2015年11月25日

魅惑の百人一首 90   殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)

 【殷富門院大輔】(いんぷもんいんのたいふ)

見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色は変らず

   みせばやなおじまのおまのそでだにもぬれにぞぬれしいろはかわらず 





          殷富門院大輔.jpg
            天山書画





ちょっと耳慣れない、殷富門院さま・・・・は、
後白河院第一皇女であり、
源頼政が驕る平家に立ち向かった時、
錦の御旗として奉じた以仁王(もちひとおう)
の姉宮さまであり、
式子内親王(しょくしないしんのう)様の、
一番上の姉宮さまでもある・・・
亮子(りょうし)内親王、さま・・・のこと、つまり、
殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)とは、
亮子内親王に仕えた女房の一人。
大輔は役職ですね。


病没してしまう式子内親王を気遣い
逆賊として戦死された以仁王の遺児を預かり・・
なかなかに気苦労の絶えなかった殷富門院さまの
御日常を豊かにすべく、
定家の姉上である京極局(きょうごくのつぼね)とか
健御前(けんごぜん)やらと共に和歌の名手として
長くお仕えしお慰め申し上げておりました。


超ベテラン女房・・・・

色変わりしてしまう程涙に濡れた私の袖を見て下さいませ!
と、解釈すればいかにも優雅な感じになりましょうか・・・

千載集恋の部に「歌合し侍りけるとき、恋の歌として詠める」
とあり、本歌は源重之による

松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか

の・・・歌に応える形をとって詠われたものです。


海人の袖は当然濡れているけれど、
私の袖は(それを通り越して)色あせてしまう程なんだから!

見せばやな・・・と言う初句がとても印象的。
こんな風に女性に甘えられたら悪い気はしませんねー・・


気の毒なくらい可哀そうな式子内親王の歌(前回)と対比させて、恋愛の種々相を取り合わせようと、定家は狙ったのかも知れません。つまりは、式子内親王の御製と肩を並べるほど高い評価を得ていたのですね。









posted by 絵師天山 at 00:32| Comment(4) | 百人一首

2015年11月08日

魅惑の百人一首 89   式子内親王

【式子内親王】 (しょくしないしんのう)

玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば忍ぶることの弱りもぞする

  たまのおよたえねばたえねながらえばしのぶることのよわりもぞする






           式子内親王.jpg
             天山書画




心の奥底に、深く深く残る詠。

西行の深さに通じるものを感じるのは
私ばかりではないでしょう。

以前、和歌を題材としての個展を開催した折
細長い短冊色紙という小画面に
式子内親王の和歌から想を得た作品を描いたのは
この歌・・・・


山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水

激しい言葉は一つも使っていないのに
押しとどめる事の出来ない春律、息吹き、
春の胎動、が、音もなく寄せてくるその気分を
余すところなく詠いきった
清々しくも素晴らしい名歌と心打たれたからです。



名人、信実描くところの御物
【三十六歌仙絵巻】
の中でも・・特別に傑出した画像の御方は
この式子内親王サマ・・・・それはトビきりの美しさ・・・
名画人の天才的力量が、この御方の心根の高さを余す処なく示してくれております。




               IMG_6062.JPG






この百人一首に採られた歌は、
実らない忍ぶ恋を詠ったものなのかも知れず
つまるところ、本当のことは解らずじまい
であり・・恋心のお相手は撰者の定家であった
などという様な俗説が産まれてしまう程、
多くの世間の憶測を呼んだご存在でありましたが
人品卑しからず・・・
品位と言う言葉こそこの御方に相応しく、それはそれは
御立派な内親王殿下であらせられたのでありましょう。

後白河院第三皇女として御誕辰
幼くして伊勢の斎宮となられ
十余年の若き命を捧げ
斎院退下の後、次々と肉親の死に遭遇され
さらに、ご自身も重い病を得
溢れんばかりの詩心を抱きながら
針の先で僅かにでも触れれば
砕け散り、裂けてしまいそうな
張りつめた日々を過ごされた・・・・


遺された数多くの御作の殆どが
仄かな・・・有るや無しやの・・・
風の音、一滴の露、夢の如き幻・・・

露わな表現など一つもないのに
この歌に限っては

玉の緒よ絶えねば絶えね・・
と、半ば絶望的・・・
死ぬことなんかナンでもない・・・・
口に出来るような恋など・・・
・・・決して許されぬ・・・
固く思い定めていなければ
こんな歌が産まれるはずはありません。


