2016年04月10日

魅惑の百人一首 100 順徳院

 
【順徳院】

百敷や古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり

    ももしきやふるきのきばのしのぶにもなおあまりあるむかしなりけり





            順徳院.jpg 
             天山書画






さて、
百人一首を語るのもコチラで最後・・・


人様に語るほどの勉強をしたわけでもないのですけれど
日本文化のエッセンスが込められいるのは確かだし
下手の横好き!?・・だけで近寄ってみても、
それはそれは素晴らしい世界が
滔滔と・・・広がっていた・・・ので・・・


さらに、数ある解説書などに目を通し
深く百人一首世界に親しむうち
ナルホドそうなのか!とも思い、
えっ??おかしくない?それは・・・・
とも感じ、

自分なりの考え方なり、価値観なり、
に依って・・・・絵と共に、
言葉としてササヤカに綴ってみたくなりまして
ここまでやって来ました。

ひと時代前の解説書は
西欧礼賛、クダラン
唯物史観が影を落としていて
和歌の真実から遠ざかっている事があり、


現代の解説書はまあ、分かりやすいけれど
長たらしく、饒舌に過ぎ、
却って興味を削がれることがあり・・・

一長一短・・・・

歌人の心奥まで感じさせながら
和歌の魅力を豊かに讃えてくれるような
ブッチギリのステキな文章に逢いたい・・と、
今は願います。

源氏物語を円地文子訳で初めて読んだ時、
楽しくて
あの十巻に及ぶ長文がとても短く感じた
のを良く記憶しています。そして・・
与謝野晶子訳、田辺聖子訳、上野栄子訳、・・等々
・・・・・
全く読み進める気にならなかったのが
有名人、S氏のツマらん訳文でした、
説明が過ぎて、まるで渡る世***、を見せられている様
某氏と同レベル・・・


が、結局、原文を辿るのが最高!
遅遅として進まないけれど、
進まないモドカシサさえ楽しくなるような
そんな、心躍る思い・・・・。
わかっても、解らなくても・・・ゆっくり
静かに音読するのが・・・最もよろしい!!!


和歌も同じ。
殊に、
百人一首は全部ソランジル人も大勢いるくらいで・・・
音読するのは楽しいものです・・・
だから、解説書など、
ホントは要らない
のでありましょう。



百敷や古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり



百敷とは、皇居、宮中を指すのですね・・・
しのぶ、は吊り忍草・・・・


後鳥羽天皇第三皇子であらせられる順徳院の御心は
憂欝、哀惜、詠嘆・・も勿論あらせられましたでしょうが、
それでもなお、和歌の心を・・・それはそれは深く
尊んでおられたのだと拝察申し上げるのであります。

日本を愛する心根こそ大切に継承し
共有して行きたいもの・・・・。

百人一首第100番目を飾る
順徳院サマのこの名歌は、正に
そのことを謳っておられる訳です。

















posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2016年03月28日

魅惑の百人一首 99 後鳥羽院


 【後鳥羽院】

人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆえに物思ふ身は

   ひともおしひともうらめしあじきなくよをおもうゆえにものおもうみは






           後鳥羽院.jpg
             天山書画





98番従二位家隆(じゅにいかりゅう)から
さぼって?しまい、・・・・
ずいぶん日にちを費やしてしまいました。
・・・・いよいよ最終、99番は
後鳥羽院さまの御登場であります。
 

百人一首は、
つまるところ・・・・
後鳥羽院さまの御為に編纂された!

と、言い得るので、
定家の意図ももちろん
各時代を担う100人の歌人を採り上げることで
その人となりは勿論、
生きた歴史の真実を和歌によって語らせる
のが、真の目的であり、・・・
その最後、
99番を 後鳥羽院に
100番を皇子、順徳院とする為に
一番から98番までの、名歌、秀歌を綴ったのであり、

それは 後鳥羽院さまが遺された偉大なる鴻業を
最もさりげない形で、普遍なるものとせんが為でありました。


【言上げせず】が日本古来の風習であり
物事の本質から枝葉までカマビスシク、
言説を弄して“とやかく”言い放つことを良しとしなかった訳で、
その代わりに和歌によって表現した
とも言えるのであります。


言いたい放題、は単なる幼児性の表れ、
和歌というフィルターを通して、
さりげなく、しかも、
物事の本質をズバリと
言上げ・・・て・・・・
後の世に共感を伝える・・・

和歌の心が、わか?らん奴は、
野暮も野暮、大野暮!

