2014年11月16日

魅惑の菱田春草 L 続、究極の癒し 【早春】



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この六曲一双の金屏風【早春】こそ菱田春草の絶筆・・・とされています。
明治44年3月の制作。


ずっと若い時にごく短期間『秋江』と号した時があり、転じて『春草』銘にしてからは文字通りしなやかな萌芽そのものの様な命の精妙さ・・・生命の神秘さえ描きつくし、最後に【早春】で幕を閉じることに・・・

厳密に言うと雀の掛け軸【梅に雀】の図が小品としての絶筆であり、知人に贈った菊の扇が44年8月の作で、これがホントの絶筆であるとも言われていますが。

正真正銘精魂傾けて取り組んだ最後の大作はこの【早春】

前回 “魅惑の菱田春草 K 究極の癒し【雀に鴉】”でも語りましたが、死を目前にしてこその本領が発揮され、それ故に溢れんばかりの滋味がコンコンと湧き出でるが如し・・・ 

何でもないごく極アリフレタ景・・・
背景の金地が豪華ではあるけれど、・・・


何もこんな豪華な金地に八つ手や南天などありふれた植物なんか描かなくとも、ボタンとか桜とか描いてくれたらよさそうなものなのに・・・・


豪華絢爛たる金地にごくツマラナイもの?を並べたが故に魅せられる・・
・・つまり、平凡と非凡との取り合わせなんですね。


見事なる設定の妙・・・・・・!

こういう事はなかなか思いつかない。

現代でも絹地の金屏風六曲一双を仕立ててもらうと・・・数百万円の経費がかかる。

春草は生涯貧乏絵描きの域を出なかったけれど、材料をケチる事はまずありませんでした。何とか工面して思う存分の制作に勤めた。

一流の絵師でも金屏風に描けるのは滅多にない機会ですから、そんなチャンスに、しかも死にそうなのに・・・ボタンでもなく桜でもなく・・・・
ヤツデとナンテン・・・・!!??

これは出来そうで出来ない事ですよ・・・・
それほど決死の作画だった・・・・・


私も自分で屏風仕立てを金地にして描いたことがありますが、・・・残念、桜でしたね。
考えが浅い・・・・のです。
金屏風には、誰もが喜ぶような画題で描けば売れやすくなって高い材料費の元が取りやすい・・・なんていう(私みたいな?)娑婆っ気は、大天才にはゴザイマセン!!!


もうこれで最後だと言う並々ならぬ決意はこのことからもワカル!

ありふれた題材で尚且つ、“非凡”を極めてやろう!!という決心が伝わって参ります。

国立近代美術館で最後のコーナーに飾られていましたね・・・
良く観ると、屏風に傷んだところがあって・・・修復されると良いんですが
・・・惜しまれます



屏風制作は表具師に仕立ててもらったモノに描く場合と、パネルにして描いたモノをあとから屏風に仕立ててもらう場合とあり、コチラは前者。

絵絹に金箔を貼る訳ですが、箔と箔とのつなぎ目が見えないように貼る場合と、つなぎ目が重なって見えるように貼る場合があり、コチラも前者。

金箔も一度張っただけではコクが出ないので、
二度貼り、三度貼り、・・・貼る回数が多いほど深みがでて豪華さが増す・・・・江戸時代の金箔は機械で作らず、職人の手仕事で出来ていたから、現代の金箔よりも相当な厚手・・・・だから現代の金箔は薄すぎて、一枚貼り・・・くらいでは大して美しくないのです。

もう、残りわずかであろうと思いますが、明治以前に作られた金屏風が遺されていれば、それは、大変な価値がある。・・勿論、下手な絵なんか描いてあったら、却って無価値ですけれど・・・・

春草のこの作品は相当立派な絹地の金屏風であり・・・今これと同じものを注文制作してもらうと500万円でも足りない?かもしれません・・・・


       

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そんな、金銭価値云々など、全く思いつかない・・・
暖かな癒しが感じられる・・・・

画面から醸し出されるものは・・・人類愛とでもいえるような崇高さ、
すましこんでいるだけの高さではなくて、誰にとっても、難しくない、ただただ優しい・・・と言う高さ・・・・・



一番癒してもらいたいのは、目が見えなくなる恐怖に晒されていた絵師・・・であり、明日をも知れない命の灯が消えてしまいそうな若者、・・・・
・・・春草自身である筈なのに・・・・

この作品はスズメと鴉の屏風にも増して滋味が溢れ出して来る・・・その不思議!!





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八つ手も南天も、その全ての葉はコチラを向いている事に気付きませんか?
現実には横を向いた葉、・・・があれば、斜めに生えてる葉もある・・・が、僅かな裏葉以外は、殆ど正面に向いた葉として描くと・・・
三次元を二次元に置き換えるとき、“見たまま”では三次元に敵わない、でも、誇張と省略を加え、反対の性質を上手く結合してやることで、三次元よりも深い感情を伝えられるようになる・・・これは日本画ならではの、造形法なんですね。








posted by 絵師天山 at 15:00| Comment(1) | 菱田春草

2014年11月02日

魅惑の菱田春草 K 究極の癒し 【雀に鴉】


【雀に鴉】

明治43年作
六曲一双屏風
第10回巽画会絵画展覧会出品 
2等銀賞第1席、宮内庁買い上げ





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  左隻


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     右隻
  



明治天皇様が春草をお好きであられた事は有名で、
巷の人々はまだ春草の真価が分からず、
朦朧派のお兄さん・・
くらいにしか意識もしていない折、
既に、明治天皇は各所で開かれる展覧会に於いて
春草の真価を明確に享受されておられ、
御気に入られて度々お買い上げになられました。


春草は明治44年9月、満37歳の誕生日を前にして他界、
明治天皇は翌明治45年7月に崩御されましたので
晩年を同時に過ごしていたことになります。


が、明治大帝は

先立った春草の才能を惜しみ、
遺族に弔意を表し、さらに数点の遺作をお買い上げになって
後、その為に春草作品の値が暴騰したのですが、
春草本人はそのような栄誉にあずかったことも知らず
ホントに苦しみの中で他界してしまうのです。


目が見えなくなって
命まで危ぶまれてから・・それこそ必死の制作に
体調と相談しながら明け暮れてきた訳ですから、

誰でもそうであるように、人の痛みを
痛切に体感しながらの制作であったことでしょう。


それゆえに・・・・・晩年の傑作には、
抜き差しならないぎりぎりのバランスを保ちながら・・
も、・・・しみじみとした哀惜
深々とした思いやり・・・といったものが
強く感じられます。

