2011年09月30日

 東京美術学校事件   ★岡倉天心公職追放の顛末★  その6



岡倉天心先生は【創造、開拓の人】、であり、明治政府の体制が一応定まって、日清戦争勝利という一つの成果が出た後は、それまでの模索と試行からは脱して、基礎の強化、安定という時代に移行してゆくのです。

つまり、細部にこだわらず、壮士風に前進してゆく天心の素晴らしい豪傑ぶりは体制維持派にしてみれば、却って鼻につく邪魔者でしかなく、排斥されてしまう時代の無理からぬ要請でもあったのでありましょう。

美校経費を超過して譴責処分を受けたり、上司、九鬼男爵のご内儀と深い仲になったり、生涯を通して【創造開拓の人】たる岡倉天心は一筋縄ではどうにもならない、英傑そのものであったのです。

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その晩年、五浦で毎日釣りを楽しんだ天心


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さて、異様な天候続きの夏も過ぎ、美術の秋。そろそろ再び、このブログも菱田春草生誕100年の本筋に帰らねばなりません。

100年に一人の英傑、岡倉天心に見出された大天才菱田春草。

明治31年日本美術院開院記念展に出品したのが、【武蔵野】及び、【寒林】、の屏風でした。


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【寒林】

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同、部分



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【武蔵野】 屏風

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 同部分

当時再来朝していたフェノロサが、ジャパンデイリーメール誌に発表した【寒林】への評が残されています。



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“仕組みに於いては大差ありといへども吾人に観山氏の画の如く、同様なる感を与ふる者は春草氏の屏風なりとす。是れ、光線を受けたる林中の光景を現したる物にして強き光線のコウカツたる樹木を射る所、古岩の流水を阻む所、凡て是、柔和なる筆致を以って物しぬ。吾人は是を称して相阿弥の近世化せられたる光栄あるものとす。”



日本美術院の開院とほぼ同時期に、春草は初めて一戸を構え、

野上宗直の長女千代と結婚。春草25歳、千代20歳。



神田でのシアワセな新婚生活がここに、始まるのです。









posted by 絵師天山 at 19:53| Comment(0) | 院展
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