2011年06月10日

セレブの高級ブランド! 大観VS春草 一対の美  続

 90歳の長命を全うした大名人、横山大観は、春草の天才に惚れ抜いていました。

 時に自分の作品を褒められると、

“春草君の方がずっと上手い、あれこそ金の瓦。俺なんか普通の瓦だよ。”といっていたそうです。

事実、ある時期のこの二人の作風がとてもよく似ていて、どちらの作品か判別しにくい事もあり、どうやら、あの、大巨匠、大観先生が、春草を真似ていたのではないかと思われるふしさえあるのです。春草没後、直後に開催された春草記念展に【五柳先生】と題して尊敬と敬愛とを表現し尽くそうとした新作屏風を大観は捧げています。

 菱田春草と言う夭折の画家は、実に稀に見る天才が惚れこんでしまう様な、桁違いのポテンシャルを秘めていました。せめて、60以上の齢を与えられたら? と思うと、心底残念でなりません。

 今も尚このお二人の余慶のお陰で、かろうじて成り立ってきた日本画壇もそろそろ、お二人の遥かなる業績に立ち返らなければ、早晩消えてなくなるだろうと私は考えています。

一対の美。ホンモノのセレブリティーをお楽しみ頂きましょう。

大観VS春草



ff.jpg

【紅葉】 菱田春草作 明治35年

    VS

同【滝】 横山大観作

IMG_2613.JPG






dd.jpg

【寿老】 菱田春草作  明治34年

   VS

 同【布袋】 横山大観作

IMG_2615.JPG





ss.jpg

【春秋(秋)】 菱田春草作  明治34年

    VS

 同【春秋(春)】 横山大観

IMG_2616.JPG







aa.jpg

【飛泉】  菱田春草作  明治34年

     VS

 同【飛泉】  横山大観作

IMG_2614.JPG






 節電の夏に必須アイテム!!


→夫婦扇発売中


 こちらも、どうぞ、ご覧下さい。


何れも、重ねてクリックすると見易くなります。





posted by 絵師天山 at 17:33| Comment(0) | 菱田春草

2011年06月09日

セレブの高級ブランド! 大観VS春草 一対の美

  
 生涯の友。盟友。 勿論、大親友。

菱田春草と横山大観とは、とても親しかったのです。
大観は早世した年少の春草を師のように思い続けて、尊敬しつつ、長寿を全うしました。

春草も7歳年上の大観に素直に兄事しています。

お互いを強く、深く、敬愛しつつ、日本画の王道を再度、築くために全生涯を傾け続けたのが、このお二人です。

現在の日本画壇はこの二人のお陰でかろうじて維持されていると言っても過言ではアリマセン。

日露戦争の会戦当日に、アメリカに渡航。

 奇しくも日露戦争会戦後の終結の講和手段を模索していた伊藤博文が派遣する悲壮な覚悟の使節一行と同じ定期船でした。

このアメリカ行きの最後の定期船に大観と春草も乗船し、使節団と同じ決死の覚悟で、日本文化を背負い、未来に向けて出航したのです。

ボストン美術館東洋美術部長、岡倉天心を頼っての事。


 壮挙と言うにふさわしい崖っぷちの暴挙???でした。



この盟友の【対】作品が残されています。

何れも日露戦争前後に描かれたもの。アメリカにはまだ、未発見の対作品が残っている可能性もあります。

美校時代から、美術院創立初期にかけて、テーマを決めて、制作し会い、それをお互いに批評するという研究を続けてきた事もあり、同一テーマの対作品を描く事は、二人にとって朝飯前であり何よりの楽しみであったろうと思われるのです。



春草VS大観



どうぞお楽しみ下さい。



ll.jpg

夏冬山水 【冬】  菱田春草作 明治39年



      VS



同、夏冬山水 【夏】  横山大観作  明治39年

kk.jpg

冬の鴨と夏燕の対比が優美です。





jj.jpg

秋の夕   横山大観作   明治35年



    VS



同、 春の朝  菱田春草   明治35年

hh.jpg

曳き船と釣り船の対比。





gg.jpg

飛泉(ひせん)   菱田春草作  明治34年



   VS



同、飛泉(ひせん)   横山大観作  明治34年

IMG_2612.JPG

瀑布の対比。

水音が爽やか!!!







少し映像が見難いですね、

ホンモノで味わいたいところですが・・・・。











 節電の夏に必須アイテム!!


