2015年09月01日

魅惑の百人一首 80    待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)


【待賢門院堀河】(たいけんもんいんのほりかわ)

長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ

   ながからむこころもしらずくろかみのみだれてけさはものをこそおもへ





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           天山書画





十二単と称される女房装束は、衣を重ね着する処に最大の妙がありまして、季節により時に応じた組み合わせの決まり事さえあって、それは絢爛華麗! 正に世界に冠たる衣装美と言って良いモノ・・・ですが、その豪華な色彩の乱舞をまとめ上げるのはそれを着る女性の黒髪なのです。

長い長い髪の黒色によって全ての色彩をまとめてしまうので、あらゆる色が引き締まり、美しい!

その黒髪が乱れると言うのは・・
これ又趣向の違う美しさを奏でる訳ですが、
男も女自身もそれを知っているからこそ、
このような名歌が生まれたのでありましょう。


思い人の心が変わらないかどうか分からないので、黒髪が乱れるみたいに心も乱れております・・・と言う女性の心理を詠ったのですね。

堀河は文字通り待賢門院に仕える女房でありまして、
待賢門院さま、とは閑院宮公実の娘
 藤原璋子(ふじわらのしょうし)
鳥羽天皇の御后様であられまして、崇徳天皇、後白河天皇の御母君ともなられました御方。

この御方にお仕え申しあげていた 女房の堀河・・・
元は前斎院令子内親王
(さきのさいいんれいしないしんのう)
にお仕えしていて、その頃は六条と呼ばれておりました。

崇徳院の悲運にこの和歌をからめ、
物語的精彩を深読みする解釈もあります様で、

つまり、後朝(きぬぎぬ)の歌は、
男がまず読みかけて女が返す。
・・・・・・
この歌も女=堀河、の返し、ですが、
お相手は崇徳院様ではないか??!!
・・・と解釈する説ですね。

と、すれば・・・
必ずしも恋の歌ではないのかも知れず
悲劇の崇徳院との哀しい悲しいお別れ・・・
を詠ったモノ
であるのかも知れません。







posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(3) | 百人一首

2015年08月31日

魅惑の百人一首 79   左京大夫顕輔 (さきょうのだいふあきすけ)


【左京大夫顕輔 】(さきょうのだいふあきすけ)

秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月のかげのさやけさ

   あきかぜにたなびくくものたえまよりもれいづるかげのさやけさ





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             天山書画





月の影、と言うと、月の光の事。
さやけさ、とは、清い澄み切った様・・・

秋と言えば、何といっても、月!

名月の季節。

晴れ渡った夜空を行く雲が開け、
間から清くすがすがしい月光が・・・

たなびく雲も月の光に照らされてこそ
その存在が浮かび上がる訳ですね。


実に実に スッキリとした気品あふれる名歌です。
説明の必要がありません。


左京大夫は前にも道雅(みちまさ)の処で出てきましたが、
左京職、左京の庶政を行う役所の長官。
職の長官を大夫(だいふ)と読むのです。


三男坊の藤原顕輔は、二人の兄に家督をお任せして
御自分は和歌の道に専念できたラッキーボーイ!


六条藤家と呼ばれる歌流の基を築いたのでした。

崇徳院(すとくいん)の院宣により詞花集を撰進、
この歌も新古今集秋の部に
「崇徳院に百歌たてまつりけるに・・・」
としてあり、六条歌学は崇徳院の余慶によって成立したのであります。
さやけき月の光とは、悲劇の崇徳院サマのことであるのかも知れません。



六条歌学は俊成定家の御子左家と拮抗・対峙・・、
当時の歌道家が果たした役割は誠に大きいものが・・・





posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(3) | 百人一首

2015年08月30日

魅惑の百人一首 78   源兼昌(みなもとのかねまさ)


【源兼昌】(みなもとのかねまさ)

淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守

  あわじしまかようちどりのなくこえにいくよねざめぬすまのせきもり





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     天山書画





「幾夜寝覚めぬ」 幾夜目を覚ましたであろうか・・・
須磨と言えば明石、
須磨、明石と言えば、・・・・・源氏物語。
不遇時代の光源氏を想い起こしますネ。


源氏物語の須磨の巻に・・・

まどろまれぬあかつきの空に千鳥いとあはれに鳴く・・・

「友千鳥もろごゑになくあかつきは一人寝覚めの床も頼もし」

とあり、

もろごゑ、は諸声。
群鳴く暁は、床で目が覚めて孤独に泣いてしまっても
お仲間が居て頼もしいなあ・・・、


弘徽殿女御(こきでんのにょうご)一派から恨まれ、左遷の憂き目に遭っている光の君の心情が千鳥と共に詠われており、これを本歌としたものと思われます。
源氏物語は思った以上に和歌が多く含まれ、この物語に心酔した人は数知れないのですから、当然本歌取りも良く行われていたのです。
もっとも古く万葉集にも須磨は歌枕として登場しますので、さかのぼればどれ位以前から人々は須磨への想いを描いて来たのか、解らない位でありましょう。
もともと海辺であり、海女や藻塩と結んで題詠の材となっており、勿論関守も同様、旅心を詠うにかっこうの題材でありました。


源氏物語がまとまった草紙になって約百年が過ぎ、歌枕としての面目も新たにした須磨の情景を思い浮かべれば、更なる余情を感じさせられる…という仕掛けになっている、・・・この歌はいつか、一服の名画に託さねばなりませんね。

“行平の中納言も 関吹きこゆる と言ひけむ浦波、夜々は げに いと近う聞えて またなく あはれなるものは、かかるところの秋なりけり”(源氏物語 須磨より)

在原行平が謫居(たっきょ)した地でもあり、
須磨という画題で、いずれ絵画化してみたいと思います・・・

時を超えて楽しみを共有してきたのが日本人の文化史ですから
歌枕もその為。・・・須磨はその代表格という訳で・・・・。

実際、瀬戸内の情景が目に浮かぶ・・・


このところ例年だと残暑でギラギラしているのに
早くも秋の長雨状態・・・虫の声も聞こえ、秋の夜長・・
秋こそ芸術です。



posted by 絵師天山 at 23:04| Comment(3) | 百人一首

2015年07月30日

【魅惑の百人一首】 77  崇徳院


 【崇徳院】(すとくいん)

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

   せをはやみいわにせかるるたきがわのわれてもすえにあわんとぞおもう






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             天山書画






非常に有名な詠唱であり、
百人一首中一番好きな歌!と感じる人も多いようです。


普通は恋歌とされていて、激情表出にウットリする女性も多いので、
「瀬を早み・・・」と、初句がでれば必ず「あはむとぞ思ふ」が、思い浮かぶ。


が、しかし、本来は「瀬を早み」ではなくて、「ゆきなやみ」としてこの歌は生まれました。

崇徳帝が新院となられて、直ぐに藤原公能以下13名の歌人に百首歌の詠進を命じ、御自らも百首を試みられた久安百首の中の一首であります。

その時は「ゆきなやみ」とされたのが、その後「瀬を早み」と初句を詠み替え、さらに「谷川」を「滝川」に改められました。

院政と藤原氏の権勢争いの犠牲となられた新院の嘆きや不満を慮れば、讃岐配流に至る心の動き、鬱屈した激情は故ないことではなく、この絶唱は、恋に託した心境歌、と見るべきであると思われるのです。


無理強いで血流が裂かれたとしても未来にはまたあるべき姿となりたいものだ!
と言う様な御意志の表れでもありましょう。

「岩にせかるる」は、岩に堰かるる・・・で
岩石によって堰き止められている・・・
この場合、岩は藤原氏と言うことになり
「滝川」は滝壺にたたき落とされた天皇家本流・・・という処でしょうか?

