2017年04月17日
日本人の劣化が止まらない
★
・・・・・・・
綿津見神(ワタツミのカミ)は、
上に大綿津見神(オホワタツミのカミ)ありて、
名義(ナノココロ)など其處(ソコ)に云(イエ)り、
又 御禊段(ミミソギのダン)に、底中上と、
三柱(ミツハシラ)綿津見神あり、
其は阿曇連(アヅミのムラジ)が祖神(オヤカミ)に坐(イマ)すよし、其處(ソコ)に見えて、姓氏録に阿曇宿禰(アヅミのスクネ)は、海神(ワタノカミ)
綿積豊玉彦神子穂高見命(ワタツミトヨタマヒコのカミのコ
ホダカミのミコト)の後也(ノチナリ)と あると、書紀 此の段に、海神豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)とあるとを、合わせて見れば、此の綿津見神は、即ち彼の御禊の段のなりけり、
萬葉九【十八丁】浦嶋子を詠る歌に、
海若、神之宮乃、内隔之、細有殿爾(ワタツミのカミのミヤのウチノヘのタヘナルトノ二)云々
【此の歌、凡て此段の趣と似たることあり、考へ見るべし】
さて海神(ワタノカミ)の宮は、海の底にある國なり、
後の世のなまさかしき説(トキゴト)どもは、
古傳(イ二シヘのツタヘ)の趣にかなはず、
【佛書に龍宮と云る物あり、其の説(トケ)るさま、あやしきまでに此段にいとよく似たる處あり、故れ書紀の口決纂疏(クケツサンソ)などには、此海の神の宮を直(タダ)に龍宮とぞ云はれたる、佛書を信(タノ)める人は、然
主客の語の別(ワキ)まへだになくて、彼 所謂龍宮を、主として云れたるなり、又漢籍にもをりをり、水神宮の事を云るありて、其 はたよく似たる故に、かにかくに此段は、異國書(イコクブミ)に依て、造れるものかと、疑ふ人あるなり、
されどそは、ただ異國書(イコクブミ)をのみ信(タノ)みて、皇國の古傳(イニシエのツタヘ)を信(ウケ)ざるものなり、凡て皇國のは、其の書こそ後に出来つれ、其事は、神代より語り傳へ来つるままなれば、こよなく古きを、異國の説どもは、其書こそ、此方のよりやや先なれ、説る事は、己がさかしらのみ多くして、古へのままならねば、返りて皇國書(ミクニブミ)より遥かに後なり、然れば此段の傳説(ツタヘゴト)は眞(マコト)なり本なり、
佛書の龍宮は、此 綿津見神宮の事の、上代におのづから、天竺(てんじく)などにも、かたはし傳はりたるに、種々の事を造り加へて説たるものなり、又 漢(モロコシ)ぶみにも似たる事のあるも、然(シカリ)なり、
そもそも皇國は、萬國を御照し坐す、天津日大御神の本御國なれば、凡て萬の事も物も、みな皇國ぞ本にして主にして、他國々(アダシクニグニ)へも、おのづからな流れ及びたるものにて、相似たることも、もとより多かるは、彼が吾に似たるにこそあれ、吾が彼に似たるには非ず、
然るを世々の物知り人みな、此の元の本末をば得知らずして、ただ後に萬の事も物も、異國を学び、異國より来り、又物語書などに、異國の故事を取りて、作りかへたることのあるなどに倣ひて、萬の事もみな、異國を本と心得るから、神代の故事などをさへに、其の類かと疑ふは、良く異國書に惑へるものなり、
よしや本末はしばしおきぬ、
天地の中に人の形を始めて、山川草木、其餘(ソノホカ)の物も、皇國漢天竺と、大かた異なることなく、皆おのづから同じさまなれば、古への傳へ事なども、此方と彼方と、などかは同じきこともあらざらむ、同じきからに、必ず彼を学びたりと思ふは、いと愚かなり、人の形も何物も、彼を学びて造らざれども、おのづから同じきにあらずや、
さてまた近き代の、なまさかしき人の心には、水中に宮室などのあるべき理なし、と思ひとるから、かの龍宮などの説をも信(ウケ)ず、此の段の事をも、実は海底には非ずとして、或は薩摩の國近き一の嶋なりといひ、或は琉球國なりといひ、或は対馬なりなども云て、その證(シルシ)などをも、とりどりに云めれど、凡てさる類は、皆古傳に背(ソム)ける、例の儒者意の私事なり、さばかりさかしく、
漢めきて書かれたる書紀にすら、『内火々出見尊於籠中沈之干海』、また 『海底自有可怜小汀』、などあれば、海の底なることは、これらの語にても、しるきものをや】
・・・・・・・
★
これは、本居宣長翁の【古事記傳】
綿津見神への解説・・・
いわゆる海幸彦、山幸彦の神話
浦島太郎の物語・・・・?