忍ぶ恋、とされているけれども
この忍ぶ恋が仮に顕れてしまっても
口にすることすら憚られる・・・・
相当特殊なる事情が隠されているに違いないのです。


出口のない心情がホトバシリ出た故の詠歌であって
これほど激しく詠いあげた恋唄は他に類を見ません


恐らく、内々にはその「特殊なる事情」は知られており
それはどうすることも出来ないことであることも
良く知られていたが故に
この絶唱を・・・
ゴモットモなること・・・として敬愛したのであり
誰となく・・・御相手は定家だった・・・などと言い出したのは
むしろ冗談に紛らわし
厳しい現実を回避するための方便だったのでしょう。


後世の世阿弥はさらに定家蔓(ていかかずら)として
どうしようもないタイトな現実を美化し
上塗りして差し上げたのであろうと思われるのです。







posted by 絵師天山 at 01:18| Comment(4) | 百人一首

2015年09月29日

魅惑の百人一首 88 皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)


 【皇嘉門院別当】 (こうかもんいんのべっとう)

難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋わたるべき

   なにわえのあしのかりねのひとよゆえみおつくしてやこいわたるべき





           koukamonin.jpg
            天山書画





「かりね」は、刈り根と仮寝、
「ひとよ」は、一夜と、一節、(節と節との間)
「みをつくし」は、身を尽くしと、澪標(船の航路を示す杭)
に・・・それぞれ掛けられています。


前書に“摂政右大臣の時の家の歌合に≪旅宿逢恋≫といへる恋をよめる”として、この和歌があり、作者は崇徳天皇皇后聖子の女房。太皇太后宮亮源俊隆の娘。皇嘉門院は摂政兼実の姉に当たり、その女房等も兼実邸の歌合に加わっていたのでしょう。

なかなか技巧を凝らした見事な詠ではありませんか!
プロフェッショナルな気配を濃厚に感じます。
江口あたりの遊女の契りに見立てて・・・
仮初の契りが、生涯の傷になるのであろうか?
と仄めかし、艶っぽい心象を醸し出す。


悩み多きご日常を過ごしたであろう崇徳院
・・・さま。そして・・・
その支えとなった皇后聖子サマの暮らしに華やぎを与え
お役目とは言いながら、蔭にあってどれほど御慰め申し上げたことか・・・
一流歌人と言う程の活躍をされては居ないのに
この和歌が百人一首に収められていることからしても、
別当の果たした役割の大きさが想像される処であります。


皇嘉門院サマは保元の乱に於いて、夫である天皇と
実の父が対立すると言う悲運に立たれたのです・・・・。






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(4) | 百人一首

2015年09月28日

魅惑の百人一首 87  寂蓮法師(じゃくれんほうし)


 【寂蓮法師】 (じゃくれんほうし)

村雨の露も未だ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

   むらさめのつゆもまだひぬまきのはにきりたちのぼるあきのゆうぐれ





           jyakuren.jpg
            天山書画





「村雨」は、時々思い出したように烈しくふり、
止んではまた降る様な雨、のこと。

「まき」は、真木、で、
特定の樹木ではなく、立派な木、の意味。

秋の長雨なのでしょうか?
ウエットな雰囲気に溢れています。


寂蓮法師は、俊成の兄弟、俊海の子で
俊成の養子となって、中務少輔に至った後に出家。
本名藤原定長、修行行脚の生活をしながら
御子左家の歌人として活躍。
国宝源氏物語絵巻の詞書筆者の一人としても知られています。書も上手かった!
私は、この人の書が大好き!!


この歌の臨場感はその場に立って始めて得られるモノ、
題詠とは思われず、
深い山中を行くことに慣れた旅の歌人であった事を思わせ、
後に有名となる三夕の歌の

淋しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ

よりも、若干明るい印象があります。
同じ真木が使われてますネ。
物言わぬ森の風情が好きだったのかも知れません。


建仁元年二月に催された≪老若五十首歌合≫
老、には、忠良、慈円、定家、家隆、そして寂蓮。
対する若、には、後鳥羽院、良経、宮内卿、越前、雅経。
各五名、いずれも当代一流の豪華メンバーが揃って、
春夏秋冬、雑、の五題を
一人10首ずつ、計50首、50番として行われた折に
寂蓮のこの歌が生まれたのです。


この年は続いて千五百番歌合の百首詠進があり
和歌所が設けられ、新古今和歌集撰集の院宣が下る、等
新風への機運盛り上がる年でした。
次の年、寂蓮はこの世の人ではなくなりましたので
最晩年の円熟作品と言えるでしょう。


和歌文化最盛期に合わせるように円熟の境地に達したのは
大変幸せなことだったのではないでしょうか。









posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(4) | 百人一首

2015年09月27日

魅惑の百人一首 86     西行法師


【西行法師】 (さいぎょうほうし)

なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

   なげけとてつきやはものをおもはするかこちがおなるわがなみだかな






          saigyou.jpg
           天山書画





いよいよ、真打
重鎮の中の重鎮、西行の登場です!

