2015年12月30日

魅惑の百人一首 97  権中納言定家 (ごんちゅうなごんていか)


【権中納言定家】(ごんちゅうなごんていか)

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

   こぬひとをまつほのうらのゆうなぎにやくやもしおのみもこがれつつ





             定家.jpg
              (天山書画)





「まつほの浦」は、淡路島北端の浜で「待つ」に掛かる。
「焼くや藻塩の」は、海藻に海水を何度も汲みかけ、塩分を多く付着させて乾かし焼いて後水に溶かし、上澄みを煮詰めて塩を採取すること。
「こがれ」は、藻塩の火が焼け焦がれると、思いこがれるとに掛かる。


本歌は万葉集の長歌

淡路島松帆の浦に・・・・
夕なぎに藻塩焼きつつあま乙女・・・・


から。

凝らしに凝らした
選りすぐりの技巧でこねくり回した歌であり、
正岡子規などが舌打ちしかねないような、
所謂『造られた』系の典型例。
と、言えましょうか・・・?


職業歌人でしか詠めない、
テクニカルなる和歌であるとは思うけれど、
深い味わい・・?でもなければ、
感動して言葉も出ない・・・訳でもない・・・・
思わず知らず魅せられてしまう、でもなし、・・・・
後鳥羽院様などは、・・・
定家のこういう小手先の技巧的作品を
若干、バカにしていたのではなかろうか?
・・と、さえ思われるのであります。

何の先入観もない処に、
心からなる素直な詠嘆が言の葉として響き出で、
思わずウットリさせられるのが和歌の魅力!・・・
・・・であるとすれば、
なるほど明解答、百点満点・・・
かも知れないけれど、・・・
ちっとも面白くはない。
・・・という感じに止まるのです。ネ。


少々辛口に過ぎるかも知れません。
とても、こんなに上手く詠えない、・・でしょうが、

「藻塩焼く」という情景が
思い浮かばない現代人として尚のこと、
もっと素直に詠めんのかなぁ?!
・・・・と言いたくなってしまう。
百人一首の産みの親である大天才でありますけれど、
だからこそ、
少し残念な気がしてしまう。

しかし、
オマエの勉強が足りていないから・・サ

と、
定家卿はおっしゃるに違いありません。


もっと詳しく本歌を挙げれば

名寸隅(なきすみ)の 舟瀬ゆ見ゆる
淡路島 松帆の浦に
朝なぎに 玉藻刈りつつ
夕なぎに 藻塩焼きつつ
海人娘女(あまをとめ) ありとは聞けど
見に行かむ よしのなければ
ますらをの 心はなしに
手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて
たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫(ふなかぢ)をなみ

  〜笠金村(かさのかなむら)


ネ!

恋い焦がれている思い人の処へ
漕ぎ渡る手立てもなくただただウロウロ・・
オロオロ・・・、
嘆いているだけの男の慕情が、
実に良く伝わってくるじゃありませんか!


誰にも覚えがある様に
恋は憂きものである・・ことを共感させる
スバラシイこの長歌を承けて、
「来ぬ人=男」を待っている
「海人乙女=女」の立場に見立てて
・・詠った・・・・・ところに
新鮮な工夫があって、
さすがは定家卿
当時抜群の高い評価を得た自信作でありました。

この歌は、
謡曲中の白眉とされる「松風」に、
そのままの形で採用されており、
このパートを謡うのは謡い好きの醍醐味とされ、
私も洩れずに大好きですが・・・
(へたくそでも良い気分で謡えるところ・・・だし・・)

それでもこの和歌はなぜか

素直に楽しめない。






posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(3) | 百人一首
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