明治31年、1898年、7月、超超超!!、大天才、菱田春草満24歳の時。 旧、萩藩士、野上宗直の長女、千代は、この不世出の大天才と結婚しました。
大天才とは言えまだその頃の春草は、勅命によって設立された、東京美術学校第二回生として、ダントツの優秀な成績を納め、岡倉天心始め周囲から大いにその未来を嘱望されていたものの、定職も無く、並外れた高い理想だけしか持ち合わせなかった、か細い一青年でした。
以後十数年、僅か満36歳で病没するまで、日露戦争を挟んで、まさに激動そのものの時代に、千代は、春草の愛児四人を産み、育て、常に留守勝ちであって、収入も途絶えがちな家計をやりくりし、子を守りつつ、この大天才の支えとなったのです。
気骨のあることでは指折りの萩藩士の家庭に生まれたこの千代が、当時どういう心境であったか、もう聞くすべはありませんが、家庭の主婦として、誠に薄幸な日常を重ねたのではないかと愚考するのです。
もっとも時代背景が今とは全然違っているので、国を挙げての国難にすべての人が立ち向かわなければならない時でしたから、千代の苦労ぐらいは皆が味わっていたのかも知れません。
結婚後数ヶ月、谷中初音町の新築された、美術院公舎に居住したので、滑り出しはまずまず。研鑽を積んで各種展覧会に出品を重ねる夫、春草の描く作品が売れさえすれば良かったのです。が、空しくも、彼の革新的な画風はまだまだ時代が受け入れてくれず、朦朧派などと揶揄され、まして、日露戦争へと突入してゆく前夜とも言うべき時。おいそれと楽な暮らしが出来るはずはありません。
明治33年9月、早くも長女を授かり、喜びに沸き返るのでしたが、あっけなく病没。次いで、明治35年1月、長男が産まれます。夫春草は、相棒 大観と相談して初の外遊の計画を始めます。家計のやりくりもおぼつかないのに、夫は勉強の為と称して、驚くべき計画に夢中になっている訳です。
当時の外遊は一大事業。生涯かけた大冒険といってもいいくらいの壮挙でした。
国内ですら、汽車が走っていたのは限られた区間だけであり、夫の実家長野の飯田に行くのさえ有に4日もかかった時代です。とにかく家の事はいつも温かい篤志をたたえて、見守ってくれていた、夫春草の兄、為吉、任せ。
この兄は春草にとって得がたい兄でした。若い頃から絵が好きで、自分も絵の道に進みたかったのですが、家庭の事情で断念。現在の理科大学を卒業後、教師として師範学校などで教鞭をとっていましたが、当時皇太子であられた大正天皇陛下の教育係を拝命すると言う俊才であったのです。
愛する弟春草の画家志望を聞いた時この兄は自身の志望も弟の将来に託したのでした。東京美術学校入学から卒業まで一切の面倒を見たばかりでなく生涯、弟春草とその家族とを見守る事になりす。
長男が一歳を迎える頃、春草は大観と共にインドへ行ってしまいます。主たる目的はティペラ国王の宮殿装飾を、仲介した岡倉天心の紹介で担当する事。でした。ところが、日露戦争直前の事とて、世界情勢の変化のお陰で、当てにしていたその仕事はパア。
しかし二人はタゴールの援助によって2人展を開催、現地で描いた作品を元に、幾ばくかの収益をあげて息を吹き返し、その勢いに乗じてイギリスへ、渡航しようとしましたが情勢の急変で断念。帰国します。帰ってきたものの、腰を落ち着けるまもなく今度は天心に同行して米国へ行くと言うのですから、たまりません。千代は、3人目の子を身ごもっていたのです。夫春草は、渡米の為の金策に奔走。思うように集まらないと見るや、描いた絵を兄に託すのでしたが、一点5円でも売れなかったそうです、、、、今の5万円くらいでしょうか???
