2011年08月04日

美校教員時代の菱田春草

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【水鏡】について春草自身の評 続き 



 “さうして、紫陽花は七色に変わるという事で、赤から紫に、それから、終わりには空色になってしまって枯れてしまふ。紫陽花を天女にかたどって添へものにしたのです。色の配合も幾色もあるやうに、その調子で天女も描き、つまり、どちらも関係のあるやうに描いたつもりなのです。天女の色の取り合わせも、つまり、紫陽花からとったものです。”





こんなロマンチックな画想は、当時美校の共通した傾向で、恩師岡倉天心の影響といえましょう。





さらに、春草談、



“今の批評家たちは書物も見るし、考へても批判するが、まづ一つの考へがあって一様にそれでもってやるからだめだと思ひます。



 日本画で云へば線は必要なんだ。これを除けば日本画は西洋画に取られてしまふ。



 それに今の批評家は、線のことを不自然だとか何だとか、やかましくいふ。自分が批評家ならば、も少し広くやるつもりです。



 私は、美術学校の中で定めている一期、二期、三期、のうち、第二期の絵をやるつもり、すなはち純粋の日本画をやるつもりです。(中略)

 

 日本画の線の意味は、西洋画にあるが如き、物と空間の間。又は、色と色との間にある経界の線ではなくて、釈迦なら釈迦の円満な顔を描かうと思ふをりに、さふ思ふ意味が出るものが即ち線なのです。

 

 批評家がこれを不自然といふのは誤りです。



 画家の苦心する処、釈迦なら釈迦は偉い人だが、その、偉いといふことをどういふ風に画けば良いかといふ処にあるのです。

 

 つまり人が一人いる。これを滑稽の人に描かふか、真面目の人に描かふかといふ処に、例へていはば私等は苦心するのです。

 例へばきつい人があるとする、しかし、戦場に出てはきつい人だか平生の人物がきつい人か、温籍な人か、之を如何に描けばよいかに苦心する。



 他の納い処は皆そこから割り出して来るのです。”



 



 明治30年12月13日、この作品は、観山、大観、などの作品と共に、美術好きの明治天皇のご覧に供せられました。


















posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(3) | 菱田春草
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