2011年05月28日

春草の美校時代 その3

 明治26年6月、春草 専修科3年が終わる頃。
 兄為吉への手紙より、抜

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 今般学校にて、学校の生徒の画の風、大概一定して変化と云ふものなき故、少々次学年より改正して、最も今頃は何年何年として一組づつ教員が受持て居りしが、今年より、二年より皆一所にして三つの教室に別ち、其の第一を巨勢小石、副として下村晴三郎受持ち、第二教室を橋本先生と副下村、第三教室を川端玉章と岡本勝元と受持つように相成り、第一は多く鎌倉時代より、其の後に行はれたる美術にして、当時に相応せる絵画を教授す。又第二教室は東山より徳川の始めに行はれたる絵画にして、現今に相応セル画を教授す。又次は、徳川の後期に行はれたる絵画にして、現今に相応セル絵画を教授するものなり。
 
 ひと口に申せば、一は古土佐を学びて明治に結びつけ、又二は、雪舟等の如き狩野の如き画を学び合わせて明治に結びつけるなり。又、三は円山応挙の風の画を学びて明治に結びつけると云ふ目的に候。
 
 それ故、十二日までに届けを出す筈に御座候。小生は第二にする積もりにて、天草も二をする積もりとの事にて居りしところ、今日学校にて校長室へ呼ばれ(天草と小生)学校何をする様聞かれし故、第二をすると答へしに、学長の云ふは、第三を学ぶもの少なく、又大いにやろうと云ふもの少なき故意を曲げてはいかんか、小生になる様云ひし故、又小生も元より宜しき事にて前より重い居り、それに小生も思ひ、又校長も意を含んで云ふには、東山は高くしてやりにくく、つまり損と云ふ。
 
 又小生に云ふ、目的は写生をやりて西洋に太刀打ちして劣らぬと云ふ処は元より、日本と云ふ処は、どこまでも固く守り、品格の高きものにて写生を元とす。応挙位ではつまらんけれども杯と云ふ。
 又、応挙は花鳥と山水上手にて人物はそれ程に非ず、小生は人物をやりて非常にせよとの事にて、然し君等は、何れの道よりするとも、過つ様な事はなし、やって見ては如何と云はれし故、小生も元より心をる故、夫れをやらんと覚悟して、どこまでも深く学ぶ積もりなり、先ず考へると云ふて帰れり。


 夫故直ぐ三になる様届けを出す積もりに候。天草君は、第二にして、今の処にては一寸やる積もりなれども、つまりは各別にて今の様の目的となり、小生は一年間故どふでもよい様なものの、一寸一きまりがつくなり。
 又、先を考へても、責任は重けれども、一割は利もあり。何しろ上手の人三四人、後になりて出来る故、其中にて皆同じものにて競争するより、皆異なる長所をして、一方の覇となる方がよく、小生も其の方心に逢う故、是に決定致し候。・・・・・・・云々。

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 この分期教授制は、岡倉校長の立案であり、この改正の際に特に、春草を呼んで、懇切な注意を与え、第二教室志望だったのを第三教室に変更させたのでした。

 天心は、将来第一と第二は下村観山に任せ、第三は春草に任せるとの展望を持っており、この頃すでに春草の天才にかけていたと言えるでしょう。

 春草は天心の期待を喜んで受け止め、精進を誓うのでした。とにかく、校長からじきじきに、言われたのですから。大変な事です。

 《応挙位ではつまらんけれども》・・・・・・・!!?? 

 応挙が足りないところを俺様がちょっと補ってやろうと思います。とお兄さんに豪語しているのです。このくらいの気概は必要ですね。











posted by 絵師天山 at 05:28| Comment(0) | 菱田春草
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