【陽成院】 (ようぜいいん)
筑波嶺の峯より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
つくばねのみねよりおつるみなのがわこいぞつもりてふちとなりぬる

陽成院は清和天皇の東宮として御誕辰(ごたんしん)。
わずか九歳で第五十七代陽成天皇(ようぜいてんのう)、と成られましたが、
ご成人まもなく、十七歳で御位を光孝天皇に譲られ
後、八十二歳の御長寿を保たれました。
元服後ただちに遜位(そんい)されたのは、病弱であった?・・から
とか、乱行が絶えなかった?・・・と・・されているのですが、
藤原基経の妹を母としていましたから、・・・・
恐らく、後ろ盾の基経の、何らかの意図によるものでありましょう。
前代の清和天皇もわずか九歳で践祚(せんそ=天子の位を受け継ぐこと)
時の太政大臣は藤原良房であり、・・・・
母は良房の娘 明子。
第四皇子であったにもかかわらず、
第一皇子惟喬親王(これたかしんのう)を越えてご即位されました。
その直後に応天門の変、・・・・・
それを境に人臣摂政制度が始まるのです。
いわば藤原氏による天皇家乗っ取り政略??が露骨になってゆく時代。
良房の養子となった基経は清和天皇の政治を輔佐しており
清和天皇は三十一歳で崩御。
そこで九歳の陽成天皇がご即位されるのです。
摂政は言うまでもなく、藤原基経。
そして成人となられる前に、狂疾というレッテルを貼られて
基経によって退位せしめられました。
しかし、この御製はそんな大波乱を感じさせないほど
豊かな情感に満ちています。
恋歌ではあるが、冷静なる思考に裏打ちされている・・・
決して・・・狂気などではなく・・・・
この歌を味わえば、乱行を重ね、狂態を演じる様な御門とは
・・・・とても・・思われません。
僅かずつ流れ溜まってゆく水もいづれは淵となって
貯まる様に・・・恋心も増殖してゆく、と・・
深い思い入れをかなり工夫された表現で、高い調子に仕上げています。
勿論、御后様への恋唄。
八十二歳のご長寿の間、お二人でお幸せな日々を重ねられたのではないか?
と拝察申し上げたくなりますね。