2011年04月30日

極上の春草展

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 今回は、船。  船にまつわる作品群を見てゆきましょう。

ます、“出船”、「出船カワイや入船よりもヨー、ダンチョねー・・・、」伊豆七島では、今でもよく歌い継がれている民謡ダンチョネ節に、こんなフレーズがあります。

航海に出発する船の雄雄しい感じと、出てゆく哀愁と、港に帰ってくる船は、迎えるものにとっての安堵感はあるのですが、「かわいさ」が、もう少し。

この場合のかわいさは、勿論、愛惜の方でありましょう。

離れ島に暮らす人々にとっては、行ってしまう船を見るのはつらい訳です。・・入船よりかわいい、出船。



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 拡大すると、二人の船員が、帆を揚げて、外洋へと勇ましく発進させようとしています。白い航跡が、胡粉の白さで柔らかく表現されています。

殆どが、空間と言いますか、空と海の存在の為の余白と言ってもいいでしょう。しかも、海の波の説明はなく、空の雲も描いてアリマセン。ほぼ、何の説明もなし。海の色らしき、緑っぽさ、と空の色らしき黄土色。

空を黄土色にしてあるのは、船の、シルエットの薄暗さを引き立てるためです。緑が寒色、黄土、茶は暖色。

寒色と暖色とが、ほぼ、等分に施されている為に、目立たない、グレーで描かれている、シルエットの船が、却って美しい色彩のように錯覚してしまうのです。

寒色暖色の量比に差異が生ずると、どちらか一方が、目立つ事になり、他の、無彩色は、汚れて見えて来ます。

美しい無彩色の舟のシルエットを引き立て役にしているのが、航跡の白さ。白は、グレーに拠るとき、一番美しく感じられるものなのです。造形の妙を知り尽くした人の手になる作品と言えるでしょう。勿論航跡の白さだけで「出船のかわいさ」を表してしまったのは、やはり、春草の天才です。



  

  続いて、“帰舟”



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  積荷を満載して、帰ってゆく舟の姿。

 何でしょうか?藻刈舟、と言って、藻を刈るを、儲かるに掛けて、縁起を担ぐ絵が流行ったものでしたが、その類なのかもしれません。


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良く見ると、鉢巻の船乗りが、長いさおで、舟をコントロールしています。この、手前右端の人物が、大切な役目をしているのです。 三艘の舟には、いずれも積荷が、満載。丸い円満な、安定した形が、3つ、座った三角形の構図で置かれている。

つまり、舟一つずつ、も安定しているし、3つの揃え方も、わざと安定した構成にして、その安定感を、手前右端の船頭さんにすべておっかぶせているのです。

この大きな安定して、わらの様な柔らかな積荷とはいえ、かなりの重量に違いないであろう、構図にしておいて、その重量のすべてを、一人の船頭さんに預けちゃっている訳。

全てを安定に持っていく様にして、たった一つ、船頭さんの力の入れように、不安定をもってきて、緊張感をちょっとだけ表す。

ほっとしたような、帰ってきた安心感をちょっと破っているところに、絶妙のバランスを見せているのです。




そして、“帰帆”



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いかがですか?
解説はいらないでしょう。



  

“帰漁”


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小人のようなかわいらしい表現が、さりげない日常の平安を
感じさせるのでしょう。



 “釣帰”

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ついでに、かわいらしい、釣り人の絵もおまけに・・・・。





 “雨中帰漁”



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 しみじみ、良いですねー。
クリックしてお楽しみ下さい。




posted by 絵師天山 at 00:13| Comment(0) | 菱田春草

2011年04月21日

極上の春、続き

 春草展を続けましょう。

 月四題、のうちの“春”、
 月明かりを背景にしているので、桜は逆行で、影になっているんですね。煌々とした、月明かりを背に受けた、山桜を銀泥(ぎんでい)を含ませた薄墨で描いています。


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 このディテールは、


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春夏秋冬の春、と題されたのはこれ、



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  松葉の生き生きとした作です。
  ついで、躑躅(つつじ)をテーマとした作。


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表現の自在さは、目を見張るものが・・・・・・。





タグ:山桜
posted by 絵師天山 at 23:56| Comment(0) | 菱田春草

2011年04月18日

極上の桜、!