この【雀に鴉】はその典型。

御在位45年の間殆ど未曽有の歴史の波に翻弄され
日本が国としてのぎりぎりの瀬戸際まで押しやられ
国家存亡という文字通りの苦難を御体験され
堂々とそれを乗り越えられた明治大帝の
晩年の御心には・・・・
平安、安らぎ、安寧・・・を
御求めになるお気持ちが強かった事でありましょう


“四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ”

この御製の大御心のまま、
しかし、
御日常にはせめて、平穏な日々を求めておられた、
に違いないのです。


この【雀に鴉】の屏風を座右に飾って居られたことに
そのような御心のあり様も拝察されて参ります。

写真では明確には出ていませんが
背景には仄明るい茜色が施されており

実際に肉眼で見なければ分らない程度の
控え目な茜彩色が、ごくありふれた日常の景を彩っています。

カラスにスズメ・・・
ボタンや富士山ではなく、六曲の屏風として
相当な大作に、枯れ木・・すずめ・・からす・・
いわばマイナーなるモチーフを持って来て
その背景にアカネをほんの僅かに添える非凡さ・・・


絶句してしまうほどの名作が
明治大帝のお手元に寄せられていたのでした。








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posted by 絵師天山 at 11:51| Comment(4) | 菱田春草

2014年10月12日

魅惑の菱田春草 J 王昭君(おうしょうくん)


  
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【王昭君】 明治35年作  168×370p  
重要文化財



シナ・前漢の元帝王のころ、
当時蛮族とされていた匈奴の王へ、
貢物として後宮から女性を差し出すに当たり
肖像画によって選ぶことになりました。

殆どの後宮の女性たちは絵師に賄賂を握らせ、
選ばれぬよう、自分を醜く描いてもらったのに・・
心清らかなる王昭君は・・・
絵師にワイロを出さなかった
結果・・・美しい王昭君が選ばれる。

元帝は驚いて策を講じたが後の祭り・・
王昭君は敵国に嫁すこととなります。

美しいばかりでなく心優しい王昭君を送り出す、
その愁嘆場がこの名品。



ディテールをご覧ください




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線を使わないで表現してみよう、というのがこの作品を描いた当時の春草の考えでありました。
結局、線を使わず
日本画の良さも失わずに
立派な絵が描けることを立証したのですが、
その実験的作品の代表がこの名作です。


菱田春草若干27歳。
第7回日本美術院連合絵画共進会に出品、
銀杯第一席を受けました。

共進会というのは、今で言う展覧会みたいな表現。
デパートや画廊などはまだありませんし、
美術館らしいものも・・・まだ・・
やっとこさ大きな会場を借りて、
美術展覧会=共進会、が流行り始めた頃の事です。
個人では大きな展覧会は開けないが、共に歩みましょう、
という意味から、当時は・・・
「共同展覧会」というスタイルだったのです。

銀杯一席・・・というのは、
金じゃないけれど、堂々のグランプリ!
金杯というのは事実上“あり得ない”ので、
・・・つまり最高賞!!!。


旧態依然たる絵画の世界に大きな一石を投じたことは間違いありません。

絵画の世界だけが旧態依然としていたのではなく、
嘉永6年ペリー来航以来、
白人世界からの侵略がアカラサマになり、
・・・旧態依然たる日本も大切な日本の真実の姿でありましたが、
否応ない洋化は、
日本を根幹から変えようとしていたのです。


そのような時代背景の中で、
色彩を以って無線での作画を見事成立させたこの名作には
皆が、度肝を抜かれた・・・

高い評価を与えられたのでした。


美しいと言う事に限界はないんだな、と・・・
無線だから、とか
色彩の特殊なる解釈だから、とか
この絵の美しさの拠ってくる理由までは分らない人が大半であった事と思いますが、・・・
とにかく美しい!
美しさには絶対ということもないけれど
誰もが、ホントに・・・・掛け値なく
素直に美しい!と感じたに違いないのです。


その評価は今なお高まっています。




ちょうど、この年、長男春夫が生まれました。
縁側で春夫を抱く春草のポートレイトが遺されています。
大名人春草も家庭においては父、微笑ましいスナップです。



          

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王昭君のクローズアップを観てみましょう、
線は全くありません。
その代りに明暗が施されていて
僅かな立体感が生まれて、
線での説明の代わりに、明暗での説明が成されている。

つまり、絵画は説明・・・
何が描かれているか、は重要で、

写実がある程度必要。

だが、写実=物の説明、が過ぎると
夢は、消えて・・なくなってゆく、・・・
ファンタジーを保つには、説明を抑えて、曖昧にし、
観る者に補わせる・・・という手法が欠かせない。

それこそが日本画の魅力だからです。

従来の日本画は、その手法の大切な部分を担っていたのが『線』だった・・
それを、
春草は無くしてみた・・・・訳です。

それでいて、ミケランジェロみたいな下卑た写実的説明の為の明暗画方式は採らずに、
仄かなヴァルールの変化だけで『線』の代わりをさせしめた、のでありました。

いわば、従来の日本画をベースにしているが、
従来の価値観をグンと、段違いに越え、しかも、
洋画などのクダラン影響にはけっして左右されてはいないのです。


ルネッサンスこそ文化の発祥であり、
ミケランジェロが世界的大天才であるという教育をたたき込まれた人ほど
あのギリギリと歯噛み(はがみ)するような立体感に圧倒されてしまい、
それが、美しい?か、どうか?
の判断が出来ない様にされていますが・・・


システィナ礼拝堂天井画は、
誰もがびっくりするけれど・・・
決して美しくはありません。美と驚きとは別物・・・・
いい加減それに気付かないと・・・ネ

だが、・・・・


この王昭君を見れば誰でも美しいと感じる。

明暗の差をなくすことで、
厭味なまでの『立体感』という説明を最小限に抑えたことで
ホンモノの『美観』を生み出しているのです。

立体感=美観、・・・であろう筈がありません。



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さらに・・・

愁嘆場の悲哀、が画面全体から感じられるのは、
単に、顔つきが悲しそうであるから、だけではなく
実は大きな仕掛けが施されているからです。

それは色彩にある。

背景は大まかに言って黄色の対比で構成されています。
地面が黒系、で空間が黄色系、・・・
御存じのように、踏切のバー、の様に
視覚的に危険を知らせるには
黄色とを五分五分に表示するのが
最も効果的、
これは洋の東西を問わず、老若男女を問わず、
世界中全ての人間に通用する色彩の組み合わせ!

