2014年07月12日

魅惑の春草 F 息子の手記


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 父・春草の思い出      

菱田春夫 
(春草の長男、後に日本美術院初代事務局長として活躍)




父春草の没しましたのは、私の10歳のときで、なんとしても遊び盛りの子供だったので、病気のことにしても、絵のことにしても、

改まって申しますほどのことは記憶して居りません。

いったん移った五浦から再び出てまいりまして、代々木に居を定めましたのは、私の7歳の時でした。それは眼病の治療のためであったので、

母などはずいぶん心配だったろうと思いますが、私としては、何が何やら、いっこうに平気だったのでした。

静養の結果は、視力も体力も何ほどずつなりとも回復しましたので、だんだん少しずつ絵もかきますようになりましたが、

あまり外出もせず、気なりの執筆のようでした。

以前は、かなり酒量もあったように聞きましたが、これも私が覚えてからは、全然杯を手にいたしませんし、夜も遅くはならず、

きわめて平静な生活の連続であったと覚えています。

朝は従前夜ふかしをします時でも、早かったそうですが、代々木時代になってはなおさらのことで当時代々木一帯は人家もまばらで、

いたるところ雑木林やすすき野原があり、武蔵野のおもかげが十分に残っておりまして、朝は特に爽快だったので、

練兵場からただ今明治神宮神域になっております当時の御料地の辺まで、散歩に出かけるのが、ほとんど毎朝の例でした。

それには、私や弟たちがいつもついていったものです。

何ほどか雑木を交えたくぬぎ林の続いている間に、しじゅうからなどの小鳥が楽しげに飛び交うありさまは風情の多かったものです。

それがやがて出品画の【落葉】の六曲一双となったものです。

すべて気分とか、生物ならばその習性とかいうものを、思う存分に見つめて、十分にそれを味わって、そして絵にしたもので、

なにもかも帖に形を写すというような写生は、あまりいたしませんでした。

それでも、小鳥や椿の花など、きわめて精細に克明に写生したものが何枚か残っておりますから、やるときには、

徹底的に突っ込んでしたものとみられます。

この朝の散歩の帰りには、よく椿の花と八つ手やホウの葉などを採ってきたものでしたが、

今にしてみれば、その頃の絵には、これらのものをあしらった花鳥画が何点かあります。

明治43年には、文展の審査員をお請けしました事で、じぶんでも幾分気張ったものを描くつもりだったのでしょう、

六曲一双を用意して、秋雨に散る柳の落葉を踏んで傘をさして三人の美人が行く絵にかかったものでした。

この際も、特別の写生というほどのことではありませんが、人物の姿勢や配置の上に図を練ったものでしょう、

母をモデルにして、熱い夏の日盛りに傘をさして、ああでもない、こうでもない、そっちへ立て、こっちを向けと言っては、

ついに母に脳貧血を起こさせたこともありました。

しかしこの絵は着物の色がどうしても自分の思うように出ないので、三分の一ぐらいできながら中止してしまい、

尺八の堅物を画面に、例の【黒き猫】の図にかかることになったのでした。

猫はじぶんでもあまり好きではないといっておりましたが、絵にするのは興味があったとみえまして、

美校在学中も、新案として描いた猫もあり、徽宗皇帝の猫を模写したものもあり、その後たびたび描いております。

また五浦時代に描いたものには、老梅に白猫のねむっている図の大幅もあります。

この黒猫のときも、特別の写生は致しませんでしたが、近所の焼き芋屋に大きな黒猫のおりましたのを借りてきて

見入っておりました。

借りてきても借りてきても、逃げてゆくのには弱りましたものです。借りに行く役はいつも私でした。

翌年は没した年ですが、このころは、初めて生活に幾分の余裕ができたのでしょう、

立派な家ではありませんが、近所に新築することになり、その普請中、毎日普請場を見に行くのが楽しみのようでした。

六月に引き移って九月ついに病没したのです。

ちょうど岡倉天心先生は在外中で、最後の席には、身内のものの外には、

横山大観先生と斎藤隆三先生だけがおられた事を記憶しております。

こんなこと以外に特別の思い出はありません。   

 (『ゆうびん』昭和26年10月号より転載)




春草作品の猫あれこれ・・・いずれも部分です。


        
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posted by 絵師天山 at 22:47| Comment(5) | 菱田春草
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