2015年09月16日

院展100年


院展100年記念に私からも一言
しかし、それは既にお二人の大先輩が
言い尽くしているのと同じ、
ただ、当時の言語表現では現代人は分かりにくく
現代語訳しなければ通じないことを
残念に思いつつ、
この一文を再び提示致します。









菱田春草、横山大観 連名による

【絵画について】   (現代語訳)


私ども先頃来、
インド米欧巡遊の折には長くご無沙汰致しましたこと、お詫び申し上げます。
帰朝しまして早々、日露戦争大勝利に連れて今後美術界も又、いよいよ数多の希望が満たされる時代となるかと存じております。そのような折、皆様具賢の方々より私共の将来の展望についてお尋ね下さり、感謝いたしている次第ですが、この際、意のあるところをいささか改めて述べさせていただき、もってお導きをお願いするものであります。

私共の外遊がどのようであったかというご質問を多く頂いておりますが、基本的にはすべて以前より考えていた事と大差はなくむしろ、色々見聞するにつれ、従来の覚悟をさらに徹底追及してゆこう、という決意を改めて固めたに過ぎません。

およそ芸術というものは作者の人格による表現でありますから、技術は単なる表現の手段であろうかと思います。従って、内面的修養充実を心掛けておれば、表現の手段方法はそれぞれに任せられるべき事でありましょう。

私共の様な至らぬ者でも、この道を歩むと決めた以上は自分なりの理想を自分なりの方法によって表現することでそこに自ずから流れ出たものが認められるようになりたいものと存じております。

このように考えると、東西の画風、流派、様式などが人文思潮の流れに応じて変転進化しつつ極まることなき永続性こそ芸術そのものであると言わねばなりません。

筆を取って画面に向かえば大和民族固有の趣味が期せずして自然に流れ出して来るという、それこそがいわゆる日本画でありまして材料や、技術の動向によって東西を区分けする事に意味はありません。

従って、私共は“真正の絵画探究”をするにあたって、自己の中から湧きだして来るもののみを描き出す以外に方法のないことを改めて思うのであります。

よくよく国内近頃の傾向を見ると、ただ写実を奨励してそれによって旧来の型にはまった画流の欠点を補おうとするのは、一応の応急処置ではあるけれども、だからと言って、写実派などというものの存在が必要だとは思われません。

もし写実が芸術の究極であるとすると、そもそも自然そのものが大芸術でありますから人間の行うちっぽけな芸術は無用である、とさえ言えるでありましょう。

考えて見れば自然そのままでない処を目指すことが芸術でありますから、“自然以上”を求めなくて芸術に何の意味がありましょうか。

そもそも絵画は、推量し想像させるようにもってゆくことに意味があるのでありますから、“しんしんと降る雪の音”を表現するに露骨な写実をしたところで遠く及ばないことは明らかでありまして、単なる写実で表現出来るものには自ずから限度があるのです。

しかし東洋では古くから写実も行われて参りました。ただし、それは眼に依るも、心象を活かす、という写実方法でありまして、浅薄な洋画家流の者が上辺の形だけ捉えようと苦心するのは、つまらぬ囚われでしかありません。

近頃流行りの写生なるものは教える側も習う側も、モデルに向かう好奇心に浮かれているだけであって不完全な設備、方法もさることながらそのいい加減な描写の態度は、本来の洋画家に対して失礼の極みと申せましょう。

一方で写実派があるならば、対する理想派が必要かと言うとそういうものでもなく、絵画の入口は写実ではあるけれども、目標は理想の実現であるのですから、写実派と理想派に分けるべきではありません。故に写実派に対しての観念派ないし理想派といった区分けは、主題上のものについてであって、制作上の表現についてではないのです。
あえて写実派に対するものを求めるとすれば、それは却って形式化を招くこととなり類型化に陥るのでありまして、写実のみに囚われる愚、と全く同じ誤りと言えましょう。

よくよく国内作家の風潮を見ると、日々に追われて、形式に堕し、新しき創意なく、ただ左右の者達としのぎを削り合い、ドングリの背比べをする事のみに終始しているのは誠に情けない有様であります。

近年欧米で典型派と情熱派とが相互にしのぎを削っているその側面には、描法に於ける印象派、色彩派などの新技術と主題に於ける比喩派、表象派、他の新思想とが双方現れて来たことが影響しているのでありまして、詰まる所描法と主題との一軽一重により生まれる変化のあらわれ、に過ぎないのでありましょう。

考えて見れば主題というものは、ほぼ、どのような種類の芸術にも共有されるものですが、手法はそれぞれの特異なものであって当然、絵画には絵画たる手法があるのでありますから、画道の研究の中で、ある特殊なる描法を主張することもこれ又当然有り得べきことでありましょう。