つまりこれほどびっくりする色の組み合わせは他にない。

王昭君の愁嘆場の舞台設定はこの組み合わせの応用が用いられている。

さらに、
王昭君始め、後宮の美女達は、寒色と暖色との拮抗で描かれている事にご注目下さい。
寒色にせよ、暖色にせよ、
どちらかが多いか少ないかで、様々な感情を伝え易くなるもので、
暖色が多ければ、優しいとか柔らかいとか・・思うし
寒色が多ければ、厳しいとか堅いとか・・感じるものなのです。

つまり、寒色と暖色とがほぼ五分五分で組み合わされていると
観る者は、混乱した感情が湧く。

大天才菱田春草はこれを利用している。

観る者がどちらともつかない、
不安な感じを抱く・・・様に・・・
寒色と暖色とを戦わせる・・・・
愁嘆場を伝えるにこれほど合致した手法は他にない



こういうのは、
日本画のみに存在する価値観なんですね。




ジジイ化してゆく己を毎年・・
飽くこともなく描き続けたレンブラントも

エイリアンが人間精神を支配するが如き
レオナルドの蠱惑的(こわくてき)写実も・・

明暗のコントラストだけしか眼中になかった
ミケランジェロの立体オタクも

実は・・・・・

残念・・・

春草に比べたら【お絵かき】にも値しません。




         ★




    菱田春草展

会期  2014年9月23日(火・祝)〜11月3日(月・祝)

会場  東京国立近代美術館
    (〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3-1)
     http://www.momat.go.jp/

開館時間  午前10時〜午後5時(毎週金曜日は午後8時まで)
       *入場は閉館の30分前まで

休館日  毎週月曜日(ただし10/13、11/3は開館)、10/14(火)

主催  東京国立近代美術館、日本経済新聞社、NHK、NHKプロモーション

協賛  損保ジャパン日本興亜、大伸社

協力  旭硝子

助成  公益財団法人ポーラ美術振興財団

お問合せ  03-5777-8600(ハローダイヤル)





posted by 絵師天山 at 15:00| Comment(3) | 菱田春草

2014年10月11日

魅惑の春草 I 月を描く


大名人春草は月を描かせても勿論超一流!

世に、
“雪月花”(せつげっか)とか
“月雪花”(つきゆきはな)・・・とかいって
この三つの内一つでもモノに出来れば、
一流の画家、とされる。

雪が描けるか?・・・とは
雪の降る音が描けるかと言うことであり、

月が描けると言うのは、
月光を顕せるか?であり

花が描けると言うのは、
その香りを描ける・・・こと・・・

ハハーン、絶対無理!
と思っているアナタ、
春草はそのどれも容易に達成しています。
しかも、さしたる苦労はしていない。
様に見える・・・
苦労が覗く作画では、決して快味は得られないから・・・

観て心地よいのが絵画の魅力であり、
理屈とか、努力とか・・
まして苦労なんか出てはならないのです。
先入観など何もなしで、思わず魅せられる!
のが、ホンモノ!!



コチラは・・・【美人観菊】明治34年作 134×54p


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元禄時代くらいの女性をテーマに、秋の爽やかな空気を描いて、あたかも月の光を浴びているよう・・・
必ずしも月光があるとは言い切れないけれど、日中の日差しとはとても思えない風情・・
月を描かずして月光を感じさせている・・・・


コチラは、【仏御前】 明治39年作 117×48p





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画面左上に半月が、かそけくも・・・描かれており
弱い光芒を感じさせて、
やはりこれも黄昏・・とか・・・月が出てきた夕刻の気配
平清盛に寵愛され、
同じように寵愛を受けた妓王と妓女姉妹の白拍子は
誠に儚く没落してしまった事を知り
諸行無常を悟って姉妹の侘びた庵へ向かうのが、
このシーン。・・・・仏御前。
彼女もやはり都で騒がれ持て囃された人気白拍子でした。 
 





次いでコチラは、【月の出】明治41年作 107×41p





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月がテーマなのに月はナシ!
これから出てくる月を描いた・・・
紫がかった樹木に覆われた山嶺・・
小滝の姿だけが僅かに浮かび上がります。
クリックして拡大してください、
図録からの映像ですから、臨場感は大いに不足していますが
鎮けさ・・・荘厳さ、
かそけき光が、光芒に移るその間際・・・
素晴らしい創意と見事な技
≪思わず魅せられる≫、とは正にこの事であります・・・

いったい・・・・・
これから出てくる月・・なんか描けます??
             




さらにコチラは、【月夜清波】 明治40年作 117×49p






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海上に浮かぶ、雲隠れのお月さま・・・
雲の向こうの光芒を冴え冴えと表わすために
美しい灰色がごくごく微細な変化を留めて彩色されています。
その為に海の緑と月の白とがまるで宝石の様に輝いている・・・
雲と波とが連動する動きの中に溶け込んで、
いつまでも観ていたい・・・・



海上の月は他にも何点かあり、
コチラは、【月下波】 明治40年作 116×50p






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岩礁と千鳥を配して、
月の光も幾分温かい感じ
月光を楽しむが如く、
あたりの景物が登場しております。




雁が登場すると
コチラは、【月下雁】 明治40年 104×41p





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   【月下の雁】 明治40年作 104×40p




描いているのは、雁だろうけれど、
テーマは月の光・・・・・
月明かりが描ければ、あとはもう何でも描ける。

春草に与えられた天才は、実に実に・・・
広くて深いのです・・・
この御方に一歩でも近づくことが
現代の絵師の目標!
・・・・でなくてはなりません。

クダランものに囚われて・・
真を捉える事・・・
一番大切な事を忘れてはならないのです。
どこぞの亜流に流されている場合じゃあないんです!!

日本画を目指している人は
どんな事があっても、
この春草展だけは観なくては!

それ以上に大切なことは、今、何もない・・・・・のです・・・・


          





菱田春草展

会期  2014年9月23日(火・祝)〜11月3日(月・祝)

会場  東京国立近代美術館
    (〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3-1)
     http://www.momat.go.jp/

開館時間  午前10時〜午後5時(毎週金曜日は午後8時まで)
       *入場は閉館の30分前まで

休館日  毎週月曜日(ただし10/13、11/3は開館)、10/14(火)

主催  東京国立近代美術館、日本経済新聞社、NHK、NHKプロモーション

協賛  損保ジャパン日本興亜、大伸社

協力  旭硝子

助成  公益財団法人ポーラ美術振興財団

お問合せ  03-5777-8600(ハローダイヤル)





posted by 絵師天山 at 16:00| Comment(0) | 菱田春草

2014年09月22日

魅惑の春草 H 秋野美人 

いよいよ春草展が始まります!

今年最高の文化催事はこれ!!!