ナンであります!!!!


この後鳥羽院様は、
後の後醍醐天皇様、明治大帝さま・・・
に良く似てらっしゃる。
この御三方は同じ魂の生まれ変わりかも知れない、と
感じるほどに、近似した人格・・を感じさせます。
和歌の大名人であったという共通点もあるし
御三方の到達された和歌世界の高さ広さ深さは
実に、そっくり・・・・であると
筆者は驚きをもって感得しています。


御承知の様に、後鳥羽院さまは、
鎌倉幕府=北条氏を討って大権を天皇に帰服させ
あるべき日の本の国体を取り戻さんと、
挙兵された・・・のが承久の乱と呼ばれる政変。
天皇を島流しの刑に処す!
理不尽ここに極まる
とんでもないこの結果さえ見事に受け入れられつつ
一方で日本文化の根幹を洗い清め、
さらに掘り下げられた19年にわたる離島でのご生活・・・・



保田 與重郎の名文を借りるならば、

“院の御親征の事情は記録によって察せられるが、それなくともかくもあらせられたと思はれる節が元より多かった。まことにつひに乱戦となった京師に、ただ御一人で雲霞賊中に留まらせられたことは、思ふも畏れ多いことである。古実の学を修められ、一切の文化の復古を指導せられた院が、皇道の御軍を進められるとき、方法様式に於いて、古典の精神を行はれることは、聞かずともかくあることと拝察せられたのである。のみならず隠岐の離れ小島に、なほ十九年の日を御暮らし遊ばされた英邁の御天性を思ふとき、世に類ない豪宕の御気象が心にしみて拝せられるのである。”
(後鳥羽院より抜粋)



後鳥羽院口伝には百人一首撰者藤原定家について
こう、記されています。

“歌見知りたるけしきゆゆしげなりき。
ただし、引汲の心になりぬれば
鹿をもて馬とせしがことし、
傍若無人ことわりも過ぎたりき。
他人の詞を聞くに及ばず。
惣じて彼の卿が歌の姿殊勝のものなれども、
人のまねぶべきものにはあらず。
心あるやうなるをば庶幾せず、
ただ詞姿の艶にやさしさを本体とする間
その骨すぐれざらん
初心の者まねばば正体なきことになりぬべし。
定家は生得の上手にてこそ、
心何となけれども、
うつくしくいひつづけたれば殊勝の者にてあれ”


わからん屁理屈ばかり並べて、あんまり好きじゃあないけど・・・歌は上手いよね、しかしもっと素直に美しく詠えば・・・良いのにねぇ・・と・・・

正に定家の本質そのものを喝破して居られる事に驚きを禁じ得ません。
さりげなく綴られた遺文、後鳥羽院口伝・・・・は、
歌論書、などというジャンルに留めておけるようなアリキタリな、ご文章ではないのです。


西行も良経も、・・・家隆も、
並みいる女性歌人たちも・・・
皆、後鳥羽院と共に時代を担った名歌人達は・・・・悉く、
後鳥羽院様の為にこの世に生まれてきたと言っても過言ではありません。


それはちょうど、後醍醐天皇様の為に全身全霊で尽くした楠木正成が現れたように、
明治天皇様の為に乃木大将が産まれたように・・・・


定家も院の御為に・・・・

しかしそんな至らない?定家の工夫のおかげで、
今日の、やはり至らないわれわれ?にも
百人一首という日本文化のコアがこうして立派に遺されたのでありました。


凄いことです!







posted by 絵師天山 at 17:30| Comment(0) | 百人一首

2015年12月31日

魅惑の百人一首 98   従二位家隆 (じゅにいかりゅう)


【従二位家隆】(じゅにいかりゅう)

風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける

   かぜそよぐならのおがわのゆうぐれはみそぎぞなつのしるしなりける





           家隆.jpg
            (天山書画)






