明治神宮外苑に聖徳記念絵画館の建築が企画されたのは大正7年のこと、
設計図案を全国から公募で募り、
150通を超える応募のなかからコンペで一等当選図案が決定されました。
海外諸国に伍して近代国家に“矢を放つ如き速さ”で脱皮してしまった日本という国家の真骨頂がこの図案にも良く現れています。
日本人は、
法隆寺の木造建築の如き世界にも稀に見る建造物を
どれくらい前から建てて来たのか?
出雲大社から出土した遺構を見ても、
日本人の匠の技は正に至芸、石造りの西洋建築の典型を造るくらい、ごく普通のお手軽仕事・・・・
甚だ優秀なこの一等当選図案は、神宮の造営局でさらなる審議を重ねた上大正8年夏、設計図の決定案が確定され、次いで10月に基礎工事に着手、
その竣工は大正15年10月。


この建物は壁画館として構想されたもので、
掲げられる壁画の数や画題の選定は建物の建築より早く、
大正6年5月に選定委員会が組織され、
閑院宮戴仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)を総裁に戴き、
顧問金子堅太郎以下10人の委員が選定の審議に当たり、
大正10年1月には全80点の画題選定を終え
“考証図”と呼ばれる粗描の図案を制作
その本図それぞれの制作担当者を選ぶことに、・・・
“考証図”を作ったのは東京美術学校校長、正木直彦の推薦による五姓田芳柳。
それぞれの画題の趣旨説明文を作るのは池辺義象が担当。
80点の壁画が絵画館に収まるについて、造営局はその各作品の奉納者を募り、選定。
費用の負担者、画料を寄進してくれる個人、法人を求めた訳です。
壁画制作については調成委員と呼ぶ画家を複数委嘱、
絵画委員黒田清輝発議により、
日本画部では竹内栖鳳、山元春挙、川合玉堂、下村観山、小堀鞆音、横山大観の6人
洋画部では、岡田三郎助、和田英作、中村不折、長原孝太郎、藤島武二、小林萬伍の6人
とし、第一回の調成委員会を大正12年9月半ばに予定していたのが
関東大震災に見舞われ、延期。暮も押し迫った12月開催、
日本画洋画、共に40点という配合も決まり実際の揮毫者選定に入ることに・・
しかし、
翌13年、絵画委員として画家たちを統括するようは役割を担っていた黒田清輝が死去。
次いで14年春には、川合玉堂、下村観山、横山大観、の三人が絵画調成委員を辞退するという事態に・・・・
既に建物の建築は大正8年に始まっている・・・のに、
日本画の調成委員で東京在住の玉堂、観山、鞆音、大観の四人は、
絵画館の展示が専ら明治天皇の御事績を讃える壁画に限られていることを不満として、
工芸作品なども含めた幅の広い聖徳記念美術館とすべきであると建議。
しかし、建物自体が壁画館として設計され、建造も始まっている・・・
今更の目的変更は不可。
明治神宮奉賛会理事会のこの回答に不満を抱いてのマサカ!の辞退・・・・
小堀鞆音も他の三人と共に美術館化への建議を唱えたものの自己の建議が容れられないことを不本意としての辞退ははなはだ宜しくない・・・熱い“皇室に対する尊崇の気持ち”が彼を留めさせた。
まあ、良くあること?でしょうね。
一つの事業に向かう姿勢は、それぞれであり、
始めは熱心で冷めてしまう人もあれば、
その逆の人も居て、事情もそれぞれ、
黙して語らずの人もあれば、喚き散らすような無粋も・・・
まして関東大震災という未曽有の天譴があり
普通の生活すらおぼつかないような時期・・・
大観先生は、滅びかけた院展を再興し、
大正12年9月1日にようやく開催に漕ぎつけた!
と思うや否や2日には関東大震災に見舞われる・・・という憂き目を体験・・・
正にそのさなかの聖徳記念絵画館事業参加云々・・・。
ナンとも不本意であったのだと思います。
大観作品が加わって居れば・・・
タラ、レバ・・・は言っても仕方がない。
有力な画家の不参加は大事業にとっては一つの頓挫でありましたが、
結果残された小堀鞆音のさらなる自覚を促し、新たな人材のチャンスに繋がる訳です。
続く
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