2012年01月20日

なぜ、伊勢神宮奉納へ? 続き 『八重垣神社の壁画』


続けます。


☆☆☆☆☆
 

 私は若い頃から、

 人は何故生きているのだろうか?

 何の為に命があるのだろうか?? どうして生きてるの俺は???
という懐疑が強く、それが解決されずにずっと引きずったままでした。

 友人を無くしてまで、ある宗教にはまった事もあります。芸術立国を標榜するその宗教では、ウチは宗教ではない、超宗教であり、芸術による大いなる救いの業である・・・と・・うたっていました。

 後に、この教団の教主様に日本画をお教えすることになりましたが、教祖の言と教団人の行とは、あまり一致せず、個人的に近しくさせて頂いた教主様も、ヤハリ同じで、その事に疑問を感じておられない・・・・と言う点でもまた、同じでした。


 源氏物語を借りて、人物画を追求する。と言う目標の為に“装束オタク”と、近しくなり、従来の交際範囲では考えられなかった人種??と接するようになったことは、前回申し上げましたが、その中で、ヒトキワ注目させられたのが、陰陽師の舊事希軍先生です。

 名刺交換の時、既に≪アヤシサ≫をあからさまに感じ、オタクとの交流もこの辺でやめておかなくては! と自重気味になったのは本気でした。・・・・・・えっ!? 陰陽師?? ・・・・正に、≪アヤシサ≫は、宗教以上・・・・。

 ところが、この先生、事実不思議な能力の持ち主で、前世の記憶を明確に持っている人、であり、それも、一つや二つではありません。私が持っていた知識は専ら、上記の宗教から得た概念であって、 何ら実証されているものではありませんでしたが、それでも生まれ変わり、と言うことは、あることであろう・・・・・、とは思っていました。

 しかし、舊事先生は、人は人にしか生まれないし、人以外には生まれ変わらない事。しかも一度や二度ではなく、幾度も生まれ変わっている事。日本に生まれて来る事が一番難しい事。牛やカエルや、その他動物となって生まれ代わるという考えは、宗教の倫理観と経営観とが結びついた偽説に過ぎないこと。そもそも宗教は、明治時代までの必要物であったこと。など、極、軽く、当然の事であるかのように、淡々と、語るのです。

 実証することは出来ないそれらの事をなぜ信じるようになったのかと、思われるでしょう。
 
 絵描きなんて世間知らずだから、鵜呑みにしてるのでは? 宗教に騙されるくらいだから。と思われるかもしれません。しかし、気負うことなく淡々と話す言葉には何の飾りも、テライも、奢りもなく事実だから事実ですヨ。という、爽やかな印象だけが残ります。

 それは、後の話。

 そのときは・・・・

 初対面でお会いしたのが10人くらい集まった装束オタクの集まりで、私以外はその陰陽師さんを既に知っている様子で。皆さんが、前世を見てもらったら? と私に勧めた事から興味を持ったのです。

 この先生は、そんな事でお金を取ったりしませんからァ。と言われて、・・・へーーーぇ。
お酒の席ですし・・・肴にされてもこの場が楽しければ・・・と言うくらいのつもりで、早速云われた通り生年月日と名前を紙に書き、見てもらうと・・・・・・

 

『はい、八重垣神社で壁画描いてました。ネ。』・・・・・と、事も無げに、云われるのです。

 
 まず、日本画を専門に職業としてやっている人なら兎も角、八重垣神社の壁画を知る人はまず、あまり居ません。
 実際に神社の関係者とか、出雲地方のツアーガイドの人か、あるいは、よほどの趣味人ならば別ですが。躊躇なく、作為を感じさせる間もなく。即座に答えられるほどポピュラーなシロモノではないのです。(事実その場にいた他の人は誰も知りませんでした。)

 コチラが、日本画家の名刺を渡してあるのだからそれをベースに、イワユル、コールドリーディング。ホットリーディング、といった誘導質問・・・の挙句ではなく、装束オタク同士の飲み会で、終戦前の軍歌の合唱を聞かされていた直ぐあとの話。でした。

 この軍歌の合唱には閉口させられましたが、当時の私からするとこの人たち・・・って、右翼?

 と思わせるところが・・・・それと言うもの、装束を現実に今の世界で珍重して使用しているのは皇室のみ。であり、当時芸能人が、十二単での婚礼をしたことで、ささやかな装束ブームが興りかけていましたが、庶民の暮らしとは、何ら関係もないのに・・・・

 職業も、年齢も性別もテンデばらばら。なこの人達、装束だけで一緒になれるなんて!!??
勿論、利害で集まっているわけではないのです。私のモデルになってくれていた人たちも好意から、率先してやってくださっていました。

 近衛隊の儀礼服とか、高官の大礼服とかの話題等もこの人達の間では、ゴク普通に交わされており、私のいる世界とは・・・・・・大分様子が違います。

 
 その中で、躊躇なく、『八重垣神社の壁画』と、言われた!!!!



 実は、私は八重垣神社の壁画については一方ならぬ興味があって、随分以前に出雲へ取材に訪れて初見以来、その壁画は、忘れる事の出来ない存在でありました。

 この壁画は、巨勢金岡(こせかなおか)という絵師が描いたとされていて、事実、この絵師の作品で残されているものはこの壁画のみ。古文書に記録があり、巨勢金岡と言う絵師は、宮廷の絵所預=今で言う文化庁長官のような高い位を授けられた名人であっって、確かに実在していたけれども、作品は残っていない名人。とされているのです。

 日本画は、物質としての耐久性があまり、ありません。有名な雪舟の絵はおよそ、500年から、600年前。一番古いとされている日本画は、かの正倉院に遺されている、鳥毛立女屏風。とされ、これは奈良時代。およそ、1200年前・・・・あとは、800年位前の、春日権現記絵巻20巻も古く、そして、非常に立派なものです。・・・が、ともかく、痛みやすく、残りにくいもの。

 そして、八重垣神社の壁画。おそらく平安初期であろうけれど、ヤツレ、汚損して、修復を繰り返しており、およそ原形を留めてはおりません。
 現代の科学的検証によっても、物質としては、室町期まで、あるいは、それよりも下るのではなかろうか? と言う結論が出ている。

 しかし、信頼される古文書資料には、巨勢金岡の作品であると確かに書かれている。

 なかなか、むつかしい話になっていますが、壁画として残っている最古の部類に入る作品として、完成当時はさぞ立派なものであったろうと・・・・現存する姿は、古びていて、ヤツレ果てているのに・・・・なぜか・・・私は深く興味を持っていたのでした。

 
 即座に私が、

“それは(壁画は)巨勢金岡の作品ですが、私の前世はその人ですか?”と応えると、

“いや、そこまでは解りませんが、絵師は複数いて、共同というか、合作の様ですね。”と明快な答え。

 
 専門職でもないのに、間髪を入れずに、壁画が共同作業であった可能性を示唆するなど、・・・・とても、普通は考えられない事です。初対面ですよ!
 
 
 軍歌のオンパレードも強烈な印象でしたが、壁画と前世の話は、さらに深く心に残りました。
予期せぬ出会いは、以後、俄然面白い事に・・・・・・。




続く




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 【古事記(ふることふみ)】第94回再興院展出品作品 部分



























 
 

posted by 絵師天山 at 23:00| Comment(0) | 古事記1300年
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