日本文化ここに極まる展示・・・・
私は、初日、朝から行ってきます。


コチラは・・・・


【秋の夜美人】   明治39年作  横山大観記念館所蔵




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ちょうど、今頃の気配でしょうか・・・秋の夜長を過ごす和服美女・・・

左上のお月さまは、満月を通り過ごした、立待月・・・・

足元、周囲は萱、薄、女郎花・・・
僅かに月の光に照らされていますが、
佇む美女を引き立てるかのように・・・地味。

この作品は若干36歳で早世した春草のかけがえのない思い出として
盟友横山大観が、終生手放さなかった名品。

現在も大観記念館を飾る収蔵品の一つであります。

肩から背中への直線が、反対側の胸元から腕、裾への曲線と良く対比しており、
胸元、袖口、に覗く紅白の市松模様が鮮烈。

帯は藍色にさくら模様、浅黄色の呂か紗か・・・内着の模様が透けて
御彼岸頃の澄み切った夜長を心地よく演出しています。


虫の声が聞こえてきますか?

贅沢な余白があることで余韻が深く、気配さえ感じてしまう・・・

昨今ありがちな露悪趣味満載の描写しまくり似非絵画など
はるか彼方へ蹴散らしてくれるのであります!!!


暖色と寒色、曲線と直線、明と暗・・・・
反対の性質の昇華された結合によって、
要らざる説明を排除し、
面白いものだけをクローズアップ、
観者に快味だけ伝える力量。

院展現在の悪趣味的写実主義をあざ笑うがごとき・・・
当然こうで有るべき絵画・・・
なのであります。

日本的造形は和食と同じ。
うま味をいかに抽出して、いかに絶好のタイミングで提供し得るか!

そこに尽きる。

その典型が、菱田春草の作品群なんです。


後に春草よりも有名になった巨匠、大観も脱帽していた大天才です。




菱田春草展

会期  2014年9月23日(火・祝)〜11月3日(月・祝)

会場  東京国立近代美術館
    (〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3-1)
     http://www.momat.go.jp/

開館時間  午前10時〜午後5時(毎週金曜日は午後8時まで)
       *入場は閉館の30分前まで

休館日  毎週月曜日(ただし10/13、11/3は開館)、10/14(火)

主催  東京国立近代美術館、日本経済新聞社、NHK、NHKプロモーション

協賛  損保ジャパン日本興亜、大伸社

協力  旭硝子

助成  公益財団法人ポーラ美術振興財団

お問合せ  03-5777-8600(ハローダイヤル)




posted by 絵師天山 at 05:31| Comment(5) | 菱田春草

2014年08月26日

魅惑の春草 G 六歌仙


六歌仙(ろっかせん)とは・・・・
『古今和歌集』の序文のひとつ「仮名序」において、
紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として挙げた6人の歌人の総称です。


僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
在原業平(ありわらのなりひら)
文屋康秀(ぶんやのやすひで)
喜撰法師(きせんほうし)
小野小町(おののこまち)
大友黒主(おおとものくろぬし)


既に超一流、当代随一!と、定評のあった紀貫之さま・・・
・・・・が選んだ・・・・ビッグ6、の歌人。



そして、

若干24歳の菱田春草が描いたのはコチラ





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       【六歌仙】 二曲一双   明治32年作

             日本美術院横浜絵画共進会出品







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小野小町は紅一点だから間違えようがなく、

在原業平も高位高官だから、装束ではっきりしており、

大友黒主、文屋康秀、もわかりましょう・・・が、

僧正遍昭と喜撰法師の区別が分かりにくい???


部分図を良くご覧になると、

線描は残っているが、線を無くしてしまいたい意図が感じられます。

無線への願望がよく表れている作品で
後に・・・


終いには、ホントに無線になってゆく・・・・
そして又、線に回帰してゆく・・・・




それにしても、凄い・・・

春草若干24歳



posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 菱田春草

2014年08月19日

菱田春草展近づく!


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 僕の名は黒き猫。

 近代日本画史上、最も有名な黒猫らしい・・・

 僕は明治時代の日本画家・菱田春草の筆から生まれた。

 この天才は、ぼくをわずか数日で描き上げたのだそうだ。

 しかし、彼はその一年後、数々の名作をのこしつつも

 36歳の若さで早世しているから、人生はわからないな。

 そんなドラマチックな生涯を送った、わが主人の回顧展が

 間もなく開催されるらしい。勿論僕も出演する。

 偶然目があったあなたにこそ、ぜひ、遊びにきてほしい。

 今年の秋、東京国立近代美術館の

 「菱田春草展」で、会おう。

 

  2014、9月23日〜11月3日

    東京国立近代美術館
   



  今年の展覧会のハイライトが近づきました!!!!




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これを見逃す手はありません!!!!






posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(1) | 菱田春草

2014年07月12日

魅惑の春草 F 息子の手記


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 父・春草の思い出      

菱田春夫 
(春草の長男、後に日本美術院初代事務局長として活躍)