以前、謙徳公(けんとくこう)の項でも申し上げましたが、
諡号(しごう=貴人や高徳の人に、死後おくる名前。おくりな。)
で「徳」の字を付けられた御方は総て生前理不尽なるひどい目にあわされていて、せめても、として諡号には「徳」の字を付けて差し上げ、祟らないように配慮するのが当然の処置だった。


怨霊となってる・・から!? 祟らないように・・・!
その祟(たた)るという字はの字に良く似ていますね。
祟と崇・・・・・偶然かもしれませんが・・・
どれくらい理不尽な目に遭わされたのか、
これだけでも十二分に想像が付く様な気がするのですが。


結局、崇徳院は讃岐において悶々の内に崩御なされるのですから、これ以上の理不尽はなく、しかもその後長い間顧みられることさえなかったので、珍しいくらい重ねがさねの理不尽さ・・・を味わう事に・・・

鳥羽天皇第一皇子として御誕辰、第七十五代天皇として御即位されましたが、院政の中・・・実権なく、父鳥羽天皇の庇護もなく(実子ではなく叔父であるとされ)、閑居の内に過ごされた末の配流でありました。








posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(2) | 百人一首

2015年07月29日

魅惑の百人一首 76 法性寺入道前関白太政大臣 


 【法性寺入道前関白太政大臣】
(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)


わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波

   わたのはらこぎいでてみればひさかたのくもいにまごうおきつしらなみ






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              天山書画




子を思う基俊に愚痴こぼしの歌を贈られたのは
此の人。法性寺入道前関白太政大臣、
関白忠通様の詠であります。


忠通は、保元の乱に崇徳院(すとくいん)を讃岐に流し
弟頼長の野心を砕いて頂点を極めた藤原氏の長者。
従一位摂政関白太政大臣という最高位まで登り詰め
法性寺殿に隠退して悠々自適しました。

さすがおおらかなる詠いぶり。

「新院(崇徳)位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」と、前書。

崇徳院御在位は、
保安四年(1123)〜永治元年(1141)まで、
この一首は、内裏歌合せで詠まれたもので
コセコセした処がなく、壮大なイメージが広がり
作者の心境を表明したものであろうとされています。


この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

と詠った道長の心境表出と通うものがありますね。

後にメジャーとなる法性寺流という書道の流れは、この忠通を祖としており、
俊頼や基俊などの近臣を集めては、書に歌に日々を楽しみ過ごしたのでしょう。

「雲ゐにまがふ」・・と言うのは、
雲が居る所と茫漠たる海面との見分けがつかない、
という様な意味で、
続く「沖つ白波」・・が効いております。
青々しく、どこまでも広がる海と空
そして、白波・・・・雄大そのもの・・・

「海上遠望」というお題、は
当時としては新しいものであったとか・・・
道長のやりたい放題の権勢は
既に過去のものとなったものの
新たなる時代を迎えて今度は私が天下を握った!
という気分を
ややオブラートに包んで表現したのではないかと思われるのです。

後に崇徳院を流刑にしてしまう訳ですから、
ケシカラン臣下の代表とも言えますが・・・







posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(0) | 百人一首

2015年07月28日

魅惑の百人一首 75  藤原基俊


 【藤原基俊】(ふじわらのもととし)

契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も往ぬめり

   ちぎりおきしさせもがつゆをいのちにてあわれことしのあきもいぬめり






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               天山書画





「させもが露」・・・? って、何・・

千載集に・・・
「僧都光覚 維摩経の講師の請を申しけるを、
たびたび漏れにければ、
法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを
しめじが原と侍りけれど、
又その年も漏れにければ遣わしける」と、前書。


僧都光覚(そうずこうかく)は、基俊の息子。
例年十月興福寺で行われる維摩経講法会の講師に
この息子を抜擢してもらえるように、父 基俊が
時の関白忠通に運動していた。
が、忠通は、・・・「しめじが原」と言って
請け合ったにも拘わらず、又も採用されなかった・・・

何が何でも子供の立身出世を願う・・・
親心の歌なのですね。


「しめじが原」は、・・清水観音様のありがたい御歌

なほ頼めしめじが原のさせも草われ世にあらむ限りは

なおたのめしめじがはらのさせもぐさわれよにあらんかぎりは

私を頼みとしなさい、どれほど辛くとも私がこの世にあって衆生を救おうとする限りは!

