2015年01月26日

理想美術館 2   菱田春草作 【児島高徳】




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       菱田春草作 【児島高徳】






児島高徳(こじまたかのり)と云う人を知っていますか?
御存じない方の為にうんちくを少し・・・








ウィキより・・・・
元弘2年(1332年)、後醍醐天皇は、先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となる。この時高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動ルート誤判によって失敗に終わる。 高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまった。

その際、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。

因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。

この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、翌年に名和長年ら名和氏の導きにより天皇が隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父・範長とともに赴いて幕府軍と戦い戦功を挙げたとされるが、その論功行賞の記録には高徳の名前が無く、児島高徳否定説の根拠とされている。・・・・・・



 ★≪天皇陛下の忠実なる臣民であるという自覚≫は、明治の日本人に共有されたごくごく当たり前の感覚でした。
当時の人々にとって明治天皇は、神様であり、祖先様であり、親とも慕う・・・御存在。
日本という国が天皇を中心とした大家族の様であった時代・・・・
代々勤皇の家系の出であった水戸藩の横山大観も、信州飯田の勤皇家に生まれた菱田春草も、勿論共に、明治人を代表する熱烈なる精神の持ち主であります。

明治6年(1873年)8月発行の弐円紙幣表面には、右側に稲村ヶ崎で太刀を奉じる新田義貞が描かれ、左側には桜の木に詩を墨書する高徳が描かれていたくらいで、いずれも、大東亜戦争終結まで教科書で取り上げられ、知らぬ人は居ないくらい有名なエピソードでありました。

「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」

てんこうせんをむなしうすることなかれ、ときにはんれいのなきにしもあらず

天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう!・・・という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けた・・・・そのシーンを大天才菱田春草が描いたのがこの作品


桜の大木の幹に向って何やら書こうとしているのが児島高徳様。

春の気配が横溢していて、難しそうな話であるけれど、柔らかな日差しさえ感じるような温かさが溢れている・・・
全く名人芸ですね。

部分図を拡大してみて下さい。
凛々しい?・・と云うより可愛らしい?
菰に身を包んで体型がはっきり見えず
丸くて白いクマさん?みたい・・・
黒い烏帽子と太刀と沓とが印象的。




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          菱田春草作 【児島高徳】同部分




しかしもう少し突っ込んで観ると
やはり可愛らしさよりも凛々しさが立つ・・・
忠良という潔癖なる初々しさと、並々ならぬ決意とをこの姿形から感じる・・・・


白と黒、曲線と直線という相反する性質を掛け合わせた・・・ケンカさせた、
それ故の強さ・・・が、どこまでも柔らかい桜の気配をしっかり破っている・・・・

全く神技そのもの・・・見事です!!!


これまた理想美術館に是非揃えたい逸品!!

ですが・・・、現在この作品は有名なせんべ屋(播磨屋)さんの所有になっていて・・・
児島高徳の故郷に近い所に本社がありまして、全国にファンを持つオカキの専門店。
ホントに美味しいですよ、このせんべ屋さんのお品は!!!

・・今のところ美味しいせんべだけ楽しくいただいております。








posted by 絵師天山 at 06:00| Comment(4) | 理想美術館
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