2015年03月26日

理想美術館 7   小堀鞆音作 【武者】

小堀鞆音(ともと)作 【武者】(もののふ)





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              明治30年 







永遠の大傑作です!
これぞ大和絵!!
芸術に新旧などあるはずもなく
日本画こそ世界最高の芸術たることを
この作品は実証しています・・・
いくら絶賛しても足りないくらいの名作!!!

スバラシイ!!!!

現在は東京芸大付属美術館所蔵で
めったに開陳されることもなく
保存されてきました・・・
が、
栃木県佐野市のお生まれなので
佐野市では先般、没後80年展を開催
その威容を垣間見ることが出来たのです。


実は私もいつか武者絵を描いてみたくて
研究をささやかに続けており
以前、芸大の古田先生にお願いして
大学の保管室で拝見させていただいたことがあり
授業の一環として武者絵を採り上げていることを
その時に知り、
さらに鞆音の画稿も同時に拝見いたしました。
そのあたりから嫡孫である
小堀桂一郎先生とのお近づきを頂いて
大和絵の神髄について
直接学ぶことが叶った訳です。


佐野市吉澤記念美術館では
没後80年を記念して
鞆音の作品群が陳列され
初見の作品も・・・
中には行方が不明となっていた屏風もあり、
それはもうウットリ・・・
しかも小堀桂一郎先生の記念講演さえあって
忘れ難い一日を過ごしたのでした。






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             同 部分図







小堀鞆音(ともと)画伯ご自身の言葉に触れてみましょう。


【歴史畫は故實に拠るべし】


歴史畫(れきしが)を畫(えが)くには、能く当時の風俗習慣を調査し、成るべく其時代の風俗に当嵌るものを畫かなければならぬ、然るに此事たるや、至って困難な事柄であるから、割合に材料の豊かなるに係わらず、畫家は動(やや)もすれば、此方面から遠ざからんとする傾向がある、試に事實に就いて見れば、年々の文展若しくは展覧会と称すべきものに、古實(こじつ)を畫いたものの少ないに見ても分かる、勿論古實の少ないのは、当時現代の嗜好若しくは、其他の事情にも依るであらうか、他に一つの原因は、畫家殊に新進の畫家が煩を厭ふて此方面を研究するのを避けんとするに依るものであらう。


歴史畫を畫くには、困難が伴ふ、彼の熱いとか寒いとき云ふような、山の色や野の景は、天然の大景に触れて、其儘(そのまま)有りのままに畫くことは出来るから、割合に困難でないけれども、歴史上の古實を畫くには、種々其時代の遺物を調べねばならぬので、天然物を手本として、写生するよりは余程煩難(はんなん)ではあるけれども、古實物には云ふに云はれぬ、曲雅(きょくが)な趣がある、殊に我が国は幸いにして、徴すべき文献に乏しくないのは、此方面を研究する人にとっては殆ど天幸と云ふてもよい程である、絵巻物に就いて云ふても、今日残存して居るのは悉く名畫、大物ばかりと云ふことは出来ぬけれども、当時の風俗を有りの儘に畫たものは少なくない、殊に足利時代のものには此傾向がある、加ふるに是等の中で名のあるものは、風俗を其通り畫いた上に、高尚で気品のあるものは多い、其後御所には、高倉家、山科家などがあって、装束のことを司って居ったが、是等の人々は段々没して了って、その流儀も廃れ、今日となっては唯僅に葵祭に依って、其命脈を保つに過ぎぬのである、斯様な訳で歴史畫は中々面倒で、古實を調べ上ぐるにも、困難であるから、徳川時代にしても、公卿が束帯(そくたい)をつけるにしても、大名が太刀を佩(は)くにも、其れぞれ作法があり、儀式があったもので、我流を許さなかったものである、又太刀と云ふても、束帯の時のものと、武装の時とは違って居る、弓に就いて云ふても、源平時代のよりは、徳川時代に至るまでは、その変遷は著しくあるから、唯漫然と古實を調べず筆を取るときは歴史畫は全然失敗に終わるものである。

歴史畫は斯様に面倒であるから、却て調査に困難であるけれども、青年畫家にして努力を惜しまずんば、幸いにして参考品には乏しくない、勿論強いて歴史畫を作らねばならなぬ必要もないけれども、国家を建てて居る間は、前代の前賢古哲、忠臣孝子の事實を描写して、後世に伝ふると云ふことは、時代の民を教化するに、非常に力あるものと思ふ、然るに今日に至るも、此方面に進歩を見ないのは、全く青年畫家の努力の足らないのと云はざるを得ぬ、兎に角議論は暫く措(さしお)き、歴史物は野山の實景を其の儘に描くよりは、余程困難であると思ふ。(大正三年四月)








