2016年05月30日

記念講演 続き


小堀桂一郎先生の記念講演ご紹介を続けます。


「海軍兵学校校長、鈴木貫太郎の驚き」

もう一つ、わたくしの観察に入って来ました大正教養派的現象の実例は、鈴木貫太郎校長時代の海軍兵学校におけるそれであります。鈴木が昭和二十年四月から八月にかけて総理大臣として国政を担ひ、対連合国の終戦工作を見事に推進して、国体の護持に成功した功績は皆さん御承知の通りです。鈴木は大正十三年に連合艦隊司令長官に就任して、次いで海軍軍令部長といふ海軍での最高の顕職を勤め上げました後、昭和四年に退官して、昭和天皇の侍従長となった人であります。その鈴木さんは、大正七年十二月から九年十二月までの二年間、海軍兵学校校長を務めました。大正七年頃と言ひますと、いはゆる「八八艦隊」の計画が議会の承認を得て、目標達成間近といふ海軍の拡張期に当たってをりました。
当時の海軍兵学校では、日曜日になると、生徒たちが校長の官舎に遊びに来る。何かとご馳走になって校長の訓話を聞くのが慣例でして、鈴木校長も多くの若い新入の生徒たちとくつろいだ形で接する機会を持った。それは鈴木にとって大へん楽しい時間だったやうであります。当時海兵への入学は、全国の青少年の憧れの的でした。それは一つには、欧米の海軍士官養成制度と違って、生徒の選抜に際して、一切の身分上の差別をしなかったからであります。イギリスの様な身分固定制の階級社会での差別はいふまでもなく、アメリカでも有力な国会議員の推薦状がなくては士官学校の試験は受けられない、といふのが実情だったのです。日本ではどんなに貧しい家庭の子弟でも、兵学校への出願資格があり、兵学校に入学出来れば、努力次第で末は海軍大将になるといふ可能性を手にすることができたのです。入学試験は、身体検査は非常に厳重なものであったやうですが、学力試験は、それまでどのやうな学歴を辿ってゐようと不問に付し、試験一本勝負であります。試験さえ通れば、立派に海兵の生徒なのであります。当然全国の中学から、成績優秀の秀才たちが集まってきてをりました。大正中期、十分な数の秀才たちが江田島には集まってゐたのです。

ところが、校長としての鈴木さんが、親しく若者たちに接してみたときに、大変驚いたことがあった。それは彼らに歴史、殊に国史についての知識が全く欠落してゐるといふことでした。特に軍人として重要と思はれる武士道の倫理について、生徒達が普通の中学教育では何も教へられてきてゐないことを発見して、鈴木は深い憂慮に襲はれるのであります。そこで早急に、校長としていはゆる非常勤講師の人事を起し、ある文学士に国史における武士道の倫理の発達の歴史といふやうなものの調査を依頼しまして、それを早速、生徒達に講義してもらふやうに頼む。これは実現致します。さらに、哲学倫理一般の教養も極めて重要だと考へてまして、広島高等師範学校の校長をしてをられた当時有名な或る哲学専門の人に江田島まで出向を願ひ、倫理講和をしてもらった。今でも有名な江田島の教育参考館の設置も鈴木校長の発案で建設されたものであります。

ちなみに、大正九年八月入校の海兵五十一期の卒業生の中に、後の工藤俊作中佐がゐました。工藤は、新入の第三号生徒の時にわづかに三ヶ月間、鈴木校長の訓育を受けただけでありますが、恐らく鈴木自身から、日本武士道の精華といふ話を聞かされたでありませう。鈴木さんが、武士道の精華として奉じてをりましたのは、明治三十八年一月五日の旅順開城時の水師営での乃木さんとステッセル両将軍の会見のエピソードであります。このとき、乃木将軍は日本武士道の華とも言ふべきその在り方について、明治天皇の聖慮の程を、その身と言葉を以ってステッセル将軍に立派に示しました。これは世界中に伝へられた日本武士道の伝統についての象徴的逸話であります。恐らくは、この美談を先づ第一に鈴木さんは生徒たちに語り聞かせて教訓としたのであらうと思ひます。