→夫婦扇発売中


 こちらも、どうぞ、ご覧下さい。










posted by 絵師天山 at 11:24| Comment(0) | 菱田春草

2011年05月31日

春草の牧童図

 fc.jpg


IMG_2515.JPG


IMG_2520.JPG


IMG_2528.JPG


IMG_2529.JPG


IMG_2545.JPG


若さゆえである事は勿論のこと、真っ直ぐな情熱家であり、日本文化を革新するくらいの気概と、実力とを兼ね備えた、大天才ですから、いわゆる、娑婆っ気は微塵も無いのが春草その人、です。

 名声とか、名誉、権力などのイロケを全然感じない事は実に稀有なことなのです。

純真無垢な、全く牧童を主題とするに、一番ふさわしい作家であるともいえましょう。


posted by 絵師天山 at 21:30| Comment(4) | 菱田春草

2011年05月28日

春草の美校時代 その3

 明治26年6月、春草 専修科3年が終わる頃。
 兄為吉への手紙より、抜

★  ★  ★  ★  ★

 今般学校にて、学校の生徒の画の風、大概一定して変化と云ふものなき故、少々次学年より改正して、最も今頃は何年何年として一組づつ教員が受持て居りしが、今年より、二年より皆一所にして三つの教室に別ち、其の第一を巨勢小石、副として下村晴三郎受持ち、第二教室を橋本先生と副下村、第三教室を川端玉章と岡本勝元と受持つように相成り、第一は多く鎌倉時代より、其の後に行はれたる美術にして、当時に相応せる絵画を教授す。又第二教室は東山より徳川の始めに行はれたる絵画にして、現今に相応セル画を教授す。又次は、徳川の後期に行はれたる絵画にして、現今に相応セル絵画を教授するものなり。
 
 ひと口に申せば、一は古土佐を学びて明治に結びつけ、又二は、雪舟等の如き狩野の如き画を学び合わせて明治に結びつけるなり。又、三は円山応挙の風の画を学びて明治に結びつけると云ふ目的に候。
 
 それ故、十二日までに届けを出す筈に御座候。小生は第二にする積もりにて、天草も二をする積もりとの事にて居りしところ、今日学校にて校長室へ呼ばれ(天草と小生)学校何をする様聞かれし故、第二をすると答へしに、学長の云ふは、第三を学ぶもの少なく、又大いにやろうと云ふもの少なき故意を曲げてはいかんか、小生になる様云ひし故、又小生も元より宜しき事にて前より重い居り、それに小生も思ひ、又校長も意を含んで云ふには、東山は高くしてやりにくく、つまり損と云ふ。
 
 又小生に云ふ、目的は写生をやりて西洋に太刀打ちして劣らぬと云ふ処は元より、日本と云ふ処は、どこまでも固く守り、品格の高きものにて写生を元とす。応挙位ではつまらんけれども杯と云ふ。
 又、応挙は花鳥と山水上手にて人物はそれ程に非ず、小生は人物をやりて非常にせよとの事にて、然し君等は、何れの道よりするとも、過つ様な事はなし、やって見ては如何と云はれし故、小生も元より心をる故、夫れをやらんと覚悟して、どこまでも深く学ぶ積もりなり、先ず考へると云ふて帰れり。


 夫故直ぐ三になる様届けを出す積もりに候。天草君は、第二にして、今の処にては一寸やる積もりなれども、つまりは各別にて今の様の目的となり、小生は一年間故どふでもよい様なものの、一寸一きまりがつくなり。
 又、先を考へても、責任は重けれども、一割は利もあり。何しろ上手の人三四人、後になりて出来る故、其中にて皆同じものにて競争するより、皆異なる長所をして、一方の覇となる方がよく、小生も其の方心に逢う故、是に決定致し候。・・・・・・・云々。

★  ★  ★  ★  ★


 この分期教授制は、岡倉校長の立案であり、この改正の際に特に、春草を呼んで、懇切な注意を与え、第二教室志望だったのを第三教室に変更させたのでした。

 天心は、将来第一と第二は下村観山に任せ、第三は春草に任せるとの展望を持っており、この頃すでに春草の天才にかけていたと言えるでしょう。

 春草は天心の期待を喜んで受け止め、精進を誓うのでした。とにかく、校長からじきじきに、言われたのですから。大変な事です。

 《応挙位ではつまらんけれども》・・・・・・・!!?? 