「ならの小川」は、風にそよぐ楢の葉と京都上賀茂神社近くの小川(御手洗川)とが掛けてあり、
「みそぎ」は、禊ぎ、で夏越の祓(なごしのはらえ)、の事。
茅の輪くぐりですね。
「夕暮れ」と言えば、秋が定番ですが、ここは初夏であり、
夏越の祓えの季節なのに楢の葉を揺らす風の夕べがステキ!
と、詠じたのであります。


先回の定家に比べ、何とも素直な
夏を迎える夕べのささやかな感傷が
実に良く表現されております。


家隆は定家と並び称せられ
後鳥羽院様に深く信任されて
新古今和歌集撰者の一人となりました。


上賀茂神社に於ける
夏越の祓は、無くてはならぬ行事。


半年分の罪穢(つみけがれ)を洗い浄めてもらわねば
後の半年暮らしてゆけぬ!!!・・・
くらいの重要祭典なのであり、
現代人の方こそ、それを忘れ去ってしまった!
・・・と云う訳で、夏越の祓
夏越しの大祓(おおはらえ)・・・・
という言葉から受ける古人の印象は
清々しさそのもの。

ナンです!!

いかなるケガレもふっ飛ばす!


伊勢神宮に初めて参拝された方は悉く
その、清らかさに打たれる、ので、
中にはこの参道を掃き清めるだけの生涯をも
不足には感じない!

と、思ってしまう人さえ居るくらい。


祓い浄め、は古来日本人通有の欠くべからざる心情でありまして、この詠にはそんな心持が漲っているのであります。


新緑の季節が過ぎ、
しっかりとした常緑の葉が爽風に揺れる


そのイメージだけでもう、
清新極まる気分・・・・・


秋ではないけれど、
夕暮れは殊のほか宜しい・・・と詠じたのも頷ける。


定家もこの家隆には、一目置いていたようで、
自分の作は
取ってつけたような技巧で溢れ返ってしまうのに
家隆は、常に、率直。
素直な詠嘆・・・


ちょっと羨ましかったのかも・・・
実質上の百人一首の〆にこの歌を持って来たのでした。



さて、残るは二首、
かの後鳥羽院と順徳帝のみ・・・・





posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月30日

魅惑の百人一首 97  権中納言定家 (ごんちゅうなごんていか)


【権中納言定家】(ごんちゅうなごんていか)

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

   こぬひとをまつほのうらのゆうなぎにやくやもしおのみもこがれつつ





             定家.jpg
              (天山書画)





「まつほの浦」は、淡路島北端の浜で「待つ」に掛かる。
「焼くや藻塩の」は、海藻に海水を何度も汲みかけ、塩分を多く付着させて乾かし焼いて後水に溶かし、上澄みを煮詰めて塩を採取すること。
「こがれ」は、藻塩の火が焼け焦がれると、思いこがれるとに掛かる。


本歌は万葉集の長歌

淡路島松帆の浦に・・・・
夕なぎに藻塩焼きつつあま乙女・・・・


から。

凝らしに凝らした
選りすぐりの技巧でこねくり回した歌であり、
正岡子規などが舌打ちしかねないような、
所謂『造られた』系の典型例。
と、言えましょうか・・・?


職業歌人でしか詠めない、
テクニカルなる和歌であるとは思うけれど、
深い味わい・・?でもなければ、
感動して言葉も出ない・・・訳でもない・・・・
思わず知らず魅せられてしまう、でもなし、・・・・
後鳥羽院様などは、・・・
定家のこういう小手先の技巧的作品を
若干、バカにしていたのではなかろうか?
・・と、さえ思われるのであります。

何の先入観もない処に、
心からなる素直な詠嘆が言の葉として響き出で、
思わずウットリさせられるのが和歌の魅力!・・・
・・・であるとすれば、
なるほど明解答、百点満点・・・
かも知れないけれど、・・・
ちっとも面白くはない。
・・・という感じに止まるのです。ネ。


少々辛口に過ぎるかも知れません。
とても、こんなに上手く詠えない、・・でしょうが、

「藻塩焼く」という情景が
思い浮かばない現代人として尚のこと、
もっと素直に詠めんのかなぁ?!
・・・・と言いたくなってしまう。
百人一首の産みの親である大天才でありますけれど、
だからこそ、
少し残念な気がしてしまう。

しかし、
オマエの勉強が足りていないから・・サ

と、
定家卿はおっしゃるに違いありません。


もっと詳しく本歌を挙げれば

名寸隅(なきすみ)の 舟瀬ゆ見ゆる
淡路島 松帆の浦に
朝なぎに 玉藻刈りつつ
夕なぎに 藻塩焼きつつ
海人娘女(あまをとめ) ありとは聞けど
見に行かむ よしのなければ
ますらをの 心はなしに
手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて
たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫(ふなかぢ)をなみ

  〜笠金村(かさのかなむら)


ネ!

