2016年05月29日

記念講演

これまでにも度々当ブログに御登場いただき
拙個展図録に丁重なる評文を寄せて戴いたり
毎年、親しく院展をご覧くださったり、日頃
高所大所から、様々とご指導ご高配を賜っている
小堀桂一郎先生から、この度、
小冊子が送られてきました。





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           制作途中の日本神代絵巻を御高覧にみえた小堀先生




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           重要文化財【武者(もののふ)】の作者、
           小堀鞆音先生は桂一郎先生の曽祖父様です






御便りにはまず、こう、ご挨拶が。


冠省 
平成六年三月國立大學を退官するに際し、
學内の慣例に依り學部の公報に寄稿しておきました零墨が二十二年の歳月を經て此度再度印刷に付されるといふ思ひがけぬ遭遇となりました。同封の昨秋の國民文化研究會六十周年記念の集ひにての講演筆録に添へて御笑覧に供させて頂きますので何卒お讀み捨て下さい。 不一
平成28年五月吉日  小堀桂一郎拝



小冊子全文を以下ここに(数回に分け)掲載いたします。
世界に冠たる日本文化の一翼を担う筈であるにもかかわらず
西欧崇拝に囚われ、
アングロサクソンレギュラーに翻弄され、迷走し続けている
現代日本画世界に対しても・・・
この達見は大いなる警鐘と言えるでしょう。

真の日本文化再生に向けて、は勿論のこと、
日本画の真髄を求めようとする上でも
欠かせないお話でありますので、長文ですが御一読下さい。
筆者などは、このひと月、
つくづくと考えさせられた事であります。









六十周年記念の集ひ
記念講演
公益社団法人 国民文化研究会



東京大学名誉教授 小堀桂一郎先生
「伝統の断絶についてー再考・大正教養派と近代主義ー」


「大正教養派とは」


本日のお話は「伝統の断絶について」と題しましたが、副題を付けないと何を言ってるのか一寸お分かりになりにくいのではないかと思ひます。つまり、「伝統の断絶」といふ主題だけを御覧になりますと、多くの方が昭和二十年から昭和二十七年にかけての米軍による占領期に、我が国が受けました文化破壊の悲劇を思ひ起こされるだらうと思ふのです。確かに、米軍の占領政策によって我が国の精神・文化伝統は大きな打撃を受けました。そのときの傷跡が未だ固疾となって疼き、折に触れては傷口が崩れて新たに血が噴き出すといふやうな現象を目にすることがあります。

本年は戦後七十年であるといふ標語が、あちこちで目に付き、耳にも聞こえてきましたが、米軍の占領から解放されて、我が国が国家主権を回復し、表向き「言論表現の自由」を我が手に取り戻した講和条約の発効(昭和二十七年四月)からの歳月も既に六十余年になります。それなのに、今以ってなほ、我々が占領時代に受けた思想や感性への外からの束縛を脱却することができないでいるといふ現実があるのです。そこで一つ考へられることは、米軍占領期の日本文化破壊工作に対して、我々の先の世代はどうしてあのやうに、抵抗の意識が稀薄だったのか。唯々諾々として、占領軍の強引な要求に盲従してしまったのか。あの抵抗精神の欠如の裏に、何があるのか、何か訳があるのではないか、といふことを考へるのであります。

戦争に負けたことからくる挫折感とか、既に武装解除の措置を受けてしまったことによる無力感といふことは当然あったかと思ひます、国の歴史初めて、国土に敵軍が乗り込んできて、恣に権力を振ひ始めた訳ですから。軍の解体によって、我々は対抗すべき武力を既に奪はれてしまってゐる。力による抵抗は不可能といふ状況になってゐることも確かにありました。しかし、政府は降伏したけれども軍はまだ敗北してはゐないといふ意識も、軍の一部には確かにあったはずであります。つまり、降伏といふ形での停戦協定にお応じたのだから敗北を肯ずるのは致し方ない。ただ立派な負けっぷりを示すといふ考へ方もありましたし、現に昭和天皇の終戦の御詔勅には、「確ク神洲ノ不滅ヲ信し」「道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ」といった国民に対する激励のお諭しの言葉も入ってゐたのであります。それなのに、占領が始まってから後の対応は、「志操を鞏(かた)く守って國體の精華を發揚する」といふのとはほど遠いもので、勝利者への迎合と敗者の卑屈に満ちた洵に恥づかしいものでした。「面従腹背」といふ言葉もございまして、それならばまだ良かったのですが、占領初期の日本人は自分の内から進んで、傲慢な勝利者が持ち掛けてくる要求を本心から受け入れてしまった。さう見える社会現象が頻りに目に付いたのであります。


