後半、折り返し地点に届きました。
魅惑の百人一首、今回で70首目!
御家柄からか?
幾分クサみを感じるほどの芸術家肌であったらしい
藤原の定家様、・・老後、小倉山山荘に隠居して
百人の和歌を一首づつ選定し、色紙形に書いて
障子に押し楽しんだ・・・・
これを一般に百人一首と言い
あるいは、小倉山荘色紙和歌とも・・・言う。
もっとも
定家生存中に広く知られた訳ではないらしく
風雅として、“和歌をしるし障子に貼る”、
という当時の流行があって
子の為家が父の選定ナリとして世に広め、
いつのころからか定着し始めたものが
現在に続きました。
入るべきものも入っていないのもあり
入っているものにも
作者が特別重んじていたとは思えぬたぐいのものもあり、
定家の選定基準こそ正しいなどとは言えないでしょうが
この百人一首が
日本を支えてきた歴史を考えれば
定家卿の地位存在は欠かすことは出来ません。
なにしろ御子左家・・・京都に今でも御子孫が繁栄し
正真正銘現在までに続く冷泉家の名士・・・
定家卿、その父俊成、子為家、は日本文化のコアを形成したのです・・・
日本文化のエッセンスを
ダイジェスト版でおさらいしてくれる百人一首ですから
日本人として必須アイテムと言うべきであり
千年という時さえ超越し
家庭に常備されて親しまれて来たと言う事は
すなわち日本人の文化性の高さそのもの!
・・・・と言えましょう。
定家の選定基準が絶対ではないにしても
ここまでに人口に膾炙したのには
立派な理由があり、
くみ立ての巧妙さ・・・・
日本の国柄の歴史と文明の歴史を良く百首の歌と百人の人物によって示している
という定家卿の天才的巧妙さ故に
字数にすれば3100字あまりの詩集である
この百人一首によって
日本人は古典文化の
実に親しみ易い
家庭版を持つことが出来た、・・・
のですね。
まことに有り難いことです。
スバラシイ事であります!
さて今回は・・・
★
【良暹法師】(りょうせんほうし)
寂しさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ
さびしさにやどをたちいでてながむればいずくもおなじあきのゆうぐれ

天山書画
先回の能因法師による絢爛華麗なる秋の歌に比してこの地味さ・・
なんともこの地味さ加減はどうでしょう・・・・
解り易く一読すれば意味はわかる平明な作品ですが
少々ウラブレた感じが・・・
スネてる?のか?とも見受けられ・・・
秋の夕暮れを詠んだ歌は三夕の歌として良く知られた三首があり・・・・・
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
西行
さびしさはその色としもなかりけり真木たつ山の秋の夕暮れ
寂蓮
見わたせば花も紅葉もなかりかり浦の苫屋の秋の夕暮れ
定家
こちら良暹法師(りょうせんほうし)の詠は
この超有名!・・・なる
何れ劣らぬ・・・名作中の名作
三夕の歌の母体となった、と言われており
単なる・・・、ウラブレもの!というだけの評価ではないのです。
殊に契沖の評はなかなかに深く
・・・これは秋の夕ことの淋しさ独り宿に有りて堪えがたきままに立ち出でてかからぬ方もありやとて所をかへて見れども、さびしさ我が宿にかはらぬ夕なれば、いづくに行きても此のさびしさはなれぬことわりを知る心なり、さびしさとは常にはつれづれとあるをのみいへり。
契沖 百人一首改観抄より
契沖は百人一首の見事な解釈及び評によってしられた阿闍梨(あじゃり)ですが、この歌に対してははこう、見事に、説いているのであります。
実感を作為せずにすらりと詠み上げるという、当時としてはザン新極まるニュースタイルの作風だったのですね。
作者良暹法師はりょうぜんとも呼ばれ、
詳しい伝記は分かりませんが母は藤原実方の女童白菊、
元比叡山の僧で晩年には雲林院に住んだらしい、
宮中歌合にも召された歌僧。
後朱雀、後冷泉朝期に活躍した事が分かっています。