美校騒動により、天心一統は始め私立美術学校の設立を考えたようですが、天心の意見でその計画を変え、明治31年7月1日「日本美術院創設の趣旨」を公表。
前後して、谷中初音町に研究所建築の工事が始まりました。資金調達は主として天心が当たり、アメリカのビゲローがこれに応じて二万ドルを送ってきたことが計画を著しく進歩させた要因であったようです。
こうして、10月15日。日本美術院開院式が催される事となりました。

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朝日新聞紙上大観の語り、続き・・・・・・・
・・・・岡倉橋本両先生には既に自由に囚われざる美術研究、ひいては、普及と民衆化との輝かしい前途の見通しが付いていたらしく、ここに民間美術振興の新運動が画策されるに至った。
即ち私達退校教員が参加し、本郷の湯島天神鳥居前に巡査合宿所の空き家を見つけて日本美術院の看板を掲げて学校派への一大示威を行うと同時に、日本で始めて組織ある運動的美術展覧会開催への準備を急いだが、先生方を始め私達同人の熱と意気とは、幾多の困苦圧迫を征服して、張り裂けるばかりの勇ましさだった。
米国のビゲローといふ人が事の由を聴き同情資金一万円を岡倉先生へ寄付して来たのに機を得て、谷中初音町に二棟の研究所を建てた。
次いで、観山君も学校を退いて加わり、31年秋、折柄官憲万能の中に全然民意に発生誕生した第一回展覧会を華々しく開催するに至った。・・・・・・・(昭和3年9月付け東京朝日新聞より)
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開院を記念するにふさわしい一大示威となった、日本絵画協会第五回共進会との連合展は、総出品数800点を越え、大観【屈原】 、春草【武蔵野】 、鞆音【恩賜の御衣】 、河合玉堂【孤鹿】、竹内栖鳳【春雨】 、など後世にものこる傑作が続々出品されました。
殊に大観の【屈原】は、荒涼たる景の中、風に向かう志士、屈原(くつげん) の姿を悲運の淵に立った天心の胸中と重ねて表現したもので、場中第一の威を張り、盛況に華を添える事となったのです。

【屈原】 部分
さらに、仙台、秋田、盛岡、など東北各地を巡回。翌年にかけて地方への進出に力を入れてゆく一方、作家相互の研究会も月例として熱心に行われる様になります。
尚、機関紙刊行をも企画し、早くもこの年10月20日創刊第一号が発行されるという勢いで、まさに順風漫歩。誠に好調な滑り出しでありました。
以後、この共進会展覧会は、毎年春秋二回、明治36年まで続けられる事になります。
以下続く