この現象の象徴的な一例を挙げますと、日本国憲法の前文にあります(ここに主権が国民に存することを宣言し)とか、(そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し)云々とかは、アメリカ独立革命の宣言そのものの政治思想です。しかも、その後に(これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基ずくものである)と恥づかしげもなく宣言してゐる。このやうな、日本の国体に対する侮辱と見なすべき、全く異質な価値観の宣言に対しては、本来なら、国民が一斉に立ち上がって「それは違ふ」と叫ばなければならない。ところが、日本国民はこのとき、占領憲法を、大勢としては素直な賛同を以って受け入れてしまったと見えるのであります。かうした時勢迎合の心理の奥に何かがある。それは何だらうか、といふのが、今日のご報告の着眼点であり、そこには「大正教養派と近代主義」とでも呼ぶべき心性が介在してゐる、この事態をもう一度考へてみる必要があるのではないか、といふのが私の提案です。


今でこそ私どもは、日本の国の形がいがいかになるべきかといふこと、つまり、日本国の国体に相応しい自主憲法を構想するに当たっての思想的な地盤、或は視点といふものを把握してゐまして、さういふ自覚、自信がある。その地盤とは、国家民族共同体としての二千年に亙る国の歴史そのものであります。これが憲法制定の地盤でなくてはならない。ところが米国占領軍の民政局の連中が、その素人たちが、六日六晩のやっつけ仕事、いはゆる糊と鋏の作業で作り上げた「占領行政基本方針」といった悪文を、時の我が国人は、自国の憲法として、恬然として受け入れてしまった。当時の為政者たちには、極く一部の具眼の士を除いて国体の根幹をなす歴史認識が完全に欠落してゐた。さう断ずるより他ないのであります。さうであるが故に、占領軍の日本破壊工作がもたらすであらう大変な禍に対しての危機感が稀薄だったのではないか。


被占領期に米国占領軍に対処した為政者たちの世代について考へてみませう。
昭和天皇は明治三十四年のお生まれで、昭和二十年には宝算四十五歳であられたことを目安として考へてみますと、当時の国政を担ってゐたのは概して明治二十年代から三十年代に生まれて、大正期に青年としての修業時代を過ごした、いはゆる「大正教養派」の人々ではなかったか。さうだとすれば、あの不甲斐ない無抵抗と強者・勝利者への迎合の心理には、或る意味で案外、自然な因果関係があるのではないか。さう思はれてくるのであります。

すぐに思ひ浮かぶいのは、終戦直後の、あの国語の受難期の只中における、作家志賀直哉による(国語としてのフランス語を採用するのが良い)といふ暴論であります。さすがに、その、軽佻浮薄ぶりは誰が見ても目に余るものであり、志賀直哉を深く尊敬し師事した作家の阿川弘之さんも、志賀についての論があの件に及ぶときには、何としても弁護しかねて、苦笑して話をそらすより他なかったのです。
志賀の軽薄さが念頭に浮かぶと、直ちに、大正元年九月十三日の乃木将軍夫妻の明治天皇への殉死事件に際して、彼が日記に書き付けた乃木将軍への軽蔑の表現をも思ひ出します。彼は乃木殉死の報道に接して、乃木さんが亡くなった翌九月十四日の日記に、(乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時、「馬鹿な奴だ」といふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた)と書き付けました。当時、志賀直哉は三十歳。既に新進作家として立派に認められてゐた。それなのに、これは変に不器用に曲がりくねった文章でをかしいと思ふのでありますが、乃木将軍の殉死を無考へな下女の過失並に扱って軽蔑してゐる。これは、決して若気の至りで筆が滑ったといふわけではない、本気で書いたものだと思ひます。

その無慚な軽蔑的言葉で評せられてゐる乃木さん自身が、まさにその年の四月、上原勇作陸軍大臣からの招待宴で、森鴎外と同席した際、これは鴎外の日記に出てくるのでありますが、鴎外に向って(学衆院の卒業生たちが作ってゐる「白樺」といふ同人雑誌がある、あの同人雑誌の言動に何か怪しげなものがあるので注意して見てゐてくれ)と語ったといふ、その予感がまさに的中したといふ感じだったのであります。


御承知のやうに、森鴎外、夏目漱石は、乃木さんの殉死の報に接して強い衝撃を受け、その感動には啻(ただ)ならぬものがあった。鴎外の名作「興津弥五右衛門の遺書」、漱石の「こころ」は、乃木さんの殉死から受けた衝撃を結晶させたやうな記念碑的な作品だと見なされてをります。

