2015年12月28日

魅惑の百人一首 95    前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)


【前大僧正慈円】 (さきのだいそうじょうじえん)

おほけなくうき世の民におほふかな我がたつ杣に墨染の袖

   おおけなくうきよのたみにおおうかなわがたつそまにすみぞめのそで






          慈円.jpg
           (天山書画)





「おほけなく」は、身分不相応に、モッタイナクモ・・差し出がましくも・・・
「おほふ」は、蔽う、で、仏法によって天下の人々の幸を祈る、という様な意味。
以下墨染の袖で蔽う、に繋げたのです。


「我が立つ杣」は、伝教大師(最澄)が、比叡山根本中堂を建立するときに詠んだ和歌

阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣(そま)に冥加あらせたまへ

あのくだらさんみゃくさんぼだいのほとけたちわがたつそまにみょうがあらせたまえ

により、杣山=木材を伐り出す山、であり、比叡山の別名。

「墨染めの袖」は、墨染めに住み初めが掛けてあり、僧衣のこと。

僧慈円は、関白忠通の子。
であり、九条兼実の弟、良経の叔父に当たる。
政界に於ける九条家(=藤原一派)、の地位変動にリンクして天台座主という地位に四回も立たされたのですが、この詠は若い頃の入山修行の折のモノ。誠に初々しい・・・・

おおそれながら、
仏法に依って経世済民を図る立場になってしまいました・・
という、感懐を述べたものでありましょう。


比叡山を権力下に置いておくことは
当時の政界を牛耳るに必須。
藤原一族から天台座主に登った方は多いのです。


慈円は、六男でしたから、
既に11歳になった時出家しておりました。
藤原氏の権勢を一方から支える役割を仰せつかっていました。


鎌倉時代初期の歴史書である『愚管抄』はこの御方の著作。

和歌の名人であった事は勿論で
おびただしい数の作品が遺されています

権力の頂点に長居したにも関わらず長命を得ましたから、
仏法に依って民の幸せを祈ると同時に
ご自身も幸せだったのかも知れません。








posted by 絵師天山 at 03:00| Comment(3) | 百人一首
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