父春草の没しましたのは、私の10歳のときで、なんとしても遊び盛りの子供だったので、病気のことにしても、絵のことにしても、

改まって申しますほどのことは記憶して居りません。

いったん移った五浦から再び出てまいりまして、代々木に居を定めましたのは、私の7歳の時でした。それは眼病の治療のためであったので、

母などはずいぶん心配だったろうと思いますが、私としては、何が何やら、いっこうに平気だったのでした。

静養の結果は、視力も体力も何ほどずつなりとも回復しましたので、だんだん少しずつ絵もかきますようになりましたが、

あまり外出もせず、気なりの執筆のようでした。

以前は、かなり酒量もあったように聞きましたが、これも私が覚えてからは、全然杯を手にいたしませんし、夜も遅くはならず、

きわめて平静な生活の連続であったと覚えています。

朝は従前夜ふかしをします時でも、早かったそうですが、代々木時代になってはなおさらのことで当時代々木一帯は人家もまばらで、

いたるところ雑木林やすすき野原があり、武蔵野のおもかげが十分に残っておりまして、朝は特に爽快だったので、

練兵場からただ今明治神宮神域になっております当時の御料地の辺まで、散歩に出かけるのが、ほとんど毎朝の例でした。

それには、私や弟たちがいつもついていったものです。

何ほどか雑木を交えたくぬぎ林の続いている間に、しじゅうからなどの小鳥が楽しげに飛び交うありさまは風情の多かったものです。

それがやがて出品画の【落葉】の六曲一双となったものです。

すべて気分とか、生物ならばその習性とかいうものを、思う存分に見つめて、十分にそれを味わって、そして絵にしたもので、

なにもかも帖に形を写すというような写生は、あまりいたしませんでした。

それでも、小鳥や椿の花など、きわめて精細に克明に写生したものが何枚か残っておりますから、やるときには、

徹底的に突っ込んでしたものとみられます。

この朝の散歩の帰りには、よく椿の花と八つ手やホウの葉などを採ってきたものでしたが、

今にしてみれば、その頃の絵には、これらのものをあしらった花鳥画が何点かあります。

明治43年には、文展の審査員をお請けしました事で、じぶんでも幾分気張ったものを描くつもりだったのでしょう、

六曲一双を用意して、秋雨に散る柳の落葉を踏んで傘をさして三人の美人が行く絵にかかったものでした。

この際も、特別の写生というほどのことではありませんが、人物の姿勢や配置の上に図を練ったものでしょう、

母をモデルにして、熱い夏の日盛りに傘をさして、ああでもない、こうでもない、そっちへ立て、こっちを向けと言っては、

ついに母に脳貧血を起こさせたこともありました。

しかしこの絵は着物の色がどうしても自分の思うように出ないので、三分の一ぐらいできながら中止してしまい、

尺八の堅物を画面に、例の【黒き猫】の図にかかることになったのでした。

猫はじぶんでもあまり好きではないといっておりましたが、絵にするのは興味があったとみえまして、

美校在学中も、新案として描いた猫もあり、徽宗皇帝の猫を模写したものもあり、その後たびたび描いております。

また五浦時代に描いたものには、老梅に白猫のねむっている図の大幅もあります。

この黒猫のときも、特別の写生は致しませんでしたが、近所の焼き芋屋に大きな黒猫のおりましたのを借りてきて

見入っておりました。

借りてきても借りてきても、逃げてゆくのには弱りましたものです。借りに行く役はいつも私でした。

翌年は没した年ですが、このころは、初めて生活に幾分の余裕ができたのでしょう、

立派な家ではありませんが、近所に新築することになり、その普請中、毎日普請場を見に行くのが楽しみのようでした。

六月に引き移って九月ついに病没したのです。

ちょうど岡倉天心先生は在外中で、最後の席には、身内のものの外には、

横山大観先生と斎藤隆三先生だけがおられた事を記憶しております。

こんなこと以外に特別の思い出はありません。   

 (『ゆうびん』昭和26年10月号より転載)




春草作品の猫あれこれ・・・いずれも部分です。


        
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posted by 絵師天山 at 22:47| Comment(5) | 菱田春草

2014年07月04日

魅惑の春草 E 最後の手紙



 これが春草、最後の手紙です・・・・・兄為吉へ・・・


 菱田春草書簡  
 菱田為吉宛 明治44年8月29日


    長野県下伊那郡飯田長久寺前   菱田為吉様親展

    東京府下代々木143      菱田春草


 


残暑の候皆々様御機嫌克

御子様方病気全快いたされ候由大慶に奉存候

氏孝も九月に相成候はば追々上京の事と存候

小生病気も近来大きに快き方に相成候処

此の五六日以来より目の方の模様至って悪しく成り毎日苦しみ居候

実の処昨年中は総ての具合よろしく候故

保養の目的にて此の代々木にて自分の家を建てる積りにて其法を進め来り

元より病気は重くなるとは前以って相知らず

今春に至り眼も体の方も悪しく相成

揮ごうも出来ず中止致居候事は前便申上候通りに御座候



然に建築の方は其方進み六月中旬出来移転致す様に相成候

勿論揮ごうと共に建築を併行致す最初の計画の処

中途病気にて此の如く相成り借金半分にて漸く出来致候

夫れに今春より少しの収入もなくビボウ策にて漸く今日まで漕ぎ付き

尚前途如何に成り行くやら前途計り知られず

そうかと云ふて月々の生活費並に療養其の他に於いて

多分の費額を要し僅少の金の融通にては長き間のこと故

焼け石に水の如く一向に役に立たず

病状は今日迄は少しも外出せず自宅に引き籠りの有様にて静養致し居り候処

五六日前より眼の模様あしく成り最初の一日二日は今日迄不充分ながらも

不正形に相見え候処のもの烈しく不透明と相成り

僅か五日計りの間に全く真の暗闇の如く

只僅かに障子を開くと日中外の光を只何となしにあるかの如くなきかの如く感受いたし

又白衣白き毛布等白き瀬戸物の如き外の光を受けて反射するものは一二尺の距離に於いて

僅かにボーっと煙の如く感じ目下尚病勢幾分か進行しつつあり候


 
体の方も一体に悪しく候も此方は比較的よくまだ大丈夫の様に思われ候

前日父上様の方へ一寸書面差し上げ候時は最も宜しき時に候ひしが

僅かの日にて右の如く相成り一寸御知らせ申し上げ候

あまり人に知らして心配をかけるのも自ら好まぬ故

極内密に願度候

他に知られ候と見舞いの手紙やら又当地にては勿論秘密にして候へども

来訪客やら見舞いの書状やらにて病生を愈強める故

誰にも知らさぬ様いたし居り候間

何卒御含み被下度候

つまり眼は平素の網膜炎がもとなれども夫れに加へて心気亢進性の神経衰弱にて

(母上様の御病気も是に似寄りたるものと考へ候)

心臓より顔面頭部へ血液が逆上して眼底に出血して此くなりしものと医師は申され候

過日も他より出血等有之 体中出血状態に成る居る故 右の如く相成り候

体の方さえ忍堪して静養すれば従て眼の方も多少見ゆる様に成るとの医師の話故

決して御心配下さるまじく候

何分にも全快するとしても長年月を要しその忍堪といひ療養等の附層する苦あり

今は自分の一般職業に関するものは打ち捨て療養罷在候御安心被下度

只一寸お知らせ申上げ候

此の五六日以来昼夜氷にて冷やし詰めに御座候

郷里の事は直きにしれ候

極内密に願候先は右迄申上候     草々



  二九日        春草

  兄上様





 御玉案下


  添え書きながら一寸申上候   千代申上候

  実は此の五六日以来

  御病気面白からず

  目下は重体に陥らん傾きあり

  いつ脳溢血或いは心臓衰弱等の異変あるや計り難く

  と 医師の注意もあり候 故一寸お知らせ申上置き候

  御両親様へも御知らせ被下度候

  然し気は確かに御座候

  右御報申上候


千代は奥様です


大天才菱田春草、明治44年9月16日午後5時40分に逝去。

享年36歳









posted by 絵師天山 at 12:23| Comment(0) | 菱田春草

2014年06月23日

魅惑の春草D 【絵画について】帰朝報告



大天才菱田春草は横山大観と共に、岡倉天心を頼り、

かねて予定していた米国へ向かいます。

時あたかも明治三十七年二月八日、

日露戦争開戦の宣戦が布告されたその当日、横浜から伊予丸に乗船、

船中には重大使命を帯びて米国経由、英国に赴く末松謙澄の一行があり、

これを見送りに来た枢密院議長伊藤博文は、

船客を甲板に集めて悲壮な演説を行いました。

日本国有史以来、最も重大な局面に春草も大観も居合わせていたのです。




二人は様々な努力、苦労、曲折を経て、帰国。

米国欧州を巡遊したその体験を【絵画について】と題するパンフレットにし、

各方面に配布。

外遊によって堅めた芸術的信念を吐露しました。

春草三〇歳。






★★★★★



【絵画について】   (現代語訳)