この二人の明治人とは全く違った型の人間が、同じ文藝に携はる人々の間にさへ生じてきてゐる。これはまさに「大正教養派」といふ型の発生を、文学史上にはっきりと記録した象徴的事件だったと思ひます。志賀直哉の日記に限らず、ここに生じた伝統の断絶を証拠として示すやうな現象は、まさにこの乃木殉死事件をめぐって、枚挙に暇がないほど多く記録されていゐます。その中の一つに芥川龍之介の短編小説「将軍」(大正九年発表)があります。作者は白樺同人ほど極端ではないが、概して乃木否定派に属してをります。かつ、そこで芥川は、乃木さんの明治天皇への誠忠についての懐疑を登場人物の親子間の世代の断絶といふ形を借りて書いてゐる。乃木さんを賛美する元参謀将校だった父親と、乃木さんの心事に疑ひを抱く息子との対話といふ形で、作者の芥川は「時代の違ひだね」といふ作中人物の台詞を以って何とか説明を試みた。もしくは説明し難い難問から逃げてゐる。さういふ例もあるのであります。




「和辻哲郎、若き日の誤り


ここに生じた「時代の違ひ」といふ世代間の精神や感性の亀裂といふ現象にどういふ意味があるのか。それが後世に、例へば、現に私どもがここに生きてをります今日現代にどのやうに関はってくるのか。それを分析し、表示する材料として、もう少し別の事例を挙げて、この世代間亀裂の現象を考察してみます。


第一の実例でありますが、鴎外の史伝「渋江抽斎」を取り上げてみます。「渋江抽斎」は、東京日々新聞と大阪毎日新聞に、大正五年一月から六月まで半年間連載されたものですが、完結致しますと、翌七月の「新小説」といふ雑誌に早速書評が出ました。評者は当時二十七歳の新進気鋭の哲学青年和辻哲郎であります。和辻さんの生涯、殊に戦後の老熟期の哲学・文藝学士の業績は私が深く敬重して已まないところですが、このときの書評に表れた限りでの若き日の和辻の学問観は、一言で言へば未熟であり、かつ誤ってゐる。和辻さんは、「渋江抽斎」を鴎外による文化史の試みと捉へた。これも文学的な把握として誤りですが、大きな失策ではない。問題は、史伝を文化史であると捉へて論を立てた時の文化概念の誤りです。和辻さんは(文化とは人類がある一つの目的に向かって進んで行く道程である。一つの文化もまた、一人の人間のやうに成長し進化しなければならない)といふ尺度を立てます。この尺度で測ってみると、江戸末期の儒学者である渋江抽斎の生涯を淡々と描いた鴎外の作品は、人類の目的といふ普遍性がない、或いは成長進化の相が全く書かれてゐない、骨董の世界でいふ「掘り出し物」に過ぎない、と説くのであります。ここで和辻さんは「文化は進歩するもの」といふ理解、「人類文化の普遍性」なるものがあるといふ二つの誤りに囚はれてゐる、そして私どもは、これが大正教養派の特質であり、彼等が囚はれてしまった共通の誤れる固定観念なのだといふ認識を得ることになるのです。先ほど触れた日本国憲法前文が「人類普遍の原理」と言ひ、或いは「政治道徳の法則は、普遍的な」といふ普遍主義と並べて、前文の終はりの方で(専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる)と社会進化の原理をいい気な調子でうたってゐますが、その誤りがここにも表れてゐるのです。


若き日の和辻さんについてさらに悪い事がある。和辻さんは、普遍性を原理とする「真の文化」といふ表現を用ゐます。その「真の文化」はフランスにもドイツにもロシアにも底深く流れてゐるけれども、日本人は少数の識者を除けば「真の文化」の存在を問題にしていないといふ叱責と慨嘆を書き付けるのであります。西欧文化は普遍性と進化の原理に拠って立つ故に「真の文化」である。日本の文化は普遍性がないので、或いは地方性や辺境性に囚はれてゐる故に「真の文化」とは言へないといふ判断ですね。老熟期の和辻さんとは、似ても似つかない西欧崇拝に囚はれて」しまってゐる。この西欧崇拝は、西欧が先進文明であり、日本は後進国であるとの認識に基づくわけでありますから、この立論は事の当然として進歩主義、近代主義に囚はれることにもなるのです。


近代主義の定義を一言で言ひますと、近代こそ古代中世に比べて遙かに優れた時代であるといふ、近代賛美論なのですね。和辻さんは、やがてこの普遍主義や近代主義を脱却して見せたからまあいいのですが、当時の知識人層の多数は、かうした大正教養派に通有の近代主義から脱却できなかった。さう私は見ております。さういふ世代の人々によって日本の精神伝統の断絶といふ現象が生じ、その断絶は、やがて国政を誤る次元にまで拡大し増殖してゆく。そして、つひには、占領期に生じた文化闘争に於いて完全な敗北を蒙るといふ事態になるのです。






次回に続く・・・・・・
【日本画の真髄の最新記事】
posted by 絵師天山 at 01:02| Comment(0) | 日本画の真髄
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