私共は既にこの研究を通して今後はいよいよ色彩研究を深めて参ろうとするものですが、それはあくまでも私共独自の色彩研究でありまして、かつての光琳やドラクロワの亜流でないことは勿論で前人の用いて来た輪郭を省略し無線に成しもっぱら色彩によって形成してゆくやり方をご覧になって、これを東洋画ではないとし、もっとひどいのになると、朦朧体と誹謗する人さえあるのですが・・。
さりながら、造形美術の起源よりすれば絵画と彫刻が区別されたのはそう古いことではなく、双方とも輪郭線によって成り立ってきたものであります。そしてそれらが美術と呼称されるようになると、絵画は明暗、濃淡よりも色彩的に志向し彫刻はレリーフから立体へと志向して行きます。

即ち色と形、双方に大きな志向の差が産まれてくるのは必然で絵に於いては書画一致の範囲から離れて
色彩によって絵として自立してゆくことになるのは、音楽がその音調によって音楽らしくなってゆくのと同じことと言えましょう。

加えて彫刻は塑像が現れるようになって以後、写実性を深めてきた今日であり、なお絵画だけが線描に留まって、彫刻の形式から出ないと言う事は実に心細い限りであります。

そもそも【線】なるものは“説明して理解してもらう為のもの”であって線による絵画のまどろっこしさは、文字ではないか、と言いたくなる程で、それに反し色彩はもっぱら直覚に訴うるものでありますから、彩画こそ、われを忘れる様な快味を与える為の近道と言えるでありましょう。文学ではなく音楽でもなく彫刻建築でもない絵画の絵画たる所以は色にあると言わねばなりません。

歴史的に見ても我が国にの残されている上代古典作品には、色線による描法の発達がありました。
古画の剥落した痕を調べて見れば下描きの線と言うのは色彩の境界を示すだけで、その上から重ね塗りして描出した後、更に色彩線によって輪郭を描き起こすという工程が加わるのです。これはその当時さえも、色彩が主であって、描線が従であった事の証であります。

我が国は古来より既に色彩を主とした域に達していたのであります。

これを考えてみれば、色彩を主用した絵画が邦画の特性を失う、と言う非難は当たらない、誤りであることは勿論、むしろある意味でつまらぬ縛り、となるものであり、この故に昔人は色線を用いて後の世の無線描法の為のステップを既に踏んでいてくれたものと思うのです。

又、他方、没骨描法と言うものが現れ、あらゆる表現手段の一部となって来ましたので、これを色彩をもって表す【色的没骨】に敷衍すればさらなる新段階が生ずるものと思われます。

シナの昔人が既に言っている様に“墨に五彩あり”とは、筆墨中に色彩を望もうとする意味で、単に文人画に止まらず雪舟の写し取る大自然の世界に於いてもこの考え方が含まれていることを知らねばなりません。

色彩を塗るのではなく描くのである。
という言葉の中に既に色彩的没骨法が胚胎しているのであります。輪郭と色彩とは不可分と言う意味でもありましょう。

今日の日本画家は今なお、輪郭線を主用し色は補用している有様ですから、言ってみれば有限をもって無限を表そうとし塗り合わせた色と色とを繋ぐ為に線を利用しているに過ぎないのであって、こんなものは明らかに自己満足の類に他なりません。

この様な処へ色彩の没骨による色彩的主用を志向するのは当然であって、あらゆる見地からしても必須の事と思われます。しかし世人は良く“東洋画の精華は筆墨にある”、と言い、“筆墨なき絵画は日本画ではない”、と言い、私共の主張と相容れない方も多いのですが、これは美術史ということを考えずただ骨董家の視点にとどまっているだけなのです。

我が国古代、上代、に於いて既に色線による絵画が一つの理想画として遺されているのに、中世、宋代禅画の輸入により一時筆力墨色の発達を見たのは、むしろ鎌倉武士の素朴さと、東山茶人の侘び寂びに同調した一種の変調と言えるものであって、日本固有の特色とは言えません。

加えて、描線と言うものが雪舟以降既に、狩野派の極めたものである以上、有限である線をもって無限を表すのは無理というもの、であり、行き詰まるのが当然であります。

日本文化の特色と言うのは、外国からの影響を廃して独自の文化が養成された時代の所産であって、藤原時代の雄麗さ、元禄時代の婉麗さ、この両時期のみに見られるものであります。 
もっとも藤原時代末期に鳥羽僧正の様な筆力軽妙の逸材も現れてはいますが、この時代の特色はあの源氏物語の様な着色豊富の制作群にあるのです。
その後、足利時代に抑えつけられた国風文化は桃山の豪華さを生み、次に、狩野、土佐、が現れたほか、文人派、写生派現れ、梅花桃李一時に渙発するように反動発達します。

中でも光琳による色彩印象派は空前絶後なる光彩を放っているのであります。ともすれば光琳を日本の南画であると言った評や、豪奢な装飾性のみに光琳らしさを求めるなどの評もありますが本当は主線画の中から古代の色線描法をを取り入れて千年の後に色的没骨を蘇らせた処に光琳の真価があるのであります。

不幸にしてそれを繋ぐものは出ませんでした。抱一独りがそれを継承せんとしましたが、写実派の影響が色濃く残り真価を受け継ぐまでには至らず、ましてその後は語るべき程の者が現れませんでした。
しかし例え光琳がいかなる大天才であろうとも今日20世紀よりすればなお、更なる進歩があるべきはずである、と私共は確信しているのであります。

