2015年11月26日

魅惑の百人一首 91   後京極摂政太政大臣


【後京極摂政太政大臣】(ごきょうごくのせっしょうだじょうだいじん)

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

   きりぎりすなくやしもよのさむしろにころもかたしきひとりかもねん





              良経.jpg
               天山書画






「衣かたしき」=衣片敷き・・・で
男女が共寝する場合お互いに袖を敷き交わすが、
独り寝の場合は片袖を敷くだけ・・・という訳ですね。


「さむしろ」はムシロ=フトンの役目と
寒し・・・にも掛かる様で、
とにかく独り寝は淋しく切なく、侘しいものだなあああ・・・


本歌は、

さむしろに衣かたしきこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む


の、両歌。・・・
恋を秋に移してさらに余情をたたえています。


後京極摂政太政大臣・・・という、長たらしい肩書は、
位人臣を極めた御方なのに、
不幸にも不慮の死を遂げてしまい
38年の齢を惜しまれたから・・・でありましょうか・・・

のちのきょうごくのせっしょう、だじょうだいじん、・・
藤原良経のこと・・・・。


関白忠通の孫であり、九条兼実の息子、
幼少より英明、詩歌を好み、俊成に師事。
定家を庇護して新風和歌教育に尽力した・・・
後鳥羽院に強く信任され和歌所寄人としても大活躍


新古今集巻頭をかざる名歌


み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり

は、殊に有名・・・・・
しみじみとした春彩を想起させます・・・・



私事ですが、
行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ

九条良経(=藤原良経)のこの和歌の上の句が我母校の校歌に採り入れられておりまして、
・・千歳の昔ぃ行く末はぁぁ・・空も一つぅぅの武蔵野にぃぃ・・・・・・ぃーー
なかなか荘重なる響き、であり、校歌とは思えぬような格調の高い調べなんですが、
在学当時は勿論そんな名歌人の歌が校歌に使われているなどという事は露知らず、
ただ、武蔵野の面影がまだ残っていた地域なので、それとは知らずに唱わされて居りましたが、
今になって見れば、大好きな九条良経サマの和歌に若いうちに親しんでいたことを知り、さらなる愛着を感じずには居られません。



西行こそ最高の歌人デアル!!
と、・・・西行の項で申しましたが、
・・・・日本画界に於ける最高の画人は?と言えば勿論
春草!
と言いきっているのですけれど、
しかし、まあ、大観も居れば、等伯も居るし、
探幽もいれば応挙だっている、・・・様に・・・
西行に優るとも劣らない名歌人がこの人!
九条良経サマ!!!!ナンであります!!

新古今和歌集仮名序の作者でもあり、79首の撰入は俊成をも凌ぐ・・・


この歌を贈られた女性は・・・
心の深いところでドキリとし、
どんなにかあはれを催した事でありましょう・・・
ただ単に秋の寂寥感を詠ったものではないのですね。



承久の変の後、隠岐の島に流された後鳥羽院さまは
新古今をさらに厳選、1978首中、約1600首を残し、いわゆる隠岐本を抄したのですけれど、良経の詠は79首中、わずか7首を除くだけだった、ということからも、如何に重んじられてゐたかを知ることができます。


清新で明るく、大きいだけでなくおっとりとして鷹揚。
いかにも貴人に相応しい詠みぶり。
家集≪秋篠月清集≫巻頭の歌がそのあたりを良く伝えています。

むかしたれかかる桜のはなをうゑて吉野を春の山となしけん

勅歌に対して、至尊調(しそんちょう)という表現を用いたのはかの保田與重郎(やすだ よじゅうろう)氏ですが、この良経の詠みぶりを評せば貴人調、という事が出来るかも知れません。
職業歌人などには及びもつかない格調の高さであります。

38歳で盗賊に襲われ頓死した・・・と
伝えられられていることは、当時としてもあり得ない様な稀有なることでもあり、様々と憶測が飛び、事実・・・なにか、闇の働きによって惨殺されたのかも知れず、この御方の地位と当時のお立場を考えれば、恐らく、鎌倉方の権謀術策に違いなく、嫌な想像は当たらずとも遠からずではないかと・・・・





posted by 絵師天山 at 02:00| Comment(4) | 百人一首
この記事へのコメント
高橋天山さんがこんなにキャラの面白い人だとは知らなんだ


関西在住
Posted by すずめ at 2015年11月26日 17:23
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