2017年12月13日

聖徳記念絵画館 その5


神宮親謁(伊勢の神宮ご参拝)



     IMG_4570.JPG




時   明治2年3月12日(1869年4月23日)

所   内宮玉垣御門(皇大神宮)

奉納者  侯爵 池田仲博

画家   松岡映丘(まつおかえいきゅう)


明治2年3月12日、天皇は、京都から東京へお帰りの途中、伊勢の神宮に参拝され、御祭神に、天皇政治の復活と政治の刷新をご奉告、国運の発展をお祈りになりました、天皇の神宮ご参拝はこれが初めてのことで、天皇は、みずから祖先を尊ぶお志をお示しになりました。

絵は、玉垣御門を通り神前に参進される光景です。




作者 松岡映丘氏については、
当ブログでも再三取り上げ、
大和絵の復興に生涯を尽くした誠実なる画人、
柳田國男の弟・・・

播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。

幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。その時分より歴史画、特に武者絵を好み、日本画家を目指した。明治28年(1895年)、最初は狩野派の橋本雅邦に学んだが、鎧を描くのが大好きだった映丘には合わず半年ほどで通わなくなり、明治30年(1897年)に兄の友人田山花袋の紹介で、今度は住吉派(土佐派の分派)の山名貫義に入門する。そこで本格的に大和絵の歴史や技法、有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事など)を研究するようになる。

明治32年(1899年)に東京美術学校日本画科に入学し、ここでは川端玉章、寺崎広業らの指導を受ける。また在学中に小堀鞆音や梶田半古、吉川霊華らの「歴史風俗画会」に参加している。明治37年(1904年)に首席で卒業する。映丘の画号は在学中に兄井上通泰に付けられたもので、『日本書紀』「天岩戸再生の条」で美の形容して「映二丘二谷」から取られている[1]。翌年、神奈川県立高等女学校と当時併設されていた神奈川女子師範学校の教諭を務めた。明治41年(1908年)、東京美術学校教授の小堀鞆音の抜擢で同校助教授に就任する。1912年の第6回文展において「宇治の宮の姫君たち」が初入選すると、以後官展を舞台に活動した。

1916年には「金鈴社」の結成に参加。1920年に、大阪堺出身の門人で、大阪では島成園門下だった林静野と結婚。静野の画業はよくわかっていないが、夫に勝るとも劣らない作品が残っている。1921年には自ら「新興大和絵会」を創立し、大正・昭和にかけて大和絵の復興運動を展開した。この会は1931年には解散したが、『絵巻物講話』(中央美術社)や、編著『図録絵巻物小釈』(森江書店、1926年)を著し、1929年には『日本絵巻物集成』(雄山閣)や『日本風俗画大成』(全10巻・中央美術社、復刻国書刊行会)の編纂を行った。

1928年秋に昭和天皇御大典を奉祝した記念絵画を納めている。1929年、第10回帝展に出品した《平治の重盛》で帝国美術院賞を受けた。1930年に帝国美術院会員に選ばれた。

1935年の帝展の改組で画壇が大きく揺れ、映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成した。1937年には帝国芸術院会員となるが、1938年に死去。56歳没。墓所は多磨霊園。


と、ウィキにも詳しく・・・
混迷する現代の日本画家はこの人を当面の目標にすべきであるとさえ
・・・私は思っております。


先回に遠近法に囚われている、と言う様な話をしましたが、
この作品もごく浅く遠近法を取り入れています。
が、参進される有様を横から見ての表現ですから、
距離感は余り無い。
・・・従って説明的な遠近を感じないで済み
神域の雰囲気を壊さない。


先回の作品は天皇のお姿を描かない古法が守られている、
と申し上げましたが、
黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を纏われた
明治天皇自らの御親拝を詳らかにする、という意味で
この場合は、しっかりとお姿が描きだされ

天蓋を持つ侍者が赤色である他は皆黒い装束
玉垣が幾重にも重なるその垂直性と水平性とを拮抗対比させた中に
赤と御袍の緋黄土色という画中最も強い色彩を置いて
鮮烈な印象を生もうとした作者の意匠は見事!

神宮の社そのものは描かず、鳥居をくぐり内垣に入る手前を舞台にすることで
今度は天皇は描いたが、御祭神の社は描かない、という最上の礼を尽くしているのです。


しかも万幕の白黒が縦じまの強い造形ですから
空を少し暗い色にして不安定にし、
画面上部の重さで下部の強い造形に負けない工夫が成されているので、
実に、さすがは映丘先生。
筆技の妙・・・・!!
全く大したもの・・・・なんですね。







posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(2) | 聖徳記念絵画館
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