 応挙が足りないところを俺様がちょっと補ってやろうと思います。とお兄さんに豪語しているのです。このくらいの気概は必要ですね。











posted by 絵師天山 at 05:28| Comment(0) | 菱田春草

2011年05月21日

春草の美校時代  その2

 明治27年 一月、春草は、校友会大会出品作で賞牌を得ます。
“六波羅合戦院の御所焼討の図” という画題の歴史画でした。同期生天草神来も、一等褒状を得て、ライバル同士、お互いに元気。四月、今度は、“鎌倉時代闘牛図”により、賞牌二席を獲得。



IMG_2381.JPG


此の時、下村観山(当時はまだ晴三郎)の描いた“日蓮上人化導ノ図”と、天草神来も受賞。校内では、なかなか熾烈な競争が繰り広げられていたのでした。不思議にも? 大観も確かに居たのですが、どうも、はかばかしい成績ではなかったようです。

実は、学生時代、常に花形であったのは、春草と観山。そこに春草の親友、天草神来が、食い込んで来るといった按配で、年長の大観の出る幕はあまりなく、学生同士の評価も当然、大観には誰もあまり注目しては居ないのです。 

後に、神来は、それほどには注目されないままで、観山は、天心の取立てによって第一人者として自他共に認める存在となり、巨匠と言われた時代もありましたが、現在は知る人も少ないありさま。

春草だけは、常に周囲が認める、プロ中のプロであり続けたまま、早世してしまい、伝説のように語り継がれながら、いよいよ巨匠として、日本を代表する真の日本画家と、されてゆくのです。

その真価を真剣に追い求めたのは、大観その人。大観こそ、春草の真価を一番良く理解し、尊敬し、指標として見習う正直さをもっていたのです。年下の人を尊敬するのが難しい《若さ》をも遥かに超えてしまう素晴らしさを春草が持っていたからでした。

このことは、非常に示唆に富んでいます。普通、男社会のヒガミは、なかなかに強烈で、その為に道理が引っ込む事もあるくらい。皆さんも思い当たる事があろうかと思いますが、才能の世界では、自分を遥かに超えた才能をなかなか認めたくないもの。

はたから見て明らかに上回っていても、その本人はおいそれと自分が劣っている事を認めることが出来ないものであり、これができるのは、私心が無い場合だけです。

つまり、大観先生は、確かに才能では春草にはかなわないが、日本文化の為に、自己の至らざるところを春草を指針とすることで補おうとする《大きさ》があったと言えましょう。

日本国の為に、ワタクシを去ることが出来た。というわけです。さすが、大観先生!!!


 明治27年五月には、分期教授制度が始まる事に決まります。
これは、岡倉校長の発案で、九月の新学期から、絵画科と彫刻科の教授法を改正するものでした。
絵画科を分けて、教室別とし、
 第一教室  鎌倉時代      巨勢小石  下村晴三郎
 第二教室  足利及び江戸前期  橋本雅邦  下村晴三郎
 第三教室  徳川後期      川端玉章  岡本勝元
の三教室とする。 

 此の時岡倉校長は、春草をわざわざ校長室に呼び、春草が、第二教室を希望していたのを、第三教室に変更するよう指示。既に、春草の天才に掛けていた天心は、近い将来、第一第二教室は、下村観山に任せ、第三教室は春草に任せると言う将来展望を持っていたからでした。



六月に春草が兄為吉に送った手紙に詳しく書かれています。

次回に、ご紹介しましょう。

posted by 絵師天山 at 21:20| Comment(5) | 菱田春草

2011年05月20日

春草の美校時代  その1

 明治24年、春草は東京美術学校普通科2年に進級します。18歳。マジで美しい好青年だったようです。そもそも、大観先生も、若かりし頃は、超イケメン。春草も極、極、ハンサムですから、後にアメリカや、ヨーロッパに外遊した時に女性に間違われるくらい美しい色白の好青年だったと思われます。
 

 この年、有名な天心の【日本美術史】が、開講されるのです。天心の八面六臂の大活躍が始まろうとしていました。

 この講義をご存知ですか?日本画を志すものは必見。是非ご一読下さい。
大観も春草もこの講義を熱心に聴講したことでしょう。


 この講義は、当時、世界から見た日本の美術の歴史という観点がまだ無い時代に、それはそれは革新的な視点に立っての、日本美術の概括を網羅的、総括的に高所大所から述べたものであり、日本美術の真価を見事に謳いあげたものであって、現在でも美術界では語り草となっている名講義であります。 

 時に、岡倉校長30歳。


 皆さんは30歳の時何をしましたか? まだ30歳にならないあなたは、これから何をしますか?