と、観音様自らおおせられた詠で、
良く知られたこの歌の様に請け合うよ!
・・・、と忠通は約束してくれたのに
又また、ダメでした!・・・との恨み節。



「させもが露を命にて」・・・とは、
清水観音のお歌を頼みとせよ、と言って下さった
あれほどの甘露を命綱として・・・
という意味を表として、その裏には
頼み甲斐のないような草の露をも
頼みとして居りましたのに・・
という、二重の意味を持たせた“トホホ・・・”な歌なのであり・・
トホホ・・ではあるけれど、なかなどうしてテクニカルなんですね!


「あはれ」また今年の秋も「往ぬ」めり・・
過ぎてしまいましたぞーー!って、
この歌を贈られた忠通はさぞかし嫌だったことでありましょう。

頂点に立つ人は
部下全員の希望を叶えてやるわけにも往きませんから、
テキトーに?慰めたんでしょうが、
それを逆手に取った処に子を思う親の気持ちが表れていて
それで共感を呼ぶのかも知れません。

伝統派歌人 基俊は右大臣家の名門生まれ、
微官に終わりましたが定家の父俊成の師として
活躍していました。






posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(0) | 百人一首

2015年06月07日

魅惑の百人一首 74   源俊頼朝臣 (みなもとのとしよりあそん)


【源俊頼朝臣】(みなもとのとしよりあそん)

憂かりける人をはつせの山おろし烈しかれとは祈らぬものを

   うかりけるひとをはつせのやまおろしはげしかれとはいのらぬものを





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             天山書画





「憂かりける人」 は、私に対して辛く当った人。
つまり、自分になびいてはくれなかった女性、
片想いがまるで実らなかったのですね。


「はつせ」 は、初瀬 で、長谷寺の事。
大和国初瀬(現在の奈良県櫻井市)
京都の清水寺(きよみずでら)などと並び称される霊験あらたかな名刹
現代でも、長谷観音として十一面観音様と牡丹とで良く知られておりますが、
当時とて同じ、願掛けのメッカであり、指折りの衆生済度スポットでありました。


祈れども・・・山おろしの・・
烈風の様に撥ねつけられ・・・
あはざる恋・・と、相成り・・・。
振られ方も半端じゃあなかったのです。


恋の御利益祈願は完全に裏目・・・・

当時都から初瀬までは遠路、
古刹として有名であり誰でも一度は詣でてみたい処だったのでしょう。
山間部に有りますから「山おろし」も良く知られていて、初冬ともなれば、それは淋しく侘しい山里。
冬に向って耐える感じが余計に破れた恋を連想させるのです。


恋の成就には失敗したけれど、歌としては御見事!
と、お慰めしましょう・・・・か、・・・

「憂かりける」と意外な言葉で始まって
「はつせ」 「山おろし」 「烈しかれ」・・と、
緊迫感があふれ・・強く、実に高い調べ・・・
繰り返し口ずさめば・・・ホント・・に、
良い詠歌デス。


才気が光る!・・
のも・・・当然? 
この歌は「千載集」の詞書によると、
藤原定家の祖父、藤原俊忠(としただ)の屋敷で、
「祈れども逢わざる恋」という題で詠んだ題詠の一首。
つまり、空想の恋を名作に代えた!!

凄いですねーー、
才能というのはこういう事を言う。
当然和歌の道を極め、人に教える立場にあったし
歌論書『俊頼髄脳』は現代でさえ超一級品と言われ、
ちょこっと覗いてみただけでも求道の深さが感じられ、
昔の人の方が、・・・
考え方が何倍も深い・・ことに驚かされるのです。

現代人は、何事も“コンビニ生活”
便利この上ない?・・かも知れない日常だが
実は、その手近かさ、簡便さそのものが
物事を深く考えない因になっていて、詰まる所
創作力が育たない様、飼いならされている?
のではないかと・・・・思うのです。


飛躍しすぎかも知れませんが・・・
心の底から感動させる創作が生まれない時代になってしまった・・
考え方が深ければ深いほど魅力が溢れて来る
解釈の深さ、と言うか・・・
思わず魅せられ・・立ち尽くす・・・そして、
いつまでも心に残る・・
この歌の様な・・
ホンモノのクリエーションに心底憧れます。