乙姫伝説??
今や国家として亡びかねないほど疲弊したギリシャの神話に似てるのが
日本の神話・・・・・マネしたのかぁ・・・
とかウソブク!!???、バカものに読ませたい処・・・・
日本が世界の祖国、
であるという事実認識などほぼ皆無・・・
茫然自失、朦朧とした現代人の、それでもなおさかしらなる語りを止めようとする慎みすらない
もっとも宜しくないトコロ・・・・・
自分が国家に属している人間の一人という本分すら解らなくなり
無二の国家に属している事が全ての源であることにさえ背を向け
民主主義だ、グローバルだ、ジェンダーフリーだ、・・・ロハスだ??
国境を超越し・・・等々の戯言にダマされて続けているだけなのに
己を語り、国家世界を語る、・・・
おこがましくも恥知らずな、ヨーロピアンレギュラーにたぶらかされた処からしか言葉も出ない・・ど厚かましいあほたれが、年金貰って長生きしてのうのうと暮らしているのが今の日本。
残念なのは、本居宣長公の示唆が心にしみるまで
半日も・・・かかってしまう私の頭脳・・・
posted by 絵師天山 at 16:26| Comment(0)
| 古事記1300年
2016年03月23日
続々 神と魑魅魍魎
死生観、
これは、非常に大切。
これ無くして人生は語れない・・・・
これが定まらねければ、良い仕事は出来ません。
仕事のみならず、
人事百般、微に入り細にわたって、
その人の抱く死生観は
その人の人生そのものに影響を与えずにはおかない・・・
勿論、絵にも・・・
死と共に無に還る、
とされる一方、
あの世、とか、彼岸とか、来世・・・がある、
とも言われます。
死すれば無に還り、肉体は勿論のこと
自己意識もすべて無くなるし、
魂など存在するはずはない。
つまりは全くの無。
もしも霊界などというものがあるのなら、
人類の歴史を通して死んでいった人でもう超満員!
・・・・なハズではないか・・・!と。
また、生まれ変わって、今生で叶わなかった事を
次に実現したい・・・などという泣き言を吐く前に
今という今、全力を尽くすべきでアル!
とのご意見もあり、
至らぬ自分の情けなさから逃避する方便として、
あの世と言うものが・・・設定されたのだ・・・・
・・・ごもっとも、
だがしかし、
別に、今という今、も
努力を惜しむつもりは毛頭ないが
命が尽き果てれば
全くの無になってしまう・・と言うのでは
ちょっと淋しい気もする・・・
それに・・ポジティブでさえあれば
来世へのさらなるアップグレードな人生設計は
楽しくもあり・・・
生まれ変る先を考える故に
今が充実することも・・無きにしも非ず・・・
結局・・
死んでみないと解らないことに
夢中になっても・・・
仕方がない・・まあ
適当にしておけ・・・・
という事になり・・・・
深く考えずに済ます。
冤枉罹禍(えんおうりか)
という言葉をご存じでしょうか?