恋い焦がれている思い人の処へ
漕ぎ渡る手立てもなくただただウロウロ・・
オロオロ・・・、
嘆いているだけの男の慕情が、
実に良く伝わってくるじゃありませんか!


誰にも覚えがある様に
恋は憂きものである・・ことを共感させる
スバラシイこの長歌を承けて、
「来ぬ人=男」を待っている
「海人乙女=女」の立場に見立てて
・・詠った・・・・・ところに
新鮮な工夫があって、
さすがは定家卿
当時抜群の高い評価を得た自信作でありました。

この歌は、
謡曲中の白眉とされる「松風」に、
そのままの形で採用されており、
このパートを謡うのは謡い好きの醍醐味とされ、
私も洩れずに大好きですが・・・
(へたくそでも良い気分で謡えるところ・・・だし・・)

それでもこの和歌はなぜか

素直に楽しめない。






posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月29日

魅惑の百人一首 96 入道前太政大臣 (にゅうどうさきのだじょうだいじん)


【入道前太政大臣】(にゅうどうさきのだじょうだいじん)


花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり

   はなさそうあらしのにわのゆきならでふりゆくものはわがみなりけり





          入道前太政大臣.jpg
           (天山書画)






初老を迎えた上司が二次会でカラオケ・・
決まって歌う『マイウエイ』・・・
そんな時代も今は昔。
年経て・・桜の花の散り際の良さに
感懐を覚えるのは、
いささかでも功成り名遂げた人の常なのでありましょう。

入道前太政大臣とは、藤原公経(きんつね)のこと。
西園寺公経とも言います。
百人一首撰者藤原定家の妻はこの御方の姉上様。
定家にとっては義理の弟君が権勢並ぶ者のない地位を得た人でありました。
従一位太政大臣にまで登りつめたについては理由がありまして、この西園寺公経の妻はかの源頼朝の妹婿である一条能保の娘、なのであり、当然西園寺公経は親幕派貴族であると見做されて後鳥羽院以下大方の貴族からは嫌われ通しでしたが、承久の乱の後は、それが却って幸いし、西園寺家が栄える基礎を導き出すことに・・・・
何しろ、この後、昭和初期に至るまで、或る意味で、西園寺家は日本の政財界のドンであり続けたのですから、功成り名遂げた人として、散りゆく桜花に老いの身を詠嘆する余裕があったことは間違いないところでありましょう。


定家もその辺のところはぬかりなく
長いものには巻かれて??
権力者としての扱いをせねば・・・と
96番目に持ってきたのであります・・・
百首に厳選したのに、まあ、これも入れておかねば・・・
で、ラスマイのちょっと手前に持ってくるより他無かった??



「ふりゆく」には、降り行くと古り行く=老いぼれる・・
が掛けられています、年寄りの要らざる一言・・・?
みたいなな詠ですけれど、
義理の兄として弟様からは
色々と、優遇?があったのでしょうから、

・・・無碍にも出来ず、外す? わけにもゆかず

おそらくは、定家自身の指導のもとに詠った歌だし

このあとにはご自分の詠が続くわけで・・・

思いあがっているほどではないが・・・・

ちょっと、道長の和歌に似てますね・・・・・




posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月28日

魅惑の百人一首 95    前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)


【前大僧正慈円】 (さきのだいそうじょうじえん)

おほけなくうき世の民におほふかな我がたつ杣に墨染の袖

   おおけなくうきよのたみにおおうかなわがたつそまにすみぞめのそで






          慈円.jpg
           (天山書画)