およそ今日まで、この人の右に出る歌人はいったい幾人いるでしょうか?
あるいはこの方が最高峰ではないか?
とさえ思われるのですが、
日本画界に於ける春草みたいな・・・
江戸時代に突出したかの松尾芭蕉の名声に隠れがちなのは、
現代にありがちなねつ造歴史教育の賜物と言えましょうか、
芭蕉は和歌から転じてさらに突き詰めた俳句を切り拓いた
と、仰がれておりますけれども、実は
西行への思慕が高ずる余り、みちのくへの旅に出かけ
西行の足跡を辿ることで和歌では到底及ばないが故に
俳句という形を変えた自己表現をせざるを得なかった
とも言えましょう。
西行にとって和歌は命そのもの。
作歌の為に行脚した芭蕉とは根本が違うのであります。


後鳥羽院の御口伝には西行の歌の姿を
“おもしろくしかも心もことに深く、ありがたくいできがたきかたも共にあひかねて見ゆ生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人まねびなどすべき歌にあらず不可説言の上手也”
と、絶賛。新古今集にはダントツ最高の九十四首撰集!!
心ある人は誰でもその中の一首くらいはソランジル事が出来るまでに深く心に刻まれている歌ばかりであります。


「かこち顔」は、託(たく)す。
に、託(かこ)つけがましい、と云う意味を含ませた、
カコツケテ・・
口実にして ・ 利用して ・・・。
つまり、月は無心にただ照らしているだけなのに、
物思ひにふける私は月にカコツケテ未練な涙を流しております・・・
と言った意味なのでありましょう。


前書きには「恋といへる心をよめる」とあり、
題詠であるようですが、
単なる恋愛の歌とばかりも受け取れず
恋人を慕うというより
人間そのものへの愛着を詠んだ様に思われ・・
例え題詠としても物凄く深いあはれを感じさせられるのです。



世の中よ道こそなけれ思ひ入る山のおくにも鹿ぞ鳴くなる

定家は父俊成のこの歌(前出)と、この西行の歌

なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

とを対にして百人秀歌を編んだのですが、
その心、本当の意味は、
崇徳院の悲劇を真剣に受け止め共有し合った者同志!
と言う思いが底流に隠されていたと見るべきでありましょう。

何不足ない選ばれた出自であり、
エリートであった西行は23歳で出家、
幼い子供も家庭も捨て
隠者となってしまう訳ですから、
そこには余程の事情があるに違いありません。

当時旺盛な活動を繰り広げていた歌壇との交わりも浅く
独り自然を愛でながら、世を捨てても、人としての情を捨てきれぬ処に生ずる複雑なる感情を自由で大胆に詠みあげた数多の絶唱は、今なお私たちを心から楽しませてくれる訳です。孤高の魂とでも言えましょうか、頂点に立つ人にしか分からない境地であったことは確かです。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(4) | 百人一首

2015年09月26日

魅惑の百人一首 85     俊惠法師 (しゅんえほうし)


 【俊惠法師】 (しゅんえほうし)

夜もすがら物思ふ頃は明けやらで閨の隙さへつれなかりけり

   よもすがらものおもうころはあけやらでねやのひまさえつれなかりけり






           syunne.jpg
            天山書画





坊さんなのに恋の歌???!!

思いが届かず悶々として朝を待つナマグサ坊主か?

いえいえ、これは題詠。
「恋の歌として詠める」と、前書があります。

恋する女性になり替わってその心を詠ったもの・・
恋人の連れなさを恨んで眠れずなかなか朝は来ない、
寝返りを何度も打ちながら、悩ましく朝を待つ・・・
陽の射さない戸の隙間さえツレナイわー・・・


この俊惠法師(しゅんえほうし)は、源俊頼の子、源俊頼は
憂かりける人をはつせの山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを
の作者でしたね。・・・
父譲りで和歌の道に優れ、しかも超熱心。
歌会など盛んに催して、そのメンバーも豪華!

前回の清輔、源三位頼政、二条院讃岐・・・
平安末期並みいる歌人集団のまとめ役でありました。
独り寝の侘びしさを「閨の隙さへ」と詠んだ処は妖艶。

鴨長明(『方丈記』の作者ですね)の師匠でもあった、
と聞けば単なる生臭坊主である筈はなく・・・・
寝室の戸ビラの隙間がツレナイ!
などと、そう簡単に詠めるものではなく、
涙の別れでドアノブが冷たい・・・みたいな
もののあはれここに極まる!!
それはそれは非凡なる大天才なのであります!