 春草作品の桜は、すべて、当時の、掛け軸での作品。

 掛け軸と言うのは、巻き取って、出し入れする物。従って、絵の具が厚塗りだと、絵の具が画面から剥落することもある。だから、春草のみならず、当時の日本画家達は、薄塗りによって、深さを出すべく相当苦労していたわけです。

 現代は、額装が殆どですから、薄塗りにこだわらなくても良いので、深みを出すのに、重ね塗りと言う手が使えるから、昔の絵描きより遥かに楽。

 日本画らしい日本画がなくなってゆくはずですよね。


 惜春の宵、どうぞ、もう一度桜をお楽しみ下さい。



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  “春宵一刻”





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“春爛漫”






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 “春霞む御吉野”






posted by 絵師天山 at 21:36| Comment(4) | 菱田春草

2011年04月17日

セレブな高級ブランド?春草の牡丹

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ホンモノのセレブリティとは、このことですね。

 品格そのものを良く伝えてくれます。雨中牡丹、白牡丹、紅牡丹、・・・、

空間に晩春から初夏の爽やかさが凄みを伴って感じられます。




いずれも、クリックして、ご覧下さい。
posted by 絵師天山 at 09:41| Comment(4) | 菱田春草

2011年04月16日

春草 桜の名品展

 震災の大被害をもたらした東北地方は、今まさに桜前線が北上中!復興の勢いと共に桜も咲いて欲しいものです。関東は見ごろを過ぎてしまいましたが、関西でも吉野などは、これから本格的満開のシーズンです。

 春草は、その名のとおり、春の優しさを描かせても勿論大天才。桜の名品を揃えて見ました。
まずは、“嵐山春色”  嵐山は、皆さんが知っているところ、ですが、この深さはどうでしょう!
単なる有名観光地の解説などではなく、遥かに高い格調を備えているではアリマセンか!


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 このディテールはこうなっています。

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続いて、“桜花”


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 空間をずっと、広く採って、ひばりが舞い上がりそうな空気感をかもし出しています。
拡大すると、山桜が、平面的に描いてあるのに、ボリュームが感じられますね。凄みのある表現。

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そして、“春の花鳥”

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 典型的な吉野桜に、ウグイスでしょうか?小鳥が・・・・。

 
 次は、“春宵”小さい家鴨でしょうか?水辺に寄り添っているのも、ステキでしょう!


 
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“瀧(春)”

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部分


すべて、クリックすると拡大されます。




posted by 絵師天山 at 18:43| Comment(0) | 菱田春草

2011年04月09日

春草展  春にちなむ作品

 桜の開花も聞かれる日本の春は、実にいいもの・・・・。春眠暁を覚えず。うとうとと、いつまでも寝ていたいものですが、地震でおちおち寝てはいられない方も?

 画面全体に空気が感じられる春草の作品は、春の雰囲気を良く伝えてくれます。

 始めの作品は、“春色”と題された、満開の山桜をテーマとしたものです。


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ディテールがこれ、

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ぬくもりの感じられる地面に散り行く花びらも春風を孕んでいます。

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次いで、“春暁”

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 “春郊摘み草図”

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“摘み草”

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 同、部分

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“春の朝”

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クリックしてご覧下さい
タグ: 春風 春暁
posted by 絵師天山 at 14:10| Comment(0) | 菱田春草

2011年04月07日

春草 生誕碑

 飯田市のリンゴ園並木の地にある春草生誕の地碑。大観の筆による。

菱田春草生誕の地

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posted by 絵師天山 at 08:05| Comment(0) | 菱田春草

2011年04月04日

初期春草と狩野派

 いまさら残念がっても仕方のない事ですが、大天才春草の画業の初期に、絵の導き手となったのが橋本雅邦であったことは、本来は、好ましい事ではありません。結果的に、大天才菱田春草は、この最初の師匠等を遥かに超えて、その影響を全く感じさせない境地へ、あっという間に達してしまうから、良い様なものの。出来得るならば、導き親の始めが、大和絵系の巨匠だったらもっとずっと良かったのですが・・・・・。

 橋本雅邦は、最後の狩野派と言われた人。狩野派というのは戦国時代に狩野元信によって創始された絵師集団で、城郭建築にはツキモノの襖絵、障壁画など、お城が築かれれば必ずそこに、狩野派の絵師集団が介在してきました。これ等は、主に、権力や、政治的勝利を代弁するための絵画として脚光を浴びてきたのです。

