2015年02月10日

【歴史の真実】26 建国記念の日に寄せて

平成23年二月に書かれた小堀桂一郎先生の文章をご覧いただきます。
   竹駒神社社務所発行の【すいとく】に掲載されたものです。



建国記念の日に寄せて    小堀桂一郎


大晦日の午夜に旧年を送り、明けて正月の元旦を迎へる事を、新しい春を迎へる、と把握する感覚は古くから、又広く及んでゐるけれども、実際には一月の下旬こそが一年で最も寒い、大寒の最中である。

暦の上といふのではなく現実の推移の感覚で言へば、二月こそが新しい春を含んでやってくる月といふことになる。

二十四節気の第一番目である立春が新暦の二月四日に当たることはまづ動かないと見てよいし、その前夜の節分に、人々は夜に追儺(ついな)の豆撒きをして、寒が明けるとの安心を実感する。

本年はこの節分が旧暦の正月元旦で、その翌日二日が節気の立春に当たり、旧正月と共に現実に春がやってくるといふ、何となくめぐり合わせのよい年になってゐる。


暦日の正月元旦と立春 とのずれといふ現象に思ひを致す時、多くの人が『古今集』巻一の冒頭に置かれてゐる在原元方の「年内立春」を詠じた歌 (年の内に春はきにけりひととせをこぞとやいはんことしとやいはん)を想起することであらう。

これは正岡子規によって、(呆れ返った無趣味の歌に有之候)と酷評罵倒されたことで却って有名になった、面白い運命の作品なのだが、筆者などは、暦日と季節の歩みの不一致への違和感を巧みに表現した、或る意味で記念的な佳作であるとの評価を昔から抱いてゐる。捨てたものではない。


立春から一週間後に、国民の祝日としての「建国記念の日」がやってくる。元来明治5年に三大節として「紀元節」の名の下に国家的祝日に制定された古い由緒を有つ旗日だったのに、戦後の米軍による占領中、昭和23年の後半に米軍当局かた祝日全般の改廃を勧告され、紀元節を祝日とすることは事実上禁止されてしまった、さうした苦い記憶のつきまとふ日である。

幸ひ紀元節復活運動は国民的な盛り上がりを見せ、昭和41年6月の祝日法の改正によって翌年に20年ぶりの祝典挙行が可能になったのだが、此の時現行通りの「建国記念の日」と呼名が改められた。


この命名は厳しく言へば正しくない。

二十世紀の後半に入って次々と政治的独立を達成した新興の小民族国家群とは違って、日本の様な古い歴史を有する国は建国の事情を記録した文献が遺ってゐるわけではない。

紀元節と言ふのはキリスト暦での紀元前660年、辛酉の年の正月元旦に、この佳き日を卜して神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)が大和の橿原宮(かしはらみや)で日本国第一代の天皇としての即位式を挙げられたと歴史上「考へられてきた」日である。


つまり神武天皇即位記念日であり、この日を以って日本国の紀元元年一月一日(もちろん旧暦)とする、といふ歴史観に基づいて制定されたのだとみてよい。

此の日を明治6年以降の現行の新暦に換算すると二月十一日になる、この計算の正確な事は学術上折紙つきである。


かうしてみると、現に二月十一日が立春の一週間後なのだから、今から二千六百七十一年前の辛酉の年も、『古今集』巻頭の歌が詠じてゐる様な「年内立春」の年だったのだといふこのに気が付く。

なるほど、さう言へばこの祝日には、気節の上での本当の新春到来と呼びたい様な明るさと華やぎがある。

その喜びを広く共有する形で、国民一同が挙ってこの日をお祝ひしたひものである。







posted by 絵師天山 at 12:11| Comment(0) | 歴史の真実
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: