2015年02月02日

理想美術館 4  鏑木清方作 【築地明石町】


鏑木清方作 【築地明石町】


神宮外苑の聖徳記念絵画館に初めて伺った折、その立派なたたずまいに驚かされ・・・さらに、
清方描くところの昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の大作の前に立って、心底感心させられたものでした。
昭憲皇太后さまが女官を従え、遠く明治天皇が行幸されている地の方角に飛び去ってゆく雁の群れをご覧あそばして、ご安否を気遣う・・・・という作柄、
空を見上げつつ遠方の地に思いを馳せるその御心が実に美しく冴え冴えと描きだされており、お袴の緋色が萩の葉群れと対照を成して、それは見事・・・頭の下る思いでした。



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聖徳記念絵画館造営が決まった時、数十人の絵師に明治天皇の御事績を絵画化させてその徳を称える、・・・事となり、抜擢されたのは当代の名人達。
紆余曲折がありまして、当時の名画人とされていた人でも選に漏れた人や、事情があって参加し得なかった絵師などが居た中で、鏑木清方はむしろピンチヒッターくらいの位置であり、まだ若かった・・・けれどその実力ゆえに選ばれた。


今になって見れば、この作品があるのとないのとでは随分印象が違う。あの壮麗なる聖徳絵画館の価値さえ左右しかねない名画と言っても宜しい。・・・後の名声はむしろ当然。

清方ならでは届かない境地を披露してあますところがありません。

上村松園の陰に隠れがちだが、ホントの美人画を描けるのはこの方をおいて余人なし。
何と云われようと、女の描く美人画より男性が描く方が良いに決まってます。

以前から鏑木清方描くところの美人は大好きでしたが、
清方作品で私が一番欲しいのはコチラ、



           


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      鏑木清方作 築地明石町





       

        

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         同 部分





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          同 部分





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           同 部分







御本人の著書【こしかたの記】より抜粋いたします。



・・・・筑波の見える画室で、はじめての帝展作は第8回にだした 【築地明石町】であった。
外国人居留地であった明石町の風光は、私がうしろ紐の頃から、目にも心にも滲み透っている云はば理想郷のやうなものであった。
水色ペンキ塗りの木柵にからむ朝顔も決して作為のものではない。東京湾の波しぶきが直にひたひたと寄せる岸部には波除の堤が長く続いてそこには昼顔や野菊の花が穂を描いた薄尾花の根を綴る。

林立したマストは近海通ひの商船でたまたまこれが夕しほの満ちてくるころともなれば、吹き鳴らす汽笛のひびき、磯の香りが漂ふ巷に流れて、淡い哀愁に包まれる。

明治40年頃の読売誌に出た露伴先生の「空うつ波」の中に出てくるおトウといふ才色のすぐれた女性の、その名も珍しいが、日常よい物好きを凝らして、居間にあれば是真が蒔絵をした桐胴の手あぶりに手を翳すといふ描写に従ってその口絵に書いたこともある。

遠く回想する明石町の立ち込めた朝霧の中に、ふとこの俤が浮かぶと共に、知人江木ませ子さんの、睫の濃い濡色の瞳が見えて、さうしてそこに姿を成した。
この人は妻の同窓で、夫君定男さんも知己なり、泉君に頼まれて絵の指南もした間柄なので画室に招いて親しく面影を写しとどめた。
画面の袖を掻き合わせて顧みる立ち姿は娘の清子を写したが、後にこの絵がパリで展観されたとき、ませ子さんの令嬢妙子さんが嫁いでその地に居合わせ、学友の清子に思ひがけなく異郷で母の俤にめぐり合った喜びを伝へてきた。
夜会結び、また夜会巻と云った束髪は夜会の名にすぐ鹿鳴館時代を連想させるが、やはりその後に山の手の中産階級以上に久しく行はれた。
いかにも明治を思はせ、知性を偲ぶかたちである。

私のこの作品は、作者にも予想されないほど観衆への反響が大きく、博多人形になって遠隔の地まで分布されたときく。
この以前文展末期には歳の市の羽子板にその秋の文展出品で人気を呼んだものの押し絵を競って列べた。
かういうことを芸術家の誇りとも思はないが、別に冒涜だなどとも考へない。
文部省が官展をこしらへた最初に先づ美術の振興と、奨励を志したのは当然だが、凡ての芸術は見るか、読むか、聴くかの相手があって機能が動く。
古人は、百年河清を俟つなどと云ってゐるが、凡人には自分の筆に成ったものが、直接に人の心を動かし、和めたり、清めたりした時には、こちらも亦慰められたり、救はれたりする。
そんな時にはその職分に尽す医師や看護婦の気持ちもわかるやうな気がする。

私のつけた画題のことに及ぶが、手許にある地図を見ると、どれも、明石町は築地の名をせてはゐない。
築地川以東の南小田原町、南飯田町は通称向築地と呼んでゐた。
それと境を接する明石町ではあるが、正しくは京橋区明石町であらう。

私は語呂と実感から敢えてさう名づけたがその後電車の方向標に築地明石町ゆきとあったのを覚えてゐる方もあらう。

・・・・・・・昭和二年八回の帝展では、【築地明石町】が帝国美術院賞に選定された。・・






何とも・・美しい・・・

コチラも是非、理想美術館に加えたい一点であります。









posted by 絵師天山 at 08:00| Comment(1) | 理想美術館