 国宝“松林図屏風”で名高い長谷川等伯も、当時、狩野山楽あたりが大活躍しているその隙間に入り込もうとしてメジャーの狩野派に挑戦して、結構苦労しているので、もっと自在で安定的な立場での仕事をさせる土壌があったら、彼は松林図どころじゃあなく、もっとずっと日本的な素晴らしい作品を残して、われわれをもっと楽しませてくれたに違いないんでが・・。

 江戸幕府の存立など、武家や貴族階級による反皇室化を企てる力の基礎は、あらゆる面での唐様政策であったのですから、そこに狩野派繁栄の余地も生まれて、そのままずっと継承されてきたのでした。

 平安時代にメジャーだった大和絵は、鎌倉時代、武家の進出と共に次第に色あせたものとなって行きます。それは、足利家が天皇に成り代わって日本を統治したいという野望の下に唐様を意図的に取り入れ、国風文化をないがしろにすることで、世論を反皇室へ持ってゆこうとするプロパガンダの犠牲となったからでした。

 宋、元、時代の絵画や、墨蹟、陶器、など、唐様と総称される支那文化を大いに奨励し、実質以上に“スバラシイモノ”と演出してゆく事で、平安時代に培われた日本的国風文化の源であった天皇家の存在を貶める様に画策したのです。勿論大和絵もその犠牲になりました。和歌の文化も、カナ文化も、・・・。何のことはない、後の利休など今尚もてはやされていますが、実は国風文化衰微の片棒を担いでいただけなんです。

 現在の日本でも、中国共産党政権のゴリ押しを鵜呑みにし、日本政府自身の政策によって、“支那”(しな)と言う、“チャイナ”(chaina)から派生した本来の国名を表示、使用してはいけないかのような世論を作り上げていますね。支那チクは、メンマに。支那ソバはラーメンに・・・・。

 これは、中華思想、中国と言う国名は世界の中心の国である。という意味。つまり俺様の国を世界の中心国=中国と呼べ!!!と言う、実にアホらしき、単なる国家的エゴイズムのごり押しに日本政治家が自己利益優先のせいで、屈し続けてきたお陰なんであります。

 狩野派は、その元に唐絵=漢画があって、始めから限界があった。つまり、日本人本来の良さを出すには大和絵と違って、最初から無理をしていた。ボタンを掛け違えているようなものでしょうね。

 それゆえに、江戸中期の狩野探幽をその頂点として、あとは衰微してゆくのだけだったのです。勿論現在継承されてもいません。

 春草の最初の導き手、結城正明、橋本雅邦は、衰微してゆく狩野派の末端に位置していた絵師、であったわけです。

 日本画の様な、日本古来の伝統文化は、その奥深さゆえに、どのような立派な才能を持った
者であっても、例え、春草のような桁違いの大天才でも、どうしても始めに習得しなければならない基礎があります。ドンナ天才でも初歩は先人に習わなければわからない。才能とは別個の、誰でもくぐるべきステップがあるんです。それ故、始めに染まる色は、大切。それを春草に教えたのが、結城正明という橋本雅邦と同門の、狩野派絵師でありました。

 結城正明は春草の兄為吉の住まいのすぐ裏手に住んでおり、東京美術学校の助教授でもあり美校志望の春草が、入学の足掛りとするには理想的な先生でありました。

 勿論結城正明は橋本雅邦と狩野芳崖と共に、ずっと続いてきた狩野派の最後の生き残り、であり、年長でもっとも信任の厚かった芳崖は、美校創立直前に亡くなってしまっていたので、自然残された二人の先輩格である橋本雅邦が、新しい美術学校の教師としては、中心的にその座を占めることになっていたわけです。

 若き春草が、結城正明に学び、橋本雅邦に憧れるのも無理はアリマセン。

 橋本雅邦は、フェノロサと岡倉天心に見出された人でした。

 明治時代は、国を挙げて西洋諸国を手本とした改革が行われていた時で、日本的なものを軽視する風潮がありました。美術界にも、伝統的絵画より洋画をもって新時代の絵画とみなし大和絵などは国粋的なものとして振り向くものは殆どいなかった、のです。