無実の罪・・・・と言いますか、
明治維新前夜の政治運動の途上で
非命に斃れた勤皇の志士たち、
特に刑死の憂き目を見た人たち・・・
について、
彼等は無実の罪で思わぬ禍を蒙った不運な死者であった、
と見なす。
彼等に死を与えた側も、
これは裁判上の手続きに於いて過誤を犯した、
と言う様なものであり、
攻撃的な殺意があった訳ではなかった。と見る。
無念の最期を遂げた志士達の霊にも
幕府権力への恨みを永く抱いてもらうのは望ましいことではなく、
・・・・つまりは、
弾圧事件の加害者と被害者との間に
幽冥、境を異にしての和解を図ろうとする着想が生じる・・・
のです。
なかなか難しいところ・・・
人殺しとか、非道なる犯罪ではなく
つまりは、個を捨てて公に尽くそうとするあまり、
解釈の違い、とか、価値観の相違とかで、罪人とされ、死を与えられる・・・
吉田松陰が、その分かりやすい例であります。
吉田松陰先生は犯罪者と認定され、なぶり殺された!
・・・にも関わらず
その遺徳によって神様と祀られ・・・
いまなお尊崇の対象であり、
私を超越し、公にのみ生きた稀有なるご存在である、
とされ、恐らく、
未来永劫、ズーッと仰がれることでありましょう。
死後は全くの無である、
・・・のかも知れないが、
そうウソブク方をあざ笑う如くに
吉田松陰先生は、
確かに・・・死を超越してしまった!
正反対に、例えば
平将門。
事実無根とする説もありますが、
私憤を抱き
受け入れられないと見るや朝廷に反逆、
憤懣をぶつけまくって戦塵に散った後
21世紀の今日にまで祟り続けている!という存在。
コチラは、千年の時を越えてもいまだ納まらず
死を受け入れることが出来ていない。
これをどう説明するのか?
・・・・・、
同じく神と祀られている両者の違いは・・・・何?
オノレの抱く死生観の背後に・・・
ホントのところ・・・
何が影響しているのか、
神なのか魑魅魍魎なのか、
それこそが、大切なのであります。
生死に離れざれば何事も役に立たず。
これは、非常に大切。
これ無くして人生は語れない・・・・
これが定まらねければ、良い仕事は出来ません。
仕事のみならず、
人事百般、微に入り細にわたって、
その人の抱く死生観は
その人の人生そのものに影響を与えずにはおかない・・・
勿論、絵にも・・・
死と共に無に還る、
とされる一方、
あの世、とか、彼岸とか、来世・・・がある、
とも言われます。
死すれば無に還り、肉体は勿論のこと
自己意識もすべて無くなるし、
魂など存在するはずはない。
つまりは全くの無。
もしも霊界などというものがあるのなら、
人類の歴史を通して死んでいった人でもう超満員!
・・・・なハズではないか・・・!と。
また、生まれ変わって、今生で叶わなかった事を
次に実現したい・・・などという泣き言を吐く前に
今という今、全力を尽くすべきでアル!
とのご意見もあり、
至らぬ自分の情けなさから逃避する方便として、
あの世と言うものが・・・設定されたのだ・・・・
・・・ごもっとも、
だがしかし、
別に、今という今、も
努力を惜しむつもりは毛頭ないが
命が尽き果てれば
全くの無になってしまう・・と言うのでは
ちょっと淋しい気もする・・・
それに・・ポジティブでさえあれば
来世へのさらなるアップグレードな人生設計は
楽しくもあり・・・
生まれ変る先を考える故に
今が充実することも・・無きにしも非ず・・・
結局・・
死んでみないと解らないことに
夢中になっても・・・
仕方がない・・まあ
適当にしておけ・・・・
という事になり・・・・
深く考えずに済ます。
冤枉罹禍(えんおうりか)
という言葉をご存じでしょうか?
