2011年08月03日

美校教員時代の菱田春草  

明治30年、春、

我等が菱田春草は、東京美術学校から、引き続き予備課程絵画の授業を委嘱されます。

その四月、日本絵画協会第二回共進会に【粘華微笑(ねんげびしょう)】を出品。


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銀賞牌第二席を獲得。

一席は観山の【光明皇后】でした。

後に重要文化財指定になる小堀鞆音の【武士】はこの時銅牌を受賞しており、今日の評価からすれば、観山の一席、春草の二席、共に【武士(もののふ)】に比べれば、いささか見劣りするのに受賞ランクは逆。面白いものです。

大観も同じく、春草もまた、生涯、露骨な宗教的題材をそのまま描く事は余り好まなかった様ですが、この作品は例外、といえましょうか。

ついで、9月。第三回共進会に出品した作品が【水鏡】であります。



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銅賞第7席と言うのですが、まあ、よろしいでしょう。最高賞に輝いたのは、又しても観山でした。
観山こそ天心一番のお気に入りであり、また年長者でもあったからだと思われます。

こういうことは、良くある事で、現在の院展でも、例えば最高賞の大観賞に輝いた作品よりも、奨励賞に甘んじた作品の方が絵として素晴らしかったりする事もあるもの。

価値観は流動しますから・・・・。


この【水鏡】は、現在では、春草卒業直後の優品とされていますが、当時の評価はあまり高いものではなかったようです。

この制作課程を間近かに目撃した溝口禎次郎の言葉が残っています。


“当時の制作に【水鏡】と言うのがある。私はあの執筆ぶりを見て痛く感心したものである。それは広い教場の中であの大きな画面を立てかけておき、小さな男が立って伸びるようにして描いているのである。それが極めて簡単に焼き筆を当てたかと思うと、何らの遅疑逡巡するところもなく、一気に描いてゆくのであるが、線状のこなし方の如き実に見事なものであった。人物を描き挙げ高と思うと今度は傍らへ紫陽花を描いたが、その紫陽花の如き、校庭から幾枝かを折ってきて傍らへ立てかけて置いたかと思うと、それを直に描いてしまったが大胆と言おうか、無造作と言おうか、その颯爽たる態度は恰も天馬空を駈けるの概があり私は痛く驚嘆したものである。”


しかし、世評は先の【粘華微笑】の方がずっと良く、【水鏡】評は、
“一人の天女がボンヤリ水辺に立てると言うまでにて、別に大した意味も何もあるものに非ず、想の下らなさ加減は孤月の馬よりも甚だし。”などと言うもの。


本人の評も残っています。

“水鏡の図ですか、あれは非常にしくじっていけなかったのですが、あれはつまりかういふ考へなんです。 大体をいへば美人はいつまでも美にあらず、終にはnへる時があると云ふ考へで、それで普通の美人を採らないで天女を採ったのは、天女衰相といふべきものなのでそれで水へ、つまり天女の相が映るのですが、映るにしても、上は立派に描きて、水へ映った方は衰へた汚いやうに描いたのです。西洋画の風に従へば、上の通りに下を立派に映さねばならんでしやうが私の考へでもって、下をきたなく描いたのです。色の調子でもって、下をきたなく描いたのを差し支えないようにするつもりであったのです。”


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以下続く








posted by 絵師天山 at 23:32| Comment(2) | 菱田春草
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