2015年01月16日

魅惑の百人一首 51


【藤原実方朝臣】 (ふじわらのさねかたあそん)

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

   かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなもゆるおもいを





           sanekata.jpg
              (天山書画)





朝臣というのはそのまま普通に読めば「ちょうしん」で、大ざっぱに言えば、天皇の部下である!という意味ですが、それを「あそん」と訓む。
朝臣(あそみ、あそん)は、天武天皇時代、八色の姓(やくさのかばね)の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当しました。
一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたためごく極稀、
皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるのがこの朝臣だった訳ですね。
読みは「あそみ」が古くもっと古くは阿曽美、旦臣とも書いた。

この朝臣が作られたのは、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室中心の体制強化を計った為でありました。

朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられ、その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰(すくね)の姓。
その後は、朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓をどんどん下賜していったので、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つように・・・・・。

さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められ、また、武家台頭による下級貴族の没落もあって、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味は失い、公式文書で使う形式的なものになっていったのですが、例えば織田三郎平朝臣信長・・・と云うように、公称しようとする場合は、我はこれこれの士族の出で、天皇の部下なり!とわざわざ言うことに価値があり、そこに自負心が込められている場合も多く、当然尊称でもあったのです。


話が脇道に逸れてしまいましたが・・・・

かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなもゆるおもいを

声を出して詠むと流麗なる響き。
すぐにも暗記できそうな歌ですね。


「かくとだに」、の「かく」、は「この様に」、ですから、この様にあるとさえ・・・

「えやはいびき」、「いぶき」は、・・・言う、と伊吹山のいぶき、との掛け言葉で、
言う事ができましょうか!? いやいや出来はしません!

「伊吹のさしも草」で伊吹のヨモギ。
さしも草はモグサ、燃え草、春に萌える如く芽吹くのでヨモギのことをこう呼んだのですね。

さしも知らじな、は、さしも草に掛かって、
「こんなに燃える思いを抱いているとも知るまいなあ・・・・」、となります。

熱烈にくどき落とそうとしている訳。
念の入ったナンパなんです。

前書きにも勿論、「女にはじめてつかわしける」とあり、
頷かせる為の手練手管、・・・なかなか実方朝臣スミにおけぬプレイボーイだったのかも知れません。

ついナビイてしまう女性も・・・・
感心させられてしまう程の老練さだから・・・、
恋歌の名人芸はこれに止まらず、実方の得意であったようで、
少々図に乗り後に粗暴なふるまいが禍し、左遷。
任地で没した事がわかっています。



    




posted by 絵師天山 at 05:00| Comment(4) | 百人一首
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