私ども先頃来、

インド米欧巡遊の折には長くご無沙汰致しましたこと、お詫び申し上げます。

帰朝しまして早々、日露戦争大勝利に連れて今後美術界も又、

いよいよ数多の希望が満たされる時代となるかと存じております。


そのような折、皆様具賢の方々より私共の将来の展望についてお尋ね下さり、

感謝いたしている次第ですが、

この際、意のあるところをいささか改めて述べさせていただき、

もってお導きをお願いするものであります。


私共の外遊がどのようであったかというご質問を多く頂いておりますが、

基本的にはすべて以前より考えていた事と大差はなく

むしろ、色々見聞するにつれ、従来の覚悟をさらに徹底追及してゆこう、

という決意を改めて固めたに過ぎません。


およそ芸術というものは作者の人格による表現でありますから、

技術は単なる表現の手段であろうかと思います。

従って、内面的修養充実を心掛けておれば、

表現の手段方法はそれぞれに任せられるべき事でありましょう。

私共の様な至らぬ者でも、

この道を歩むと決めた以上は自分なりの理想を自分なりの方法によって表現することで

そこに自ずから流れ出たものが認められるようになりたいものと存じております。



このように考えると、東西の画風、流派、様式などが

それぞれの国々に固定されたものであると決めつけられておりますのは如何なものでありましょう。

古今、人文思潮の流れに応じて変転進化しつつ

極まることなき永続性こそ芸術そのものであると言わねばなりません。


私達が筆を取って画面に向かえば大和民族固有の趣味が期せずして自然に流れ出して来るという、

それこそがいわゆる日本画でありまして材料や、技術の動向によって東西を区分けする事に意味はありません。

従って、私共は“真正の絵画探究”をするにあたって、

自己の中から湧きだして来るもののみを描き出す以外に方法のないことを改めて思うのであります。


よくよく国内近頃の傾向を見ると、

ただ写実を奨励してそれによって旧来の型にはまった画流の欠点を補おうとするのは、

一応の応急処置ではあるけれども、だからと言って、

写実派などというものの存在が必要だとは思われません。

もし写実が芸術の究極であるとすると、

そもそも自然そのものが大芸術でありますから人間の行うちっぽけな芸術は無用である、

とさえ言えるでありましょう。


考えて見れば自然そのままでない処を目指すことが芸術でありますから、

“自然以上”を求めなくて芸術に何の意味がありましょうか。

そもそも絵画は、推量し想像させるようにもってゆくことに意味があるのでありますから、

“しんしんと降る雪の音”を表現するに

露骨な写実をしたところで遠く及ばないことは明らかでありまして、

単なる写実で表現出来るものには自ずから限度があるのです。


しかし東洋では古くから写実も行われて参りました。

ただし、それは眼に依るも、心象を活かす、という写実方法でありまして、

浅薄な洋画家流の者が上辺の形だけ捉えようと苦心するのは、

つまらぬ囚われでしかありません。

近頃流行りの写生なるものは教える側も習う側も、

モデルに向かう好奇心に浮かれているだけであって

不完全な設備、方法もさることながらそのいい加減な描写の態度は、

本来の洋画家に対して失礼の極みと申せましょう。


一方で写実派があるならば、対する理想派が必要かと言うとそういうものでもなく、

絵画の入口は写実ではあるけれども、目標は理想の実現であるのですから、

写実派と理想派に分けるべきではありません。

故に写実派に対しての観念派ないし理想派といった区分けは、

主題上のものについてであって、制作上の表現についてではないのです。

あえて写実派に対するものを求めるとすれば、

それは却って形式化を招くこととなり類型化に陥るのでありまして、

写実のみに囚われる愚、と全く同じ誤りと言えましょう。


よくよく国内作家の風潮を見ると、日々に追われて、形式に堕し、

新しき創意なく、ただ左右の者達としのぎを削り合い、

ドングリの背比べをする事のみに終始しているのは誠に情けない有様であります。


近年欧米で典型派と情熱派とが相互にしのぎを削っているその側面には、

描法に於ける印象派、色彩派などの新技術と主題に於ける比喩派、表象派、

他の新思想とが双方現れて来たことが影響しているのでありまして、

詰まる所描法と主題との一軽一重により生まれる変化のあらわれ、に過ぎないのでありましょう。


考えて見れば主題というものは、ほぼ、

どのような種類の芸術にも共有されるものですが、

手法はそれぞれの特異なものであって

当然、絵画には絵画たる手法があるのでありますから、

画道の研究の中で、ある特殊なる描法を主張することもこれ又当然有り得べきことでありましょう。


私共は既にこの研究を通して今後はいよいよ色彩研究を深めて参ろうとするものですが、

それはあくまでも私共独自の色彩研究でありまして、

かつての光琳やドラクロワの亜流でないことは勿論で

前人の用いて来た輪郭を省略し無線に成しもっぱら色彩によって形成してゆくやり方

をご覧になって、これを東洋画ではないとし、もっとひどいのになると、朦朧体と

誹謗する人さえあるのですが・・。


さりながら、造形美術の起源よりすれば絵画と彫刻が区別されたのは

そう古いことではなく、双方とも輪郭線によって成り立ってきたものであります。

そしてそれらが美術と呼称されるようになると、絵画は明暗、濃淡よりも

色彩的に志向し

彫刻はレリーフから立体へと志向して行きます。

即ち色と形、双方に大きな志向の差が産まれてくるのは必然で

絵に於いては書画一致の範囲から離れて

色彩によって絵として自立してゆくことになるのは、

音楽がその音調によって音楽らしくなってゆくのと同じことと言えましょう。

加えて彫刻は塑像が現れるようになって以後、

写実性を深めてきた今日であり、なお絵画だけが線描に留まって、

彫刻の形式から出ないと言う事は実に心細い限りであります。

そもそも【線】なるものは“説明して理解してもらう為のもの”であって

線による絵画のまどろっこしさは、文字ではないか、と言いたくなる程で、

それに反し色彩はもっぱら直覚に訴うるものでありますから、

彩画こそ、われを忘れる様な快味を与える為の近道と言えるでありましょう。

文学ではなく音楽でもなく彫刻建築でもない

絵画の絵画たる所以は色にあると言わねばなりません。


歴史的に見ても我が国にの残されている上代古典作品には、色線による描法の発達がありました。

古画の剥落した痕を調べて見れば下描きの線と言うのは色彩の境界を示すだけで、

