2012年01月11日

第94回院展出品 古事記(ふることふみ)


【古事記】(ふることふみ)

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 平成21年、第94回再興院展に出陳された作品がこの額仕立ての絵巻物作品でした。

 もう、十年も前の事ですが、かねて実験的に絵巻を額装して、観せるには??と額屋さんに相談。

そのとき良いアイデアと技術を駆使して、出来上がったのが、【みちのく絵巻】でした。
  http://takahashi-hidetoshi.com/gallery-emaki.html こちらへ・・・どうぞ。

縦、60センチ、横90cmの画面を横に6点、上下に重ねて合計12点、全長10メートルを越える絵巻物を、コンパクト??に二段掛けにして額縁にはめ込んだ・・・のでした。

ちょっと、会場でも目だって、自己顕示欲を満足させたものです。しかし、横6メートルにもなるし、絵巻物などまだ生意気!! と言うわけで、理事長にやんわり非難されたのは、心外!! まあ、怖いもの知らずだったのですね。

 その後、いくつか同じような仕掛けで、絵巻物を額装して、お披露目することに・・・・

で、古事記も絵巻物として、日本神代絵巻とするわけですから、試作して、院展で発表したのです。



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全図より、右上の拡大図。・・・・・冒頭の高天原




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そもそも、なぜ、古事記=日本神話を絵巻物にして伊勢神宮に奉納する事になったのでしょう?


本居宣長の古事記伝から、太安万侶の序文についての解説を取り出し、ややこしい??事を語り始める前に、もう少し、これまでの経緯をお話したいと思います。



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 私の師匠は、もう亡くなられましたが、雄大な山岳風景を得意とする、今野忠一画伯でした。

ちょうど、私より40歳年上であられ、四人のお子様を持たれる先生の末息子さんとほぼ同年代。25歳で入門しましたので、先生はそのとき65歳。画家としては壮年期の円熟し始めた頃。バリバリの大活躍中であったのです。

その後、先生が亡くなるまでの二十数年間、本当に、ただただ、お世話になりました。
今でも、ご尊顔を思い浮かべるだけで胸が熱くなって参ります。

この世界は、師と弟子との関係が親子以上の場合があり、先生と私の関係はその典型例でした。

中には、師匠との相性が悪かったり、弟子同志が険悪だったり・・・人間関係で不遇をかこつ人も出てくるのですが、幸い私は文字通り親以上の親密な関係を保つ事が出来、先生は奥様共々、常にあれこれと可愛がってくれ、私も心から心酔しておりました。

不肖の弟子で、再三困らせた事がありましたが、いつも大きな包容力で見守って下さいました。


亡くなる前年。谷中の美術院での同人会議の帰り、先生の車で、いつものように私が運転しながらの車中。色々な話題を重ねた後、

ところで、高橋君は幾つになった??

  もう、50を過ぎました!

そうか、じゃあ、あと30年くらいはやれるな。あんたは、人物をやったら良い。風景は下手だから。
人物をやりなさい。30年突き詰めれば、何とか形になるんじゃあないか?

  えっ・・・・・・・?!


“そうかあ、先生よりは確かに下手だよな・・・風景は。しかし、とことん人物やるのかあ・・?
先生がおっしゃるのだから・・・。兎に角、やってみるか!!!! ”

 漠然とした想いが・・・考えとしてまとまるまで、そう時間はかかりませんでした。常にそうであったように、先生の示唆は勿論この時も、正しかったからです。

人は、自分のことを良くわかっていない面が必ずあるもので、己を知れ!という格言もこのあたりから出ているのでありましょう。

人に指摘されて始めて気づく。いや、指摘されても気づかない場合もありますね。
それまでに、私は色々な対象を描いてきました、勉強の為でもあり、仕事上からでもあり、人物を描いた事もありますが、風景もあり、花鳥もあり・・・しかし、人物は割りと直ぐまとめる事が出来るな、とは感じていたのです。

同人=審査員、に推挙されて間もない頃であり、これからは、先生のご指導を仰いでいるばかりではならんだろう・・・独り立ちしなければ・・・と思っていた矢先。

先生の一言で、“よしっ!勉強し直す!”という謙虚な気持ちも育って、改めて人物画に傾注してみようと決意したのです。




しかし・・・・問題がありました。男は描きたくない! 好みの美人を描きたい! と言う我です。








以下続く





 
posted by 絵師天山 at 23:54| Comment(3) | 古事記1300年
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