日露開戦の当日、最後の定期船に乗った2人は、ちょうど外交交渉で渡米する末松謙澄の一行と同船し、あの伊藤博文が、見送りに来ていて、悲壮な大演説を甲板で行ったと言うのですから、まさに激動の時代。持ち金も少なければ、家においてゆく金もろくに無いのに、、、全く温かい周囲のお陰
としか言いようがありません。千代は目の回る思いであった事でしょう。
渡米するや天心とは分かれて、二人は展覧会を催します。意外や意外、、、さすが富の国アメリカ。時代も手伝ったのか、驚くほど良く売れて、万歳!!! 美術院の経営のために金を送り、勿論、家にも送り、やっと一息つくことが出来たのです。春草29歳、大観35歳の事でした。
日本に留まっていたら絶対食い詰めてニッチもサッチも行かなかったでしょう。まさしく綱渡り、、、、? 絵描きの出稼ぎ、、?しかも外国?
少々余裕が出来た二人はその足でヨーロッパへ。ずっと羽織袴で通したので、小さくて美青年だった春草は、よく女性と間違われ、そのつど怒っていたそうです。一年半に及ぶ外遊の後ドイツ船で、イタリアから帰国したのですが、独ソ和親条約によって船中ではそれはひどい扱いをされました。
ともかく、新生児を抱え、夫の留守を甲斐甲斐しく守るしかすべの無い千代でしたが、2人は欧米で稼いだ金を元手に、日暮里に家を建てました。が、その後、やはり絵は売れず、おまけに美術院そのものの経営も破綻して、なんと、茨城県の奥地、五浦に都落ちするのです。そのときも千代は妊娠
中。三男が生まれたのは8月の暑い頃でした。なんとかやり繰りするものの、海辺の猟師町なのに、魚が買えないくらい貧乏だったと言います。
そして、夫春草に恐ろしい眼病が襲い掛かります。画家としては、致命的。
さすがそんな田舎にいては治療もままならず、通院のために家族ともども東京に、。でも、病を得ながらも、身近に夫は留まっているし、育ち盛りの息子たちにも囲まれて、少しばかり千代も家庭の温もりを感じる事が出来たのではないかと思われます。代々木は今の明治神宮のあたり。まだまだ
武蔵野の面影深い、穏やかな自然に溢れていたのです。家族の温かさに囲まれて、武蔵野の美しさに誘われて、春草は次々と傑作を生み始めます。
畢生の名作、“落葉”は、ここで産まれたのです。“黒き猫” “雀と鴉” “早春” 、、、目を患いながらも、珠玉のような大傑作が、次々目の前で産まれてゆくのを、毎日心から味わった千代の幸福は、イカばかりであった事でしょう。
歴史上の大金字塔が、来る日も来る日も出来上がってゆく、、、良く分からなかったかもしれませんが、、? 夫の病と闘いながらの苦闘に、自分も参加している充実感はあったに違いありません。私の亭主はホントに良い絵を描くもんだなー、、、。と。
これらの新作は次々に売約がきまり、名声も国中に広がって行き、ようやく持てはやされてゆくようになります。そして、 借家だった住まいを新築して移転。じっくり病を癒そうと言う矢先、あっという間に、夫は、この世のものではなくなってしまうのです。
37歳の誕生日が間近な秋の事でした。 千代と結婚してから、13年目。
大観と共に歩んだ春草の画家としての道は、むごいくらい厳しいものでしたが、大天才大観が、90の寿を保って達成できた足跡と、なんの遜色もない程の、高い業績であったといえるでしょう。勿論、数においては、大観に及ぶべくもありませんが、むしろ大観より優っていると言っても良いのではないかと思います。事実大観は、どんなに自分の絵を褒められても、“春草君はもっと上手かった!!あれこそ金の瓦。磨くほどに輝く。俺なんか普通の瓦だよ。と常に答えていたそうです。”
春草没後、すでに100年、(2011年が丁度100年です)、その間、画壇は百花繚乱。盛況を呈し、沢山の優れた作家を輩出し、数多の名作が制作されました。しかし、それらを、“落葉”“黒き猫”と共に並べたらどうでしょうか??? どんなに華やかな作品でも、あの深い深い高き静けさ、の前には、色あせてしまうに違いありません。春草こそ、不世出の大大、大名人であります。