「おほけなく」は、身分不相応に、モッタイナクモ・・差し出がましくも・・・
「おほふ」は、蔽う、で、仏法によって天下の人々の幸を祈る、という様な意味。
以下墨染の袖で蔽う、に繋げたのです。


「我が立つ杣」は、伝教大師(最澄)が、比叡山根本中堂を建立するときに詠んだ和歌

阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣(そま)に冥加あらせたまへ

あのくだらさんみゃくさんぼだいのほとけたちわがたつそまにみょうがあらせたまえ

により、杣山=木材を伐り出す山、であり、比叡山の別名。

「墨染めの袖」は、墨染めに住み初めが掛けてあり、僧衣のこと。

僧慈円は、関白忠通の子。
であり、九条兼実の弟、良経の叔父に当たる。
政界に於ける九条家(=藤原一派)、の地位変動にリンクして天台座主という地位に四回も立たされたのですが、この詠は若い頃の入山修行の折のモノ。誠に初々しい・・・・

おおそれながら、
仏法に依って経世済民を図る立場になってしまいました・・
という、感懐を述べたものでありましょう。


比叡山を権力下に置いておくことは
当時の政界を牛耳るに必須。
藤原一族から天台座主に登った方は多いのです。


慈円は、六男でしたから、
既に11歳になった時出家しておりました。
藤原氏の権勢を一方から支える役割を仰せつかっていました。


鎌倉時代初期の歴史書である『愚管抄』はこの御方の著作。

和歌の名人であった事は勿論で
おびただしい数の作品が遺されています

権力の頂点に長居したにも関わらず長命を得ましたから、
仏法に依って民の幸せを祈ると同時に
ご自身も幸せだったのかも知れません。








posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月27日

魅惑の百人一首 94    参議雅経(さんぎまさつね)


【参議雅経】(さんぎまさつね)

み吉野の山の秋風小夜更けてふるさと寒く衣打つなり

   みよしののやまのあきかぜさよふけてふるさとさむくころもうつなり  






          参議雅経.jpg
           (天山書画)






「衣打つ」と言うのは、砧(きぬた)のこと、
絹地を木槌でたたいて柔らかくする作業のことで
たたくから、音が出る、
秋とこの砧(きぬた)の音とは古来
相性の良い付きもの・・・とされます。


先回の実朝の歌につづいてこの和歌、
ですから、哀愁漂う海辺から山野の哀しさへと遷る仕掛け。
さすがは定家卿、見事なる構成になっている訳ですね。


「ふるさと」は故郷ではなく旧都の事。古来・・・
吉野には応神天皇以下、多く朝廷の離宮がありました。


作者雅経は、俊成門下、後鳥羽院に信任され
新古今和歌集の撰者の一人・・・
若い頃には関東に下り、わがまま将軍頼家の蹴鞠の師匠を任じたこともありました。


本歌は古今集から

み吉野の山の白雪つもるらしふるさと寒くなりまさるなり

これじゃあ、パクリ?・・・になりませんか?
いやいや、本歌の言葉をそのまま使いすぎてはいますけれど、風の音、砧(きぬた)の音、・・音を配した所が秀逸!


そもそも本歌取りは何十年も何百年もずーっと以前に詠われた本歌をももじって、趣意を少し変化させ、本歌と共に一緒に重ねて味わう・・・その方がグッと楽しく、さらに、それがまた本歌になり、永く深くひっくるめて工夫されてゆくことをも将来の楽しみと致しましょう・・・・というもの。
普遍なる人の情を、時を超越して共感してしまおうとする訳で・・・・
それを指してパクリ・・・・とか言う方が野暮。


著作権違反とか何とか云いだしたのは
契約社会云々、という愚にもつかぬ縛りつけであり、白人の拵えたクダランルール。
本歌取りという素晴らしい文化は
そんな次元をはるかに超えており、それを
極々普通に楽しんできた我が日本こそ素晴らしい!!!!