 明治時代は、明治天皇による天皇親政によって、日本人がその日本人らしさを最大限に表現できた時代。当然、はっきりした日本人としての自覚の下に、自分と言う個が、公に対して何が出来るか!を、研ぎ澄ませるのが青春そのもの。  ・・・・と言うわけで、どんな人も、明らかに現代人より目覚めた日本人でした。

 勿論不世出の大天才、岡倉天心先生は、その精鋭中の精鋭。


日本美術史の冒頭を少しご紹介しましょう。


★   ★   ★   ★   ★


  日本美術史    
                   岡倉天心    明治24年

  
  序論


世人は歴史を目して過去の事跡を編集したる記録、即ち死物となす。
是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟(ひっきょう)古人の泣きたるところ、古人の笑いたるところは、即ち今人の泣き或いは笑うの源をなす。

往昔吾人の先祖は、三韓を征服し蒙古の大軍を撃破せり。

吾人は当時に生存せざりしと雖も、三韓征伐・蒙古襲来の事蹟は歴然として吾人思想の一部をなし、吉備公及び弘法大師が唐に入りて斎し来たりたる文学、技芸、家康、綱吉が奨励せし近世の文学も亦吾人知識の一部となし、金岡、雪舟の画は吾人が画を作る原素となり、薬師寺の薬師、法隆寺の壁画等に至りては、如何にして之を作りしや、其の方法すらも知る能はざるも、所謂天平式なるものは吾人の脳裡に存在す。

藤原氏盛時の美術は吾人又之を知らず。然れども尚藤原式として吾人を益するあり。若し雪舟、相阿彌(そうあみ) なかりせば、我が邦今日の美術は決して現在の如き有様ならざるべし。推古、天平、藤原、東山、皆吾人思想の一部をなし、始めて吾人あるなり、小学校生徒をして、紋様を描き、唐草を作らしむるも、おのずから外邦に超絶するの趣を有す。是れ即ち古来幾多の変遷を経たる日本美術なる思想は、我が大和民族の頭脳中に存在して然らしむるにあらずや。

美術史を研究するの要、豊富に過去を記するに止まらんや。又、須く未来の美術を作るの素地をなさざるべからず。吾人は即ち未来の美術を作りつつあるなり。顧みれば、迷濛として半ば其の形状を没するの過去あり、前にはショウボウとして際涯を知らざる将来あり。此の両者の間に処して其の任を全うせんとする、亦難き哉。殊に、明治の今日に於ける吾人の責任重且つ大なるや言を俟たず。

諸氏知らずや、学芸、技術、宗教、風俗等、皆其の標準において大変動を生ぜるを。此の時に方りて、美術独り超然として影響を蒙らざるの理あらんや。

現在美術の、過去将来の中間となりて、之を結合するの任重きこと、わが邦のみ独り然るにあらず。
十九世紀は、是れ世界大変動の時期にして、其の原因をなすところのものものす種種なるべきも、主なるものは、唯物論の勢力を得たること是なり。彼の高遠無辺なる空想をもって主とせる宗教にして、尚且つ将に実物的たらんとす。

美術の如きに至りても。亦実物的ならざれば世に容れられず。一に実物に接近して霊妙に遠ざかれる伊太利亜文学の再興以来、此の方向を取りて滔滔として底止する処を知らず、器械的学術の進歩は器械的の思想を進め、その思想は宗教、道徳、にすらも影響して、之が標準をして機械的たらしめ、人の罪を犯すものを罰するに方りても、恰も権衡を以って之を量るがごとく、何々の罪を犯せるが故に罰幾何云々とす。

亦精密なりといふべし。............


tenshin[1].jpg
 天心先生像


★   ★   ★   ★   ★



 明治25年、11月には、美校規則が改正され、普通科を予備課程と改称して年限を1年とし、専修科を廃して絵画、彫刻、美術工芸、の本科を置き、年限を4年としたので、春草は絵画科の本科2年に編入されました。

