2011年05月21日

春草の美校時代  その2

 明治27年 一月、春草は、校友会大会出品作で賞牌を得ます。
“六波羅合戦院の御所焼討の図” という画題の歴史画でした。同期生天草神来も、一等褒状を得て、ライバル同士、お互いに元気。四月、今度は、“鎌倉時代闘牛図”により、賞牌二席を獲得。



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此の時、下村観山(当時はまだ晴三郎)の描いた“日蓮上人化導ノ図”と、天草神来も受賞。校内では、なかなか熾烈な競争が繰り広げられていたのでした。不思議にも? 大観も確かに居たのですが、どうも、はかばかしい成績ではなかったようです。

実は、学生時代、常に花形であったのは、春草と観山。そこに春草の親友、天草神来が、食い込んで来るといった按配で、年長の大観の出る幕はあまりなく、学生同士の評価も当然、大観には誰もあまり注目しては居ないのです。 

後に、神来は、それほどには注目されないままで、観山は、天心の取立てによって第一人者として自他共に認める存在となり、巨匠と言われた時代もありましたが、現在は知る人も少ないありさま。

春草だけは、常に周囲が認める、プロ中のプロであり続けたまま、早世してしまい、伝説のように語り継がれながら、いよいよ巨匠として、日本を代表する真の日本画家と、されてゆくのです。

その真価を真剣に追い求めたのは、大観その人。大観こそ、春草の真価を一番良く理解し、尊敬し、指標として見習う正直さをもっていたのです。年下の人を尊敬するのが難しい《若さ》をも遥かに超えてしまう素晴らしさを春草が持っていたからでした。

このことは、非常に示唆に富んでいます。普通、男社会のヒガミは、なかなかに強烈で、その為に道理が引っ込む事もあるくらい。皆さんも思い当たる事があろうかと思いますが、才能の世界では、自分を遥かに超えた才能をなかなか認めたくないもの。

はたから見て明らかに上回っていても、その本人はおいそれと自分が劣っている事を認めることが出来ないものであり、これができるのは、私心が無い場合だけです。

つまり、大観先生は、確かに才能では春草にはかなわないが、日本文化の為に、自己の至らざるところを春草を指針とすることで補おうとする《大きさ》があったと言えましょう。

日本国の為に、ワタクシを去ることが出来た。というわけです。さすが、大観先生!!!


 明治27年五月には、分期教授制度が始まる事に決まります。
これは、岡倉校長の発案で、九月の新学期から、絵画科と彫刻科の教授法を改正するものでした。
絵画科を分けて、教室別とし、
 第一教室  鎌倉時代      巨勢小石  下村晴三郎
 第二教室  足利及び江戸前期  橋本雅邦  下村晴三郎
 第三教室  徳川後期      川端玉章  岡本勝元
の三教室とする。 

 此の時岡倉校長は、春草をわざわざ校長室に呼び、春草が、第二教室を希望していたのを、第三教室に変更するよう指示。既に、春草の天才に掛けていた天心は、近い将来、第一第二教室は、下村観山に任せ、第三教室は春草に任せると言う将来展望を持っていたからでした。



六月に春草が兄為吉に送った手紙に詳しく書かれています。

次回に、ご紹介しましょう。

posted by 絵師天山 at 21:20| Comment(5) | 菱田春草
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