和歌文学も平安末期ともなれば
超がつくほどの熟成をみせ
万葉集の豪快な作風・・・
素朴明快なる感情表現すらも
円熟の技巧によって創り出してしまえる?
・・・・ような名人が続出するのです。


題詠はもちろん、代詠も見事にこなし、
見てきた様な嘘も三十一文字に留め得る力量が
当たり前に・・


国風文化ここに極まるのが平安後期の歌人群、
俊惠法師はそのまとめ役の一人であり、
平安和歌世界の重鎮と言って良いでしょう。






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(2) | 百人一首

2015年09月25日

魅惑の百人一首 84     藤原清輔朝臣(ふじわらきよすけあそん)


【藤原清輔朝臣】(ふじわらきよすけあそん)

永らえばまたこの頃や忍ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

   ながらえばまたこのころやしのばれんうしとみしよぞいまはこいしき





           kiyosuke.jpg
            天山書画(ピンぼけご容赦下さい)





崇徳院の院宣によって詩歌集を撰集した左京大夫顕輔
前出の・・・・
秋風にたなびく雲の絶間よりもれ出づる月のかげのさやけさ
の作者でしたね、・・・・・
藤原俊成、定家、親子の
≪御子左家≫に対抗する≪六条家≫歌学は、
この左京大夫顕輔と、その息子。
今回の清輔とがその中心的存在でありました。



が、コチラの親子は仲たがいしがち、
父顕輔が少々次子清輔を疎んじていたらしく、
父の撰集した勅撰和歌集である詩歌集には採用されず終い。
さらにその頃 保元平治の乱の不穏なる時代相でもあり、
清輔は、正にこの歌の様な心境であったかも・・・・?

昔、心を痛めた事柄も、今になってみれば懐かしくさえ感じる・・・もの、
だから老いの先になれば、今のこの憂欝も懐かしく思える日が来るのでしょうかねえ・・・・


内心の深い嘆き、沈みがちな心を、精一杯三十一文字に託し、晴らそうとした秀歌だと思います。これまた和歌の徳と言えそうです。

  

清輔は二条天皇の下で続詩歌集を撰定していたものの
天皇の崩御によって、この勅撰和歌集事業は頓挫。
父よりもあるいは、秀でていたかも知れないその才能は
公に認められるところまでは行かなかった訳で、
自他共にそれが残念だったのでしょうか?


でも、この歌一つ取り上げても清輔の力量は抜きん出たものであった事は明らか。

新古今集にも撰ばれ、勿論この百人一首にも採られ、
長い長い和歌歴史の中でも、
欠かすことのできない歌詠みであるとされて来たのです。


ネガティヴをポジティヴへ転換するという人生に於ける大切な、無くてはならぬ心の営みをサラリと言ってのけたところに名歌たる所以があります。
心が折れそうな時は大いに励ましてくれる歌ですね。






posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(5) | 百人一首

2015年09月08日

魅惑の百人一首 83     皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)


【皇太后宮大夫俊成】(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

   よななかよみちこそなけれおもいいるやまのおくにもしかぞなくなる





            syunnzei.jpg

             天山書画






現実逃避、ネガティブ、逃げ腰、弱気・・・!?
なんだか、心の弱った折には共感されるかも知れないけれど
少々・・女々しくないか???

いえいえ、決して。
個人的な鬱屈を披歴した歌ではなく、
ご政道の、かく行われるべき姿 からかけ離れてしまった現状を憂いての、鹿鳴に託した歌なのであります。


明治政府が西洋の文物を取り入れ、近代化のシンボルとして建設した鹿鳴館は、この歌の心を捉えての命名??
と考えるのは、深読みに過ぎるけれど、当たらずも遠からずなのではないかと、私などは感じてしまいます。


現政権担当者の非力、非道を嘆いて、今上陛下の御心痛を慮っての作でありましょう。


九十の齢を経、正に歌道の重鎮たる俊成のこの歌を、敢えて百人一首に加えた息子藤原定家の心のうちも、確かに同じ様な気配があったのであろうと思われるのです。


千載集の撰者であった訳ですが、自分のこの歌は入れなかったが、後に、後白河院の勅により入れられた。と言う後日譚も伝えられています。


崇徳院退位の前年、俊成27歳の時の作、
という前後関係から類推すれば、容易にその心は知れましょう。


親友であった西行も、この折に出家してしまうのです。
無常の心は若き俊成をも強く捉えたのでありました。

皇太后宮大夫(こうたいごうぐうだいぶ)とは、
皇太后宮の諸事を司る皇太后宮職長官のこと。

俊成が主に仕えたのは、後白河后 忻子、
(公能女、俊成の姪、藤原忻子)
六十三歳で出家し釈阿と名乗り、後白河の院宣によって千載集の撰者を勤めたのは七十四歳の時でありました。