 次いで、明治26年春草は、絵画科本科3年に進級。秋江(しゅうこう)と言う雅号を用いています。此の頃が、狩野派の末裔、橋本雅邦の影響が最も強く出ている頃。直接の担任の先生ですから当然で、年齢も離れていて、春草にとって安心して学べる師匠であったのだろうと思われます。

とにかく筆技を学ぶ日々でありました。






posted by 絵師天山 at 10:26| Comment(0) | 菱田春草

2011年05月18日

春草入学時代の美術学校

 東京美術学校は、明治天皇による親政の余慶により、明治22年設立されました。

 長野県飯田に生まれ、上京して日本画を本格的に学ぶ身となった春草は、兄為吉の援助で、まず
結城正明の門下生となり、次いで、明治23年9月、17歳で、美校に入学します。


IMG_1965.JPG




IMG_2603.JPG




 41名の同窓生と共に、大観の一級下。10月に岡倉天心が校長に就任。 このとき天心は29歳でした。教授陣は橋本雅邦、結城正明、狩野友信、川端玉章、川崎千虎、巨勢小石、等が、絵画を担当しました。

 開校当時の美術学校は、絵画、彫刻、美術工芸、がありまず、普通科で2年、臨画、写生、造形、用器画法、などの基礎の後、3科に分かれ、それぞれ専修科で、3年の学習規定がありました。

 大観の手記による当時の授業内容は、懸腕直筆(けんわんちょくひつ)なる、筆による線描きの修練が、延々と続き、退屈の極みと感じられるころに、粉本の写しに移行し、少しは興味が湧いてくると言ったものだったそうです。天心とフェノロサとで考え出された新しい教育法であったのでしょう。 春草も似たような授業ではなかったかと思われます。

フェノロサは、明治23年7月に帰国してしまったので、春草は直接学ぶ事はありませんでした。
また。兄為吉も熊本に赴任して行った為に、兄と暮らした住居も移転。同級生天草友雄と親交を深め、一緒に同居したりしていたそうです。

 この親友、天草友雄は、後に春草の卒業制作の大きなモチベーションを提供した人で、好敵手でありました。神来(しんらい)と号し、熊本の出身で、卒業後は、美校助教授ともなり、韓国へ渡って、李王家の為に壁画を描いたりして活躍しています。

 
 
 懸腕直筆(けんわんちょくひつ)というのは、まず、大きな紙に縦に筆で直線を引く。例えば5ミリくらいの幅の線ならば、その幅を違えずに、一メートルくらいの長さの縦の直線を描く。次いで、その隣にもうう一本同じ幅の直線をまた、一メートル縦に描く・・・・。ずーと、大きな紙が、真っ黒になる位直線を引き続ける。同じ幅、同じ長さ同じ間隔で・・・。

 それが上手くなったら、今度は横線。それが上手くなったら、もっと細い直線を縦、横に・・。
それが出来るようになったら、今度は小曲線を、それが出来たら大きな円をおなじ太さの線で一気にフリーハンドで引く・・・・・・。

 つまり、線をどれだけ正確に思いどうり引けるかという修練。

 年賀状を筆で書くとわかりますが、筆で描くのが難しいのは曲線。小さくとも円が難しい。もっとも、一メートルの長さの線を描くのも相当難しいですが・・・・。

 つまり、筆力による作画を実現させるための修行をまず始めに課したのでしょう。

 むごいくらい大変な課題ですが、しかし、基礎授業としてこれは、良い!

即戦力になります。今だって、これくらいのことを大学ならさせるべきだと筆者は想いますが、いかんせん、教えられる先生がいないんです。

今現在、一メートルの同じ幅の直線を一気に描ける人は、筆者を含めて、数えるほど僅かしかいないでしょう・・・・・。

今の大学の先生は、職業的な先生であって、画家ではない方が殆どですから、絵の事は知らない絵の先生ばかり。勿論線なんて引く必要もアリマセン。

日本画がなくなるわけですね。







次回に続きます。



posted by 絵師天山 at 23:42| Comment(5) | 菱田春草

2011年05月10日

極上の春草展  蓬莱山(ほうらいさん)

 この世の理想郷。世界から見た日本?

