2014年04月08日

【歴史の真実】J 古史、古伝



『先代旧事本紀』

『九鬼文書』

『ウエツフミ』

『ホツマツタヱ』


他・・・・・・・・

現在の学会では全く認められてはいない古史、古伝は、

古い古い、日本語で書かれていた・・・らしい。

古い日本語とは何か?



学術的には・・・・・

日本語における文字の使用は、5世紀から6世紀頃の漢字の輸入とともに始まり、

漢字を日本語の音を表記するために利用した万葉仮名が作られた。

やがて、漢字の草体を元に平安時代初期に平仮名が、

漢字の一部を元に片仮名が作られた
・・・・とされる。



本当に漢字が輸入されるまで、日本には文字がなかったのでしょうか?


まさか、そんな・・・・・・。

木を見て森を見ない学者たちは想像力なさすぎ、・・・

・・・・であるとともに、

そもそも実証されなければあったことにならない、

あったとは言えない、と決めつける方が、・・・

普通にオカシイ。

・・・・のでは??


権力行使の為に、意図的に抹殺された・・

その可能性の方が高い。




・・・・と思うのは

・・・・私ばかりではありますまい。

万葉仮名は、古き日本語を漢字表現しなければならなくなって、

便宜上,音に漢字をあてはめただけであって、・・・・・本末転倒。

遥か昔から立派に文字があったことを逆に証明している?

健全なる想像力からすれば、それが当然ではないでしょうか。




★★★★★




酒井勝軍(さかいかつとき)師は【神代秘史百話】の序説で、こう、語っています。



『神武以前は漠として稽(かんが)うべからず』

(稽うと考えるとは別、引き比べる、のと考え正す、・・・)


と、専門家さえ匙(さじ)を投げている我が日本の神代当時は

はたして雲で暈(ぼか)さねばならないほど曖昧(あいまい)であったろうか?

