し地点に届きました。
魅惑の百人一首、今回で70首目!

御家柄からか?
幾分クサみを感じるほどの芸術家肌であったらしい
藤原の定家様、・・老後、小倉山山荘に隠居して
百人の和歌を一首づつ選定し、色紙形に書いて
障子に押し楽しんだ・・・・
これを一般に百人一首と言い
あるいは、小倉山荘色紙和歌とも・・・言う。


もっとも
定家生存中に広く知られた訳ではないらしく
風雅として、“和歌をしるし障子に貼る”、
という当時の流行があって
子の為家が父の選定ナリとして世に広め、
いつのころからか定着し始めたものが
現在に続きました。

入るべきものも入っていないのもあり
入っているものにも
作者が特別重んじていたとは思えぬたぐいのものもあり、
定家の選定基準こそ正しいなどとは言えないでしょうが
この百人一首が
日本を支えてきた歴史を考えれば
定家卿の地位存在は欠かすことは出来ません。


なにしろ御子左家・・・京都に今でも御子孫が繁栄し
正真正銘現在までに続く冷泉家の名士・・・
定家卿、その父俊成、子為家、は日本文化のコアを形成したのです・・・

日本文化のエッセンスを
ダイジェスト版でおさらいしてくれる百人一首ですから
日本人として必須アイテムと言うべきであり
千年という時さえ超越し
家庭に常備されて親しまれて来たと言う事は
すなわち日本人の文化性の高さそのもの!
・・・・と言えましょう。

定家の選定基準が絶対ではないにしても
ここまでに人口に膾炙したのには
立派な理由があり、
くみ立ての巧妙さ・・・・

日本の国柄の歴史と文明の歴史を良く百首の歌と百人の人物によって示している

という定家卿の天才的巧妙さ故に
字数にすれば3100字あまりの詩集である
この百人一首によって
日本人は古典文化の
実に親しみ易い
家庭版
を持つことが出来た、・・・
のですね。
まことに有り難いことです。
スバラシイ事であります!

さて今回は・・・





【良暹法師】(りょうせんほうし)

寂しさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ

   さびしさにやどをたちいでてながむればいずくもおなじあきのゆうぐれ







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              天山書画






先回の能因法師による絢爛華麗なる秋の歌に比してこの地味さ・・
なんともこの地味さ加減はどうでしょう・・・・

解り易く一読すれば意味はわかる平明な作品ですが
少々ウラブレた感じが・・・
スネてる?のか?とも見受けられ・・・


秋の夕暮れを詠んだ歌は三夕の歌として良く知られた三首があり・・・・・

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
西行

さびしさはその色としもなかりけり真木たつ山の秋の夕暮れ
寂蓮

見わたせば花も紅葉もなかりかり浦の苫屋の秋の夕暮れ
定家


こちら良暹法師(りょうせんほうし)の詠は
この超有名!・・・なる
何れ劣らぬ・・・名作中の名作
三夕の歌の母体となった、と言われており
単なる・・・、ウラブレもの!というだけの評価ではないのです。


殊に契沖の評はなかなかに深く
・・・これは秋の夕ことの淋しさ独り宿に有りて堪えがたきままに立ち出でてかからぬ方もありやとて所をかへて見れども、さびしさ我が宿にかはらぬ夕なれば、いづくに行きても此のさびしさはなれぬことわりを知る心なり、さびしさとは常にはつれづれとあるをのみいへり。
              契沖 百人一首改観抄より   


契沖は百人一首の見事な解釈及び評によってしられた阿闍梨(あじゃり)ですが、この歌に対してははこう、見事に、説いているのであります。
実感を作為せずにすらりと詠み上げるという、当時としてはザン新極まるニュースタイルの作風だったのですね。

作者良暹法師はりょうぜんとも呼ばれ、
詳しい伝記は分かりませんが母は藤原実方の女童白菊、
元比叡山の僧で晩年には雲林院に住んだらしい、
宮中歌合にも召された歌僧。
後朱雀、後冷泉朝期に活躍した事が分かっています。








posted by 絵師天山 at 08:00| Comment(2) | 百人一首

2015年05月14日

魅惑の百人一首 69 能因法師(のういんほうし)


能因法師(のういんほうし)


嵐吹く三室の山の紅葉ばは龍田の川の錦なりけり

   あらしふくみむろのやまのもみじばはたつたのかわのにしきなりけり





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           天山書画






世捨て人として歌を詠みつつ
山野に暮らす・・・・
後の西行法師のような、
ある種理想追求型・・・
隠者歌人の魁、先駆者? が、この
能因法師(のういんほうし)  らしい。