蓬莱というイメージは、普くすべての人々が無意識のうちであれ持っている観念ではないでしょうか?この御目出度い画題で、春草も名作を残しています。



IMG_2406.JPG


IMG_2407.JPG



IMG_2511.JPG





IMG_2531.JPG





IMG_2536.JPG




IMG_2561.JPG





IMG_2562.JPG




宋元時代の絵画を規範とした時代があったおかげで、シナ風の描き方が礼賛される面があるのは仕方のない事かもしれませんが、この連作の春草は、“山水画”と呼ばれるようなジャンルから遥かに超えてしまっていて、どこにも支那風を感じさせません。この点大観と良く似ています。

支那風が、少しでも入るとシナ下る?事を二人は良く知っていました。もう一つ、宗教臭さ、も又、排除されるべき要素であります。 日本そのものの良さを、そのまま出せば、世界に通用する事を良く知っていたのです。

むしろ、日本らしさに徹底しなければ、絵を描く意味すらない事を実に良くわきまえていたのであります。

現代の画家が、忘れてしまっているのはこのあたり。

蓬莱山は、ユートピア。一説にシナから観た日本のことであって、仙境を例えたもの。

 ライフイズ ビューティフル!?

 命を与えられた事をしみじみ幸福として受け止められる世界。

 見えていても決してたどり着けない仙境、を春草が、現実のものとして、我々に提示してくれているようです。

ちょっと画面が小さくて・・・・・、鶴が飛んでいるのを確認できるでしょうか? 遥か、おおらかに、のどかに鶴が、舞うように大空に飛んでいます。建物のなかには、満ち足りた気持ちの人々が・・・・。



 クリックしてみて下さい。




posted by 絵師天山 at 00:13| Comment(0) | 菱田春草

2011年05月01日

極上の春草展 ホンモノのセレブリティーが、ここに

 庭の生垣に、キジバトが巣をかけて、卵を抱いています。
紅カナメという、春の新芽時に赤い新葉が出て、伸びがいいので、近来の住宅事情に合わせて盛んに
生垣に利用されるようになった樹です。

 例年同じようなところに巣を作っては雛が、孵ってきたのですが、昨年は、抱卵中にカラスにいたずらされて、卵は巣から落ちて、断念。かわいそうなことをしてしまいました。

 このあたりのキジバトは人に慣れており、相当近づいても逃げません。特にこのキジバト夫婦は、家が気に入ったらしいのです。同じツガイかどうか?正確なところは分かりませんが、ともかく初夏の風物史と言った趣で、期待させてくれ、なかなか良い物であります。


 大天才、菱田春草の作品にも、ハトは登場しています。様々な種類のハトですが、実にハトらしいツガイなので、ご紹介しましょう。




  “老松双鳩”



IMG_2420(1).JPG


IMG_2423.JPG


  穏やかさを、眠りそうになってる鳩によって表し、普遍性を松の表現に見出す事ができます。



“鳩”


IMG_2421.JPG



IMG_2422.JPG

 同じく松の根元に集う、三羽のグループ。




“温麗”



IMG_2417.JPG

 躑躅ですね。

IMG_2418.JPG





“紅葉鳩”


IMG_2424.JPG


IMG_2425.JPG




“梨に双鳩”


IMG_2385.JPG




IMG_2386.JPG

この作品が初期のころ。おそらく、鳩を描いた第一作目ではないでしょうか。















タグ: 老松 躑躅
posted by 絵師天山 at 16:46| Comment(5) | 菱田春草

2011年04月30日

極上の春草展 続き

  もう少し船にまつわる作品を観てみましょう。

“渡船”


IMG_2487.JPG


同、部分

IMG_2488.JPG


 渡し舟の穏やかな日常感をかもし出す事をねらっています。乗客をはさんで、船頭と船子と、対照的に描いて、シルエットのシンメトリーを崩して、僅かな動きを感じさせ、静の中の動による、生き生き感を求めようとしています。背後の黒木が霞んで、仄かに暖かい空と実に良く調和しているではアリマセンか。



“釣帰”

IMG_2411.JPG


同、部分


IMG_2412.JPG

沢山つれたんでしょうか? さりげない、普段の淡々とした生活のリズムが深く感じられるんです。



“晩渡”


IMG_2474.JPG


同、部分


IMG_2475(2).JPG



“雨後帰漁”


IMG_2477.JPG


IMG_2478.JPG

緑いっぱい。湿潤な空気感が、たまりませんね。



“湖上釣舟”


IMG_2409.JPG

二つ折りの屏風作。





いずれも、拡大できます。







posted by 絵師天山 at 21:27| Comment(4) | 菱田春草