2015年09月08日

魅惑の百人一首 83     皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)


【皇太后宮大夫俊成】(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

   よななかよみちこそなけれおもいいるやまのおくにもしかぞなくなる





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             天山書画






現実逃避、ネガティブ、逃げ腰、弱気・・・!?
なんだか、心の弱った折には共感されるかも知れないけれど
少々・・女々しくないか???

いえいえ、決して。
個人的な鬱屈を披歴した歌ではなく、
ご政道の、かく行われるべき姿 からかけ離れてしまった現状を憂いての、鹿鳴に託した歌なのであります。


明治政府が西洋の文物を取り入れ、近代化のシンボルとして建設した鹿鳴館は、この歌の心を捉えての命名??
と考えるのは、深読みに過ぎるけれど、当たらずも遠からずなのではないかと、私などは感じてしまいます。


現政権担当者の非力、非道を嘆いて、今上陛下の御心痛を慮っての作でありましょう。


九十の齢を経、正に歌道の重鎮たる俊成のこの歌を、敢えて百人一首に加えた息子藤原定家の心のうちも、確かに同じ様な気配があったのであろうと思われるのです。


千載集の撰者であった訳ですが、自分のこの歌は入れなかったが、後に、後白河院の勅により入れられた。と言う後日譚も伝えられています。


崇徳院退位の前年、俊成27歳の時の作、
という前後関係から類推すれば、容易にその心は知れましょう。


親友であった西行も、この折に出家してしまうのです。
無常の心は若き俊成をも強く捉えたのでありました。

皇太后宮大夫(こうたいごうぐうだいぶ)とは、
皇太后宮の諸事を司る皇太后宮職長官のこと。

俊成が主に仕えたのは、後白河后 忻子、
(公能女、俊成の姪、藤原忻子)
六十三歳で出家し釈阿と名乗り、後白河の院宣によって千載集の撰者を勤めたのは七十四歳の時でありました。


後鳥羽院は勿論この歌を高く評価されておられます。






            
posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(3) | 百人一首
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