我が国の絵画が諸外国に優先して遥かに高い印象派色彩派を有してきた事実を忘れ、軽々しくも、ラスキン一派の唱導に驚いたりターナーやドラクロアを称賛し、曳いては、ウィスラーにも劣るかの様な意識しか持たない者が居るばかりではなく、宗達、光琳による色彩的印象派すら洋画の模倣なりと成すような手あいが居ることは全く笑うべき愚かさであり、東西美術史の対比すら学んでいないわけであります。

私共の意図はただただ、絵画の大成にあるのでありまして、日本画の特徴のみを云々して満足することではなく、大和民族として生をいただいている以上は、風土による感化は自明のことであり、到らざる身ではありますが、画家として世に立つ以上は自分なりに独自の道を歩もうと存じ、外国の真似をするなどは深く恥ずる処であります。

全く今日、誰が真剣に絵画というものを研究しているでしょうか。いったい何人が胸奥に情熱をほとばしらせて独自の手法を志しているでしょうか。殆どの者は表面の図様を写すだけ、でしかありますまい。
元明時代の衣装に現代の色彩を塗りこめ、狩野派風の富士山を描いた横に円山派の雁の群を描き入れ、これこれの図・・などと、自称しているのも実に厚かましいばかりであります。
又、団体を組んで、何々研究などと自称している者も多くおりますが、ただ権力権勢を得んがために徒党を組んでいるだけのこと、でありましょう。昔から天才は各分野にわたってその才を示すもので、同一人が絵画彫刻建築、ないし、音楽文学に通じ、更には、科学工業政治等々にさえ渉れる者がおりますが、この研究は大天才にして初めて大成功を納めうるものですから、私共不肖の者があえて行おうとするも、無謀でありますが、如何せん時勢と境遇とに駆り立てられ、止むなく邁進する決意をいたしておるところでございます。

それ故、私共の生涯すべて修養中であり、自ら後を危うくすることは出来ない故に、門弟を養うことも叶いません。
然るに、何ということか、少し研究考察を深めた作品は、鑑賞者の目には止まらず偶々良し、とされる作品は殆ど全て、模擬踏襲のものばかり。否、むしろ従来作そのままを複製した様な作品でなければ良く認められない故に、今日いわゆる大家たる者も、それを肯定し、認められにくい追及をする愚を犯さず、ただ古人従来の模倣を平然とし、少々気鋭と自認し東西を参酌したと自称する者もその目的は観者への迎合である場合が殆どであります。

たとえ処世の為とは言え、軽薄姑息であることは免れず、とても百年の計、とは申せません。この様な時、私共が微力を尽くさんと、自ら危地へ志向するのは、止み難き覚悟の故であります。
この企図の成否は世の鑑賞者の何如に依っており、それ故に私共制作者の企図を今一度深くお考えくださいますよう。何となれば、僅かなる識者をのぞけば大多数の鑑賞者は所有作品の値上りを待つのみ、でありまして、その作品に対する一片の愛着すら持たない場合が殆どであるからです。

しかし、これはただ鑑賞者の罪ではなく、作家の側もその殆どが趣意もなければ自信もなく、金を儲けて豪邸に美人を住まわせることが終生の目標と言うような浅ましい境涯を出でないからでありまして、このようにして活ける芸術は死んだ調度品となり下がり、絵画を装飾と決めつけ、建築の部品と成す、という習慣に浸りきってしまうのであります。

芸術の自由は全くなくなり、悪戯に床の間の形に左右され、香炉花瓶の実用品と同じものとされ、茶道具扱いされて素晴らしい世界観、宇宙観をも見事に打ち消されてしまう訳で、こうなると、何をかいわんや、研究も進歩も今更全く無用の長物と言えましょう。

識者が言っている通り、探幽出でて狩野派衰え、光起ありて土佐派亡ぶる、が如き流弊の極みは、バルビゾン派の反動となり、ラファエル前派の勃興もこれまた自然の理と言えましょう。
このような一大危機に際し、専心研究し、ただ前途の開拓をもって自己の慰安とする私共の覚悟の程、上記の通りです。

幸いにも大方のご高察をいただくことが叶うならば、私共の素志も、ほぼ貫徹出来るチャンスもあろうかと思いますが、もし、不幸にして今生にてどなたにも御賛同頂けぬ時は、百年の後を期する他ありません。

私共は、徒に空論を述べようとするのではありません、作家としての手腕は実技にあり、その経験を重ねることが必須でありますから、ただただ多くの作品を制作して沢山のご批判の機会に恵まれれば、私共の趣意は自ずから明らかにされてゆくでありましょう。

不慣れにも言葉を弄したところでその意を十分には言い尽くせませんが大要は御理解いただけるのではないかと存じます。
乱筆乱文、ご容赦いただきますよう。 

 明治三十八年一二月 日本美術院 

     菱田春草 横山大観

             





この時から百有余年、展覧会は100回を迎えても
現実には院展が本来の姿から遠く離れてしまっているのは実に残念であります。

               







posted by 絵師天山 at 03:46| Comment(0) | 院展
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