無実の罪・・・・と言いますか、
明治維新前夜の政治運動の途上で
非命に斃れた勤皇の志士たち、
特に刑死の憂き目を見た人たち・・・
について、
彼等は無実の罪で思わぬ禍を蒙った不運な死者であった、
と見なす。
彼等に死を与えた側も、
これは裁判上の手続きに於いて過誤を犯した、
と言う様なものであり、
攻撃的な殺意があった訳ではなかった。と見る。
無念の最期を遂げた志士達の霊にも
幕府権力への恨みを永く抱いてもらうのは望ましいことではなく、
・・・・つまりは、
弾圧事件の加害者と被害者との間に
幽冥、境を異にしての和解を図ろうとする着想が生じる・・・
のです。
なかなか難しいところ・・・
人殺しとか、非道なる犯罪ではなく
つまりは、個を捨てて公に尽くそうとするあまり、
解釈の違い、とか、価値観の相違とかで、罪人とされ、死を与えられる・・・
吉田松陰が、その分かりやすい例であります。
吉田松陰先生は犯罪者と認定され、なぶり殺された!
・・・にも関わらず
その遺徳によって神様と祀られ・・・
いまなお尊崇の対象であり、
私を超越し、公にのみ生きた稀有なるご存在である、
とされ、恐らく、
未来永劫、ズーッと仰がれることでありましょう。
死後は全くの無である、
・・・のかも知れないが、
そうウソブク方をあざ笑う如くに
吉田松陰先生は、
確かに・・・死を超越してしまった!
正反対に、例えば
平将門。
事実無根とする説もありますが、
私憤を抱き
受け入れられないと見るや朝廷に反逆、
憤懣をぶつけまくって戦塵に散った後
21世紀の今日にまで祟り続けている!という存在。
コチラは、千年の時を越えてもいまだ納まらず
死を受け入れることが出来ていない。
これをどう説明するのか?
・・・・・、
同じく神と祀られている両者の違いは・・・・何?
オノレの抱く死生観の背後に・・・
ホントのところ・・・
何が影響しているのか、
神なのか魑魅魍魎なのか、
それこそが、大切なのであります。
生死に離れざれば何事も役に立たず。
posted by 絵師天山 at 18:24| Comment(0)
| 古事記1300年
2016年03月10日
続 神と魑魅魍魎
神様というもの・・・
は、祈れば人の願いを聞き入れて下さったり
良いことをしていれば守って下さったり、
悪い行いに対しては罰を与えたり、
・・・・
あたかも神様には、人格?が?
ある如く思われていて・・・
人を裁いたり、導いたり、・・
陰に陽に高見から見守って下さりつつ
あらゆる局面で
人間生活に干渉してくるような存在である・・・
と、
認識する人も多いようです、
が、
おそらくそういう存在が有る、居る?
としても、それらはすべて・・・
魑魅魍魎の類でしかない。
実は、それがホント・・・
のところ・・
宗教に惑わされている人、
カルトではないと言い張るカルト集団に騙されている人、
あるいは、占いや霊能者などに嵌っている人は
悉く、あり得ないような奇跡的事象を
神と呼ばれる様な偉大なる御力・・・と考えて、
心酔。
そのあり得ない様な事象が
どのようなパワーによって表れているのか?
には、あまり疑問を持たず
神様とおぼしきモノに願い事をして、それが
想像以上に叶えられたならば、
それは素晴らしい神様・・・・と、
まるっきり短絡してしまい易い。
事実、御利益とか奇蹟とかが
存在することは確かにある。
・・・・のでありましょうが?
・・・が、
実は、
有る方が怖い。
ホントにあるとしたら、
その依ってくるエネルギーは
魑魅魍魎から・・・・
ネガティブエネルギーを餌にしている魑魅魍魎は
人間に強い関心があって、
一時的に人間を魅惑した後、
虜にし、将来に亙って延々とネガティブを産み続けさせて
そのエネルギーを吸うことで生存を確保し繁栄する、
そもそもが、
そういうモノであり、そういう存在なのです。
かの陰陽師阿倍清明公は
それら、魑魅魍魎から世界を護る不思議な能力を持っていました。
明治政府が西洋化、近代化を推し進める政策の一環として、
陰陽寮を廃止したことが、いまだに日本人の生活の根幹を揺さぶり続けている。
とも言えましょう。
小堀桂一郎先生の御著書に、
【なぜ日本人は神社にお参りするのか】
という名著があるのですが、そこに、
“ギリシャの神々、あるいはヘブライの一神教の神と違って、
神の御手による奇蹟を恃むのではないのです。
さうではなくて、人間としての努力を致しますから
神々よお守り下さい、といふ、
さういふ祈りの気持ちなのです。
事を成就させるのは結局は人間の力なのです、
そこでは人間が自分の力を誇るのではなくて、
事の成就を神々に感謝する
さういふ形に止めてゐる、
是が日本人の神信仰の原型であろうと思ひます。”
ホントの神は
人に関心を持っているとは考えにくい。
神社に参拝して小銭を投げつけ
家内安全とか、商売繁盛とか、
勝手気ままな願い事をして
立ち去る・・・・
そんな人間に関心があるのは
魑魅魍魎だけ・・・
ホントの神様は、・・・・・
・・・・・
魑魅魍魎にリンクしているのか
ホントの神様に波長共鳴するのか?
