読書の秋、著者謹呈をいただいて、
表題の本 【靖国の精神史】
なる新刊本(PHP新書・小堀桂一郎著)を読了。
久しぶりのブログ更新にはこの新刊本のお話から・・・・

まず、前文より
*
十九世紀中葉は、東アジアにおける国際関係の激動期だった。
この激しい嵐の風浪に翻弄されながらも、辛うじて国民国家としての自立と国際環境への適応を全うし得た明治の日本にとって、その適応に払った犠牲の記念碑のごとき東京招魂社が、国家的公共性を本質とする宗教施設となったのは、当然のことだった。
しかし、それから百年の二十世紀中葉になると、世界中で国民国家という存在自体が、その神聖不可侵を自明の前提とし得るような環境ではなくなっていた。勢い、靖国神社という宗教施設もまた、国家的公共性という基盤を自明のものとしてそこに安住することは難しい、と見る見方が生じてきた。
そのような難しい時代の到来に直面して、ここで改めて考えておきたいのは、靖国神社という聖なる施設を成立せしめている国民の精神的な根拠は、そもそも何なのか、ということである。この設問に今一度重ねて考察を施し、靖国の思想とでも呼ぶべき一系の理念体系に、日本人の精神史という深い脈絡の中での然るべき位置づけを試みる、という作業が要請される。
本書はその試みのとりあえずの一つの報告書であるが、如上の設問に本書を以ってどの程度まで答え得ているか、結果は偏に読者諸賢の御判定に俟つより他はない。
・・・・・・・・とあり、
靖国神社の御創建時の呼称、東京招魂社が、現在の九段坂上に建立された明治二年から数え、来年六月には、満百五十年、という節目。正にタイムリー。
発刊の意義は大いにありましょう。
今年の春季例大祭での小堀新宮司のご挨拶に、【戦後】という意識すら急速に無くなりつつある現代にあってこの神社を守り続けてゆく模索を真摯に始めようと・・・、との抱負?懸念?・・・も、もっともなことで、終戦後の昭和二十一年から始まった占領政策の迫害は、国家によって保護されてきた靖国神社を単立の一宗教法人として経営・保全されるより他無い存在に貶め、さらなる理不尽な外圧をも加えられて、総理大臣の靖国参拝は公人としては違憲だが私人ならば容認される、などという愚かしい屁理屈さえ生まれたのは、靖国神社への執拗な敵意を日本人の中に見出し育成するという情報宣伝工作が見事に成功したほんの一例に過ぎません。
小堀新宮司は、伊勢神宮に長くご奉仕された方で、先頃、奇禍のため退任されたのは実に惜しい事でした、
今日ご紹介する新刊【靖国の精神史】の著者は小堀桂一郎先生でありますが、小堀宮司とはたまたま、苗字が同じだけの関係だそうです。
第一章 英霊祭祀の原型理念
第二章 守護神崇敬の源流
第三章 国家意識の形成ー遡及的考察
第四章 国家意識の熟成ー内発的要因
第五章 歴史の記憶ーその蓄積と再生
靖国神社という聖なる施設を成立せしめている国民の精神的な根拠は、そもそも何なのか、・・・
靖国の思想とでも呼ぶべき一系の理念体系に、・・・・・
日本人の精神史という深い脈絡の中での然るべき位置づけを試みる・・・・
それはそれは、水も漏らさぬあらゆる方向性を完備した体系化。驚きの全五章!!
是非ご一読を!
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