2015年07月30日

【魅惑の百人一首】 77  崇徳院


 【崇徳院】(すとくいん)

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

   せをはやみいわにせかるるたきがわのわれてもすえにあわんとぞおもう






            sutokuin.jpg
             天山書画






非常に有名な詠唱であり、
百人一首中一番好きな歌!と感じる人も多いようです。


普通は恋歌とされていて、激情表出にウットリする女性も多いので、
「瀬を早み・・・」と、初句がでれば必ず「あはむとぞ思ふ」が、思い浮かぶ。


が、しかし、本来は「瀬を早み」ではなくて、「ゆきなやみ」としてこの歌は生まれました。

崇徳帝が新院となられて、直ぐに藤原公能以下13名の歌人に百首歌の詠進を命じ、御自らも百首を試みられた久安百首の中の一首であります。

その時は「ゆきなやみ」とされたのが、その後「瀬を早み」と初句を詠み替え、さらに「谷川」を「滝川」に改められました。

院政と藤原氏の権勢争いの犠牲となられた新院の嘆きや不満を慮れば、讃岐配流に至る心の動き、鬱屈した激情は故ないことではなく、この絶唱は、恋に託した心境歌、と見るべきであると思われるのです。


無理強いで血流が裂かれたとしても未来にはまたあるべき姿となりたいものだ!
と言う様な御意志の表れでもありましょう。

「岩にせかるる」は、岩に堰かるる・・・で
岩石によって堰き止められている・・・
この場合、岩は藤原氏と言うことになり
「滝川」は滝壺にたたき落とされた天皇家本流・・・という処でしょうか?

以前、謙徳公(けんとくこう)の項でも申し上げましたが、
諡号(しごう=貴人や高徳の人に、死後おくる名前。おくりな。)
で「徳」の字を付けられた御方は総て生前理不尽なるひどい目にあわされていて、せめても、として諡号には「徳」の字を付けて差し上げ、祟らないように配慮するのが当然の処置だった。


怨霊となってる・・から!? 祟らないように・・・!
その祟(たた)るという字はの字に良く似ていますね。
祟と崇・・・・・偶然かもしれませんが・・・
どれくらい理不尽な目に遭わされたのか、
これだけでも十二分に想像が付く様な気がするのですが。


結局、崇徳院は讃岐において悶々の内に崩御なされるのですから、これ以上の理不尽はなく、しかもその後長い間顧みられることさえなかったので、珍しいくらい重ねがさねの理不尽さ・・・を味わう事に・・・

鳥羽天皇第一皇子として御誕辰、第七十五代天皇として御即位されましたが、院政の中・・・実権なく、父鳥羽天皇の庇護もなく(実子ではなく叔父であるとされ)、閑居の内に過ごされた末の配流でありました。








posted by 絵師天山 at 04:00| Comment(2) | 百人一首
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