その分かれ目に立っているのが我々人間なのではないでしょうか。
posted by 絵師天山 at 23:07| Comment(0)
| 古事記1300年
2016年03月04日
神と魑魅魍魎
この世界の、
もっと巨視的に見ればこの宇宙の、
構成原理を考えてみると、
極単純な“例え”ではありますが、
太陽を中心とした星々
水星、金星、地球、
火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星・・・
この太陽系の天体は
太陽に近いほど神の世界であり
太陽から遠ざかるほどに魑魅魍魎の世界になっている、
と考える事は出来ないでしょうか、
勿論、一笑に付されてしまうかも知れませんが、
太陽がなければこの宇宙は成り立たないのは自明で
この世で何が大事かと言えばそれは
おひさま、
それ以外はすべて副次的。
太陽の存在はかの天照大御神さまとリンクしていたり、
あらゆる地球文明の素神として崇められてきた事は
紛れもない事実であります。
従って、太陽、水星、金星、
までは、
地球より高次元の存在であって
火星以下は当然地球より以下の次元であり存在であるとも
言えると思うのです。
つまり、分かりやすく
地球以下は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界である、
と、
云っても宜しい。
問題はその魑魅魍魎たちは
火星以下に留まっているばかりでは無く
チョクチョク地球に出現してしまうこと、・・・
それが、天狗であったり、カッパ、であったり、
ドラゴンであり、妖怪変化であり、・・・・
つまるところの魑魅魍魎。
人間以外であり
地球外生命体・・
としか考えられない得体のしれないモノは
歴史上でも大昔から語り継がれており、しかも、
そんなものは人間の想像の産物である!
と言いきれるほど曖昧ではなく、
悪魔とかサタンとか、天使とかエンジェルとか・・・
愚かな人間の想像力をもはるかに凌駕する程の
得体のしれないモノ=魑魅魍魎は
確かに、立派に居続けてきた!
と考えざるをえないのです。
だとするならば、
時代の様相に応じて
その魑魅魍魎も色々に変化し
人間生活の深い部分から強い影響を与え続けており
人間世界はそれへの対応を常に迫られている
のではないか?と
人間の姿形をしていても
中身は魑魅魍魎そのもの
であることも
決して珍しくない・・・・・と
むしろ、人間には識別できないレベルで
そこらじゅうに魑魅魍魎は存在し
神の如くに見えることすらある・・・と
考えざるを得ないのです。
正に地球は神と魑魅魍魎の間に立たされている存在であるとも言えるでしょう。
人間性から言えば信じ難い様な現実に晒されるのは
それは深いところでは魑魅魍魎の願望の現われに抗しきれない状態であり、
その半面では
人間性の豊かな幸福を味わえることがあるのは
それは
神の世界からの高次元の援助が何かしら作用している
とも言えます。
魑魅魍魎の絶えざる願望とは何か?
地球以上の高次存在を否定し侵略し
ネガティブで蔽うこと・・・
なぜならネガティブエネルギーを吸収してしか
魑魅魍魎は生きられないから、
神の世界はポジテゥブ満載!
というか、ポジティブしかない!
