いまさら残念がっても仕方のない事ですが、大天才春草の画業の初期に、絵の導き手となったのが橋本雅邦であったことは、本来は、好ましい事ではありません。結果的に、大天才菱田春草は、この最初の師匠等を遥かに超えて、その影響を全く感じさせない境地へ、あっという間に達してしまうから、良い様なものの。出来得るならば、導き親の始めが、大和絵系の巨匠だったらもっとずっと良かったのですが・・・・・。
橋本雅邦は、最後の狩野派と言われた人。狩野派というのは戦国時代に狩野元信によって創始された絵師集団で、城郭建築にはツキモノの襖絵、障壁画など、お城が築かれれば必ずそこに、狩野派の絵師集団が介在してきました。これ等は、主に、権力や、政治的勝利を代弁するための絵画として脚光を浴びてきたのです。
国宝“松林図屏風”で名高い長谷川等伯も、当時、狩野山楽あたりが大活躍しているその隙間に入り込もうとしてメジャーの狩野派に挑戦して、結構苦労しているので、もっと自在で安定的な立場での仕事をさせる土壌があったら、彼は松林図どころじゃあなく、もっとずっと日本的な素晴らしい作品を残して、われわれをもっと楽しませてくれたに違いないんでが・・。
江戸幕府の存立など、武家や貴族階級による反皇室化を企てる力の基礎は、あらゆる面での唐様政策であったのですから、そこに狩野派繁栄の余地も生まれて、そのままずっと継承されてきたのでした。
平安時代にメジャーだった大和絵は、鎌倉時代、武家の進出と共に次第に色あせたものとなって行きます。それは、足利家が天皇に成り代わって日本を統治したいという野望の下に唐様を意図的に取り入れ、国風文化をないがしろにすることで、世論を反皇室へ持ってゆこうとするプロパガンダの犠牲となったからでした。
宋、元、時代の絵画や、墨蹟、陶器、など、唐様と総称される支那文化を大いに奨励し、実質以上に“スバラシイモノ”と演出してゆく事で、平安時代に培われた日本的国風文化の源であった天皇家の存在を貶める様に画策したのです。勿論大和絵もその犠牲になりました。和歌の文化も、カナ文化も、・・・。何のことはない、後の利休など今尚もてはやされていますが、実は国風文化衰微の片棒を担いでいただけなんです。
現在の日本でも、中国共産党政権のゴリ押しを鵜呑みにし、日本政府自身の政策によって、“支那”(しな)と言う、“チャイナ”(chaina)から派生した本来の国名を表示、使用してはいけないかのような世論を作り上げていますね。支那チクは、メンマに。支那ソバはラーメンに・・・・。
これは、中華思想、中国と言う国名は世界の中心の国である。という意味。つまり俺様の国を世界の中心国=中国と呼べ!!!と言う、実にアホらしき、単なる国家的エゴイズムのごり押しに日本政治家が自己利益優先のせいで、屈し続けてきたお陰なんであります。
狩野派は、その元に唐絵=漢画があって、始めから限界があった。つまり、日本人本来の良さを出すには大和絵と違って、最初から無理をしていた。ボタンを掛け違えているようなものでしょうね。
それゆえに、江戸中期の狩野探幽をその頂点として、あとは衰微してゆくのだけだったのです。勿論現在継承されてもいません。
春草の最初の導き手、結城正明、橋本雅邦は、衰微してゆく狩野派の末端に位置していた絵師、であったわけです。
日本画の様な、日本古来の伝統文化は、その奥深さゆえに、どのような立派な才能を持った
者であっても、例え、春草のような桁違いの大天才でも、どうしても始めに習得しなければならない基礎があります。ドンナ天才でも初歩は先人に習わなければわからない。才能とは別個の、誰でもくぐるべきステップがあるんです。それ故、始めに染まる色は、大切。それを春草に教えたのが、結城正明という橋本雅邦と同門の、狩野派絵師でありました。
結城正明は春草の兄為吉の住まいのすぐ裏手に住んでおり、東京美術学校の助教授でもあり美校志望の春草が、入学の足掛りとするには理想的な先生でありました。
勿論結城正明は橋本雅邦と狩野芳崖と共に、ずっと続いてきた狩野派の最後の生き残り、であり、年長でもっとも信任の厚かった芳崖は、美校創立直前に亡くなってしまっていたので、自然残された二人の先輩格である橋本雅邦が、新しい美術学校の教師としては、中心的にその座を占めることになっていたわけです。
若き春草が、結城正明に学び、橋本雅邦に憧れるのも無理はアリマセン。
橋本雅邦は、フェノロサと岡倉天心に見出された人でした。
明治時代は、国を挙げて西洋諸国を手本とした改革が行われていた時で、日本的なものを軽視する風潮がありました。美術界にも、伝統的絵画より洋画をもって新時代の絵画とみなし大和絵などは国粋的なものとして振り向くものは殆どいなかった、のです。
当時、節操のない洋化の波に抗い、伝統を守ろうとした岡倉天心ですら、大和絵の復興についての認識はありませんでした。それは、天心がフェノロサの見識を受け継いでいたからで、当時の欧米人にとってアジアの文明国は支那だけ、日本文化についての知識は実に乏しかったのです。フェノロサの東洋美術の知識は支那中心。支那美術を基準にして日本美術を見ているに過ぎないのが実情で、支那美術には見られない大和絵には理解を示さなかったのです。
ほんとの価値にまだ気づいていなかったんですネ。
天心、フェノロサは日本の絵画では唐絵=漢画の流れを汲む狩野派を重視し、新しい日本画復興の本命に狩野派を充てたのです。日本画革新の教授陣を揃えた東京美術学校において、大和絵は指導されることはあっても、昔で言う唐絵。つまり狩野派流が、はばをきかせていたと言う訳です。
橋本雅邦は狩野芳崖と共に、フェノロサと天心に見出され、、明治日本画の改革を推進する実力者であり、江戸狩野の系譜を代表する大きな存在とされていました。東京美術学校は、明治天皇による天皇親政の余慶で設立されるのですが、雅邦も芳崖と共に、設立以前から深く関わって来たのです。
そこへ入学しようとしている春草は、その予備段階として当然結城正明へ、入門する事に。芳崖は、前述したように、美術学校発足直前に他界していました。
橋本雅邦は美校入学後の春草を導く大切な役割の一端をを果たすのです。普段はおとなしい紳士であったそうですが、ただ一度、激高したことがあり、それは、春草の卒業制作“寡婦と孤児”について、ある教官が、その意図を認めず、化け物絵と痛罵して、肩を持つ雅邦と論争。結局校長岡倉天心の裁定により最優等と認定されるのですが、温和な雅邦が激論を辞さなかったのは“私が描いてもこれ以上上手く描けない”との思いがあったから、とされています。
別に、橋本雅邦に恨みがあるわけではないんですが、もし、春草に欠点があるとすれば、それは狩野派の影響を初期に受けてしまった事にあると私は思っています。
勿論雅邦が意図してそうさせたのではありませんが、惜しくも一旦、狩野派に染まってしまったことが、とても残念なのです。もっとも、その当時平安時代から続いてきたとはいうものの、大和絵の方は、狩野派よりさらに形骸化されており、当然巨匠と言えるクラスの作家も見当たらなかったのですから、むしろ、春草のすべてを認めていた雅邦の大らかな懐の深さにこそ、感謝しなければならないかもしれません。
2011年04月04日
初期春草と狩野派
posted by 絵師天山 at 22:28| Comment(0)
| 菱田春草
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