名族 橘氏の出であるほか
詳しい事はわからない様ですが、
「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」
という歌を都で作り、
みちのくを旅行したふりをして家に籠り
顔を日焼けさせて後、旅から帰ったとふれ回った、
そんなお茶目ぶりも伝わっております。


当時の都人からすると陸奥=みちのく
は文字通り 道の奥、であり、
憧れの地でもあり、一度は行ってみたいところ、
見栄張ってハワイに行きました!風な
演出も シャレのうち・・・
こんな逸話が残るほど歌好きであり、
歌名人でありました。


平凡なる日常をいかに非凡に暮らすか!?
芸術はその為にあるので、
当時の歌人たちには
芸術!ナドというクダラン自意識は、
全く無かった事でしょうが
身の周りを楽しませる心は
強いものがあったのであろうと思うのです。

紅葉が風に散らされて川面さえ彩られてしまう、・・・

という平明端的な歌であって
ヒネリも何もなく、
一直線に読み下してみせた
如何にも内裏歌合せの看板となりそうな作であり、

飾られる事を考えつくした絵画の様でもあります。

竜田川は言わずと知れた紅葉の歌枕
龍田姫と言えば紅葉を司る女神様のこと


秋の紅葉の代表者であります

ちなみに春を司る女神を佐保姫と申し上げ
いづれも奈良の都の時代に言いはやされてより
今日なお続いているのでありましょう。


名歌人最晩年、
宮中の歌合せに召され
重い腰を上げ、軽々と
持てる全力を傾けた代表作
である、と言えましょう。









posted by 絵師天山 at 10:56| Comment(2) | 百人一首

2015年05月13日

魅惑の百人一首 68 三条院 (さんじょうのいん)


【三条院】(さんじょうのいん)

心にもあらで憂き世に永らへば恋しかるべき夜半の月かな

   こころにもあらでうきよにながらえばこいしかるべきよわのつきかな






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              天山書画





例ならずおはしまして
位なぐさむと覚しめしける頃
月のあかかりけるを御覧じて
三条院御製・・・・・・


ありますのは、後拾遺集。


そもそも天皇に大権がおわしますこそ本来でありまして、
院=上皇、が天皇を差し置いて頂点におわす、と
言う事そのものが常態ではありません。
院政というのは、相当イビツなる政体・・・


例ならず、は
御病気で、
院という御位も降りてしまおう
とお考えになっておられる時に

月を拝して詠まれたのがこの御製です。


御製とはいえ、
少々うらぶれた感に満ち満ちており
それもそのはず、
第六十七代天皇となられましたが
御病弱。
特に御目が悪く、・・さらに、
御在位中二度までも皇居が炎上!
左大臣であった頃の道長が
自身の孫でもある後一条天皇を早く即位させようと画策
この三条天皇にあの手この手の圧迫を加え
・・・・やむなく御退位。
翌年にはナント
崩御されてしまわれたのですから、
全く・・・悲運の陛下と言わざるを得ません。 


肉体的精神的政治的苦悩・・・
三重苦にさらされた失意は
美しい夜半の月に向けられたのであります。

その月さえも失明の危機に曇りがち・・・・でしたが


御在位僅か五年、
道長に強いられて退いた天皇の
哀れ深い、
しかし、
これ以上ないほどに
澄み切った御製であります。


道長は娘彰子を一条天皇に入内させ
その中宮彰子に皇子誕生するや
この孫を天皇とする為
三条天皇を一刻も早く退位させたかったのです。


中関白家の栄華を中宮定子の後宮が代表し、道長の栄華を中宮彰子の後宮が代表し、両者の相克、活躍がかの紫文を頂点とする王朝女房文学を生みだしたのですが、その陰にはこのような理不尽が山積みされていたこともまた事実であったのかもしれません。




posted by 絵師天山 at 09:00| Comment(5) | 百人一首

2015年05月12日

魅惑の百人一首 67 周防内侍 (すおうのないし)


【周防内侍】 (すおうのないし)

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ

   はるのよのゆめばかりなるたまくらにかいなくたたんなこそおしけれ







             suounonaisi.jpg
               天山書画






二月ばかり月のあかき夜
二条院にて
人々あまたゐあかして物語などし侍りけるに
周防内侍よりふして枕をかなと
忍びやかにいふを聞きて
大納言忠家
是を枕に   とて、
かひなを御簾の下より
さし入れて侍りければ
詠み侍りける


なんとも艶めいた、春の夜の夢の様な詠であります。

『甲斐なく』、と『かひな(腕)く』とが掛けられております。

枕の代わりに自分の腕を差し出す男

女の方は、悪い気はしないまでも、
そんな、安っぽい事言っちゃって、
浮き名が立ってしまうじゃあないの!