そこでは魑魅魍魎は絶滅
存在出来ない・・・
だから、地球を舞台に・・
人間を食い物にして・・・
人間世界にネガティブを造り出して・・・
それを食って繁栄したい・・
ネガティブが強烈であればある程
魑魅魍魎としては愉快に過ごせる・・
人間はポジティブであれば幸せに向かうけれども
ネガティブに向かえば不幸になるようになっている。
・・・・のではないか??
人間の役割はこの地球に在って、
ネガティブをポジティブに変換させる為に居る。
・・・
のではないのか??
では、ポジティブに向かう秘訣は??
勿論、それは創作する心、
クリエーションに他ならない。
実は魑魅魍魎が支配しているのに
神とあがめたり、
スバラシイ事、として敬愛したり、
尊敬したり、特別視したり、
執着したり、縛られたり・・・・
ありとあらゆる手段方法を駆使して
人間のネガティブエネルギーを食い尽くそうとする
魑魅魍魎の成すがままでは
幸せには・・・・決して・・・なれません。
★
実際火星に移住したいアホが居るとは・・・・ねぇ・・・
posted by 絵師天山 at 13:22| Comment(0)
| 古事記1300年
2014年08月13日
みちのく探訪
古事記の神話世界が現代にまざまざと活きている!
その昔、サントリーの佐治会長が、
東北は文化のへき地だから・・・・
などと、ついうっかり失言?をして、大批判された・・・・東北地方。
陸奥【みちのく】は、関西地方や関東地方に住んでいる人々からすれば、
少し、遅れ気味の?!・・・田舎の代表地みたいに思っているのでしょうが、
どっこい実は、全くもって、全然、その反対で、
日本の文化の日本文化らしさ、をそのまま温存してきた唯一の地域というべきではないでしょうか。
先月末、7月31日から8月初旬にかけての岩手県早池峰神社の例大祭に参加して
その神楽の素晴らしさに目を見張り、日本文化の神髄ここにあり!!、を体感、
鳥肌が立つ様な感覚に捉えられたのでした。
青森のねぶた、弘前のねぷた、秋田の竿灯、山形の花笠、
岩手のさんさ踊り、仙台の七夕・・・・何といっても、祭は東北・・・・
もっと無名だが、熱いフアンがあとを絶たない
秋田湯沢の西馬音内盆踊り・・・
そして、早池峰神楽・・・北上の鬼剣舞(おにけんばい)
それはそれは、素晴らしい日本民族の芸能、
いつか、神楽とか題して、大作を描いてみたいと思い、
その為の取材でもあります。
早池峰神社

同、参道


神楽の具


面
神楽殿
社殿前
早池峰神楽のキャストは、天照大神様、須佐之男命さま、月読命さま・・・・
古事記の神話世界がそのまま残っていました。みちのくは素晴らしい!!!
日本人らしさを忘れてしまっているのは、佐治会長はじめ、現代人そのものの方でしょうね・・・
神と共に生きる。
伊勢神宮の精神 常若もここから生じている訳です。
つまらん宗教やイデオロギーではなく、利害や銭勘定でもない・・・・
正しく穢れた現代社会をハライい清めて下さるかのような、
素晴らしい神楽でありました。
posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(0)
| 古事記1300年
2013年02月15日
2013年01月05日
あけましておめでとうございます
新春のお慶びを申し上げます。
今年もどうぞ宜しくお願い致します、平成癸巳。
平成の御代も四半世紀、早くも、25年を迎えました。
絵師天山、今年は年男。・・・・・還暦を迎えます。
年齢など忘れて精進せねば、絵の道はこれから! ですから・・・
若い者には及びもつかない熟練の技がいよいよ本格的に登場いたします!!
