【貞信公】(ていしんこう=藤原忠平)
小倉山峯のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
おぐらやまみねのもみぢばこころあらばいまひとたびのみゆきまたなん

醍醐天皇の御代に関白太政大臣となり、藤原摂関家の栄の基となるのが、
この作者、【貞信公】(ていしんこう=藤原忠平)であります。
宇多上皇が晩秋の嵯峨野に遊び、その皇子、醍醐天皇にもこの紅葉を見せたいものだ、とおっしゃられたとき、それにお応えして関白太政大臣 忠平 が詠進しました。
今一度行幸を得たいものでございます・・・・と。
【貞信公】とおくり名された忠平の父はあの陽成天皇を狂人扱いして排帝し、まだ年若き光孝天皇践祚(せんそ)をゴリ押しした藤原基経。
兄は、藤原一族の繁栄を曇らせた菅原道真を大宰府へ追いやった藤原時平。
小倉山の紅葉は、この行幸をきっかけに以後、紅葉の名所とされる様になりました。
小倉百人一首としては小倉山を称える歌は、是非加えたかった処・・・・
選定した定家の願いに、この和歌は実にピッタリだったのですね。
【貞信公】はおおらかな人柄の様にも見えますが、小倉山の紅葉が勅題で、数多の和歌が詠まれた筈なのに、この歌だけが輝いている・・という事は、あるいは、他の知られざる沢山の詠歌は、【貞信公】の権勢によって蹴散らされたのかも???
選定した定家も藤原氏ですから・・・
政治の実権は摂関家にありましたが、醍醐天皇は寒夜には、自らの御衣をお脱ぎ給わって、貧しい庶民の労苦を思い遣られた・・・と「大鏡」に記されています。
バランスの取れた大名君であられました。
お仕えした【貞信公】も、その余徳で輝いたのであって・・・
後の後醍醐天皇は、この醍醐天皇の御徳を慕われ、範とされ、自ら後醍醐天皇と名乗られた、と聞き及びます。