戯れ事の夜物語ですかね、


しかし、とっさに出た歌にしては上等
『春の夜の夢ばかりなる手枕に・・・』
こういう上の句はなかなか思いもよりません。
見事!一本!
いかにも優艶 耽美。

作者周防内侍の才気はなかなかのものであります。

忠家の返しは

契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき

(大意:前世からの深い縁があってこの春の深夜に差し出した手枕なのに。それをどうして甲斐のない夢になさるのですか。)

コチラは、若干軽く、ソコソコのお返事でした。



この場合の二条院は道長の五男関白教通のお邸。

但し周防内侍が仕えていた
後冷泉天皇の中宮章子内親王は
「二条院」の院号を宣下されているので、
その御所であるとも考えられる様です。
いずれにせよ、
大納言忠家も周防内侍の才気には
脱帽  、というところでしょうか。




 『栄花物語』続編において、
姫君の中の姫君として章子内親王は登場します。
父は道長の孫天皇、母は道長の娘で、
幼い頃すでに最高位である一品に叙せられ、
後冷泉天皇の中宮、
御子がなく国母にはおなりにならなかったものの
女院の称号を戴くなど、(これは異例の事・・・
当時最も高貴な女性の一人でありました。
周防内侍はこの方に仕え活躍したのですね。








posted by 絵師天山 at 09:00| Comment(4) | 百人一首

2015年05月11日

魅惑の百人一首 66 前大僧正行尊 (さきのだいそうじょうぎょうそん)


【前大僧正行尊】 (さきのだいそうじょうぎょうそん)

もろともにあはれと思へ山さくら花よりほかに知る人もなし

   もろともにあわれとおもえやまざくらはなよりほかにしるひともなし





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              天山書画





大峯にて
おもひもかけず
さくらの花のさきたりけるを見て
詠める・・・・・・
と詞書にあり、

大峯は吉野の奥、十津川の源流域。
修験者の天然道場としてメチャクチャ険しいあたり・・・

『千日回峰行』など、
修験道の修行は厳しく
深山幽谷で孤独に耐えつつ
心身をギリギリまで追い詰める。


行者として大峯山中に分け入った 
この歌の作者行尊が
自分と桜とを同位に捉え
自分の心情と掛け合わせ
詠じたものでありましょう。

禅問答みたいな感じもありますね。


露に濡れぬは露ばかり・・・・
などと、
訳わからんことをわざわざ語ろうとするのは
宗教家にありがち・・・  


もっとも、
道を求めているのは宗教家ばかりではありませんから
誰にでも若干の共感は湧くとは思いますが
・・・・・・・。

「あはれ」は憐憫の「哀れ」、ではなくて
・・・・お気の毒、とは別物。
「もののあはれ」などと使う「あはれ」。

親しみを感じるとか、懐かしく思うとか、
好ましく感じている様であり、
語の源は「あっ!あれ!!」・・・・

「あー、あれ!観てご覧!」・・・的な
かなりお気に入りな驚きをつづめて言葉にしたもの。デス

単独行の登山家はこんな気持ちなんでしょうか?
人知れず奥山に咲く美しさを孤独に耐えながら愛でる・・・

真理を求める
求道の心は【真摯】(しんし)に
生きようとする人ほど強い。

なぜ人は生きるのであろう?
自分という存在はいったい何だろう?