今年は、伊勢神宮式年遷宮年であります。
この佳き年を記念して、秋には伊勢神宮奉納記念個展を開催致します。
第62回伊勢神宮式年遷宮を期に、【日本神代絵巻】、並びに 【式年遷宮絵巻】を対とした、20メートルを超える絵巻物2点を、伊勢神宮に奉納させていただくべく、準備を始めたのがちょうど5年前のことでした、【常若】、(とこわか)、の心こそ、日本の心であり、今日本人が忘れかけている日本を取り戻す縁となれば・・・・との思いで、取り組んで参りました。
幸いに、神宮側も、私の拙い熱意をお認め下さって、奉納のお許しを頂き、目下本制作のために、下図、及び習作、を重ね、ようやく諸準備が整い、いよいよ新春早々より、取りかかることとなります。
昨年の院展に出品した【火之迦具土神】も、この為の習作でしたし、ここ数年の出品作品はすべて、この対なる奉納絵巻のための準備であったわけであります。
ついでに申し上げれば、天山という雅号を戴いたのも、実は、この事のためでありました。
凡そ、我が肇国は天照坐皇大御神が神勅を天孫瓊瓊杵尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に天降り給える時に存します。
天照坐皇大御神はこの神勅によって君臣の大義を定められ、我が国の祭祀と政治と教育の根本をお示しになられました。
我が国はこのような悠久深遠な肇国の事実に始まった神話に基づく国であります。
伊勢の神宮は神話の時代より御創建あらせられ、ご神体として石凝姥命(いしこりどめのみこと) の鋳された八咫鏡(やたのかがみ)を御奉斎せらる日本の本宗であります。
神鏡奉斎の神勅によると、八咫鏡は天照坐皇大御神の御霊代(みつえしろ)として皇孫に授けられ、歴代天皇はこれを受け継ぎ、斎き奉ることで、常に天照坐皇大御神と共にあらせられるという大御心であります。
これは即ち天照坐皇大御神は御鏡と共に今におわします、つまり過去も未来も今に於いて一つになると言うことです。
これは将に、神宮の式年遷宮に見られる、常若の生命と言えるでしょう。
わが日本の歴史は永遠の今の展開であり、日本の歴史の根底にはいつも永遠の今が流れているのです。
私は日本画家として謹んで日本神代絵巻と伊勢神宮式年遷宮絵巻を対巻として描くことで、御皇室の弥栄を請祈み奉ると共に、わが日本国民は天孫降臨によって神々と固く結びついた神裔であるということを、些かでも日本国民に呼び覚ますことが出来ることを切に願うものであります。
posted by 絵師天山 at 23:34| Comment(1)
| 古事記1300年
2012年12月31日
四年前の習作 【古事記】
コチラは四年前に描いてみた、【古事記 (ふることふみ)】
常若の心を絵巻物として、神宮に奉納する、と決めた時から、初めてまとまった仕事として
描いたものでした。
第94回院展出品作品・・・・縦150センチ横380センチ、結構大作ですね。
今見直してみると、少し硬い。
表現が軽い。
が、試行錯誤が大切・・・・出来ないとあきらめてはダメなんです。
多少おかしくても、いつか良くなる
頑張るぞー!! という、意気、こそ、大切。

生涯を賭けても足りない・・・・
相手は、悠久の大儀ですから。
posted by 絵師天山 at 00:54| Comment(0)
| 古事記1300年
2012年09月07日
再興第97回院展 サイン会のお知らせ
院展が上野東京都美術館に戻って、リニューアルされた明るい会場で催されています。
9月1日から16日まで、
日替わりで、同人がサイン会をします。図録ご購入の方へのサービスで、初めての試み・・
9月13日は当番の天山が担当いたします。ご来場の上、お声を掛けて下さい。
午後二時からです。なお院展ホームページはコチラ・・
http://nihonbijutsuin.or.jp/
posted by 絵師天山 at 12:33| Comment(0)
| 古事記1300年
古事記にちなむ個展のお知らせ
一畑グループ創立100周年の記念特別企画として、出雲の風土をテーマに、古事記1300年を期して、開催されます。
ー美し国ぶりー高橋天山日本画展
平成24年9月6日〜9月11日
一畑百貨店 松江店 5階美術サロン
8日、9日は、会場に居ります。
【湖上朧月】

ー美し国ぶりー高橋天山日本画展
平成24年9月6日〜9月11日
一畑百貨店 松江店 5階美術サロン
8日、9日は、会場に居ります。
【湖上朧月】
posted by 絵師天山 at 12:26| Comment(0)
| 古事記1300年