2011年05月18日

春草入学時代の美術学校

 東京美術学校は、明治天皇による親政の余慶により、明治22年設立されました。

 長野県飯田に生まれ、上京して日本画を本格的に学ぶ身となった春草は、兄為吉の援助で、まず
結城正明の門下生となり、次いで、明治23年9月、17歳で、美校に入学します。


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 41名の同窓生と共に、大観の一級下。10月に岡倉天心が校長に就任。 このとき天心は29歳でした。教授陣は橋本雅邦、結城正明、狩野友信、川端玉章、川崎千虎、巨勢小石、等が、絵画を担当しました。

 開校当時の美術学校は、絵画、彫刻、美術工芸、がありまず、普通科で2年、臨画、写生、造形、用器画法、などの基礎の後、3科に分かれ、それぞれ専修科で、3年の学習規定がありました。

 大観の手記による当時の授業内容は、懸腕直筆(けんわんちょくひつ)なる、筆による線描きの修練が、延々と続き、退屈の極みと感じられるころに、粉本の写しに移行し、少しは興味が湧いてくると言ったものだったそうです。天心とフェノロサとで考え出された新しい教育法であったのでしょう。 春草も似たような授業ではなかったかと思われます。

フェノロサは、明治23年7月に帰国してしまったので、春草は直接学ぶ事はありませんでした。
また。兄為吉も熊本に赴任して行った為に、兄と暮らした住居も移転。同級生天草友雄と親交を深め、一緒に同居したりしていたそうです。

 この親友、天草友雄は、後に春草の卒業制作の大きなモチベーションを提供した人で、好敵手でありました。神来(しんらい)と号し、熊本の出身で、卒業後は、美校助教授ともなり、韓国へ渡って、李王家の為に壁画を描いたりして活躍しています。

 
 
 懸腕直筆(けんわんちょくひつ)というのは、まず、大きな紙に縦に筆で直線を引く。例えば5ミリくらいの幅の線ならば、その幅を違えずに、一メートルくらいの長さの縦の直線を描く。次いで、その隣にもうう一本同じ幅の直線をまた、一メートル縦に描く・・・・。ずーと、大きな紙が、真っ黒になる位直線を引き続ける。同じ幅、同じ長さ同じ間隔で・・・。

 それが上手くなったら、今度は横線。それが上手くなったら、もっと細い直線を縦、横に・・。
それが出来るようになったら、今度は小曲線を、それが出来たら大きな円をおなじ太さの線で一気にフリーハンドで引く・・・・・・。

 つまり、線をどれだけ正確に思いどうり引けるかという修練。

 年賀状を筆で書くとわかりますが、筆で描くのが難しいのは曲線。小さくとも円が難しい。もっとも、一メートルの長さの線を描くのも相当難しいですが・・・・。

 つまり、筆力による作画を実現させるための修行をまず始めに課したのでしょう。

 むごいくらい大変な課題ですが、しかし、基礎授業としてこれは、良い!

即戦力になります。今だって、これくらいのことを大学ならさせるべきだと筆者は想いますが、いかんせん、教えられる先生がいないんです。

今現在、一メートルの同じ幅の直線を一気に描ける人は、筆者を含めて、数えるほど僅かしかいないでしょう・・・・・。

今の大学の先生は、職業的な先生であって、画家ではない方が殆どですから、絵の事は知らない絵の先生ばかり。勿論線なんて引く必要もアリマセン。

日本画がなくなるわけですね。







次回に続きます。



posted by 絵師天山 at 23:42| Comment(5) | 菱田春草
この記事へのコメント
いつもブログ拝見させていただいています。

懸腕直筆に関してもう少し、詳しく説明いただければ幸いです。

やはり床に紙を置いて、正しい姿勢(正座)で直筆で懸腕直筆にて描くのでしょうか?
Posted by 高橋敬 at 2013年08月09日 00:43
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