【前大僧正行尊】 (さきのだいそうじょうぎょうそん)
もろともにあはれと思へ山さくら花よりほかに知る人もなし
もろともにあわれとおもえやまざくらはなよりほかにしるひともなし

天山書画
大峯にて
おもひもかけず
さくらの花のさきたりけるを見て
詠める・・・・・・と詞書にあり、
大峯は吉野の奥、十津川の源流域。
修験者の天然道場としてメチャクチャ険しいあたり・・・
『千日回峰行』など、
修験道の修行は厳しく
深山幽谷で孤独に耐えつつ
心身をギリギリまで追い詰める。
行者として大峯山中に分け入った
この歌の作者行尊が
自分と桜とを同位に捉え
自分の心情と掛け合わせ
詠じたものでありましょう。
禅問答みたいな感じもありますね。
露に濡れぬは露ばかり・・・・
などと、
訳わからんことをわざわざ語ろうとするのは
宗教家にありがち・・・
もっとも、
道を求めているのは宗教家ばかりではありませんから
誰にでも若干の共感は湧くとは思いますが
・・・・・・・。
「あはれ」は憐憫の「哀れ」、ではなくて
・・・・お気の毒、とは別物。
「もののあはれ」などと使う「あはれ」。
親しみを感じるとか、懐かしく思うとか、
好ましく感じている様であり、
語の源は「あっ!あれ!!」・・・・
「あー、あれ!観てご覧!」・・・的な
かなりお気に入りな驚きをつづめて言葉にしたもの。デス
単独行の登山家はこんな気持ちなんでしょうか?
人知れず奥山に咲く美しさを孤独に耐えながら愛でる・・・
“真理を求める”
求道の心は【真摯】(しんし)に
生きようとする人ほど強い。
なぜ人は生きるのであろう?
自分という存在はいったい何だろう?
宇宙の真理をそこに見たり・・・
ただの自意識過剰!? と云うなかれ
こういう【真摯】(しんし)に生きようとする人は
案外器が大きい場合もあるので、・・・・
事実この作者 行尊は
天台座主、大僧正に登り詰めるのです。
花が美しいと感じる心は、
人間の側、人間の都合であって
花の方は別に“私は美しい”、と
思っている訳ではないでしょう。
同じく
地球の自然美と言うものは
人間の美意識によって
成り立っている。・・・・
と言う哲学的な問い?が
人恋しい情の中に同居しているのかも知れません。
【 もろともに あはれと思え ヒフミヨに もろはのつるぎ 知る人もなし 】
≪…「あー、あれ!観てご覧!」…≫で、数の言葉ヒフミヨ(1234)が、自然数としてこの世の中に普遍語にしてくれている風景を3冊の絵本で・・・
絵本「哲学してみる」
絵本「わのくにのひふみよ」
絵本「もろはのつるぎ」
魅惑の百人一首66の半分33の本歌取りで、
久方の光のどけき ながしかく しず心なく 四角生るらむ
光(数)の意味を、カタチの変化で楽し(あわれ)む・・・