宇宙の真理をそこに見たり・・・

ただの自意識過剰!? と云うなかれ
こういう【真摯】(しんし)に生きようとする人は
案外器が大きい場合もあるので、・・・・

事実この作者 行尊は
天台座主、大僧正に登り詰めるのです。

花が美しいと感じる心は、
人間の側、人間の都合であって
花の方は別に“私は美しい”、と
思っている訳ではないでしょう。

同じく
地球の自然美と言うものは
人間の美意識によって
成り立っている。・・・・

と言う哲学的な問い?が
人恋しい情の中に同居しているのかも知れません。




posted by 絵師天山 at 09:00| Comment(2) | 百人一首

2015年05月08日

魅惑の百人一首 65    相模(さがみ)


【相模】(さがみ)

恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそをしけれ

   うらみわびほさぬそでだにあるものをこいにくちなんなこそおしけれ






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             天山書画






涙で濡れた袖を乾かす気にもなれないし
口さがない人の噂にのぼったまま
朽ち果てるのでしょうか?!
あーーー嘆かわしい!・・・・チクショウ
・・・・・と言った意味でしょうか、



内裏歌合(だいりうたあわせ)に詠まれ
厳しく激しい悔しさをアッパレに出した?
ので“勝”と認定されました。

永承六年のこと・・・
だいたい西暦1000年くらいです。

対戦相手は右近少将源経俊朝臣

“下燃ゆるなげきをだにも知らせばや焚く火の神のしるしばかりに”

と、番いにされての“勝”でした。


作者相模は、ちょうど西暦千年に生まれ
11世紀中ごろに活躍した女流歌人。


武勇で名をはせた源頼光(みなもとらいこう)の養女であり
相模守大江公資の妻となり故に 『相模』、と呼ばれておりましたそうで、祐子内親王の女房となり後に公資と別れ、中納言定頼らと恋を重ねています。

この歌を詠んだのはもう50歳を過ぎてから、
熟女のボヤキとも受け取れますが
長年女房として
数多の事例や、自らの体験を重ねた作者が
平安女性の恋の有り様を流麗に示した
オトナの表現、といったところで
哀れを催すと言うより
むしろ妖艶ささえ漂うような気配
・・・が感じられます。


現実の恋云々・・・ではなくて、
歌合に出されてこそ光を放つ作品・・・
さすが、プロフェッショナル!
と申せましょう。


チクショウ・・・?
などと申し上げましたが・・・
品格はしっかりと保たれています。


此の時の歌合の様子は
栄華物語に詳しく
端午の節句に開催
永承六年(1051)五月五日に京極院内裏で披講された歌合出詠歌。
主催は後冷泉天皇、判者は藤原頼宗。掲出歌は題「恋」五番左。

菖蒲、郭公、早苗、祝、そして恋・・・
五番のお題それぞれに対となる名歌が詠われております。









posted by 絵師天山 at 09:00| Comment(4) | 百人一首

2015年05月07日

魅惑の百人一首 64 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)


【権中納言定頼】(ごんちゅうなごんさだより)

朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬々の網代木

   あさぼらけうじのかわぎりたえだえにあらわれわたるせぜのあじろぎ





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            天山書画





権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)は
まだ幼さのこる和泉式部の娘、
小式部内侍(こしきぶのないし)
をからかって大江山の名歌を詠わせた御方。


前出の悲恋貴公子、
左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)と
ほぼ同時代を過ごした
大納言公任(だいなごんきんとう)の息子様です。


小倉百人一首の撰者定家の念頭には当然の事ながら・・・
常に源氏物語があり、特に宇治十帖の悲恋物語が・・・
根底に流れている


「宇治にまかりて侍りけるときよめる」
と、前書きの上にこの和歌があり、これは、宇治の里の風情を淡々と詠んだだけの叙景歌と思われますが、その内側には当時の都人の宇治への憧憬が見え隠れしている。


大納言公任の歌も・・・・・・

“瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こへけれ”

タナボタ和歌とはいえ、自然の情景をおおらかに詠んだものでしたね。

父の血を受けて和歌に巧みなこの権中納言定頼の作品もすばらしい叙景歌なんですが、宇治十帖の悲恋を背景に思えば、また一段と深い味わいがあろうと言うもの・・・・。
つまり、源氏宇治十帖の主役たち、薫と大君、そして大君に生き写しの浮舟との悲恋物語を念頭に置いて前作 左京大夫道雅の

“今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてなれでいふよしもがな”

前斎宮当子(さきのさいぐうとうし)と
名門貴族道雅との悲恋歌を詠ませ、その後にこの定頼の宇治の歌を持ってきた、・・・
と云う訳で、

恋の哀歌に叙景歌を続けることで
背後にある物語を連想させられ・・
深い余韻を与えられてしまう・・
そんな、仕掛けになっているのであります。



宇治は今でも有名観光地・・・・
平等院があることで知られていますが
平安の当時は良き遠足の地。

宇治川の清流を眺めに
朝霧の宇治に遠出・・・
なんて、
めちゃくちゃお洒落なデートスポットでありました。














posted by 絵師天山 at 17:37| Comment(5) | 百人一首

2015年04月22日

魅惑の百人一首 63   左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)