 当時、節操のない洋化の波に抗い、伝統を守ろうとした岡倉天心ですら、大和絵の復興についての認識はありませんでした。それは、天心がフェノロサの見識を受け継いでいたからで、当時の欧米人にとってアジアの文明国は支那だけ、日本文化についての知識は実に乏しかったのです。フェノロサの東洋美術の知識は支那中心。支那美術を基準にして日本美術を見ているに過ぎないのが実情で、支那美術には見られない大和絵には理解を示さなかったのです。
 ほんとの価値にまだ気づいていなかったんですネ。

 天心、フェノロサは日本の絵画では唐絵=漢画の流れを汲む狩野派を重視し、新しい日本画復興の本命に狩野派を充てたのです。日本画革新の教授陣を揃えた東京美術学校において、大和絵は指導されることはあっても、昔で言う唐絵。つまり狩野派流が、はばをきかせていたと言う訳です。

 橋本雅邦は狩野芳崖と共に、フェノロサと天心に見出され、、明治日本画の改革を推進する実力者であり、江戸狩野の系譜を代表する大きな存在とされていました。東京美術学校は、明治天皇による天皇親政の余慶で設立されるのですが、雅邦も芳崖と共に、設立以前から深く関わって来たのです。

 そこへ入学しようとしている春草は、その予備段階として当然結城正明へ、入門する事に。芳崖は、前述したように、美術学校発足直前に他界していました。


 橋本雅邦は美校入学後の春草を導く大切な役割の一端をを果たすのです。普段はおとなしい紳士であったそうですが、ただ一度、激高したことがあり、それは、春草の卒業制作“寡婦と孤児”について、ある教官が、その意図を認めず、化け物絵と痛罵して、肩を持つ雅邦と論争。結局校長岡倉天心の裁定により最優等と認定されるのですが、温和な雅邦が激論を辞さなかったのは“私が描いてもこれ以上上手く描けない”との思いがあったから、とされています。

 別に、橋本雅邦に恨みがあるわけではないんですが、もし、春草に欠点があるとすれば、それは狩野派の影響を初期に受けてしまった事にあると私は思っています。

 勿論雅邦が意図してそうさせたのではありませんが、惜しくも一旦、狩野派に染まってしまったことが、とても残念なのです。もっとも、その当時平安時代から続いてきたとはいうものの、大和絵の方は、狩野派よりさらに形骸化されており、当然巨匠と言えるクラスの作家も見当たらなかったのですから、むしろ、春草のすべてを認めていた雅邦の大らかな懐の深さにこそ、感謝しなければならないかもしれません。

posted by 絵師天山 at 22:28| Comment(0) | 菱田春草

2011年04月01日

春草展 初期代表作 その3

  わずか17,8年に満たない画業を初期、中期後期など、分けることがそもそも、・・・・。ごく初期の頃から、成熟し、老成したような傑作ばかり描いているので、あまり意味のない事ではありますが、先回ご紹介した“水鏡”が、なんと若干23歳の時。

 “菊慈童”を描いたのは、なんと、なんと。26歳!

 自分を基準にして言うのもなんですが、26歳と言えば、学校卒業して、まだ間がなく、同じ年頃の女性に比べて男性は社会に出たばかりで、まだまだ幼児性すら残していることがあるような年頃です。それを考えると、“菊慈童”の深さは、全く、何と言うことでしょう。

 この世界は年齢ではありません、どのような才能をもって生まれたかに尽きるのです。ホンモノの天才は、生まれた時から天才なんで、時期来たって、自然に実ると共に驚くばかりの果実を残す。

 努力などと言う空しい言葉は天才の辞書にはないのです。

 しかも、天才大観ですら26歳では、まだ傑作は現れない。東京美術学校の助教授として迎えられてから29歳あたりで、傑作量産が漸くぼちぼち、始まるのですが、春草の大天才は、20代前半からすでに、当たり前のようにどしどし、描く絵、描く絵、すべてがこれみな傑作品と言う、ダントツ、ブッチギリの画業がはじまるのでした。

明らかに初期作品と言う感じの、若描きの鮮度に溢れた作品も、先回ご紹介した“砧”のように、後に生まれる傑作のための練習。習作と言う場合のみ。ただ、勉強の為に描きましたと言う“若描きだからしょうがない”クラスの作品は、マジ、ありません。

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この作品は後に、代表作となる“落ち葉”の為の先駆けとなった屏風。

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 同じく森の空気感を後の“落ち葉”と同じレベルで、すでにかなりの表現力を示している例です。