“落葉”“黒き猫”そのほか沢山の春草コレクションを大切にしていた、千葉、流山の資産家 秋元洒汀、は、菱田春草の最大のパトロンでした。
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「菱田春草は、東京での治療が効を奏し、どうにか失明の危機を脱し、再び絵に精進していた。明治42年(1909)の第3回文展には六曲屏風一双 の落葉』を出品した。この作品は同展で受賞し、後に国の重要文化財に指定された。『俳諧人名字典』(高木蒼梧著)によれば、この作品は、秋元洒汀のために描いたものであると記述されている。
つづく明治43年(1910)、第4回文展では、『黒き猫』(柏の幹で、眼をらんらんと輝かせた黒猫がうずくまっている図)を出品し、表現の優麗さをもって高い評価を受けた。(この絵も、後に国の重要文化財に指定されている。)蛇足ではあるが、『落葉』『黒き猫』2点は洒汀の手に入り、一時期は流山にあったのである。明治44年(1911)に入ると菱田春草は腎臓炎を再発し、併発症であった蛋白性網膜炎が悪化して視力を失った。
さらに、不眠症が重なって重体に陥ったのである。秋元洒汀は、郷社赤城神社へ『赤城明神』の掛軸(前島密に揮毫を依頼したもの)を奉納して平癒祈願をしたりしたが、その甲斐もなく明治44年9月16日、数え年、38歳の若さでその才能を惜しまれながら、生涯を閉じたのであった。
秋元洒汀は、菱田春草の追悼展覧会の幹事役を務めて盛会裡に終らせたが、菱田春草への追慕の念はそれだけにとどまらず、記念碑の建立費を全額支出
したり、遺族に生活費を毎月送金するなどしていた。」 と、 ある記録に記されています。また、こういう記述も、、、、。
「菱田春草の死後、秋元洒汀のもとには、菱田千代(菱田春草の妻)を始め、菱田為吉(菱田春草の兄)や菱田唯蔵(菱田春草の弟)から、多数の懇ろな謝礼の書翰が送られて来ており、親交の深さを物語っているが、次に掲げる明治44年5月8日付けの菱田鉛治(菱田春草の父)、菱田為吉、山田台太郎(親戚)連名の『書翰』には目を見張らせられる。
謹啓、初夏を迎えましたが、御清穆のこととお慶び申し上げます。
過日は、非常なお世話とご尽力をもって、故春草の追悼展覧会を催して頂き、
加えて多大の金子を御恵与下さいました。
おかげ様で遺族の養育の目途もつき、ありがたく感謝しております。
定めし地下に眠る春草も喜び安心していることと思います。
とりあえず簡単な手紙ですがお礼を申し上げます。 敬具
追伸
行き届かぬ寡婦(春草の妻)のことですが、子供の教育について心配しております。
しかし、何分にも(私たちが)遠方のため注意もできにくいので、
今後とも遺族をお見捨てにならないで、お心添え下さるようひとえにお願い申し上げます。
また、先日は私へまでも春草の画集を下さり、ありがたく感謝しております。
画集は今回の記念として、大切に永久に保存致します。
ついでながら画集のお礼を申し上げます。」
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さらに、春草の最高のパトロンは、、、、なんと、明治天皇陛下だったのです。明治43年、“落葉”のあと、描いた屏風が、第一席の受賞を獲、しかも宮内庁お買い上げと成ります。“雀と鴉”と題された、しみじみと穏やかなこの絵を、ことのほか御気に入られた明治天皇は、いつも身近にこの屏風を置き、愛賞さたそうです。そして、惜しくも亡くなった事をお聞き及びになった天皇は、翌明治44年、表装競技会に出陳された、明治42年の春草作品を、なんと1000円の高値でわざわざお買い上げになったのです。それにより、以後、春草の作品が暴騰し、残された遺族は、大変助かったといいます。明治天皇、崩御の前年のことでした。
さて、薄幸の??妻、千代は、どのくらい幸せだったのでしょうか、、?

超美人の千代婦人