それが、ある一つの結果を生んでをります。どういふことかと申しますと、昭和十七年三月一日のことであります。既に大東亜戦争は始まってをりましたが、ジャワ島のスラバヤ沖で、日本海軍と英米海軍との海戦があり、「足柄」「妙高」の主戦隊、「那智」「羽黒」の別戦隊といふ日本の誇る重巡洋艦隊が随伴の駆逐艦隊と共に、ジャワ近海から英・米艦隊を一掃してしまふほどの圧倒的な勝利を収めました。明けて三月二日に、別動隊の駆逐艦「雷」がその海戦の跡に差し掛かりますと、乗艦を撃沈されて、救命筏に掴まって漂流してゐたイギリス海軍の軍艦二隻の士官兵士を発見するのです。「雷」の艦長は、直ちに救助作業に取り掛かることを命令致します。敵潜水艦の攻撃が予想される非常に危ない事態にあるその海面で、実に四百二十二名の英海軍士官、兵士達の救出に成功し、そして彼らを日本海軍の客分扱ひといふ厚遇の上でオランダ軍の病院船に送り届けてやるのであります。その駆逐艦「雷」の艦長が、当時少佐であった工藤俊作さんでした。このとき救助された英海軍の駆逐艦「エンカウンター」に乗り組んでをったサミュエル・フォールといふ当時二十歳の海軍中尉が、後に外交官として出世し、フォール卿と呼ばれる身分を以って平成十五年秋に、命の恩人工藤に何としても感謝を述べたいと、八十四歳の老躯を引提げて来日しましたが、残念ながら、工藤さんは既に昭和五十四年に死去してをりまして、直接お礼を述べることは出来なかったやうであります。


  統帥権干犯問題と「日本外史」

さて、今度は、問題の教養の伝統の断絶といふ現象が、国政の次元に於いてまで発現したといふ事例を申し上げたいと思ひます。
昭和五年にロンドン海軍軍縮条約の締結があり、その際に、表に現れたことですが、浜口雄幸内閣のときの帝国議会で生じた統帥権干犯の糾問事件であります。実はこれは干犯があったのではないかといふ非難が起こったといふまでのことで、干犯事件とまで言ってしまっては正確ではないのであります。


このとき、ロンドンの海軍軍縮会議に出向きましたのは、若槻礼次郎首席全権と財部彪海軍大臣で、この二人はとにかく無事に調印して帰国します。大正十年のワシントン軍縮会議、それに続いたワシントン軍縮条約きは、アングロサクソンのイギリス、アメリカ両国に強引に押し切られ、主力艦五・五・三.つまり英米を足しての十に対して、日本はその三割といふ比率を押し付けられて痛憤に堪へなかった。しかし、主力艦で強ひられた劣勢は一等巡洋艦以下いはゆる補助艦の充実によって何とか補ふことは出来ると当時の海軍の首脳部は考へてゐました。当時の我が国の造艦技術の水準は英国と並んで、或いはおそらく英国を凌駕して世界最高に達してゐました。補助艦の充実によってワシントン体制の不条理な劣勢は克服できると考へてとにかく軍縮会議への招請には応じたのです。ところが主としてアメリカの策略により、今回の補助艦制限事項も英米対日本の比率は又してもワシントン条約と変わらぬ苛酷なものでした。

ロンドン軍縮条約も、決して納得づくではなく、専ら国際協調といふ見地の上から調印されます。この時、ワシントン条約に懲りてゐた海軍軍令部は切実な反対意見を述べるのですが、浜口内閣はその軍令部の意向を抑へて敢へて条約に調印した。これが天皇の「編制大権の干犯」に当たるといふ解釈が一部に生じたのであります。



大日本帝国憲法の「統帥権条項」、すなはち第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第十二条「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」、第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」の三項でありますが、その第十二条が「編制大権」であります。あの条約比率では帝国の国防に責任が持てない、といふ軍令部の主張を押し切って、軍政部代表としての海軍大臣がロンドン軍縮条約に調印してしまったのは、編制大権の干犯であるとされまして、当時野党であった政友会の総務、鳩山一郎代議士が議会質問に取り上げたのであります。これが事件の発端になります。

浜口雄幸は、国政を担う人物として第一級でありまして、後世の評価も高い。私も実はその回想録などなかなかのものと思って、感服、感嘆しながら読んだ覚えがあります。ただ残念ながらこのとき、浜口総理は、鳩山代議士の法匪のやうな質問に、適切な法理を以って答弁することが出来なかった。それ故に、非常に程度の低い質問から、あたかも統帥権干犯といふ大問題が生じてゐるかのやうな事件になってしまった。浜口内閣の閣僚の誰しもが、この鳩山代議士の程度の低い質問に答弁できなかったところに、大正教養派世代に生じた伝統の断絶といふ現象を如実に見て取れる、といふのが私の見解なのであります。それはかういふことであります。