≪もみもみと人はえ詠みおほせぬ様なる姿≫・・・・

と、この源俊頼を絶賛したのは、後鳥羽院。

反日北条氏(=鎌倉幕府)によって犯罪者と認定され
隠岐の島へ流され、・・・・・て、19年。
還御することなく薨去された悲劇の天皇は、
ご自身が希代の名歌人であられ、
さらに当代の名歌人達を指導されつつ
勅撰和歌集編纂に尽くされました。
島生活のご日常であっても
頂点に立つ戴冠詩人ならでは、・・・
和歌の道を御自ら深めておられたのです。


遺された【後鳥羽院口伝】を読んでみると
実に公平な、ごもっともな、
名歌人達への個人評が書かれており
“もみもみと”と、いう形容詞は院独特の表現であり、
いかにも宜しい・・・・
といった意味の、それは、最大級の賛辞であります。









posted by 絵師天山 at 16:11| Comment(5) | 百人一首

2015年06月03日

魅惑の百人一首 73   権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)


【権中納言匡房】(ごんちゅうなごんまさふさ)

高砂のをのへの桜咲きにけり外山のかすみ立たずもあらなむ

   たかさごのおのえのさくらさきにけりとやまのかすみたたずもあらなん






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             天山書画






高砂、は枕詞。
尾上、は をのえ で峯。
外山、は 深山 に対して人里近い山。
立たずもあらなむ、は 立たないで欲しいナァ・・・


内のおほいまうち君の家にて
人々酒たうべて歌詠み侍りけるに
遥かに山の桜を望む、といふ心を詠める
大江 匡房(おおえ の まさふさ)
と、後拾遺集に。

内のおほいまうち君、とは内大臣藤原師通、
内大臣のお邸で酒宴が催された折の題詠歌。


いわゆるお題があって、
それを基に競い合って楽しんだのです。
今でいえば、大喜利??みたいな・・・


大人気番組笑点・・の、ノリ。

先の行尊による桜の歌は深山幽谷に修行として分け入り、
思いもかけず見た山桜、だが
コチラは、華やかな都の真ん中、しかも酒宴で桜を想定しての詠。と、言うわけで、好対照とされて長く親しまれて来たのでしょう。

春の花見は外山から奥山へ
秋の紅葉狩りは奥山から外山へ
と言うのが現代にも続く自然な約束事。


洛北や洛東に桜が咲く頃には既に外山は咲き終わり、
霞がちな日和が続く・・・
と言う観念を踏まえて詠まれた処に妙味があるのです。


題詠は、与えられた題に従って読むので
当然、モチベーションは受動的。
だから、初心者には難しいが、ベテラン同士の詠いっこ?
となれば、超 面白くなってくる。

当意即妙、経験値もめいっぱい繰り出して
次から次へと溢れだすように詠み合ったのでありましょう。
その中の名作が、長く遺されることも・・・

題詠による歌合せでなければ出来ない作品が生まれるのですね。


女房達が女主人に代わって詠む代詠にも通じています。
宮仕えのインテリ女房・・・
紫式部 清少納言 和泉式部 赤染衛門 菅原孝標(たかすえ)の娘・・・等々
女主人の代わりとなって
儀礼的な挨拶を詠んだり
お礼を述べたり、
遠まわしに断りを伝えたり、詫びたり・・・
主人の魅力を総合的に演出するのがお役目。


作者 大江 匡房=権中納言匡房 は
博学多才で知られた学者様。
詩文家としての名声も高かったし
軍学や有職故実をも極めた碩学でありました。
代詠の名手でもある赤染衛門の曾孫に当たるのも
ナルホド・・・・・と頷けますね。


血はあらそえない
・・・・

後冷泉、後三条、白河、堀川、
四代の天皇にお仕えして大活躍
重用され正弐位権中納言大宰府権師(だざいふごんのそち)までになり
それ故 江の師(ごうのそち)とも呼ばれております。











posted by 絵師天山 at 10:54| Comment(4) | 百人一首

2015年06月01日

魅惑の百人一首 72   祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)