IMG_2394.JPG 秋渓


IMG_2395.JPG 部分  ここにも野猿が、


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これは、“菊慈童”と似たような歴史物。“稲田姫”、ヤマタノオロチの日本神話からの取材作。

いずれの作品もクリックすると拡大されます。

posted by 絵師天山 at 21:25| Comment(0) | 菱田春草

2011年03月29日

初期の代表作 その2

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“菊慈童”(きくじどう)
 その昔、深山の奥のまた奥に不思議なる菊の苑があって、そこから流れ出す清らかな水は不老長寿の妙薬となる。という逸話を元に作られた謡曲に、菊慈童と名付けられた、名曲があるんです。

・・・・・それ、邯鄲(かんたん)の枕の夢ぇーーーー、楽しむこーと、いくとせー、慈童は枕をいにしえのーおーー・・・・・、と、実に良い曲で、秋の定番とされる、非常におめでたいものであります。短いけれども、自然美と、精神美とが端的に感じられるのです。

 謡曲菊慈童は、菊花の咲き乱れる神仙境を舞台に、菊の花のめでたさと、その菊が水に滴り 不老不死の薬になった由来を語り、永遠の美少年の長寿を寿ぐ曲であり、リズミカルな謡 (うたい)に乗って、美少年が演ずる舞は、軽快で颯爽としていて、この心を余すことなく描ききった名作が、春草の手になるこの、作品であります。 
他の作家もこれをテーマに描いていますが、春草に比べると気の毒なくらい稚拙。

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 深まり行く秋の気配が、ひたひたと、秋霧と共に観賞者を包み込んでしまうかのよう!
一人たたずむこの世のものとは思えない菊慈童が、誠に精細に描かれているではありませんか。
マッタク、春草にかかったら、神秘世界もあっというまに開示されてしまいます。
 
 菊の香りが仄かに漂ってきて、目をこすると、あら不思議、慈童が一人立っているではありませんか! すずやかなお召し物は、紅葉に反して、寒色で、描かれていますね。
 
 また、紅葉の複雑な奥行きも、省略と誇張とのバランスを保ちつつ、静かだけれど、木の葉のさやぎが、微かにきこえてきます。見つめ続けていると、菊の香が、いよいよはっきりと感じられ、そういえば、せせらぎの音も聞こえてきました。

 先回にご紹介した“水鏡”も伝説の世界ですが、やはり秋の風情というものが中心となって、日本文化が語られると、春の良さ、を想い、夏を心待ちにし、冬を楽しむ気持ちになるものです。

 続いてこの作品も、日本文化の代表、秋をしみじみと感じさせる素晴らしい作品だと思います。

 “砧”(きぬた)

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 砧と言うのは、木槌で、アイロンのように、布を滑らかに、平らに、つやをだす、こと。 昔は木綿や絹を纏えたのはごく一部の特権階級の人々に過ぎませんでした。それでは一般 民衆の衣は、というと長いこと麻や楮(こうぞ)、藤、葛(かずら)など、 樹皮からとった繊維を織ったもので、それらを蒸し、さらに川で晒し、紡いで織ります。こうして出来た、繊維の太く、布目も粗いごわごわした布を着やすく、美しくするためにこれを打ち柔らげ、とんとんと叩くことを総称して、砧、といったのです。




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 謡曲“砧”は、夫の留守宅を守る妻の悲しみが描かれており、詞章、節づけともに晩秋のものがなしさを表現して、古来人々に好まれてきたお能で、女主人公が砧を打つことが情念の表現になっています。
 
 春草はその情念を、深々とした秋の風情の中にどっぷりとつかるような表現で、作品としました。
この作品は初期のものではなく、円熟期のものですが、下記作品は、同じテーマの初期作品です。



IMG_2391.JPG  若描き
  

 まだ、昇華されてはいませんが、なんと!この御婦人の優しげなこと。

 当時、武者絵、とか、謡曲からテーマを持ってくるとか、歴史的な画題は今よりずっと当たり前の共通する概念でありました。しかし、その殆どが、次代の流れに洗われて、今となるとただ古臭いものに感じられるものなのですが・・・・・どうでしょう!これは!

 大天才春草の作品は、常に、いつでも新しく、興味深深たる魅力に溢れ、まさに、時代を超えた高い普遍性を獲得しているのです。

タグ: 謡曲 武者絵
posted by 絵師天山 at 00:00| Comment(2) | 菱田春草