【左京大夫道雅】(さきょうのだいぶみちまさ)

今はただ思い絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな

   いまはただおもいたえなんとばかりをひとづてならでいうよしもがな






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             天山書画






みっともないくらい未練たらたら・・・
・・・のこの歌、

こうなってしまった今
せめて自分の口から
君をあきらめる とだけでも、
言えたらよいのに・・・


作者藤原道雅は左京大夫。
左京区の区長さん?・・・左京職長官様、であられます。

内大臣伊周(これちか)の子、
伊周は道隆と儀同三司の子。

道隆は道長の兄であり・・・
あの、中関白(なかのかんぱく)家当主でしたね。




「伊勢の斎宮わたりより まかり上りて侍りける人に忍ひて通ひける事を おほやけもきこしめして まもりめなどつけさせ給ひて 忍びにも通はずなりにければ 詠み侍りでる・・・」
とあり、
つまり、伊勢の斎宮様が御上洛の折に秘かに通って、お上の御怒りを受けた時の歌。

伊勢の斎宮は内親王殿下ですから・・・
御身御心すべてを神宮に捧げられた大役
その御方に心を寄せてフラチにも手を出すとは・・・・

トンデモナイことで・・・・けしからん!!!!
と云うわけですね・・・
めちゃめちゃ 道ならぬ恋



三条院の第一皇女 
当子内親王様は伊勢の斎宮の任を終えて帰京。



栄華物語にはこの前斎宮と三位中将、後の左京大夫道雅との悲恋物語が描かれています。



かくて前斎宮 いと若き御心地に、この事(道雅が通ってくるうわさ) いと 聞きにくくおぼさるれば いかにせんと人しれずおぼし嘆かれて 御覧ぜし伊勢の千尋の底の空せ貝 恋しくのみおぼされて しほたれわたらせ給ふに、げにわりなき御濡衣も心苦しさに三位中将は跡絶えて、わりなくのみ思ひ乱れて、風につけたるにや かく参らせたりける

榊葉の木綿四手(ゆふしで)かげのそのかみに押し返しても似たるころかな

人しれぬ事も多かめれど世に聞こえねばまねびがたし また高欄に結びつけ給へる

みちのくの緒絶えの橋やこれならむ踏みみ踏まずみこころ惑わす

宮、ふるの社の(皆人の背き果てにし世の中にふるの社の身をいかにせむ)など おぼされて、あはれなる夕暮に御手ずから
尼にならせ給ひぬ・・・




あーーーーあはれ・・あはれ、
御自ら落飾に・・・・・
道ならぬ恋の果て・・・髪をおろしてしまわれた・・・

そして三位道雅は断念の言葉をせめて自分の口から伝えたいと、絶唱された・・のでありました。

はじめに、
みっともないくらい未練たらたら・・・
と申しましたが、
数ある王朝悲恋物語の中でも慟哭の離別と云えるレベルの、切なる哀歌です。

道雅24歳。
中関白家の栄光は既に消え、政治的にも社会的にも不遇となった貴公子が、
その鬱屈した情念を恋に求めてさらに叶わなかった・・・・誠、残念無念!
断腸の思い・・・・
お気の毒・・・としか・・・・






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(0) | 百人一首

2015年04月15日

魅惑の百人一首 62 清少納言

【清少納言】(せいしょうなごん)

夜をこめて鳥のそらねはかはるともよに逢坂の関はゆるさじ

   よをこめてとりのそらねはかはるともよにおうさかのせきはゆるさじ





            seisyounagon.jpg
             天山書画





さて、大江山の小式部内侍(こしきぶのないし)
八重桜の伊勢大輔(いせのたいふ)
年若き才媛が続きましたが、
こちらは云わずとしれた有名人、清少納言様。

小憎らしいまでの才気が光ります。

とかくクールビューティーとされる清少納言ですが
案外茶目っ気もありまして、枕草子人気が廃れないのもそのウィットに時を超えた普遍性が備わっているからでありましょう。
誰もが、それもそうだ・・、ごもっとも・・、と共感してしまう・・・