声にして読んでみてください
本歌もコチラも、共に
気分よく詠えるでしょう・・・。
和歌の真髄が込められているから・・・・


加えて、吉野山に対する日本人の心情の深さが強く作用しています。
日本人は不思議なほど、吉野が好き。


私もいつの日か、【吉野山】という画題で大作を描かねば、と強く思う処がございます。
日本人の吉野に対する深い想いを画像化してみようと・・・計画中。


かの持統天皇は女帝という立場に成られた後にも、
公務の合間をぬって、30回以上も行幸を吉野に重ねておられるのですが、旧都と云われる吉野の何がそこまで惹かれるのでしょうか?大いなる謎・・・・当時は交通機関もろくに無いのに・・・


丹生(にゅう)と言う天然の水銀が産出する地が近くにあり
その水銀を不老長寿の妙薬に加工する技が吉野にあった、
・・・・・???
毒をもって毒を制す。微量の水銀毒素を体内に・・・入れ、
毒を排出しようと言う自然治癒能力を最大限に発揮させることで
却って不老長寿の力が湧いた・・・・
現代医学でも解明出来ない様な秘薬があるいは、ひそかに伝えられていたのかも知れません。


日本人の英知は医学方面でも勿論その才能を驚くほど発揮するものでありまして、岡山に林原美術館という立派な美術館がありますが、その母体は林原製薬。この会社は元来旧帝国陸軍の医療全般を担っており、当時世界に冠たる医療技術を誇っていたという事実があり、アメリカ始め連合国はこの医療技術欲しさに日本を戦争に追い込んだのである、という説さえあって、現代にも続いているので、この会社が生産しているルミンAという薬はその不思議なデトックス効果で根強い人気がある様です。

不老不死、不老長寿、・・・夢のまた夢であろうかと思われますが、アンチエイジング、とか、健康長寿とかに群がるのは洋の東西を問わないのでありましょう。

話が少々、逸れてしまいました・・・・










posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月26日

魅惑の百人一首 93 鎌倉右大臣


【 鎌倉右大臣】(かまくらのうだいじん)

世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも

   よのなかはつねにもがもななぎさこぐあまのこぶねのつなでかなしも





            源実朝.jpg
              (天山書画)





先回の二条院讃岐の項で
武士として歌人の誉れ高い源三位頼政を
百人一首に採り入れなかった定家の
「思いやり」について少し語りましたが、
コチラの鎌倉右大臣は正真正銘、源家棟梁。
武士の中で唯一の百人一首登場歌人なのです!


源実朝。
頼朝の次男。
鎌倉三代将軍。
かの鶴岡八幡宮境内銀杏の大樹足下で
甥の公暁によって暗殺されたその御方であります。


なぜ、宮廷に敵対する幕府のトップが
歌人として立派に百人一首に入れてもらえたのか?

この方の描いた絵が沢山残っておりまして、
それは観音像、彼は日課として
白衣観音像を毎日のように描いておりました。

それは上手い、なかなかのレベルであります・・・
勿論、和歌も上手、というよりも・・
コチラは、名人クラス! 


将軍様と言うより文化人だったのですねぇ

三代目の将軍であって且つ、
ナイーブな文化人であったことが
彼の悲劇でした。

北条氏というのは
後の足利氏の輪郭を小さめにした様な存在。
公を蔑(ないがし)ろにし
天下国家を私する事を家訓としている、かのような、
云わば、極悪反日家系集団・・・・・で、
むき出しのエゴイズムでさえ
歪曲とねつ造によって正義と塗り替え
堂々実行して行く・・・のが主なる仕事。


宮廷文化に憧れるナイーブな将軍、実朝は、
その集団の頂点に立つ、
掃き溜めに鶴・・・的、存在。

事実上、傀儡と成り下がっていました。
が、北条氏=反日集団にしてみれば、
言うことをちゃんと聞こうとしない
役立たずの邪魔者・・・・


源三位頼政は、奢り高ぶる平氏のエゴを
断罪する、という目的で平氏一門の末端に禄を得ながら
遂には、老いの身を公の為に投げ出したモノノフ!
でありましたが、
こちらの、実朝も、
将軍という立場は朝廷に戴いた公職、デアリ
無論、天皇家の御為にこそ存在する
という、本来の姿、本筋に忠実、
公に尽すことを第一義とした誠に敬愛すべき
ホンモノのモノノフ。

