2016年03月23日

続々 神と魑魅魍魎

死生観、

これは、非常に大切。

これ無くして人生は語れない・・・・
これが定まらねければ、良い仕事は出来ません。
仕事のみならず、
人事百般、微に入り細にわたって、
その人の抱く死生観は
その人の人生そのものに影響を与えずにはおかない・・・


勿論、絵にも・・・



死と共に無に還る、
とされる一方、
あの世、とか、彼岸とか、来世・・・がある、
とも言われます。


死すれば無に還り、肉体は勿論のこと
自己意識もすべて無くなるし、
魂など存在するはずはない。
つまりは全くの無。
もしも霊界などというものがあるのなら、
人類の歴史を通して死んでいった人でもう超満員!
・・・・なハズではないか・・・!と。


また、生まれ変わって、今生で叶わなかった事を
次に実現したい・・・などという泣き言を吐く前に
今という今、全力を尽くすべきでアル!
とのご意見もあり、
至らぬ自分の情けなさから逃避する方便として、
あの世と言うものが・・・設定されたのだ・・・・

・・・ごもっとも、


だがしかし、
別に、今という今、も
努力を惜しむつもりは毛頭ないが
命が尽き果てれば
全くの無になってしまう・・と言うのでは
ちょっと淋しい気もする・・・


それに・・ポジティブでさえあれば
来世へのさらなるアップグレードな人生設計は
楽しくもあり・・・

生まれ変る先を考える故に
今が充実することも・・無きにしも非ず・・・




結局・・
死んでみないと解らないことに
夢中になっても・・・
仕方がない・・まあ
適当にしておけ・・・・
という事になり・・・・
深く考えずに済ます。




冤枉罹禍(えんおうりか)
という言葉をご存じでしょうか?

無実の罪・・・・と言いますか、

明治維新前夜の政治運動の途上で
非命に斃れた勤皇の志士たち、
特に刑死の憂き目を見た人たち・・・
について、
彼等は無実の罪で思わぬ禍を蒙った不運な死者であった、
と見なす。
彼等に死を与えた側も、
これは裁判上の手続きに於いて過誤を犯した、
と言う様なものであり、
攻撃的な殺意があった訳ではなかった。と見る。

無念の最期を遂げた志士達の霊にも
幕府権力への恨みを永く抱いてもらうのは望ましいことではなく、
・・・・つまりは、
弾圧事件の加害者と被害者との間に
幽冥、境を異にしての和解を図ろうとする着想が生じる・・・
のです。

なかなか難しいところ・・・

人殺しとか、非道なる犯罪ではなく
つまりは、個を捨てて公に尽くそうとするあまり、
解釈の違い、とか、価値観の相違とかで、罪人とされ、死を与えられる・・・

吉田松陰が、その分かりやすい例であります。


吉田松陰先生は犯罪者と認定され、なぶり殺された!
・・・にも関わらず
その遺徳によって神様と祀られ・・・
いまなお尊崇の対象であり、
私を超越し、公にのみ生きた稀有なるご存在である、
とされ、恐らく、
未来永劫、ズーッと仰がれることでありましょう。



死後は全くの無である、
・・・のかも知れないが、
そうウソブク方をあざ笑う如くに
吉田松陰先生は、
確かに・・・死を超越してしまった!



正反対に、例えば
平将門。


事実無根とする説もありますが、
私憤を抱き
受け入れられないと見るや朝廷に反逆、
憤懣をぶつけまくって戦塵に散った後
21世紀の今日にまで祟り続けている!という存在。

コチラは、千年の時を越えてもいまだ納まらず

死を受け入れることが出来ていない。


これをどう説明するのか?

・・・・・、
同じく神と祀られている両者の違いは・・・・何?



オノレの抱く死生観の背後に・・・
ホントのところ・・・
何が影響しているのか、

神なのか魑魅魍魎なのか、

それこそが、大切なのであります。





生死に離れざれば何事も役に立たず。








posted by 絵師天山 at 18:24| Comment(0) | 古事記1300年
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