
春草16歳。上京した折の肖像。

17歳の春草。
現芸大、東京美術学校は、明治天皇の、“天皇による親政回帰”、の余慶によって、明治22年に開校されました。
この事は、明治維新の大業によって日本が、日本らしさを取り戻し、その勢いが文化面まで、行き渡ってきた証左でありました。新日本の美術界が、ようやく体制を整え、ついで来る目覚しい発展の基礎を確立したこの時代に、横山大観、他が第一期生として入学、続いて第二期生として、春草が入学するのです。
日清日露の両戦役を通して、国際舞台に国家としての日本が登場し、真の意味での、近代が始まろうとしていたこの時代に、大天才春草は生まれ、国家の成長と共に春草もまた、不世出の天才として完成してゆきます。
この事は、実に象徴的で、宇宙意思=天意を感じずにはおれないところであり、この世に天佑神助があるとすれば、春草の出生こそが、そうに違いありません。まさしく、日本文化の救世主ここに登場!といえるでしょう。
春草は、現在の長野県飯田市、雪深い山村に育ちました。
東に南アルプスが遠望され、西に駒ケ岳を望み、南北に流れる天竜川上流の盆地で、実に風光明媚の地です。この地に春草=菱田三男治、は、明治7年、9月21日、父菱田鉛治、母くら、の三男として生まれたのです。7人兄弟の4番目でした。
少年時代の春草は、次兄為吉によると、“すこぶるわんぱく”で、弟妹の友達は、春草が家にいると寄り付かなかった程。だったそうです。
父は銀行員、手先が非常に器用で子供たちも皆父の性質を遺伝していた。と言うことくらいで、他には、血統的にも家庭の環境としても後年の大天才春草の不世出の偉業、の元となった様な格別の原因は見出せない。とも語っています。
明治13年に飯田学校入学。15年初等科卒業。19年中等科卒業。小学高等科には、洋画家の中村不折が、教諭として在任しており、水彩画を教え、春草も好んで描いたが、春草が絵を好むようになったのは、自分の凧に武者絵を描く必要があったからで、別段、不折の影響を受けたわけではなかったといいます。
しかし、栴檀は双葉より、、、。このころから、春草の絵画的天才は、既に目だっておりました。
「この学校で僕の教えた者で有名になった一人に菱田春草がある。
もとから質はよかったが、理屈っぽい人間で吾々を困らせることばかり言っていた。
絵が上手いので絵をやれと言ったことがあったが、法律を勉強すると言っていた。
ただし後には絵を習いに東京へ行きたいと言い出した。結局僕が一足先に上京し、
僕は西洋画をやるし、君は君で好きな方へ行くがよいと言うので、
菱田は美術学校へ入り、橋本雅邦氏についた。」
後に、不折は、こう語っています。
明治20年10月、勅令第51号によって、東京美術学校は、設立されました。