この歌は藤原行成とのやりとりの末に出たモノ。

書に於いては三蹟とされ、多芸多才で聞こえた藤原行成と
枕草子作者との応酬として知られております。


“大納言行成、物語などし侍りけるに内(内裏)の御物忌にこもれば、とて 急ぎ帰りて つとめて 鳥のこゑは函谷関のことやといひつかはしたりけるを、立ちかへり これは逢坂の関に侍るとあれば 詠みはべりける”と、詞書。


史記にある孟嘗君(もうしょうくん)の故事を踏まえています。
孟嘗君に騙されて深夜の開門をしてしまった函谷関の番人ならいざ知らず、あなたと私との逢坂の関は下手な鶏の鳴きマネくらいでは越えられませんよーーー! とやったのですね。

シナ戦国時代の斉の孟嘗君が秦に使いし、殺されそうになって、深夜に函谷関まで帰ってきたが、この門は鶏が鳴かぬ内は開けない掟であったので部下の鶏の鳴きマネの上手い者にやらせた処 門が開いて逃げおおせることが出来た、と言う故事です。

男性からすれば、口実を設けて女の局へ 昨夜は鶏に追い立てられて、などと下手な言い訳を贈りつつ 言い寄った・・・
女性からすれば、こういう煮え切らない態度は心外・・・鳥の空音と男の不実とが重なる・・・

で、それって函谷関のことかしら? と、皮肉ってやると
いや、逢坂の関に侍り居ります・・・などと
云い訳の上塗り・・・失態を重ねた挙句
意気地があるなら本音で越えて御覧なさい!
と・・・・憫笑されるハメに・・・。


哀れ憫然・・・・この勝負 行成の完敗。
ま、しかし、オトナの男女のやりとり、
王朝の雅なる局風俗を活写しているのでありましょう。


“逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか”

藤原行成の返しも少々蛇足気味。
ヤケッパチの感が・・・

清少納言の魅力にはとてもとても・・・・






posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 百人一首

2015年04月14日

魅惑の百人一首 61 伊勢大輔(いせのたいふ)

【伊勢大輔】(いせのたいふ)

いにしえの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな

   いにしえのならのみやこのやえざくらきょうここのえににおいぬるかな






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           天山書画






作者伊勢大輔(いせのたいふ)は、
前出、大中臣能宣朝臣(おおなかとみよしのぶあそん)
の孫。

累代の神官。
父輔親(すけちか)も、伊勢神宮の祭主様でありました。
この大中臣家(おおなかとみけ)=伊勢神宮神主の家系は
名歌人を続出させております。

伊勢大輔(いせのたいふ)もまた和泉式部、紫式部、
等、と共に、上東門院=中宮彰子(=道長の娘)、にお仕えしていたのです。


前出 藤原道信朝臣の処で語りました逸話にも登場していましたね、
覚えておられましょうか? 山吹の花のお話・・・

『いみじき和歌の上手』とされた、この貴公子に
上の句を投げ掛けられて、中宮様のお命じに従って即答、
御門(一条院)の覚えもめでたかった・・・・と。

古来宮中に出仕している歌人は超能力者だらけ!

歌聖、柿本人麻呂だってそうでした。ね

別次元の、超がつくエンターテイナーでありました。

この和歌にしても、
前書きに・・・
“一条院の御時奈良の八重桜を人の奉りけるを、そのをり御前に侍りければ、その花を題にて歌よめ、と、おほせごとありければ”・・・としてあり、

しかも、先輩紫式部が今年の新人が今、承ります・・・と
推薦し、道長もそれに合わせて
「今年のニューフェイスはただ者ではありませんぞ!」
と、輪をかけてお上に紹介申し上げた、

その直後・・・万座の期待を背負って
この新人アーテイストは

“今日九重に・・・・・”
とやりおおせた!

『万人感嘆、宮中鼓動す・・・』
形容されたのも当然!
スバラシイ! のひとこと。


新参者としては途方もない大役ですが、
予想をはるかに上回っての鮮烈デヴュー!


中宮様の御返し

“九重に匂ふをみればさくらがり重ねて来る春かとぞ思ふ”


お慶びの御心を伝えておられます。

ヤンヤの喝采をあびて、伊勢大輔(いせのたいふ)、
面目を施し御先祖様にもメデタク御報告が出来たことでありましょう。


平安宮廷の光輝を高く朗らかに詠いあげたこの才気、機智、流麗なる調べ、新参女房の晴れ姿が目に浮かぶ様じゃあありませんか!












posted by 絵師天山 at 14:12| Comment(4) | 百人一首