という疑問は誰にでもおこることであるが

僅(わず)かに三千年前の歴史が何故(なにゆえ)に斯(か)くの如く不明瞭であるかと言うに、

専門家は異口同音にそれは国家がマダ無かった為に他ならない

と、言うのである。

然(しか)らば、わが建国者は文字をも有(も)たなかった蛮族であったかと言うに

如何に考えても然りとは言い得ないばかりでなく、

甚(はなは)だ優秀なる文化民族であった様に窺(うかが)われるのである。

とはいえ神武当時の国史すら極めて不十分であって、

之(こ)れがために崇神天皇の頃までの歴史は

日本内地の事実では無いと断定する学者も現れ、

また神武紀元には720年の違算がある、と公言する学者も起こったので、

考えれば考えるほど日本の上古史は、大きな謎と言はねばならぬ。



而(しか)も此の日本は今日世界無二の長寿国であるばかりでなく、

亦(また)最も若々しい元気に溢れている国で、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅が

其のとおりに実現されつつあるのは如何にも奇妙である。



殊に六十年前の王政復古の如きは奇蹟中の奇蹟で、彼のユダヤ人が

二千六百年後に祖国を復興したのと相比すべき神秘事実である。

而して此の不完全極まる国史を冷ややかに読み去ると何もかも疑わしくなって来て

自然に大和民族の自信を喪(うしな)うようになるが、若(も)し神洲天子国の臣民という

国家信仰の眼を披(ひら)いて国史を達観すると、神智霊覚が自ずから湧き出て

朝日直刺す(なおさす)国、夕日照る国の面影が彷彿(ほうふつ)として浮かび、

思わず襟(えり)を正して『君が代』を高唱するであろう。


ところで外国人は日本の風光に憧れて居るように、又日本国の国体に対して

不可解の敬意を表しているのは事実であるから、観光局も必要であろうが、

それよりも急に神祇局(じんぎきょく)を復興して

神洲天子国の所以(ゆえん)を内外に宣明(せんみょう)すべきである。

然(しか)るに茲(ここ)に驚くべき事が突発した。

それは神武当時は愚か、幾十万年前の神代史が手に取る様に明らかに窺わるる

偉大なる文書及び器物が殆ど完全に発見された事である。



而して此の発見は万国史上未曽有の大発見であって、僅かに七千年前の

スメルアカド時代の断片的石碑の発掘すら驚喜して居る欧米の考古学者

に見せたなら、正に頓死するほどの偉大且つ貴重なるものである。



そこで一日も早く之を世界的に発表せねばならぬが、其の整理に

少なくとも二年を要し、目下極力準備を進めて居る。

而(しか)も差し支えなき部分は公表する必要があるので、過般『モーゼの裏十戒』

を発行し更に此の度本書を上梓(じょうし)することにしたのである。


ところで、読者第一の疑問は、斯(か)かる秘史が何故に今日まで何人も知られずに

隠匿(いんとく)されてあったかであるが。


元来国史は国の系譜であるから、神代当時は皇太神宮の神宝として

奉安(ほうあん)されたもので、天皇及び神主の外は絶対に之を披(ひら)くことは

禁じられてあった。


然るにシナ文化渡来及び仏教伝来の結果として

シナ文化中毒者仏教心酔の徒等が、不逞(ふてい)にも国史湮滅運動(いんめつ)を起こした為に

畏れ多くも皇太神宮の神宝保護に非常なる危険を感ずるようになったのである。



そこで棟梁の臣、武内宿禰(たけうちのすくね)の正孫

平群真鳥(へぐりのまとり)は予(あらかじ)め此の大国難を未発に防がんと志し、

仁賢天皇に代わって皇祚(こうそ)を継がるべき皇太子擁立(ようりつ)に当たり、

彼は斯(か)かる大業は須(すべか)らく武勇剛邁(ごうまい)の天皇に

待たざるべからずとなし、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせわかささぎのみこと)

=武烈天皇

を擁立せんとしたところが、大衆は日本のシナ化及び仏教化の魂胆からして

猛烈に反対したのであった。



而も彼は三度も自説を主張し遂にこれを遂行せしめた。


後四年、皇太子即位せられ、真鳥を召して立太子(りったいし)事件の真相を語れ、と仰せられ

彼、有りのままを言上するや、何故にや天皇の逆鱗(げきりん)に触れ、

即座にお手討ちということになった。

歴史に曰(いわ)く、平群真鳥(へぐりのまとり)、反し、誅に伏す。


然るに事実はソンナものではなかった。

彼はお手討ちということで内苑に廻されたが、

天皇は、神宝を擁護するもの汝の外になし、

速やかに退(たちの)いて太神宮を死守せよとの有り難き勅命を戴き、

夜半墓場より去って越中に落ち延びたのである。


然るにシナ化し、仏教化した不逞史家らは、此の神明果断の天皇を

暴虐の君と称えた。


而し武烈天皇は史上伝えられたような暴君ではなく、実に右の如き

名君であらせられたのである。



而して皇太神宮に奉安された神代の神宝は全部竹内家の忠良(ちゅうりょう)が代々之(これ)を守護し

三十余の犠牲を捧げて一千四百年間遂に之を死守し得たという事は

全く天佑と謂わねばならぬ。


本書は右神宝中より摘録したもので、極めて断片的のものではあるが、

内には紊乱(びんらん)せる国民思想に帰一の燈明たらしめたく、

外には混沌たる国際観念を統一する太陽たらしめたく、

茲に竹内巨麿氏の允許(いんきょ)を得て上梓した次第である。

原文は凡て神代文字で認められて居るが、平群真鳥の訳文が添付されてあるので、

余は便宜上訳文に拠った。

併し原文との照合を完成した上で更に詳細なる発表をなす考えである。


然るに茲に奇怪極まる事がある。

それは国体擁護上国史を死守せねばならぬ筈の官禄学者(かんろくがくしゃ)が、

不思議にも国史湮滅運動(いんめつ)に耽溺(たんでき)して居る事で、

名を研究に借りて巧妙なる国体破壊を敢(あ)えてし居るので、

斯(か)くも驚くべき神代秘史が発見されたならば、

其の真偽を疑うよりも、何事を措いても先ず自ら拝観を乞うべきであるのに、

彼ら未だ一人も拝観せしものなきのみならず、神代文字は後世の偽作なり

故に神代文字の文書は一顧の値なし、との理由を以て公然此の神代秘史を

否認して居るのである。


建国者を南洋の蛮族と同様に心得て居る化石学者や、神武以前に国字が無かった

などと考えるほど国家信仰の消失した不逞学者等は何を囈語(げいご=たわごと)

しようと彼等の勝手ではあるが、僅かに一千年内外の骨董品保存などには

馬鹿馬鹿しいほど熱狂して居りながら、

神代時代の神宝であった神代秘史に対しては、之を一度も拝見せずして、

偽物(ぎぶつ)見るに足らず直ちに焼却すべしとさえ放言した博士が居るが、

余は斯かる非国民を相手に神代秘史を論ずる者ではない。


唯、我が国にモ少し徹底した国史が欲しい、

モ少し祖先の身元を鮮明にしたいと熱望する国士国女の赤誠に向って

謹んで本書を提供するのである。


復興紀元二千五百九十年冬十二月






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posted by 絵師天山 at 17:05| Comment(0) | 歴史の真実
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