【祐子内親王家紀伊】(ゆうしないしんのうけのきい)

音にきく高師の浜のあだ浪はかけじや袖の濡れもこそすれ

   おとにきくたかしのはまのあだなみはかけじやそでのぬれもこそすれ





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「浮気ごころで有名なあなたからの言葉は心に掛けますまい!うっかり乗ってしまえば、後にはつれなくされて袖を涙で濡らすハメになりかねませんから・・・・ね」

と、いう意味を

この和歌から読み取ることは

もはや現代人にはムリ 
と言うものでありましょうか?


字儀通りの意味さえピンと来ないし、
何の事をいっているのか良く分からない位ですから、
まして、言外の意味をくみ取れる筈もありません。

けれども、この様に簡単に意訳してもらえれば、
ハハーン、なーるほど!
ちょっと粋だねぇ、・・・・・と感じることは
無理なく現代人にも頷けるはず!


男の口説き心を軽々と跳ね返すような恋愛ごっこは
むしろいつの時代にも共感されるモノ!


この歌が生まれたのは康和4年(1102年)閏五月。
堀河天皇御主催の艶書合(えんしょあわせ)での事。
男が女へ求愛の和歌を贈り
女の返歌を番えた歌合=ケツブミアハセ・・とも言いますが
つまり遊び。ゲーム!

            ・・・・なんでケツ??


始め後朱雀天皇中宮に仕え次に
その第一皇女である祐子内親王殿下にお仕えして、
一宮紀伊
と呼ばれた作者は、紀伊守平重経の妹。

このかへし歌の元になった贈歌は・・・

人しれぬ思ひありその浦風に浪のよるこそいはまほしけれ

   ひとしれぬおもいありそのうらかぜになみのよるこそいはまほしけれ

浦風と共に浪が寄せるように、
あなたへの思いを満たしてください・・・・ーー。

に対する返歌がこの作品です。

だから高師の浜を持って来てあだ浪と言い、
ぬれもこそすれ・・・と答えた。



当意即妙なる冴え!
艶っぽさも極上じゃあないですか!








posted by 絵師天山 at 08:00| Comment(4) | 百人一首

2015年05月31日

魅惑の百人一首 71   大納言経信 (だいなごんつねのぶ)


【大納言経信】(だいなごんつねのぶ)

夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く

   ゆうさればかどたのいなばおとずれてあしのまろやにあきかぜぞふく






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               天山書画






「おとづれて」は、「訪れて」ではなく
音を立てて来て・・・・の意味。
門前の田んぼの稲が風で擦れ合って音を立て・・ 
 

「蘆のまろや」は芦で葺いた屋根の仮小屋、のこと。
実りの秋の夕方をテーマに詠んだのでしょうか・・

作者経信は、宇多源氏の流れ、
藤原道方の息子、
和歌だけでなく琵琶に長じ有職故実にも詳しく
藤原頼通の摂関時代に重用され、
正二位大納言に至る大活躍。
俊頼の父、後出俊恵法師の祖父でもあります。

夕されば=夕方が来ると・・・
この、夕されば の出だしが効いていますネ
「稲」と「蘆」と
「門田」と「まろや」と、
何か良い、・・・床しい響き・・・
秋風が身に沁み入る…気配


技巧を凝らしたわけでもなく
スッキリと詠んで
口説くでもなく、社交でもない、
和歌の為の和歌・・・・と言うか
純粋芸術の香りが仄かに・・・

用を伴わない美と言うのは
絵画の世界においても珍重される事。

素直なる感傷の表出こそ
深い感動をさりげなくもたらすものでありましょう。


しかし、実は「まろや」は梅津という地の山荘で相当立派な別荘であったらしく、その前に広がる田も肥沃で広大なる田圃であり、つまり、実景を詠ったのではなく「田家秋風」という題詠であったことが分かっています。
写実絵画からはファンタジーが生まれにくいように、心象としての大人の和歌、と言うべきではないでしょうか。





posted by 絵師天山 at 08:00| Comment(2) | 百人一首