その上から重ね塗りして描出した後、更に色彩線によって輪郭を描き起こすという工程が加わるのです。

これはその当時さえも、色彩が主であって、描線が従であった事の証であります。

我が国は古来より既に色彩を主とした域に達していたのであります。

これを考えてみれば、色彩を主用した絵画が邦画の特性を失う、と言う非難は当たらない、

誤りであることは勿論、むしろある意味でつまらぬ縛り、となるものであり、

この故に昔人は色線を用いて後の世の無線描法の為のステップを既に踏んでいてくれたものと思うのです。


又、他方、没骨描法と言うものが現れ、あらゆる表現手段の一部となって来ましたので、

これを色彩をもって表す【色的没骨】に敷衍すればさらなる新段階が生ずるものと思われます。


シナの昔人が既に言っている様に“墨に五彩あり”とは、

筆墨中に色彩を望もうとする意味で、単に文人画に止まらず

雪舟の写し取る大自然の世界に於いてもこの考え方が含まれていることを知らねばなりません。

色彩を塗るのではなく描くのである。

という言葉の中に既に色彩的没骨法が胚胎しているのであります。

輪郭と色彩とは不可分と言う意味でもありましょう。


今日の日本画家は今なお、輪郭線を主用し色は補用している有様ですから、

言ってみれば有限をもって無限を表そうとし

塗り合わせた色と色とを繋ぐ為に線を利用しているに過ぎないのであって、

こんなものは明らかに自己満足の類に他なりません。



この様な処へ色彩の没骨による色彩的主用を志向するのは当然であって、

あらゆる見地からしても必須の事と思われます。

しかし世人は良く“東洋画の精華は筆墨にある”、と言い、

“筆墨なき絵画は日本画ではない”、と言い、私共の主張と相容れない方も多いのですが、

これは美術史ということを考えずただ骨董家の視点にとどまっているだけなのです。


我が国古代、上代、に於いて既に色線による絵画が一つの理想画として遺されているのに、

中世、宋代禅画の輸入により一時筆力墨色の発達を見たのは、

むしろ鎌倉武士の素朴さと、東山茶人の侘び寂びに同調した

一種の変調と言えるものであって、日本固有の特色とは言えません。


加えて、描線と言うものが雪舟以降既に、狩野派の極めたものである以上、

有限である線をもって無限を表すのは無理というもの、であり、

行き詰まるのが当然であります。

日本文化の特色と言うのは、

外国からの影響を廃して独自の文化が養成された時代の所産であって、

藤原時代の雄麗さ、元禄時代の婉麗さ、この両時期のみに見られるものであります。 

もっとも藤原時代末期に鳥羽僧正の様な筆力軽妙の逸材も現れてはいますが、

この時代の特色はあの源氏物語の様な着色豊富の制作群にあるのです。


その後、足利時代に抑えつけられた国風文化は桃山の豪華さを生み、

次に、狩野、土佐、が現れたほか、文人派、写生派現れ、

梅花桃李一時に渙発するように反動発達します。

中でも光琳による色彩印象派は空前絶後なる光彩を放っているのであります。


ともすれば光琳を日本の南画であると言った評や、

豪奢な装飾性のみに光琳らしさを求めるなどの評もありますが

本当は主線画の中から古代の色線描法をを取り入れて

千年の後に色的没骨を蘇らせた処に光琳の真価があるのであります。

不幸にしてそれを繋ぐものは出ませんでした。

抱一独りがそれを継承せんとしましたが、写実派の影響が色濃く残り

真価を受け継ぐまでには至らず、ましてその後は語るべき程の者が現れませんでした。


しかし例え光琳がいかなる大天才であろうとも今日

20世紀よりすればなお、更なる進歩があるべきはずである、と私共は確信しているのであります。


我が国の絵画が諸外国に優先して遥かに高い印象派色彩派を有してきた事実を忘れ、

軽々しくも、ラスキン一派の唱導に驚いたり

ターナーやドラクロアを称賛し、曳いては、ウィスラーにも劣るかの様な意識しか

持たない者が居るばかりではなく、宗達、光琳による色彩的印象派すら

洋画の模倣なりと成すような手あいが居ることは全く笑うべき愚かさであり、

東西美術史の対比すら学んでいないわけであります。


私共の意図はただただ、絵画の大成にあるのでありまして、

日本画の特徴のみを云々して満足することではなく、

大和民族として生をいただいている以上は、風土による感化は自明のことであり、

到らざる身ではありますが、画家として世に立つ以上は自分なりに独自の道を歩もうと存じ、


外国の真似をするなどは深く恥ずる処であります。



全く今日、誰が真剣に絵画というものを研究しているでしょうか。

いったい何人が胸奥に情熱をほとばしらせて独自の手法を志しているでしょうか。

殆どの者は表面の図様を写すだけ、でしかありますまい。

元明時代の衣装に現代の色彩を塗りこめ、

狩野派風の富士山を描いた横に円山派の雁の群を描き入れ、これこれの図・・

などと、自称しているのも実に厚かましいばかりであります。

又、団体を組んで、何々研究などと自称している者も多くおりますが、

ただ権力権勢を得んがために徒党を組んでいるだけのこと、でありましょう。


昔から天才は各分野にわたってその才を示すもので、

同一人が絵画彫刻建築、ないし、音楽文学に通じ、更には、科学工業政治等々

にさえ渉れる者がおりますが、

この研究は大天才にして初めて大成功を納めうるものですから、

私共不肖の者があえて行おうとするも、無謀でありますが、如何せん

時勢と境遇とに駆り立てられ、止むなく邁進する決意をいたしておるところでございます。

それ故、私共の生涯すべて修養中であり、自ら後を危うくすることは出来ない故に、

門弟を養うことも叶いません。

然るに、何ということか、少し研究考察を深めた作品は、鑑賞者の目には止まらず

偶々良し、とされる作品は殆ど全て、模擬踏襲のものばかり。

否、むしろ従来作そのままを複製した様な作品でなければ良く認められない故に、

今日いわゆる大家たる者も、それを肯定し、認められにくい追及をする愚を犯さず、

ただ古人従来の模倣を平然とし、少々気鋭と自認し東西を参酌したと自称する者も

その目的は観者への迎合である場合が殆どであります。


たとえ処世の為とは言え、軽薄姑息であることは免れず、とても百年の計、とは申せません。


この様な時、私共が微力を尽くさんと、自ら危地へ志向するのは、

止み難き覚悟の故であります。

この企図の成否は世の鑑賞者の何如に依っており、

それ故に私共制作者の企図を今一度深くお考えくださいますよう。

何となれば、僅かなる識者をのぞけば大多数の鑑賞者は所有作品の値上りを待つのみ、

