東京美術学校を卒業した菱田春草は、岡倉天心校長に特別なる期待をされていたものの、兄からの仕送りも絶え、画家として立つにはあまりにも若すぎました。ちゃんとした職は、小学校の絵の先生くらい。大天才春草にはちょっと向いてはいませんね。
明治天皇の勅命で開校された東京美術学校を優等で卒業した第二期生でありますから、おおいに嘱望されていたとは言え、その期待に相応しいポジションが、まだ存在していなかったのです。
そこで、経営手腕に長けた岡倉校長は、春草や、当時期待していた人材をより高めるべく次なる手を打ち始めます。
天心は、当時校長と同時に帝国博物館理事を兼任、同館美術部長の職にあり、古画の模写を委嘱する、ということで春草等優秀な美校卒業生に仕事を与えました。
春草、大観など、抜てきされた人にとってこれは実に効果的。
学びながらいくばくかの糧にもなる。
良く言われる言葉、“お金を貰って勉強できるのがプロ!” プロ、アマ、の差を指した名言ですね。
天心は将来の日本美術を見通して、こうでなければならん、こうあらねば、と、企図したことを直ちに実行に移す行動力と手腕と信念に基ずく明晰な頭脳を持っていたのです。経営の大天才、としての天心の本領が発揮されつつありました。
しかも、時は、明治大帝の御世。日本国が日本らしく世界にその存在を示しつつある、といういわば、上り坂。上げ潮、の時代でもありました。国民一般が世界の中の日本国家と言う意識を持ち始めていた時代です。
春草は、ともかくも、古画の模写を若い時に出来るという非常なる幸運を得たのです。
若い内に一流の作家の足跡を肌で味わう事の大切さは言うまでもありません。天才なればこそ、天才を知る。
日本青年絵画協会から、寺崎広業、小堀鞆音、など。
美校卒業生から、横山大観、下村観山、西郷孤月、天草神来、菱田春草、など。
明治29年正月、春草は、観山、神来、等と共に、高野山に登り、古画の模写jに従事しました。
そのときの春草による模写が今に伝わっています。(伝、珍海作、文殊図)、修行僧たちと共に寝起きし、深い山懐で、沈黙の修行を積んだことでしょう。実に良い勉強です。
明治29年3月、天心は美校出身者を世に出すために、彼等を、日本青年絵画協会に入会させると共に、会名を日本絵画協会とお改め、会頭に公爵二条基弘を推し、自身は副会頭になって実権を掌握。
日本青年絵画協会は、既に4回の共進会を開いて実績を収めて来ましたが、この年9月。日本絵画協会第一回共進会が開かれました。
この共進会は、@東洋画法を維持するもの。A西洋の様式に基づくもの。B従来画法に拘わらず新たに開発を計ろうとするもの。三部組織にわけられていました。
つまり、@は、日本美術協会に属する保守的作家の参加を求め、Aは、黒田清輝、久米圭一郎等が組織した日本絵画協会の参加を求め、Bは、元の青年絵画協会会員と美校卒業生とを参加させたのです。 当時のめぼしい作家を糾合し、ソコヘ自分が育てた美校卒業生を組み入れたと言う訳。
実に、素晴らしい手腕ですね。新旧の切磋琢磨が期せずして興るという図式です。
この共進会に春草は、初めて【春草】の雅号を名乗ります。
行くところ可ならざるなき、大天才の華々しい門出といえましょう。
「四季山水」 4点を出品。銅杯第四席を獲得。
菱田春草、若干23歳。プロデビュー戦を飾りました。
まだ、橋本雅邦先生の訓育による狩野派風の作柄ですが、柔らかな春草らしい、味わいが既に胚胎されています。
この時、同時に出品された、小堀鞆音作、「経正詣竹生島図」も受賞しましたが、今でも、この作品はおおいに認められており高い完成度は、鞆音画伯の代表作、とされています。
![EP003950[1].jpg](http://nihongaka.sakura.ne.jp/sblo_files/tenzan/image/EP0039505B15D-thumbnail2.jpg)
正統派、武者絵の第一人者。小堀鞆音画伯らしい、実に端正な作品です。平経正(たいらのつねまさ)とは、平清盛の甥。
平家の公達の一人であり、琵琶の名手でもありました。仁和寺から賜った名器【青山】をかき鳴らし、和歌にも堪能で、一の谷の合戦で戦士します。
いかに大天才とは言え、春草の作品はまだまだ若く、本領発揮はこれから、大活躍の予兆に過ぎませんでした。
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