【法性寺入道前関白太政大臣】
(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)
わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波
わたのはらこぎいでてみればひさかたのくもいにまごうおきつしらなみ

天山書画
子を思う基俊に愚痴こぼしの歌を贈られたのは
此の人。法性寺入道前関白太政大臣、
関白忠通様の詠であります。
忠通は、保元の乱に崇徳院(すとくいん)を讃岐に流し
弟頼長の野心を砕いて頂点を極めた藤原氏の長者。
従一位摂政関白太政大臣という最高位まで登り詰め
法性寺殿に隠退して悠々自適しました。
さすがおおらかなる詠いぶり。
「新院(崇徳)位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」と、前書。
崇徳院御在位は、
保安四年(1123)〜永治元年(1141)まで、
この一首は、内裏歌合せで詠まれたもので
コセコセした処がなく、壮大なイメージが広がり
作者の心境を表明したものであろうとされています。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
と詠った道長の心境表出と通うものがありますね。
後にメジャーとなる法性寺流という書道の流れは、この忠通を祖としており、
俊頼や基俊などの近臣を集めては、書に歌に日々を楽しみ過ごしたのでしょう。
「雲ゐにまがふ」・・と言うのは、
雲が居る所と茫漠たる海面との見分けがつかない、
という様な意味で、
続く「沖つ白波」・・が効いております。
青々しく、どこまでも広がる海と空
そして、白波・・・・雄大そのもの・・・
「海上遠望」というお題、は
当時としては新しいものであったとか・・・
道長のやりたい放題の権勢は
既に過去のものとなったものの
新たなる時代を迎えて今度は私が天下を握った!
という気分を
ややオブラートに包んで表現したのではないかと思われるのです。
後に崇徳院を流刑にしてしまう訳ですから、
ケシカラン臣下の代表とも言えますが・・・