後鳥羽院は勿論この歌を高く評価されておられます。






            
posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(3) | 百人一首

2015年09月07日

魅惑の百人一首 82     道因法師


 【道因法師】(どういんほうし)

思いわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

   おもいわびさてもいのちはあるものをうきにたえぬはなみだなりけり






              douin.jpg

               天山書画 




魅惑の百人一首も早82番目!
いよいよこのあたりから真打登場!!
重鎮のオンパレードです。


よくもこれ程厚みのある歌人群が揃いも揃ったり!
平安時代という国風文化の精華は誠に素晴らしいものがあります。

この歌の作者道因法師は、
元の俗名を 藤原敦頼(あつより)と言い
先に登場しました左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)の子
清輔(きよすけ)が主催した尚歯会(高齢の人が集って詩歌などで遊ぶ会)に、
満84歳で出席。さらに、91歳の時には
右大臣家の歌合に参加した、という記録もあり、
なかなかの健胆家・・・ 長寿を得たのですね。

老境に入っても、秀歌を詠ませ給え! 
と住吉様に願掛けしたり、
俊成の夢枕に立って、わが作品を撰集せよ!と迫ったり、・・・
けっこう強烈な爺様だったらしく、この歌もやや自虐的・・・
少々やっかいなネガティヴさをたたえ、
命と生理の相反する処を
若干コミカルに詠いあげています。

千載集の恋の部に入れられており
ツレナイ人を思い侘びれば、いっそのこと死んでしまいたくなるけれど
そうは言ってもなかなかおいそれとは死に切れるものでもなく・・
そのくせ、憂きことあれば涙というものは止められん・・・と
わがままにも??嘆いた・・・のであります、が、
ごもっともな話・・・・
歌道一筋に心を寄せたと伝えられる作者の志の深さは
こんな風な、しみじみとした哀感の滲みだす処?に、
現れているのかもしれません。


友達にすると面倒臭いタイプ、だが、
居なくなるとちょっと淋しくなる・・・・そんな人柄だったのではないか?と思われるのです。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(2) | 百人一首

2015年09月02日

魅惑の百人一首 81    後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)


【後徳大寺左大臣】(ごとくだいじのさだいじん)

時鳥鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

   ほととぎすなきつるかたをながむればただありあけのつきぞのこれる





          tokudaiji.jpg

           天山書画





ホトトギスの鳴き声を聞いたことがありますか?
テッペンカケタカ・・・・とか言うのですけど、
春過ぎて夏を迎える頃、それは心に沁みる声なのです・・・

あちらの方角から聞こえたなあ・・・と
その方角を眺めてみると、
おや、・・そこには、
黙したままの有明の月をみつけましたョ
・・・という体なのでありましょう。


ホトトギスの鳴き声がイメージとしてはっきり浮かび上がる人は勿論この気分も良く分かる・・のですが、はっきりとホトトギスの声を定める事が出来ない方でも、この和歌の余韻によって、気分は想定できるのではないかと思うのです。


初夏の青葉の香りを想起させてくれるのですね。

野鳥の声、さえずり、はそれはそれは美しいものだから・・・

山間の宿に泊まり翌朝早くに鳥の鳴き声で目が覚める・・
なんて、超ゼイタク!!


どんな鳥か、何という名前か、どんな風に鳴いたのか!
そんなクダラン詮索はドチラデモヨロシイ!


とにかく沁み入るような緑の中に浸る空気感を野鳥が代表してくれている訳ですから、ホトトギスであろうと何だろうとカマワナイ!・・が、しかし、誰しも心地よい行楽の季節である初夏、を代表してくれるのは・・・やはり、ホトトギスなんでしょうね!

この作者は藤原実定。
後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)
は、追号であり徳大寺実能の孫。右大臣公能の子、
母は権中納言俊忠の娘・・
つまり俊成には甥であり
定家とは従兄弟に当たるのです。

平清盛の福原遷都後に荒廃した平安京を見て
“旧き都を来て見れば浅茅が原とぞ荒れにける
月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ”・・と
詠じたのがこのお方。
平家物語にも登場しております。


詩歌管弦に優れ、世才にも長け、
大変な蔵書家であったことも伝えられており
並みいる歌人たちの良き理解者であられた様です。





posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(3) | 百人一首