写真はすべて早池峰神楽です
昭和16年春、
大東亜戦争開戦直前のこの時期に、
保田 與重郎(やすだ よじゅうろう)は日本人の歴史観についてこの様に述べています。
民族的優越感
日本歴史学の建設 国史確認の問題
より抜粋
・・・・・我々は日本人であった欣びと、
日本人の使命の激しさを、
子孫に伝へるようにけふの日を送らねばならぬ。
さうして歴史は常にそのやうに
書き傳えねばならぬのである。
かくて我々の生きた歴史も、
書くべき歴史も、
共に死んで了った我を土臺として始められるべきである。
我々は不断に死の覚悟を教へ、
死の礼法さえ誨(をし)へた、
久しい間我々の教育を今こそ回想すべきである。
天智天皇天武天皇の朝を中心とした
白鳳の詩人たちのあの慟哭の悲歌には
最も古い形で日本人の子孫につたへるといふことにわたる心がまへがうつされてゐたのである。
語りつぎ云ひつぎゆかんと歌はれた悲歌の根底には
あの変動期の詩人たちが詩人の鋭さで眺めた、
神ながらの大文化の精神があったから、
とよりは他に想像が成り立たぬのである。・・・・・
民族的優越感
新時代の歴史観
より抜粋
・・・・歴史として日本国の示す思想は、
比較によって他にすぐれてゐるなどといふことを
第二義のこととする。
我々は、東海に儼乎として立つ我が国が、
歴史学として思想として、今や世界を称するものに対し、
自身の裁可によって独自に世界を称し得る国であることを知らねばならない。
我々は我国の歴史に於いて知る、
我々が独立の誇りをもつ日に、
他に世界を称する考へに従ってはならない、
我々は今この国の立つ状態を思ふとき、
その困難と危険に心のときめきを禁じ難い。
その心は遠御祖の磐余彦天皇(いはれひこてんのう=神武天皇)の聖慮にも通ふだろう。
後鳥羽院や後醍醐天皇の御自信にも通ふものであろう。
我々の久しい歴史には一貫した悲願があったのである。
しかもその精神に於いて我々の運命と使命を描き、
明日と今日を示すものが我々のもつべき歴史書である。
我々の當面する事態を、古きあとに遡って、
あるひは遠き日ののちを慮って、
そこで描かれるものが、我らの歴史の思想である。
我々の歴史の帰決としての状態が
今や世界といふものに対して、別なる歴史の世界を以って対立するとき、
我々の国家的国民的民族的なもののみが、最も廣く深い意味をもつのである。
我々の史学が、西洋史的時代分類に対して、
なんらの疑問をもたなかったといふことは、
今日歴史を最も深い思想で考へる者らの思はねばならぬところである。
中世以後近世史を別つ思想の根拠は、
商圏をもった民族の移動を根拠にして、
一方白人の侵略史を段階づけたものである。
しかるに我が国の文部省の修史官の思想は、
この白人の歴史観を日本歴史にあてはめることによって、
我が国史を描かんとしたのである。
今日日本のもつ国史観は、
その時代分類によってみても、
如何にして白人の描いた時代分類を自国に当てはめるかの努力にあったし、
この考へ方はそのまま歴史観の上にもあらはれてゐるのである。
唯物史観的日本歴史観にしても、
最近の世界史論者の立場にしても、
一歩国史観に於いては、
この修史官の文明開花的思想を脱してゐないのである。
・・・・・・・
・・・・この文部省の修史官の歴史思想がその自身の無思想を暴露したのは、
明治の最末期の南北朝正閏論といはれる問題に於いてであった。
これは簡単に云へば、南北朝の正閏は未だ判明になし得ないといふことを国定教科書に記載したことである。
この問題は議会で起り、
一代の学界、文壇を騒然たらしめ、
最後に桂首相がことの来由を奏上したと傳へられてゐる。
この時に際して、仄かに聞く處によれば、
明治天皇は首相の言未だ了らざるに、
“両朝正閏の事は、維新の當時既に確定し、
亦紛更を試みる余地なし”と、宣はせ給うたといふ。
聖鑑日月の如し、とはかかることをいひ、
聖断に維新の當時とあるを特に思ふべきであらう。・・・・・・
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保田 與重郎(やすだ よじゅうろう)
1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日)、日本の文芸評論家
奈良県桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高校から東京帝国大学美学科美術史学科卒業。
在学中より、『コギト』、亀井勝一郎らとともに『日本浪曼派』創刊同人として活躍。高校時代のマルクス主義から後に、ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開。1936年(昭和11年)に、処女作である「日本の橋」で第一回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。以後、日本浪曼派の中心人物として、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで、時代を代表する評論家となる。
大東亜戦争を「正当化」したとされ、戦線の拡大を扇動する論陣を張る(論者によって捉え方が異なる)。1948年(昭和23年)、公職追放。戦後、言論および存在は黙殺された時期があったが、1960年代後半から復権した。その間も「祖国」を創刊し、匿名で時評文を書く(「絶対平和論」「日本に祈る」など)。その姿勢は、戦前から一貫していた。
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