でありまして、その作品に対する一片の愛着すら持たない場合が殆どであるからです。


しかし、これはただ鑑賞者の罪ではなく、作家の側もその殆どが趣意もなければ自信もなく、

金を儲けて豪邸に美人を住まわせることが終生の目標と言うような浅ましい境涯を

出でないからでありまして、このようにして活ける芸術は死んだ調度品となり下がり、

絵画を装飾と決めつけ、建築の部品と成す、という習慣に浸りきってしまうのであります。


芸術の自由は全くなくなり、悪戯に床の間の形に左右され、

香炉花瓶の実用品と同じものとされ、茶道具扱いされて

素晴らしい世界観、宇宙観をも見事に打ち消されてしまう訳で、こうなると、

何をかいわんや、研究も進歩も今更全く無用の長物と言えましょう。


識者が言っている通り、探幽出でて狩野派衰え、光起ありて土佐派亡ぶる、

が如き流弊の極みは、バルビゾン派の反動となり、

ラファエル前派の勃興もこれまた自然の理と言えましょう。

このような一大危機に際し、専心研究し、

ただ前途の開拓をもって自己の慰安とする私共の覚悟の程、上記の通りです。

幸いにも大方のご高察をいただくことが叶うならば、私共の素志も、

ほぼ貫徹出来るチャンスもあろうかと思いますが、

もし、不幸にして今生にてどなたにも御賛同頂けぬ時は、百年の後を期する他ありません。


私共は、徒に空論を述べようとするのではありません、

作家としての手腕は実技にあり、その経験を重ねることが必須でありますから、

ただただ多くの作品を制作して沢山のご批判の機会に恵まれれば、

私共の趣意は自ずから明らかにされてゆくでありましょう。


不慣れにも言葉を弄したところでその意を十分には言い尽くせませんが

大要は御理解いただけるのではないかと存じます。

乱筆乱文、ご容赦いただきますよう。 


  明治三十八年一二月 日本美術院 

     菱田春草 横山大観

                            






:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



原文は明治時代の気宇壮大さ、覇気 、全文に漲っており、激越。

例えば、最後の一文は


然れども是れ独り鑑賞家の罪にあらず、

今日作家の多くは趣味なく自信なく、

ただ阿賭物を射て金屋阿嬌を蓄ふるを以て

終生の理想とする浅ましき境遇に有之候。

斯くの如くにして活ける芸術は死せる調度となり、

絵画の独立を奪ひて掛軸屏風の装飾と為し建築の手足となし、

習慣の奴隷となして了らんとする悲運に候。

茲に於いて芸術の自由は全く剥奪され、

徒に床間の形状に縛せられ、香炉花瓶の位置に動かされ、

一片の茶味を以て五彩絢爛の天地を蔽ひ去られんとす。

斯くては研究も進歩も今更無用の長物に類せずやと存候。・・・・・・・・・

云々・・・・・。




・・・・・ 「 しかし、これはただ鑑賞者の罪ではなく、作家の側もその殆どが趣意もなければ自信もなく、金を儲けて豪邸に美人を住まわせることが終生の目標と言うような浅ましい境涯を出でないからでありまして、このようにして活ける芸術は死んだ調度品となり下がり、絵画を装飾と決めつけ、建築の部品と成す、という習慣に浸りきってしまうのであります。

そして芸術の自由は全くなくなり、悪戯に床の間の形に左右され、香炉花瓶の実用品と同じものとされ、茶道具扱いされて素晴らしい世界観、宇宙観をも見事に打ち消されてしまう訳で、こうなると、何をかいわんや、研究も進歩も今更全く無用の長物と言えましょう。」




日頃の鬱憤を晴らすように、言いたい事を思いきり言った挙句、

あとは、今後の制作を見て判断せよ!

と、大上段に振りかぶった態です・・・・





そして★★★

春草とともに、一年半にわたる外遊の後帰朝した大観が

日本美術院絵画研究生の開いた歓迎会の席上で述べた言葉は、さらに激越。





「今日、欧州の美術に如何ほどの価値があると問う人があったらば、

私はと答へなければならぬ。

私は最も長く居ったのは米国で、・・・中略・・・

米国はご存じのとおり新進国で、金持ちであるけれど、自国の美術という程のものは出来て居らないと言っても差し支えない・・・・・

日本からも随分古画だと言うものが行っておりますが、それは皆偽物であって、一顧の価値もないものである・・・中略・・

・・・仏国は、もう魂がぬけたものと言っても宜しいでしょう。

彼等は写実の極端なものである、一も二も写実写実で、行く。

其の弊害たるや知るべきなり、です。・・・・しかし

極端な写実に立った反動として近頃は東洋美術の粋を採り上げて簡潔を尊ぶ様な傾向が見える・・・・・中略・・・・

即ち日本でいえば伊仏英などは京都辺りの美術心に富で居る優美な人の如く、

独逸や露国は奥州の猪武者とでも比すべきものでしょう。

が、其れは特別の批評ですが、欧州全体から言えば、彼等の美術は今日吾々の有難がる様なものではない。

私が向こうに行って交わった一人の画家は、私に『貴方はなぜ陰を用いませんか』。

と、逆に私は『なぜ陰は用いなくてはなりませんか、何の為に必要ですか』と答え問うた。

が、彼は答える所を知らなかった。


理屈は画家の業務じゃない。


然し知らなければなりません。


前から繰り返して言った如く、今日の泰西美術は確かに写実のみに走って居る。

写実は左程大切なものでしょうか。

成程写真写実は美術の土台であるから、大切には違いないが、もっとより多く大切なものがあることを忘れてはならぬ。

それは精神である。人間が造るものに精神が籠って居らなかったならば、それは美術と言うに足らない。

誰か写真術を以って絵画より尊きものとするでしょうか。

彼等は精神を忘れた、即ち形態ばかりに走って居る。

彼等近代の製作が、多く我々を感服せしめ得るものがないのも無理はない。

ラファエルの【マドンナ】が、イタリアにある。吾々が見て実際失望して終わった。

それは敬服の失望じゃあない。

即ち吾々の遣り方は駄目だと言う失望じゃあない。

嘆息の失望である。

侮蔑の失望である。

私は此の度の洋行に依って非常に失望した。

然し大なる自信を得ました。

彼の雪舟を御覧なさい。岡倉先生も言ったじゃありませんか、

雪舟は日本の雪舟ではありません。世界の雪舟です。

宇宙の雪舟ですと。・・・・・・後略・・

兎に角ですね、吾々は西洋を擬ねるに及ばんです。

雪舟の精神で、二十世紀的に何処までも研究して行けば宜しいのです。」



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