武家の在り方を良く弁えていた御方なのです。

北条氏はこれが面白くなかった・・・・・

結果に於いて、そそのかされた馬鹿甥に
斬り殺されることに・・・・・


それはそれは素晴らしい詠唱の多い実朝ですが
この作品は少々重く、抑圧され気味
だが、・・誠に深い深い、哀愁に満ちて・・

定家がこれを選んだのは
実朝の内面の祈りにも似た誠実な大和心を
これほど端的に見事に表わした歌は他になく
百人一首の選考基準に大いにマッチしていたからでありましょう。

家集、『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)
を読めば、将軍実朝は実は、大芸術家であったことを
誰しも感じない訳には行きません。


「名は体を表す」という金言に従えば
父源頼朝は、
朝=朝廷を頼る源・・・デアリ、?
実朝は朝=朝廷の実りの源・・・である?
筈の・・存在なのに、・・・

実のところ
周囲のエゴに振り回された残念な父子であった
・・・・のかも知れません。


けれども
頼朝や義経らに
およそ文化らしき香りは皆無で、
それは、北条氏も後の足利家も・・・
秀吉や家康にも無く・・・権勢欲にマミレ、
権力に執り付かれ、翻弄された人生を送った者から
当然・・・藝術は産まれない・・・・

実朝のような大芸術家が、
ソンナところに・・・・・・
産まれるはずもないのです。


「常にもがもな」は、
いつも変わらないでほしいものだ・・・
の、意味。


この和歌の本歌は万葉集の

河の上のゆつ岩むらに草むさず常にもがもな常処女にて

   かわのかみのゆついわむらにくさむさずつねにもがもはとこおとめにて

「綱手かなしも」は、
舟の引綱は趣があるなぁー

この本歌は古今和歌集東歌

みちのくはいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも

   みちのくはいずくはあれどしおがまのうらこぐふねのつなでかなしも

実朝は定家から和歌の手ほどきを受けておりましたが
本歌取りを学んで試作して見せたのがこの名歌となりました。

天皇を核とした和歌文化に憧れを持ち
朝廷にとっての忠臣でありたかった実朝の
心の実が見事に表出された詠であります。




posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(0) | 百人一首

2015年12月25日

魅惑の百人一首 92 二条院讃岐


【二条院讃岐】(にじょういんのさぬき)

我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし

   わがそではしおひにみえぬおきのいしのひとこそしらねかわくまもなし






            讃岐二条院.jpg
              (天山書画)






「潮が干いた後でも海面には出てこない石は
有るのか無いのか?
有るとしても、常に海中なのだから、
いつも海水で濡れている・・・・
その、いつも濡れている石の様に・・・
人知れず、貴方様をお慕い申し上げております・・」

と言うところでしょうか。

一見、けな気な女性の
熱い思いが表現されているかに見えます。


作者二条院讃岐は二条天皇にお仕えした女房であり
かの源三位頼政の娘。

平家全盛下に汚名を耐えしのび続けた頼政は、
時至って遂に以仁王を奉じて挙兵・・・
結局、潰えたとはいえ
奢る平氏に一矢報いたことに
世間は喝采を挙げた・・

しかし平家の世の中では単なる反逆者。
・・・・・この父、頼政を
「潮干に見えぬ沖の石」と、捉えて、娘は詠じた・・・
と考えれば、俄然、趣が深くなって参ります。

歌詠みとしてかなりの実力者であった
源三位頼政を定家は
大いに認めて居たけれど
百人一首には入れなかった、反逆者だから・・・
その代わりに、この二条院讃岐の詠を採り入れることで
頼政へ最高の敬意を表したのではないか?
と思われるのであります。


反逆者に対する世間の圧力に対して
蔭ながらの篤き応援を感じる訳ですね。


二条天皇崩御の後には後鳥羽院の中宮任子
宜秋門院=ぎしゅうもんいん)
にもお仕えし、長年にわたって宮廷歌人として活躍
父の反逆によっての危うい立場も切り抜けつつ
長命であったそうです。

正に、沖の石の様に、
命がけで正義を貫こうとした父を持った娘として
複雑な心境が見え隠れしているので・・・・。

父を慕う床しい心ばえを想えばあはれはヒトシオに・・・・・。





posted by 絵師天山 at 16:19| Comment(0) | 百人一首

2015年11月26日

魅惑の百人一首 91   後京極摂政太政大臣


【後京極摂政太政大臣】(ごきょうごくのせっしょうだじょうだいじん)