大日本帝国憲法第十一条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」といふ誠に簡潔なものです。これを特に統帥大権と呼んだ。第十二条は編制大権、第十三条は宣戦布告、講和及び諸条約締結権です。これを簡単に講和大権と呼んでもよいでせう。以上、天皇と軍隊との関係を定義した三箇条は、ご覧の通り、いづれも文言が余りに簡潔に過ぎる。これでは、天皇の統帥とは具体的にどういふ形を取るのかといふことが、この三箇条の本文からでは説明できない。そこで、人はどうしても、憲法の立法者思想といふ法理を解説してゐる「憲法義解」(伊藤博文名儀で井上毅が執筆)に当たりたくなります。ところが「憲法義解」の解説もまた頗る簡単なものです。例へば、第十一条の統帥大権について、条文制定の理由を歴史的に述べてはをりますが、「統帥」とはどういふことなのかとの問ひに対する答へが出てゐるわけてはなく、(兵馬の権はすなはち朝廷に在り)といふ簡単な結論を提示してゐるだけなのです。今上天皇、つまり当今(とうぎん)の明治天皇は、自ら陸海軍を統べたまふといふことになる。かう説明するだけであります。(統べたまふ)とはどういふ形を取るのかといふことに説明がない、これでは、編制事項も含めまして、日本の軍隊は、天皇御自らが統帥したまふものであるといふ文言だけが、読む者の記憶に強く残ってしまふわけであります。ところが、「憲法義解」の第十一条の解釈には実は下敷きとなってゐた文章があるのです。
頼山陽『日本外史』の「源氏前記」であります。



大日本帝国憲法発布当時、わが国の立法府、行政府、そして軍部の中枢を占めてゐたのは、いはゆる維新元勲と見なされてゐた人々で、この世代に於いては『日本外史』は、およそ何か志を立てる者にとって必読の教養書でありました。簡単に言へばこの世代では『日本外史』も読まないやうな不勉強者はどうせ碌な者にはならないといふことになってゐたのです。ですから、憲法発布当時に、立法者側から提示された解説書としての「憲法義解」を読んだ時に、第十一条の解説に至って十中八九の読者は、ああこれは『日本外史』の思想だなといふことが読み取れたのであります。すぐに読み解くことができた。とすれば、統帥権の思想について『義解』よりも、もう少し詳しく知らうとすれば、『日本外史』を取り出して読めば良かったのです。『義解』の直接の著者である井上毅にしてみれば、(あとは日本外史を読んで、各人がこの部分の立法者思想を知らうとしてくれればいい)と言ふか、むしろ、(読者諸君は日本外史はすでにお馴染みであらうから、この簡潔極まる憲法第十一条が、以って何を言はんとしてゐるかお分かりであらう)、と、さう言った心境だったのだらうと思ふのです。特に『日本外史』を引用といふ形で触れることはなくとも、「憲法義解」の編纂はできたわけであります。そこで青年時代に『日本外史』を読んだといふ世代の人々が、憲法の問題に携はっているうちは謂はば相互に暗黙の了解が共有されてゐるわけですから良かったのであります。この世代の人なら、天皇が軍隊を統帥するといふ命題は、要するに二度と徳川幕府のやうな武家政権を出現させてはならぬといふのが、その裏の意味であるといふことを的確に読み取ることができたのです。



話が少し横道に逸れるかもしれませんが、「五箇条の御誓文」の第四条(旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ)の解釈にも実は深く関はってくるのであります。そこに(尊王攘夷といふやうなイデオロギーだらう)などといふ解釈がまかり通ってゐる。或いは福沢諭吉さんが(封建主義は親の敵でござる)と言ってゐるから、その門閥制度の如き封建時代の陋習を指すのであらうといった解釈がまま見受けられる。けれども、何の事はない、旧来の陋習とは幕府政治のことであります。つまり、日本国の持てる武力を総括的に統帥するのものが天皇ではなくて徳川幕府になってゐたといふ、そのことが鎌倉幕府成立以来の「旧来の陋習」であります。ですから(天地ノ公道ニ基クヘシ)の天地の公道、といふのはこれにもちゃんと含意がありまして(天は覆ひ地は戴する)といふあの原理ですね。「天」が覆ふといふのは万世一系の歴代の天皇がこの国を統べたまふことであり、「地」とはそれを戴せてゐる国土である。天が上にあり、地が下にあるといふのが公道である。つまり天皇がこの国を統べたまふといふのが、天地ノ公道なのだとなるわけです。それでは、天皇が親裁したまふといふ政治形態は、具体的にどういふことかといふと、これは「憲法義解」の前文が述べてをりますが、大臣の輔弼と議会の翼賛とにより、機関おのおのその所を得て国政を執り行ふ。その万機を公論に決した結果を天皇がご裁可になるといふのが、日本の立憲君主制の形なのであります。さういふ思想です。とまあ、『日本外史』を読んだほどの人なら、その趣旨は素直に理解することができたのであります。「憲法義解」を読んだだけで、ああ、これはあのことを言ってゐるのだなと理解できた訳です。





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続く・・・・





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posted by 絵師天山 at 00:25| Comment(0) | 日本画の真髄
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