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                大礼服の小堀鞆音画伯





【弦廼舎畫談】(つるのやがだん)
弦廼舎とは、鞆音画伯の蔵書群をまとめた文庫のことです





私は今回文展へ渡辺橋に於ける正行(まさつら)を描いて出しました、この図はあまり是迄外で見たことはありませんが、先年上田萬年博士が萬国会議に際して、この美談を担ぎ出し、一等国民の見本としたとのことであります、私はその前25年の美術協会に、佐野常民氏が会長で赤十字に関係を有たれる処から、この図を試みましたが、それは縦物で、今回のは五尺二寸に三尺七寸の横物で、参考としては太平記ばかりであります、實は先年清浦子爵から吉野皇居へ参内の正行(まさつら)を描いてくれとの事でありましたが、矢ッ帳り渡辺橋の方に気が向いて、今回急に仕上げて文展に出し、来年はこれを桑港博覧会に出品し、その上図が気に入ったならこれを清浦子爵にさし上げたいと思ふております。


文展も一科二科が合併され、鑑別も今年は楽でありました、今は何々流派と云ふように劃然(かくぜん)と区別が立たず、数百年来研究した事をいささか打ち破って居るやうであるが、速成の畫はなかなか昔のような考へを以って居ては行かぬと見えます、が結局其の筆趣が元へ戻って来るやうに思はれます、昔の人は半生涯を模写で送ったものでありますが、今は何でも写生一点張りで、もとより写生が絵の結局でありますが、いきなり写生となりますと、写實には到達しても絵畫と云ふものにはなりません、それ故私どもでは臨写(りんしゃ)、模写の習練を積ませて、それから写生に取り掛からせるのであります。


それから色彩のことでありますが、近頃は滅茶苦茶で、線をきちんと引く絵を描くのは骨が折れるから、色彩で胡麻化す傾きがありますが、その色彩が甚だしいのは護謨(ゴム)で固めたものを用ひて居る、裏打ちする間が保たれぬ程のを平気で用ひて居る、先年セントルイスの博覧会に出品した日本画の返ったのを見ると、絵の具は剥落する、変色する、見られたものではなかった、農商務省の役人たちは非常に心配して、こんなものは出品者に返す訳には行かぬ、どうしたら宜しかろうかと云ふことになって、その相談が博物館にありました、すると博物館には美術学校第一期の卒業で溝口禎次郎と云ふ気の利いた人が居まして、それは少しも御心配に及ばぬ、こんな米国へ一航海したばかりで、剥落したり、変色したりする不体裁な絵を出品したのは怪しからぬといって、一々呼び出して、叱ってお返しなさって差し支えないと云はれた、それで農商務省の方でも胸撫で下ろしたといふ話であります、實に呆れ返ったことであります。


併しながら決して今日でもこれが改まった訳ではなく、否
盛んに行はれて、真に五十年なり百年なり其の色彩を保つほどのものを用ひるのは少ない、随ってその描く所のものも、ただ一時の人気に投ずるやうなものさへ描けばよいと思うて居るらしい人が多いのは、まことに嘆かはしいことであります。
(大正三年四月)






いずれ、この大傑作は御物となるべきハイクラスの玉品ですが、
陛下のお手元に届く前にコソッと・・・
ケシカランことですが・・・
理想美術館で展示させていただきたいものと・・・・・




御参考までに嫡孫小堀桂一郎先生による評伝
【小堀鞆音】が,昨年ミネルヴァ書房から発刊されております、

「やまとごころ」の造形に生涯をかけた画家、・・・・という著者の言葉をお借りすれば・・・

『・・・・鞆音が復古大和絵と呼ぶのが妥当である画法を生涯頑なに守り、画題の点でも歴史画といふ枠の中に立ち籠ってそこから一歩も踏み出そうとしなかったのには確乎たる信條に基く意図があった。彼が目指したのは、日本の古典文学の厖大な遺産が蔵している実に豊かで深い精神の美の世界を、人の想像力に訴へるのに適した画像の魅力を以て伝え、記憶に留めてもらふといふ事業だった。・・・』

とあり、自らのおじい様を語ったこの評伝は実に一読に値するものであります。



         

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         ミネルヴァ日本評伝選
        ー歴史畫は故實に拠るべしー小堀鞆音









posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 理想美術館
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