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

   きりぎりすなくやしもよのさむしろにころもかたしきひとりかもねん





              良経.jpg
               天山書画






「衣かたしき」=衣片敷き・・・で
男女が共寝する場合お互いに袖を敷き交わすが、
独り寝の場合は片袖を敷くだけ・・・という訳ですね。


「さむしろ」はムシロ=フトンの役目と
寒し・・・にも掛かる様で、
とにかく独り寝は淋しく切なく、侘しいものだなあああ・・・


本歌は、

さむしろに衣かたしきこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む


の、両歌。・・・
恋を秋に移してさらに余情をたたえています。


後京極摂政太政大臣・・・という、長たらしい肩書は、
位人臣を極めた御方なのに、
不幸にも不慮の死を遂げてしまい
38年の齢を惜しまれたから・・・でありましょうか・・・

のちのきょうごくのせっしょう、だじょうだいじん、・・
藤原良経のこと・・・・。


関白忠通の孫であり、九条兼実の息子、
幼少より英明、詩歌を好み、俊成に師事。
定家を庇護して新風和歌教育に尽力した・・・
後鳥羽院に強く信任され和歌所寄人としても大活躍


新古今集巻頭をかざる名歌


み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり

は、殊に有名・・・・・
しみじみとした春彩を想起させます・・・・



私事ですが、
行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ

九条良経(=藤原良経)のこの和歌の上の句が我母校の校歌に採り入れられておりまして、
・・千歳の昔ぃ行く末はぁぁ・・空も一つぅぅの武蔵野にぃぃ・・・・・・ぃーー
なかなか荘重なる響き、であり、校歌とは思えぬような格調の高い調べなんですが、
在学当時は勿論そんな名歌人の歌が校歌に使われているなどという事は露知らず、
ただ、武蔵野の面影がまだ残っていた地域なので、それとは知らずに唱わされて居りましたが、
今になって見れば、大好きな九条良経サマの和歌に若いうちに親しんでいたことを知り、さらなる愛着を感じずには居られません。



西行こそ最高の歌人デアル!!
と、・・・西行の項で申しましたが、
・・・・日本画界に於ける最高の画人は?と言えば勿論
春草!
と言いきっているのですけれど、
しかし、まあ、大観も居れば、等伯も居るし、
探幽もいれば応挙だっている、・・・様に・・・
西行に優るとも劣らない名歌人がこの人!
九条良経サマ!!!!ナンであります!!

新古今和歌集仮名序の作者でもあり、79首の撰入は俊成をも凌ぐ・・・


この歌を贈られた女性は・・・
心の深いところでドキリとし、
どんなにかあはれを催した事でありましょう・・・
ただ単に秋の寂寥感を詠ったものではないのですね。



承久の変の後、隠岐の島に流された後鳥羽院さまは
新古今をさらに厳選、1978首中、約1600首を残し、いわゆる隠岐本を抄したのですけれど、良経の詠は79首中、わずか7首を除くだけだった、ということからも、如何に重んじられてゐたかを知ることができます。


清新で明るく、大きいだけでなくおっとりとして鷹揚。
いかにも貴人に相応しい詠みぶり。
家集≪秋篠月清集≫巻頭の歌がそのあたりを良く伝えています。

むかしたれかかる桜のはなをうゑて吉野を春の山となしけん

勅歌に対して、至尊調(しそんちょう)という表現を用いたのはかの保田與重郎(やすだ よじゅうろう)氏ですが、この良経の詠みぶりを評せば貴人調、という事が出来るかも知れません。
職業歌人などには及びもつかない格調の高さであります。

38歳で盗賊に襲われ頓死した・・・と
伝えられられていることは、当時としてもあり得ない様な稀有なることでもあり、様々と憶測が飛び、事実・・・なにか、闇の働きによって惨殺されたのかも知れず、この御方の地位と当時のお立場を考えれば、恐らく、鎌倉方の権謀術策に違いなく、嫌な想像は当たらずとも遠からずではないかと・・・・





posted by 絵師天山 at 02:00| Comment(1) | 百人一首